食欲を刺激する香りに誘われる様に目を覚ます。ベッドから起き上がらせながら部屋に備え付けられたキッチンへと向けると、エプロン姿のティーダがフライパンを片手に朝食の準備をしていた。視線をそこから目を背けて壁の時計へと向けると、大体想定していた通りの時間になっていた。眠気を噛み殺し、軽く欠伸を漏らしながら目の辺りを擦り、そして上半身を持ち上げる。
「クッソ、これでキッチンにいるのが裸エプロンの美少女だったら満点なのになんで見慣れた野郎のケツを朝一で見なきゃいけねぇんだよ」
「メシ担当の幼馴染を労わる言葉を君は知らないのかい? それよりもさっさと顔を洗ってくれ。もうそろそろ朝ごはん出来るから。今日はキツイ一日になるわけだけど……調子はどうだい?」
ふむ、と声を零しながらベッドから降りて、軽く体を動かす。体に痛みはなく、疲れは残っていない。精神的なプレッシャーは確かに存在するが、それでも影響を与えるほどではない。端的に言えば、重荷を背負っていない。精神的にはそういう状態だった。おそらく昨夜、クラウスと話し合うことが出来たのが良かったらしい。必要以上に力が入らず、精神的にも肉体的にも最良の状態の様に感じる。拳を開いて閉じて、
「―――これ以上なく快調」
◆
諸々の準備を終えて大学寮を出る。大学のキャンパスを通りながら駐車場へと―――向かわず、そのまま徒歩で大学を出る。時間的には結構余裕がある為、態々グランツ研究所という近場に対してバイクを使うのは少々燃料的にもったいないと最近ティーダと共に気づかされた。こういうのは計算したり、纏めたりしないと中々気づけないものだ。
「決勝トーナメントはAからDの四ブロック、それぞれ四人、合計十六人のトーナメント方式になっている。こいつを勝ち抜いていけば決勝で戦う事が出来る―――けど、まあ、決勝まで頑張らなくて良い、って考えると多少は楽だな。晒す手札が減って行くし」
「イスト、クラウスと同じブロックだからねー」
そう、トーナメントの結果、自分とクラウスは同じCブロックに配置されていた。自分とクラウスが順当に勝ち残れば二回戦でぶつかり合う事となっている。ただ自分もクラウスも、負ける所は一切想像できない為、おそらく、確実に戦う事となる。故に既に頭の中身はそっちの方へ切り替えつつあるが、それは油断だと自分に言い聞かせる。始まる前から勝った気になってどうする、と。爺が今の自分の調子を見たら遠足前の子供の様だと言ってたかもしれない。
「というか、悪いなティーダ。付き合せちまって」
「今更それを言うのかよ―――ほんと、今更だよばぁか。僕だって思う所はあるけどさ、どーあがいてもあのラスボスには勝てっこないんだ。それに策を弄するとかそういうのが通じる様な相手でもなくなっちゃったし、だったら手伝えることを手伝う。それが今回の僕の役割だよ。君が君の出来る事をやって、僕が僕の出来る事をする。何時も通りだろ?」
「何時も通りだなぁ」
海鳴で過ごす短い時間、交渉や準備、調達や調整に関しては全てティーダがやった事だったりする。出来る事をやる、とこの男は言っているがその範囲が恐ろしく広い。流石才人、というだけで決める事は出来ない。寧ろこことしてはさすが親友、と言っておくべきなのだろう。
「人通り、多いな」
「そうだね」
交差点で煙草を咥えながら火をつけていると、同じ方向へ、グランツ研究所へと向かって歩く姿が増えているのに気付く。その大半が子供の姿だが、自分の様な大学生や、大人の姿が混じっているのも見える。やはりグランツ研究所のチャンピオンシップの本戦、決勝トーナメントを見る為にやって来たのだろう。名前までは覚えていないが、教えたり一緒に対戦したりで交流した事のあるプレイヤー達が此方に気付くと、手を振って挨拶して来る。煙草を口に咥えたまま手を振って挨拶を返しておく。
「今日ばっかしはショッププレイヤー返上して、一般参加者としての参加だからな、仕事がなくて楽だわ」
「プレシアさんやリンディさん、勝ち残れなかった人たちとかで運営の方をしてくれてるらしいからねー。あと地味にカリムも今日はヘルプに入っているとか」
「え、マジ?」
「マジマジ」
マジかぁ、なんて言葉を零しながら交差点を渡り、グランツ研究所へと少しずつ近づく。何気に昨日の予選会、カリムも参加するにはしていた。強力な攻撃能力を持たず、トラップと作戦と脅迫と精神攻撃で相手を徹底的に自滅させる鬼の様な手段を取るカリムだが、実は昨日、敗北していた。その現場を自分は目撃する事がなかった。だがティーダはそれをしっかりと見ていたらしく、詳細にカリムの撃破方法を教えてくれた。
目をつむって。
耳をふさいで。
カリムのいるっぽい場所を砲撃連射。
流石のカリムも考える事の一切を放棄した相手には相性が悪く、あっさりと敗北してしまった。脳死奉迎戦法とその場でネーミングされた対カリム用戦術だが、おそらく既に対策の三つか四つ、今頃あの女は生み出している事だろう。負けず嫌いだし。
「おーい! 赤鬼先生やーい! 絶対負けるんじゃねぇーