トレーナーが担当ウマ娘そっくりになっちゃう話   作:なめろう、ご期待ください

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初投稿です、よろしくお願いします


一日目

 このウマ娘が、最後の担当。

 

 そう思って、俺は彼女——アドマイヤベガに契約を持ちかけた。

 

 不安定な所があるのは明白なのに中々頑固で、どうにか彼女のトレーニングに無理やり付いて行って、此方の覚悟を見せて契約を勝ち取ったのは良い思い出だ。

 引退というか、年齢的に任せられないと言われるのも近いだろうこの歳でウマ娘用の登山コースは流石に堪えたが。

 まぁそれでも彼女と契約して、彼女と接するうちに色々と抱えていたらしい物を受け止めながら過ごしたものだ。

 

 強いて言うならダービーの後、夏合宿で一騒動あったのは俺の配慮が足らなかったかもしれない。

 彼女の習慣を知っていながら、最初の頃よりもずっと良い顔をするようになっていたから『そうできる余裕が出来たのか』と考えて指摘しなかった俺も同罪だろう。

 今でこそいい思い出だが、やはり初めから俺が何か言ってやっていれば、もう少し穏便に事は進められたかもしれない。そう思うと、どうしようもなかったと言っても後悔は滲む物だ。

 

 それでもどうにか、彼女曰く『生まれる事のできなかった妹』という存在が、彼女が生まれ持った左足の怪我という運命を持って消えて行ったという喪失感を乗り越えた。

 

 その後もなんだかんだと活躍を続け、俺の引き際が少しあやふやになって来たある日の事だった。

 

 

 

「……本当にそっくり。トレーナーさん、なのよね?」

 

「ああ、その通りだ。……声が、違和感があるな。お前と同じ声、いや……微妙に違うか? 何にせよ、いつもの俺の声ではないというのは……」

 

「まあそれは、そうね……。タキオンさん、これ、戻るのかしら?」

 

 この日、俺とアドマイヤベガはかねてより交流のあったアグネスタキオンと会っていた。

 彼女は何かとアドマイヤベガに絡んできて、実験に付き合わせようと一方的に絡んできていたのではあるが。

 とはいえそれを繰り返していれば、嫌でも交流の体は出来てしまう。そうしてコミュニケーションを取り、行動を止める止めないの話を付けるにしても接点は出来てしまうものだ。

 要はアグネスタキオンに目を付けられた時点で、関わる羽目になる事は確定事項だったという事なのだが。一先ずそれは置いておこう。

 

 重要なのは、何故今の様な状況に陥ったかと言う事だ。

 

「そもそもこれは、アグネスタキオン。お前の仕業で合っているのか?」

 

 そう、こちらを観察している彼女に対して、やや声を低くして問いかける。

 しかしまだ微妙に声の変調が巧くいかない感じがする、会話する上で声の高さを調整するのは慣れてからの方が良いかも知れない。

 

 慣れる程この姿で居たいかと言われれば、すぐにでも戻りたい所だが。

 流石に教え子と同じ姿というのは、色々とよろしくない。

 

「ふ~む、一概に言ってしまえばその通り! 確かに、私がキミに渡した薬品が原因だろうね。そうでも無ければアヤベ君と同じ姿になるという事も無かっただろうし、そもそも他の切っ掛けも皆目見当がつかないしね」

 

「自覚はある様だな。なら次の質問、いや……既にアヤベが聞いた事だが、これは戻るのか? 骨格まで変わり、肉体的にも変質し種族までもが変異している。容易い事ではないだろう」

 

 言って、改めて自分の身体を見る。

 

 俺は、言ってしまえば老人だ。それこそ60代を超えた、そういう枯れて朽ちるのを待つだけの存在になろうとしている最中だった。

 事実としてそれを理由に、俺はトレーナー業を引退する心算だった。だが思いがけずアドマイヤベガが長く活躍できる脚を持っていた為、最初の三年間を超えて未だにトレーナー業を続けているという状態だったのだが。

 

 先ず、手の平を見る。そこにあるのは、慣れ親しんだ骨と皮だけの指先では無い。年頃の少女の様な、それこそ今隣にいるアドマイヤベガと同じ、瑞々しく若い少女の手その物だ。

 そしてそれに付随して、視界に入る胸部の出っ張り。これはまぁ、胸だ。女性的な膨らみと言うべきか、要は脂肪の塊である。

 

 そして最後に、鏡を見る。そこに映るのは、担当のアドマイヤベガと、アドマイヤベガにそっくりなウマ娘の姿。

 俺が、この姿になる前に来ていたスーツを不格好に着ている。その事から、この鏡に映っているウマ娘が俺なのだと理解できる。

 

 ウマ耳も、尻尾もちゃんとある。元の人間の耳の位置には、何も無い。

 俺が俺だったという痕跡は、いまや身に纏っているスーツ類のみとなっている。

 

「……正直、この現象は私としても想定外でね。確かに原料としてはアヤベ君から採取したウマムスコンドリアを用いているが、そんな物でウマ娘になるのなら今頃世の中はウマ娘だらけだよ。輸血に関してはヒトもウマ娘も関係無いからね。現状では不可能、と答えざるを得ない」

 

 俺の様子を見て、言い出す機会を窺っていたのだろう。彼女はゆっくりと答えた。そして、しかしアグネスタキオンは、残念ながら俺の望む答えは出さなかった。

 出せなかった、というのが正しいのかもしれない。事実として彼女の発言からは、相応の焦りに近い物を感じた。幾ら不慮の事故とはいえ、人の人生を丸々覆したようなものだ。まして性別も、種族も変えてしまったとなれば相応の問題もある。

