チビでデカくて皮肉屋で 作:九龍亭流星
灰色に混濁した意識の中で、
「んっ……」
厚い布団の中で軽く全身を張ってから弛緩させ、そしてゆっくりと目を開くと、そこには僅かな隙間から射し込んだ光によって作られた暗い虚無だけが広がっていた。
もそもそとベッドから這い出て部屋のシャッターを開くと、ガラララッという音と共に急激に瞳孔を突き刺した白い光に、九楽は思わず顔を顰めた。
それでも、全身に降り注ぐ暖かな陽の光に軽い伸びをすると、隣室へと続く簡素な襖に手を掛けたのだった。
―なんだ、まだ生きておったのか。翼斗よ―
カラリとスライドした建付けの悪い襖の先に広がっていたのは奇怪……いや、それ以前に異様にして異常な光景だった。
部屋の中央に鎮座していたのはやけに白い肌をした華奢な少女。一人暮らしの男子大学生の隣室にそんな少女が居ることも妙だが、そんな彼女を取り巻く環境がそもそもに怪奇極まりないものだった。
部屋一面を満たす灰色とも乳白色ともつかない、腐敗した魚介類を思い起こさせる異臭を立ち昇らせるスライム状の粘液。それは床全体にまき散らされただけでなく、壁面と言わず天井までに及んで室内を余すことなく穢していた。
そんなある種の異界の中心で頬杖を突きながら、シニカルな笑みと共にふてぶてしく居座る
うっすらと肋の浮いた華奢で小柄な少女……なんて感想はまず出てこないだろう。何せ、盛り上がった粘液の
しかも、その男性器は成人男性の足回り程にも太く、豊穣を願う祭事で用いられる神器を思い起こさせるような巨大さで、明らかに人間のそれとは似ても似つかない一物だった。しかも、
「GA!? GIU!? GO!!!!」
赤黒く充血し、彫の深い血管がビキビキと浮き出て、ムワァと饐えたような悪臭を放っている男性器の頂点では、この世の物とは思えない奇妙な見た目の生物が痙攣混じりに身悶えていたのだった。
まず、膨らんだ両生類の様な身体を備えたそれは、地球上の多細胞生物が概ね備えているはずの頭蓋というものを所持していなかった。代わりに顔面の半分ですぱりと切り取られた様な顔部をしており、下顎を思わせる部分からは突き出た鮫の歯の様な襞がガチガチと無数に蠢いている。更に、右半分にだけ生えた蝙蝠の様な黒翼。丁度カエルでいう肩の部分から突き出たそれには皮膜状に無数の眼球が浮いていて、ちろちろと翼斗の方を窺っている。つるりとした無機質な胎の下には牡牛の脚が生えているがそれもまた片割れのみで、少女の股間から生えたそれのように体の中心に鎮座して、男根が下から捻じ込まれる都度にぶらぶらと揺れては纏わり付いた灰色の粘液を飛び散らせている。
「挨拶だね」
そんな正気が失われそうな光景を前に突如脳髄を揺らしてきた、妙に老獪な印象の
と、そんな彼女の細められていた切れ長の目が薄っすらと開き、両の眼球が顕わになると、何か異常を察知したように、男根上の怪異が不意に激しく暴れだした。
開かれた少女の両目。そこには白目が無かった。いや、正確には眼球に相当するものは存在していたが、本来白色のはずの結膜が闇の様に黒く、代わりに虹彩のあるはずの部分が鮮血のように紅いのだった。
「おはよ、アブホース」
―私にとっては一瞬にすら届かない一片だが、貴様ら矮小な生物にとっては既に"早い"などという形容が用いられる時ではないように思うのだがな。それとも、いつから人間という原始生物は寿命という定命の軛から解き放たれたのだったかな―
そう皮肉るアブホースに、翼斗は軽く肩を竦めてそれ以上は何も言わなかった。どうせ、口では逆立ちしても勝てないのだ。なら、これ以上無用に突っ込むだけでも時間の無駄というものだろう。
「朝ごはんだけど、どうする?」
代わりに翼斗が向けた言葉に、無言の少女・アブホースはシニカルに口元を持ち上げた。
―何故、未だ生存を外部に頼らねばならぬ原生生物ごときの貧相な食事のために、私が自らの消化器官を危険に晒そうとするなどと思うのだ?―
「じゃ、部屋にいる?」
―まったくもって度し難いな。私が口にしたのは食事の件のみで、部屋を出んとは一言も言ってはおらんだろう―
そんな軽口と共に、部屋の中心で踏ん反り返っていたアブホースがねちゃりという音と共に灰色の粘液の海から立ち上がった。灰色がかったアブホースの長髪からはボタボタと腐臭漂う粘液が滴り落ちていて、立ち上がった際に紛れ込んだ空気がゴポリと音を立てて破裂を繰り返している。