 

 しかし俺自身の個人的な考えとして、彼女のそれを看過する訳には行かなかった。

 

「アグネスタキオン。これはお前にも予測できなかった、不測の事態だ。そう思い詰めるな」

 

「いや、しかしだねぇ。一研究者としては非常に興味をそそる内容であると同時に、キミという一人の人間の人生を滅茶苦茶にしたとも取れる事態なのだよ? 流石にそれは無責任が過ぎるだろう」

 

 俺の慰めの言葉を、しかしアグネスタキオンはそう一蹴する。

 とはいえそれも仕方のない事で、彼女が言う事も至極尤もな事だからだ。だから俺が気にするなといくら言っても、それを彼女が素直に受け入れるわけが無い。

 それに加えて、俺が良くとも、俺の担当はそれを良しとしない様子だった。

 

「そうよ、トレーナーさん。アナタがお人好しなのは分かっているけれど、幾ら不慮の事故だからといってお咎め無しは看過できない。せめて元に戻る手段を探させるぐらいは……」

 

「もちろん、それは流石にさせる。そもそもヒトをウマ娘にしてしまう薬品だ、せめて原理ぐらいは突き止めておきたい。俺の様な被害が出ない為にも、だ」

 

 案の定アドマイヤベガがそう言って、俺に詰め寄った。だがそれを予想していなかったわけでは無い為、あらかじめ用意していた返答で制止する。

 

 それに、正直な所戻る手段は無いと踏んではいた。もちろん戻れるならば戻りたいが。

 だが仮にあった所で、成功率がどれほどのものかという所だろう。まして先ほども口にしたが、骨格まで変えて、性別も種族も変えてしまう程の肉体変異だ。今の俺が偶然うまく行っただけで、下手をすれば再現性が確立される処か悲惨な末路を迎える、なんて可能性まである。

 

 そう考えると、今すぐ戻せというのはむしろ悪手だと思える。

 

「先ずは、何故こうなったのかの原因究明をして欲しい。元は俺の様な老人に活力を取り戻させる為の栄養ドリンクという話だったが、効きすぎてこれでは話にならないからな。元に戻す方法はその後からでも構わん。……これ程の肉体変異だ、下手に事を急いて用意した薬品が悪影響を及ぼさないとも限らないだろう」

 

「確かに、最悪の事態になる可能性もある。なら原因を特定して、そこから解明していった方がよほど可能性はある、か……」

 

 そして彼女も、一研究者と自称するだけあって俺の考える最悪のケースに思い当たったらしい。先ほどまで発していた、ある種の焦りの気配が消える。

 順序立てて思考を組み立てさえすれば、彼女ほど頼もしい者も居ないだろう。正直元に戻るのはほぼ絶望視出来てしまうが、そこはどうにか受け入れていくしかあるまい。

 

「それに、何かしら副作用がある事を容認して飲んだのは俺だ。結果として起きた事も、お前としても完全な想定外だったと言うだけの事。あまり子どもが責任を背負い込むな。……アヤベ、すまないがお前のジャージを借りたい。見た所体躯にそこまで差が無いように見える、どうだ?」

 

「……業腹だけど、仕方がないわね。まだ言いたい事は山ほどある、でも今はそっちが先決ね。まして殆ど私と見分けがつかないもの、誰かに見られて変な誤解を受けるのもごめんだし」

 

「本当にすまない、迷惑をかける」

 

 アドマイヤベガに、当面の衣類としてジャージを借りようと声を掛けた。それに対して彼女はそう答え、不服そうにしていたので重ねて謝罪する。今は同じ姿とはいえ、60を超えた爺に衣類を貸すというのは抵抗もあるだろうに。

 

 しかし、俺が再度の謝罪を告げた途端に耳が後ろに倒れたようにも見えた。

 

 何年経っても、若い娘の心情という物は読めない。

 

 

 

 兎に角、その後はアドマイヤベガのジャージを借りて当面の衣類を確保。そしてアグネスタキオンを引き連れ証人とした上で、理事長達へ報告。

 流石に彼女達への事情連絡も無しに、この姿でトレーナーとして活動は出来ない。そうでなくとも、アドマイヤベガの外見でトレーナー寮に出入りするのは事情を知らない者からすれば問題以外の何物でもない。如何に非現実的な物だとしても、状況の説明は必須だ。

 

 ……もっとも、ここトレセン学園では一般的な非現実こそが一般的な現象となる場合も多々あるが。

 実際、驚愕こそされたがすんなりと話は終わった。一般的な常識では考えられないのだが、まぁ良いだろう。それがこの学園の良さでもある。良さと言って良いかは兎も角として。

 

「驚くほどあっさり話が通ったわね。偶に思うのだけど、この学園は大丈夫なのかしら……」

 

「それには俺も同意するが、理事長達の想いは本物だ。そこは信じてもいいだろう」

 

 そして今は、そういった報告を終えてトレーナー室へ向かっている最中だった。

 トレーナー寮はあくまで寝泊まりするスペース、トレーナー室は専用の職場。そんな具合に名称を使い分けられている為、昔はよく混同したものだ。

 

「……今日は確か、トレーナー室で一晩過ごすんだったわよね?」

 

「ああ、流石に今からでは寮内のトレーナー全員に事情を通達する事は不可能だ。それに、事情を説明した所でお前と同じ外見ではな……」

 

 あらぬ誤解を周囲に与えかねないし、そういう問題が起きないとも限らない。

 まして俺が使用しているのは男性寮、そこに中身が俺とはいえ外見は若い少女。入り込むのは問題があるだろう。

 

「ええ、そうね。それは私も望む事じゃない。……それで、名前の方は何か希望はあるの?」

 

「名前、か。従来通りでも良いと思うのだが……ウマ娘は特殊な命名規則があるのだったか」

 

 名前について、理事長達からちょっとした宿題として考えておくように伝えられていた。今後の書類作成に当たり、今までのヒトとしての名前とは別にウマ娘としての名前が仮であれ必要なのだそうだ。

 

 ウマ娘の命名規則は2文字以上9文字以下、かつアルファベット18文字以下だったか。一般的にウマ娘の名前は両親の脳裏に突如として浮かび、三女神に捧げられる物という側面があるらしいので実際に名前を付ける時の規則では無いらしいが。

 まぁ、名前の法則性を便宜的に規則と銘打っているだけだ。

 

 ちなみに、ウマ娘としての名前が無いというのは通常あり得ない。

 極めて稀に、生まれてすぐに両親を亡くした等で一時的に名前が不明状態となる場合もある。しかしそれでも本人や、その世話をすると決めた者に代わりに名前が浮かぶらしい。

 ウマ娘の神秘性の所以だ。

 

 逆に言えば俺のようなイレギュラーであっても、ウマ娘である以上はウマ娘としての名前が必要となる。だからこそ、理事長達は宿題としてそう提示したわけだ。

 

「ウマ娘としての名前が無いと今後不便だから、早い所決めておくと良いわ。諸々の書類への記載にも使うし」

 

「ふむ、ならばエーレンフリートにしよう。古い友人と、その忘れ形見に因んだ名だ」

 

「……ふぅん? まあ、アナタが決めたのならいいけれど」

 

 俺がそう言うと、アドマイヤベガは何か思う所があるのか、意味ありげにしつつも肯定した。俺としてはそれなりに思い入れがある名だ、詳細は流石に話せないが……。

 

 いや、もしかしたら単に彼女が決めたかった可能性はある。何せ彼女には、亡き妹がいるのだ。

 生まれる事が出来なかった彼女の妹の名を、俺に重ねようとしていた可能性は否定できない。それはそれでどうかと思うが、担当ウマ娘がそれで満足するならば俺は甘んじて受け入れる覚悟はあった。

 

 少し判断を間違えたか。

 

 

 

「そういえばトレーナー室の周りにはシャワーが無かったわね、フジキセキさんに言って寮の浴場を使えないか聞いてみるわ」

 

 トレーナー室が近づいてきた辺りで、彼女がそんな事を言い始めた。

 頭を抱えそうになる。彼女は利口な子だと思っていたが、俺の勘違いだったのだろうか?

 

 否、それは無い。だとしたら、突然の事にまだ彼女も混乱しているのかもしれない。それならば納得も行くし、理解も出来る。

 

「アヤベ、俺は——」

 

「元は男性、そうでしょ? でもね、今のアナタはウマ娘で、私と同じ見た目に私の衣服を提供しているの。それを何も知らない子が見れば、アナタを私と誤認するのは当然でしょう?」

 

 言おうとしたことを、先に言われた。

 そして続く言葉に困惑した。確かに今の俺はウマ娘の姿をしているし、身体が若返った事を加味しても全盛期だった頃よりずっと身体が軽い事から、身体能力もそれに見合った物になっている。

 だからといって、それがウマ娘の寮で浴場を使わせてもらう話にどう繋がるというのか。

 

 俺が困惑し、そして彼女もそれに気づいたらしい。ため息を吐いてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「……ウマ娘はヒトよりずっと鼻が良いの、昨晩お風呂に入ってなかったりシャワーを浴びてないなんて直ぐ気付ける。トレーナーさんだって、今までその辺りは配慮してくれていたでしょう?」

 

「……そうか、そうだったな。流石にこの身体だ、お前に配慮して一晩ぐらいはと考えていたが……それが逆効果とは盲点だった」

 

 一晩ぐらいならと、そう思っていたが彼女の言う事を真に受けるならば悪手に他ならないだろう。俺の方がどうかしていた、少し考えれば……。

 

「いや、待て。お前は良いのか? 少なくとも鏡で見た限り、今の俺とお前はほぼ瓜二つ……今の俺が自分の裸体を見るというのは」

 

 しかし直ぐに否定材料が飛び出してくる。

 今の俺はアドマイヤベガと瓜二つ、その状態での裸体は即ち彼女の裸体を見るのと同義ではないか?