そして、アブホースが軽く髪を掻き上げると、その股間でそそり立っていた巨大な男根が、ビクンッ!と一際力強く脈打った。次いで、巨大な塔に寄り添う昇降機の様な太い尿道にボコリと大きな瘤が浮かび上がり、ゆっくりゆっくりアブホースの塔を昇っていった。そして、その最上階で踊り狂う異形の化け物の胎内に潜り込むと、化け物の腹部がボンッと音を立てて三倍以上に膨れ上がる。
「GU……GO……」
それまでの痴態が嘘のようにピクッ……ピクッ……と小さく律動する異形。そして次の瞬間、とうとう流し込まれた大量の精液に耐え切れず、痙攣していた化け物は月のように肥大した腹をバンッ!と弾けさせ、そのまま無数の肉片へと千切れ飛んで、一つ、また一つと広がった粘液の海に堕ち、そのまま水底まで吞み込まれると、後は二度と姿を見せることもなかったのだった。
―ふぅ……―
直後、脳を揺らす幾分満足げな溜息。そんな充足を証明する様に、アブホースの股間から突き出ていた巨大な男根は徐々に萎み、やがて男性の腕程になると、その不釣り合いな下腹部でぶらぶらと揺れながら、鈴口から滴った残り液をぼたぼたと灰色の粘液とまき散らしている。
直後、室内を満たしていた粘液の海が大きく波打った。それは灰色液の粘性を踏まえればまず考えられない程に大きなうねりで、同時にズズッ……ズズッ……という音を立てながら、物理法則を無視してアブホースの華奢な身体を這い昇っていくのだった。
身長の割りにはすらりと長い両の脚
萎えてなお成熟した雄でも持ちえない巨大な男根
ややふっくらとした無毛の下腹部
スッと通った臍筋
うっすらと浮いた肋
ほんのりとした膨らみを見せ、ツンと上向いた桜色の突起
そして、握れば砕けてしまいそうな細い首
アブホースの華奢な肢体を杜撰に管理された生鮮食品を犯す粘菌か何かの様に侵略していた灰濁液はそこまで辿り着くと、先の侵攻が嘘のようにピタリとその動きを止めた。代わりにダブンッと大きく一うねりすると、そこには今まで影も形も見当たらなかった、流麗なフリルがふんだんにあしらわれた、少女らしい作りの灰色のドレスが忽然と姿を現していたのだった。
どこか可憐な西洋人形を思い起こさせる姿と、それを全て台無しにするニヤニヤとした皮肉気な笑み、そして再び精気を充足し終えたのか、広いスカートの腰下に不自然に現れた巨大なテント。
その美貌とは裏腹どころか美貌故に異様な雰囲気を漂わせながら、アブホースは―待たせたな―と脳髄を揺らしてそっと小さな手を差し出してくる。
「んーん」
アブホースのいつもの身支度に首を横に振って、翼斗はフニフニと柔らかく、やけにひんやりとしたそれを握り返す。そして、アパートの小さなキッチンに向かいながら、思い出したように「ここ、付いてるよ」と自分の右の頬を指さした。
鏡合わせの意図を当然の様に受け止め、左の頬に触れるアブホース。血色を感じさせない不自然に白い指先がふっくらとした頬を撫で、そこに付着した紅い液滴を拭い取る。先の化け物の破裂の際に飛び散ったものだったのだろうが、アブホースがふむと頷くと、それはまるでそこに初めから存在しなかったかのように掻き消えてしまった。
―では、行くか―
「あいあい」
そう言って、改めて先を促したアブホースに頷くと、今度こそ二人は汚濁にまみれていたはずの部屋を後にする。
纏わり付いていた粘液に遮られていた光が射し込んだ一室は、先の光景が嘘のように塵一つ見当たらないのだった。
◆
キッチンに入った翼斗が朝食のために野菜や卵を次々と大皿に乗せて、適当な所で電子レンジへと突っ込む横で、アブホースは安物のテレビの電源を入れながら―きちんと栄養を摂らんといかんぞ―と脳髄に直接語り掛けてくる。
「心配してくれるの?」
ブーンと鳴り始めた電子レンジに背を向けて翼斗が首を傾げると、両目を細めたままのアブホースはシニカルに口元を歪めた。
―定命な上に脆く貧弱な人間が節制すら忘れてしまっては虫けらと大差ない命も一瞬で燃え尽きよう。お前が単なる破滅願望者だというのならば、私は止めんがな―
「まあ、ぼくはぼくの知っている範囲内で自分の健康には気を付けてみるよ」
ニヤニヤとそう宣うアブホースに冷蔵庫から出したトマトジュースを見せると納得したのか―ならばこれ以上は言わん―とだけ頭に残して、ゆっくりと頷いたのだった。