 着替えるときは、どうにか目を瞑ったりアグネスタキオンを含む二人に手伝って貰って事なきを得た。だが風呂ともなると、目を瞑って行動するというのは自殺行為だ。

 

「言わないでよ、考えない様にしていたのに。……まあ、トレーナーさんには悪いけど、あれだけ老人ぶってて男性として意識しろと言うのも無茶よ。アナタ、言い方は悪いけれどそういうの枯れてる印象があったし。第一、一日二日でどうにかなる問題じゃないでしょう? 遅かれ早かれ、こうなるのは分かり切ってたわ」

 

 その割には、顔を赤く染めている。強がっているのが分かるが、かと言ってそれを指摘する気にもならない。第一、今しがたそういった指摘を咎められたところだ。

 

 とはいえ、枯れている、か。強ち間違ってはいないのかもしれない。

 実際今まで独り身を貫いているし、今更結婚を考える歳でもない。そういう事を考える余裕も無ければ、きっと余裕があっても考える事が無かったであろうというのが俺の自己分析。

 

 確かに、枯れているな。色々と。

 

「……そこまで言われては仕方がない。お言葉に甘えて、使わせて貰えるならば湯に浸かりたい。色々あり過ぎた、熱い湯に入りたいとは思っていたんだ」

 

「素直でよろしい」

 

 そんな話を経て、トレーナー室を通りすぎて栗東寮へと向かう。そうと決まれば、今トレーナー室に行く意味がないからだ。

 

 そうして寮にたどり着き、寮長であるフジキセキに話を付ける。

 大層驚かれたが、まぁ仕方がない。俺ももし同僚がウマ娘になった、等と言って転がり込んできたら驚く自信がある。

 

 そして彼女もまた、あっさりと浴場の使用を許可してくれた。

 少しばかり今時の若い少女の貞操観念はどうなっているのかと不安になるが、アドマイヤベガやフジキセキに浮わついた話は聞かない。フジキセキは存在が浮わついていると聞きはするが、その実一定の線引きを持っているのは見ればわかる。

 よって今回の件はあまりに特殊なケースであり、むしろこの期に及んでも俺の認識が凝り固まってしまっている可能性だってある。……もちろんフジキセキから、『枯れている』という評価を下されている可能性も拭えないが。

 

 

 

 さて、何にせよ風呂だ。

 今の俺はアドマイヤベガにお風呂セットなるものを手渡され、俺は浴場にいる。

 毛質は同じだろうから大丈夫でしょう、と渡す際に言っていたが、それが何を意味するのかは分からなかった。

 

 とりあえずはお風呂セットの中身を確認する。確かボディソープと書かれたものが身体を洗うための物で、シャンプーが髪を洗うための物だったか。幾ら自分が固形石鹸ばかり使い自分では使わずとも、流石にこの辺りは分かる。薬局に行けば嫌でも目に付くし、テレビを見ていればCMなんぞ幾らでも見る機会はある。

 だがアドマイヤベガから受け取ったお風呂セットの中には、明らかにその二つで済まないボトルが入っている。道理でやけに重いと思ったが、見ればボディソープとシャンプーの他にコンディショナー、テールシャンプーにリンス、果てにオイルと凄まじい量だ。何だこれは。

 

 恐らくはこの辺りも何処かで見てはいるのだろうが、人間自分に関わりの無い物は印象に残り難い物だ。

 残念ながら今の俺に、これらの知識は無かった。

 

「……」

 

 チラリと、浴場と脱衣所を仕切るガラス戸へ視線を向ける。

 あそこには万が一のため、アドマイヤベガとフジキセキが待機している。助けを求めるのは簡単だが、まさか髪を洗う程度の事で躓くとは想定外だ。

 良い歳をして髪も満足に洗えないのかと蔑まれるような事態にはならないと思うが、それでも彼女たちの数倍を生きてきた一人の人間としてのプライドがある。

 

 故に、せめて髪を洗うぐらいは自分でしたい。幸いボトル裏の説明文を見ればどのように、どのタイミングで使えば良いのかは判る。アドマイヤベガが別のボトルに詰め替えて使う子でなくて良かった。

 結果として俺はボトルの数に惑わされず、先ずはシャンプーのボトルを手に取る事を選べたのだから。

 

「なになに、適量を取り泡立てる。それを濡らした髪に……ふむ、男性用の物と違いはなさそうだな」

 

 流石にここから別物であればお手上げだったが、まぁ当然と言えば当然だがそうではない。内心ホッとして、シャワーの蛇口を捻ろうとして——再び気づく。

 

 ヒトの時は気にしなかったが、ウマ娘の耳は頭頂部に付いている。

 

 であれば、耳に水が入った場合垂直に浸水していく訳だ。

 

「…………」

 

 別に水が入ったからといって、何か病気になる訳でもない。なる訳でもないが、ヒトと違って構造的に貯まりやすいのがネックである。

 今の所未遂だが、しかしやらかしたが最後。あの外耳から中耳手前まで水が入り込んだ時の不快感を、ヒトの時より水抜きし難い構造で味わうのだ。

 

 それに病気になる訳でもないとは言ったが、実の所一緒に雑菌が入り込んだ際にはその限りではない。水が入らないに越したことは無かったりする。

 

 そして俺は、その問題に対して対抗策を持っていなかった。恐らく何か詰め物をすれば良いのだろうが、生憎アドマイヤベガが寄越したお風呂セットの中にそれらしい物は入っていない。

 

「……参ったな」

 

 いっそ先に身体だけでも洗えば良いのかもしれなかったが、やはり抵抗はある。タオル越しでも教え子と同じ外見の、少女の身体に触れるというのは罪悪感が凄まじいのだ。たとえ自分の身体であっても、まだ認識との差という物がある。

 

 何であれハッキリしているのは、今度こそお手上げという事だった。

 

 

 

───☆☆☆───

 

 

 

 トレーナーさんが浴場に入って数分、そろそろ水音がしても良いと思うのだが一向に気配がない。

 私は、トレーナーさんならば変なことはしないだろうと言う信頼があった。だからこそ一人で送り込んだのだが、さてはあの身体を観察して楽しんでいるのではと思い始める。

 