レンジがチンッと鳴ったのを待って、炊飯器から白米をよそう。冷蔵庫からパックの納豆を出して席に着くとテレビに肯定されたアブホースの表情にはっきりと嘲笑が映ったのが見えた。
「何かあったの?」
翼斗が尋ねると、アブホースは嗤った表情のまま無言で顎をしゃくって見せる。その先を追ってみれば安い液晶画面の中では見覚えのある女性政治家がくたびれた風貌の総理大臣に向かって、少し前にあった地震への義援金の支給方法について、NPOを経由しないという不合理なルートを用いる理由を舌鋒鋭く問い詰めている。
―まったく、人間はつくづく愚かしい。毎日毎日飽きもせずにようやるわ―
そう吐き捨てるアブホースの前で、翼斗は「ふーん」と相槌を打ちながらモグモグと朝食を咀嚼する。
―肥大に肥大を重ねた自意識。己が霊長になったつもりで行うのが猿どころか原生生物と同レベルの縄張り争い。己の分限を弁えている分だけ、チンパンジーの方がまだ利口であろうよ―
「まあ、こんな争いなんて誰がどこ経由でお金を着服するかっていう縄張り争いでしかないもんね……そういう意味じゃ、人間は世に出てから600万年経っても何も成長していないのかもね」
コクリと一口目を飲み込んだ翼斗はアブホースの言葉に応える様に肩を竦める。
―そうだな。精々が嘘を吐く技能くらいのものか?―
「それって、アブホースにとっては何も変わってないってことだよね」
―ほう、よく気付いたな翼斗―
宇宙の誕生以前から存在し、テレパシーの能力を有する
『次はC県のニュースです』
一人と一柱が軽口を叩きあっていると、いつの間にか全国ニュースが終わり、代わりに地域ニュースの枠が始まったらしく、アナウンサーが年配の男性からキリリとした風貌の女性へと切り替わる。
―「ん?」―
そして、普段は適当に流し見にしているだけの翼斗とアブホースは、その画面に出てきた映像に殆ど同時に声を漏らしたのだった。
それは、日本では何の変哲もない深緑に満ちた山道だった。けれど、その木漏れ日が降る小道の中心に、奇妙な影が大きく映り込んでいた。
―この写真は帰郷山で撮影されたもので……―
喜怒哀楽のはっきりしたアナウンサーが大仰な身振りと共に解説を進める。どうやら、画面の写真は他県の登山客が撮影したもので、専門家とされるどこかの大学の教授が恐らく熊だろうという見解と、近年増加した野生の熊が出没域を関東都市部まで伸ばしてきたデータを踏まえて、視聴者への注意喚起を行っている。
「今の……熊じゃないよね?」
やがてコマーシャルを挟んで天気予報に切り替わった画面から視線を外した翼斗が、考え込むように頬杖を突いているアブホースに尋ねると、チラッと視線を上げたアブホースは―よく
―己の目すら開けぬ愚物どもには理解できなかったようだが……あれ十中八九
そう言って、うっすらと細い右目を開いたアブホースだったが、それ以上何かを付け加えることも無くいつもの表情に戻ってばかばかしそうにテレビの画面を流し見している。そんなアブホースに翼斗が「こっちの方に降りてくる可能性は?」と尋ねると、アブホースは―さてな―と言いながら肩を竦めた。
―直接的に人里まで降りる理由があるならば、既に写真に撮られる前に平地に降りている。だが、あれはそうはしなかった……。となると、何かしら山自体に用事があるのではないかとは思うが……ま、それ以上は妄想の域を出んだろうな―
至極面倒くさそうに吐き捨てたアブホースの横顔をじっと見ていると、不意にチラリと翼斗の方を見たアブホースが―それより、時間は良いのか?―と脳を揺らしてきた。見れば時計の針は八時二十分を回っている。
「あー、そろそろ行かないと」
アブホースの指摘に席を立ちあがった翼斗は食器類を流しで軽く洗い流しながしてから、水を満たしてそこへと置いた。
―車には気をつけるのだぞ。お前達人間はただでさえ脆いのだからな―
そうしてキッチンの端に置きっぱなしにしていたリュックサックを引っ掻けて翼斗が家を出ようとすると、玄関口でそんな言葉が脳裏を過った。
「うん、ありがと。行ってくるね」
姿の見えなくなったアブホースに口ずさむ様に伝えると、無事に言葉が届いたらしいアブホースが
―うむ―
とテレパシーを送ってきたのだった。
◆
「フラグだった」
―回収が早いな―
その日の夕方、帰宅した翼斗が放った第一声に、豚の上半身にカエルの右足が生える、捻じれた馬の頭を持った化け物の口腔に自分の股間を宛がっていたアブホースは呆れたように肩を竦めた。