「そろそろ水音がしても良いと思うのだけど、何をしているのかしら」

 

「まあまあ、あの人なら変なことはしないさ。そう思ってるから一人で行かせたんだろう?」

 

 フジキセキはそう言って、私を宥めようとする。確かに彼女の言う通りだが、こうも静かな時間が長いと焦れてくるのだ。

 とはいえここでイライラしていても始まらない。もう少しして動きがなければ突入するとしよう。

 

 などと考えていれば、ヒタヒタと足音が聞こえる。浴場からだった。

 ようやく動きがあったと思えば、何もせずに上がってくるつもりだろうか。

 そしてカラカラと引き戸を少し開けて、顔を覗かせるトレーナー。自分の顔がひょっこりと出てくるのはいささかシュールだが、こればかりは今後の慣れが必要だろう。

 

「アヤベ、恥を忍んで頼みがある」

 

 そしてこちらが何か聞く前に、そう真面目な顔で切り出した。

 

「頭を洗うとき、耳はどうすれば良いんだ?」

 

「……はっ?」

 

 そして一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。

 そんな子供でも知っていることを、何故聞くのだろうと思った。ふざけているのかとも感じる。

 

「そんなの、耳を前に畳むなり後ろに向けてしまえば──────」

 

 そしてそこまで言って、気づく。

 これはウマ娘が子供の頃に教わる物であると。

 

 だが彼、トレーナーは元はヒトだ。

 そんなことを教わる機会はないし、まして元々無いものを自在に動かせ、なんて酷だろう。

 

「───ごめんなさい、失念していたわ。そうよね、耳が動かせるわけ無いわよね……」

 

「いや、俺も失念していた事だ。ここはお相子にして、話を先に進めよう。……どうすればいい? 何か耳栓といった詰め物があるならば早いのだが」

 

 私の謝罪に、しかし彼はそう言って切り上げる。いつもの事だが、確認不足といった物に類する事に関して彼は常に『自分も悪い』と言ってお相子にしてくる。自分も責任が負える物であれば、些細な事でだって背負い込もうとするのだ。

 私ももう、世間一般では大人に分類される年齢になりつつある。だというのに、彼は何時だって子ども扱いしてくるのだ。それが普段は、あまり気に入らなかった。

 

 けれど、今はそんなやり取りも少し心地よい。外見が近いからか、はたまた彼が心底困っているからか。後者であれば何とも酷い性格をしていたのだなと、我ながら驚愕するが。

 

「残念ながら無いわね、基本的に子どもの頃にしか使わないもの。精々プールの時に苦手な子が使うぐらいだし、基本使い捨てだから」

 

「……個々人が所有、管理しているか。確かにアヤベがそういった物を使用しているのは見た事が無い、その様子ではフジキセキもか」

 

「そうだね、それに悪いけど寮の備品としても用意はしていない。少数派だし、流石にそれぐらいは自前で用意して欲しいからね」

 

 管理も大変だしね、と苦笑気味にフジキセキは続ける。まぁ期待していなかったわけではないが、これではやる事が決まってしまった様なものだ。

 

 覚悟を決めなければ。

 

「気は進まないけれど、トレーナーさんが自分で耳を動かせるようになるまでは一緒に入りましょうか。この調子じゃ時間もかかるでしょうし、そしたら部屋に戻ってシャワーなんてカレンさんに迷惑だし」

 

「待て、流石にそれは……」

 

「気持ちは解る。でも時間をかければ私だって、アナタが元の姿に戻るのは難しいというのも理解できる。であれば、いっそアナタは一人のウマ娘として生きることに慣れた方がいいと思う。……どう?」

 

 彼の前で服を脱ぐのが、恥ずかしくない訳じゃない。いくら今の見た目が私と同じであっても、元の姿を知っている以上は抵抗がある。

 

 彼がたとえ本当に、俗に言う『枯れている』ヒトだとしても、見られる私の気持ちはそうではない。ちゃんと人並みに感じるものがあるのだから。

 まして、何故彼はこんなにも歳が離れているのだろうと、本気で考えてしまうような相手であれば尚更だ。

 

 でもだからこそ、ここで覚悟を決める必要があった。

 私が彼の前で一糸纏わぬ姿を晒すことも勿論だが、それ以上に重要なこと。

 

「……確かに、元の姿に戻れないことを前提に考えるなら……合理的だな」

 

 苦笑気味に、彼は言って俯く。

 

 残酷なことを言っている自覚はある。もうじき70を迎える彼に、今更一人のウマ娘として人生をやり直せと言っているようなものだ。

 寿命がどうなっているかは解らないが、少なくとも外見年齢は私と同一に見える。総寿命が変わることがないならば、少なからず私よりも先に彼は死ぬだろう。

 

 でもそうでないならば。もし、私と共に同じ時間を歩んでいけるのならば。

 否、たとえ寿命が変わらずとも、それでも共に歩める時間に猶予はある筈だ。であれば、私は願う。

 

「アナタにとっては、今までの人生を捨ててやり直すに等しい事かも知れない。でもだからこそ、アナタの歩むこれからを私は傍で支えたい。……ただ合理的なだけじゃない、私のそういう想いもある。ちゃんとアナタの事を想って、この提案をしているというのだけは覚えておいて」

 

 

 

 彼は、私に契約を持ち掛けて来た時から何処か自罰的だった。

 なんというか、死に場所を求めているような。きっと他に例え様があるのだろうけれど、そんな印象があった。

 

 だってそうでもなければ、私が彼に契約を迫られた時に発した脅しにも近い言葉に、平然と返答する事は出来なかっただろうから。

 

『私は自分の脚がどうなろうと、至上の勝利を天に居る彼女の為に捧げる。そう、たとえ壊れても。アナタにはそれを受け止められる覚悟があるの? 私自身の意志だとしても、その責任を問われるトレーナーにアナタはなれるの?』

 

 今思えば、随分と酷い事を言ったと思う。それこそトレーナーが付かなくなる可能性すらあるし、名義貸しだってこんな事じゃして貰えない可能性すらあった。

 我ながらどうかしている。

 

 だけど、本当にどうかしていたのは彼の方だった。

 

『構わない。それがお前の決めた事なのであれば、お前が壊れた時の責任も俺が被ろう。どの道最後の担当にお前を選ぼうとしているんだ、悪評が立った所でそう困る物でもない』

 

 なんて、事も無げに言ったのだ。それも、どうせ引退するから構わないなんて投げやりな雰囲気ではない。全てを背負い受け入れた上で、その悪評を抱えたまま生きると言うのだ。

 引退したからと言って責任と無縁になる訳ではない、それこそ引退後の私生活で後ろ指を指される事だってあるだろう。だというのに、それを許容すると彼は言ってのけたのだ。

 

 端的に言って、異常であった。

 彼には何かある。私も大概に抱え込んでいる方だと思っていたが、同等かそれ以上の物を感じさせる覚悟だった。

 その時に感じた、やけにひり付いた空気を今でも覚えている。

 

 今無事に立って走れているのは、彼やライバル達が寄り添い支えてくれたからだ。特にそのきっかけとなったのは、間違いなく彼の存在。そもそも彼があの時私を受け入れなければ、トゥインクルシリーズを走れていたかも怪しい。

 だからこそ、彼の事を支えたいと思うのはある種の恩返しだ。彼にして貰った事を、私も返したい。彼には悪いが、神様はいい機会を私に与えてくれたと思う。

 

 

 

「……ふっ。そう言われると、少し照れる。言われる側になって初めて気づいたよ、確かにそんな事を言われれば心が揺らぐな。かつて師の言葉に従って似た言葉でスカウトをしていた時期があったが、その後担当したウマ娘達から何故か蹴られて不思議に思ったが……当たり前だな」

 

「若い頃のアナタ、写真を見た限りだときっとモテたでしょうから当然ね。むしろよく生きてたわね、今の私の言い方でそう言うって事は、夜道に刺されたって文句を言えない様な事をしでかしてるも同義よ?」

 

 なんて事を教えているのだろう、彼の師は。

 あと彼が昔そんな事をしていたなんて知りたくなかったかもしれない。他のウマ娘にそんな風に声を掛けているのを考えると、少しモヤモヤする。

 

 私の破滅的な行動方針に相乗りしてきた時点で、既に大概だと言われればそれまでではあるけども。

 

「なんだか私も他人事じゃなさそうな話だったけど、まあやる事が決まって良かったよ。ちょっと空気になってた感が否めないのはこの際目を瞑るとして、今日は私も同伴させてもらうからね。君たちを待ってたら時間が掛かりそうだし」

 

 説得もようやく区切りが見え、彼の言った事に軽口で返していればフジキセキが声を掛けてくる。そういえば彼の説得にムキになって失念していた、彼女も居たのだった。

 最後の一言がやけに他意を含んでいる様に思えて、少しぐらい文句も言いたい所だったがやめた。誤魔化された挙句、きっと「なんだと思ったんだい?」だなんて意地の悪い事を聞いてくる可能性も拭えない。

 ならば大人しく受け入れるのが妥当だろう。実際迷惑をかけたのは確かなのだし。

 

 とりあえず私達も服を脱ぎ始めなければ。彼には先に戻って待っている様に伝える。

 少しばかり諦めたような、やっと覚悟を決めたような声で短く「分かった」と呟いて向かって行ったのを確認して、私もフジキセキも脱ぎ始める。

 

 ……今後の展開次第。というよりはあの理事長だ、十中八九、彼が最も恐れそうな事態に発展させてくれるだろう。

 ある意味この場で、私以外の見知った顔の相手とも一緒に入れたのは逆にラッキーだったかも知れない。

 

 少し残念だったような気持ちもあるけれど、彼の今後を考えると今の状況が正しい。

 

 ……自分はこんな子だっただろうか。今日はモヤモヤする事が多い一日だと感じた。

 

 

 

───☆☆☆───

 

 

 

 結局こうなった。

 

 今の俺の両隣には、アドマイヤベガとフジキセキが並んでいる。

 場所は浴場、つまりは風呂だ。風呂に入るのに服を着るバカは居ない、つまりはそう言う事なのだが。彼女達は「慣れろ」の一点張りであった。

 

 ……確かに、こればかりは俺の慣れの問題だろう。

 慣れてはいけない気もするのだが、同時に慣れなければこの姿で今後の生活も難しい。困った物だ。

 

「そういえば、身体もまだ洗ってなかったのね」

 

「む、すまん。丁度石鹸を探そうとして、連鎖的に諸々の問題に直面した結果だったのでな……それぐらいは先に済ませておくべきだった」

 

 身体の何処も濡れていないのだから、バレるのも当然か。

 分からないなら分からないなりに、出来る所だけ済ませてしまうのも手段の一つだ。彼女もきっとそれを指摘しているのだろうと、そう思ったのだが違った様で、溜息と違いホッとしたような息を洩らした。

 

「ああいえ、むしろ今回の場合は正解よ。アナタって髪は短かったものね、知らないのも仕方が無いわ」

 

 そう言って、お風呂セットの中からブラシを取り出す。なにやらボトル以外にも色々入っていると思ってはいたが、ブラシで何をするというのだろうか?