朝は何の変哲もなかったはずのキッチンは早朝の彼?彼女?の部屋同様に灰濁色の粘液まみれになっていて、その中心に居るアブホースは当然の様に全裸となっており、異形の存在……自らの落とし子の頭部らしきパーツを掴んで、叩き付けるように自身の腰を振るっている。やがて、アブホースが華奢な身体を震わせると吐精が完了したのか、一段と濃くなった腐臭と共に化け物の身体が破裂して、後には赤黒い男根をぶらぶらと揺らしながら―ふぅ……―と溜息を吐いた本人……本神?だけが残ったのだった。そして、振り返りながら灰色のドレス姿になるアブホースがどっかりと椅子に座って話を聞く体勢になったため、翼斗は背中のリュックサックを降ろしながら「それがさ……」と肩を竦めつつ事情を話し始めたのだった。
「次のゼミのフィールドワークの行先、帰郷山になっちゃった」
端的に翼斗の話を要約すると、内容はこの一言に尽きた。
―あんなニュースがあったのにか?―
翼斗の説明に、椅子に座ったアブホースが訝る様に眉を顰めた。翼斗の言葉がかなり意外だったのか、布のはずの灰色のドレスがゴボゴボと泡立ち、中から奇妙な生物の幼体とも言うべき不定形生物が這い出て行こうとする。もっとも、すぐに気づいたアブホースのドレスから触腕が伸びて、逃げ出そうとした幼体を主人の
「教授がおじいさんだからね。良くも悪くも危機意識が昔の感覚のままというか。あと、本人もあんまり熊が出る地域の出身じゃないみたいなのも原因かな?」
そう言って首を傾げた翼斗に、アブホースは―それで、よくも教授なぞになれたものだ―と吐き捨てたのだった。
「むしろ、熊と直接会えるなんて喜んでたからね」
「知らないって怖いよね」と付け足す翼斗に、アブホースは―無知以前のアホであろ―と呆れたように肩を竦めたのだった。
「ま、そんな訳でさ、一介のゼミ生でしかないぼくとしては、帰郷山に行かない訳にもいかなくなっちゃったんだよね」
「どうなることやらね」と首を傾げながらも、欠席するつもりはない翼斗。そんな翼斗の表情をじっと見ていたアブホースだったが、夕飯の準備のために席を立った翼斗の背中を前に―そういうことなら―と脳髄を揺らす。
―ならば、私もついていくとしよう―
そして紡いだ言葉に、翼斗は最初理由が理解出来ず、「え? どうしたの急に?」と首を傾げた。
普段から物臭で、その上皮肉屋な
朝うるかした食器を洗おうとしていた翼斗は思わずまじまじとアブホースの顔を見詰めた。対するアブホースはといえば、灰濁の粘液で作られたドレスが包む両腕を組んだまま―仕方なかろう―と心底面倒くさそうに鼻を鳴らす。
―あれの正体が何であれ、私達外なるもの由来の何かであるのはまず間違いない―
理由を切り出したアブホースは唇を尖らせて、そう脳髄を揺らす。
―いくらお前が私で多少そういったものに慣れているとはいえ、直接的な戦闘能力を有している訳でもない以上、明確に敵意を持って襲われては一溜まりもあるまい―
「まあ、それはそうだろうね」
所詮は人間Aだし、異形のものや宇宙からのナニカ相手に大立ち回りなんて出来るはずもない。
―人間の単位なぞ、私には毛ほども関係の無い話ではあるが……まあ、この際仕方あるまい―
そう言って肩を竦めるアブホースに、翼斗は少し考えて「そっか」と頷く。
「心配してくれるんだ?」
次いで出た軽口に、一瞬渋い顔になるアブホース。けれど、すぐに何かに思い至ったのか、この外なる邪神はニヤリと口角を持ち上げて、実に愉快そうな悪い笑みを浮かべる。
―ま、そうだな。私としても一度は体を許してやった相手が何とも分からぬ塵ごときに蹂躙されて果てるなどというのは、あまり愉快ではない―
「誤解を招く言い方だなあ」
明らかに狙っているいやらしい言い方に翼斗が思わず突っ込むと、それがお気に召したのか一層笑みを深くしたアブホースは―くかかかか―と実に満足げに笑ったのだった。
―ま、そういう訳で、この私が態々出向いてやるのだ。お前は私の寛容に感謝し、咽び泣くといい―
「いあ―それはやめんか。面倒臭すぎる―
感謝のために礼賛の祝詞を唱えようとした翼斗は、近寄ってきたアブホースにぺちりと背中を
―どういたしまして……と、言っておいてやろう―
とだけ答えて、シニカルに白い歯を見せたのだった。
クトゥルフ神話で一番好きな神を擬人化したら、こんな感じかなーというアレです。
主人公は元々SAN値が低いです。