 

「長い髪や毛の長い尻尾は、先にブラシで絡まった毛やゴミを取り除かないと上手に洗えないのよ。水で濡らしてしまうとブラシや櫛を通すと毛を傷めてしまうから、身体を洗う前で良かったわ」

 

「なるほど、そんな事情があったのか。……猶更声を掛けてよかった、そういったセオリーを全て無視して洗ってしまう所だった」

 

「べつにそれで怒りはしないけど、分かる子には分かってしまうから覚えておくと良いわ。年頃のウマ娘で髪を大事にしないのは、言語道断よ?」

 

 ……つい口をついて「生粋のウマ娘ではないのだが」と洩らしそうになるのを堪える。今の俺の外見はアドマイヤベガと同じ、今風呂に入る事になっているのもそれが原因。

 そう思い返せば、これは言い訳にはならない。あくまで彼女の為にも必要な事なのだから。

 

 そこでふと気づく、この案ならば今後彼女との混同も防げる。俺も洗うのが楽になり、一石二鳥だろう。

 

「アヤベ、俺の髪を短く切ってしまうのはどう「絶対にダメ」——……そうか」

 

 こちらの言葉に割り込んで、遮ってきた。それ程にダメなのか。

 

「アナタには分からないかもしれないけれど、少なくとも今後著しく手入れを怠って酷く髪が傷むでも無い限り短くなんてさせないわ。こんなに綺麗な髪を捨てるなんて、それこそウマ娘としてあり得ないの」

 

「……うわ、何だいこれ。ほんとにキレイじゃないか」

 

 アドマイヤベガのそんな強い発言で、俺は委縮するしか無かった。体調不良や適性の壁、強いライバルの存在に阻まれても彼女はダービーウマ娘。シニアでだってあの覇王に待ったをかけ、グランプリウマ娘としての箔もある。

 そんな彼女が本気で威圧すれば、俺の様な老人は委縮せざるを得ないのだ。これ程のウマ娘の威圧を受ける事など、先ず滅多な事では無い。せめてこちらが、それを込みで覚悟してきていれば兎も角。

 

 そしてそうやって縮こまっていれば、横からフジキセキが覗き込んで来たらしい。俺の髪を触っているらしく、そんな言葉を洩らした。……いう程なのだろうか?

 

「そこまで言う程なのか?」

 

「言う程よ。……まぁ、たぶんアナタがウマ娘になったのと同時に生えた物だからでしょうね。文字通り生まれたての、余計な傷一つ無い綺麗な髪に肌をしてるわよアナタ」

 

 なるほど、確かにそういう理屈ならそうなるか。

 

「……わかった、続きを頼む」

 

 しかし、そうなると今後の俺も気を付けなければ。出来る限り彼女達が納得する様、丁寧な扱いを心掛けなければなるまい。

 そう思い、続きを促す。この調子では、確かにフジキセキが言う通り時間が掛かってしまう。

 

「ええ、分かったわ。といっても今言った通り、ブラシをかけるにしても今のアナタは最低限で済むのよね」

 

 確かに、ブラシをかける理由に対して俺の現状。最低限処か、下手をすれば不要な可能性すらある。

 ……しかし、フジキセキは何時まで触っているのだろう。飽きないのだろうか。

 

 

 

 そうこうしている内に、手で耳を抑える様に指示され、お湯を流され本格的な洗い方を教わり始めた。

 十分に髪を濡らしたら、シャンプーを手の平で泡立て髪につけて行く。そのまま優しく泡立てて、汚れを泡で包み込むイメージで兎に角優しく満遍なくが基本らしい。

 ……髪が長いのも相まって、その分時間もすこぶる長い。

 

 そしてようやく終われば濯ぎ、次は尻尾も洗うのだそうだが。

 

「……ひゃっ」

 

 尻尾の中腹から髪を洗う時と同じように泡立て洗っていたアドマイヤベガの手が、洗う場所を変えていき尻尾の根元に触れた瞬間の事だった。

 ピリッとした、電流が走った様な感覚がした。それだけなら良かった。

 

 何故か同時に、そんな甲高い声が口をついて出てしまった。

 俺自身、何が起きたのかさっぱり分からなかった。いやむしろ、今の声は本当に俺の声だったのか?

 

「……フジキセキ?」

 

「いや、残念だけど君の声だよ。まぁ尻尾の付け根って敏感な部分だから、初めて人に洗って貰うと同じ反応をする子は新入生によく見られるし恥ずかしがる事じゃないさ」

 

 なんのフォローになっていない気もするが、しかし今の俺はウマ娘の身体で起こる何もかもが初体験なのだ。そういう意味では大目に見て貰えるかもしれない。

 しかしアドマイヤベガには悪い事をした。自分と同じ顔に殆ど同じ声で、イメージに合わない声を出してしまった。

 

「……アヤベ、すまん。不快な思いをさせただろう。次は大丈夫だ」

 

「……そう」

 

 そう声を掛けるが、しかしどうにも不機嫌そうな返事が返ってきた。

 やはり相当に気分を害したのだろう。今度何かしら、埋め合わせをしなければと思う。

 

 ……ふと今の俺の姿で、元の俺の資産を使えるのかが少し心配になってきた。

 

「ま、ウマ娘ならよくある事だから気にし過ぎないで良いですよ、アヤベさんのトレーナー。私は先に湯に浸かりますから、お二人はどうぞごゆっくり♪」

 

 そしてそんな不安を他所に、何処か愉しそうにフジキセキは立ち上がってそう言い、去って行った。

 やけに早いなと思ったが、そう言えば彼女の髪は短かったな。尻尾を洗っても俺達よりずっと早く済むのだろう。

 

「ひっ!? ん、アヤベ……? 何やら触り方が……いや、わざと、ん、やってる、だろ……!!」

 

 フジキセキに逸れていた意識が、強引に引き戻された。

 再び先ほどの様な感覚に襲われ、またしても甲高い声が漏れる。幾ら覚悟していても、こうもわざとらしい触り方をされれば耐えられる物も耐えられない。

 そう思い、抗議の声を上げる。

 

「……ごめんなさい。少し悪戯が過ぎたわね、もうしないわ。後は濯ぐだけ、こっちでしておくから、身体を洗い始めてていいわ」

 

「そ、そうか。悪戯とは普段のお前らしくないが、魔が差す事は誰にでもある。……身体を洗う時の注意点はあるか?」

 

「特には。まあ、強くこすり過ぎないでくれれば良いわ。それと、恥ずかしがって胸の周りを適当に済ませない事。ちゃんと持ち上げて下の方も洗って、一番汚れが溜まりやすいし、汗をかきやすいから」

 

「……了解した」

 

 何やら様子が可笑しい気がするが、彼女にしては珍しい悪戯だから余計にそう感じるだけか。しかし彼女が妹の事で悩む期間が長かった以上、姉妹でしたかった事が俺の姿を見た事で噴出してきているのかもしれない。

 とはいえ、最近の姉妹と言うのは今の様な事も遊びでするのか。彼女の手前言うのは憚られたが、どうにもイヤらしい手つきをしていた様に思う。姉妹と言うのは、それ程に気安いものなのか……。

 

 なんであれ、今は目前の問題に挑むだけだ。

 そしてやはりこの無駄に大きな胸は、相当に厄介な物だった。一番触れるのに抵抗がある場所だというのに、指摘されてしまった以上はちゃんと言われた通りにしなければならないだろう。気が重い。

 

 

 

 その後、どうにか身体を洗い終えた俺はフジキセキに続いて湯船に浸かった。

 身体が蕩けそうなほど、熱い湯が心地よく疲れた俺の心身を包む。そんな俺の様子を見て、フジキセキはクスクスと笑い続けるのであった。

 

 その後もアドマイヤベガが合流し、一先ず今後の流れについて一通り話し合う。

 彼女はまだまだ走れるし、活躍できる脚がある。ならば走らせないという選択肢は無いし、彼女もそれを望んでいるのは既に確認済みだ。

 一通り済めば、堅苦しい話は終わりと雑談をして時間が過ぎる。

 

 そろそろ上がろうとなり、しかし出口に向かったのを引き留められる。

 どうやら髪と尻尾を再度濯ぎ、今度はコンディショナーを付けるらしい。髪を保護する為の物なのだとか。頭皮につけると毛穴が詰まるとかで、うなじより下の範囲だけで良いらしい。コームという歯の感覚が広い櫛の様なもので梳き、全体に馴染ませてまた濯ぐ。

 今後は必要に応じてトリートメントというダメージケア用品を使うのだそうだが、今の所俺には必要ないとの事。

 そして尻尾でも同様に濯ぎを行い、こちらも尻尾用のリンスで毛を保護するのだそうだ。聞けばリンスもコンディショナーも本質的には同じ物らしいが、名称が明確に違っている方がこうして使い分ける際に混同せず良いらしい。確かにそうかもしれない。

 

 そうしてようやく浴場を出たと思えば、今度はタオルドライで丁寧に水気を取る作業で時間を食う。ワシワシと揉み込むのはあまり良くないらしく、丁寧に上の方から拭って行く様にして拭いて行く。

 ……やはり短く切りたいなと思う。現にフジキセキは既にタオルドライを尻尾に移しているし。

 最後に残ったのはオイルだったが、それは翌朝必要であれば使うとの事だった。なので脱衣スペースを出た広いスペースの、壁沿いにある化粧台に置いておくらしい。見れば確かにそれらしい他の生徒の物が、専用に設けられたスペースに置かれている。

 

 

 

 ウマ娘、というより世の女性と言うべきか。これ程までにお洒落に時間をかけているのかと思うと、日頃の苦労が窺がえる。

 

 そしてそんな苦労の日々に、俺も入門するのだと思うと気が滅入る。

 どうにか短くしたい所だが、この要望が通る日は来るのだろうか……。

 

 結局この日はフジキセキの計らいにより、寮長用の宿直室で泊まらせて頂く事となった。基本的に門限を超えた悪い子に使わせる為の場所らしいので、あまり気兼ねなく使えるのはありがたい。

 

 兎に角今日は、もう寝てしまおう。明日からまた忙しくなる、それに備えて休まなければ。

 

 そうしてベッドに身体を預け、ゆっくりと意識を手放していく。

 忙しくなることは分かっているが、せめてそれが少しでも軽くなることを祈って。




すれ違いっていいよね
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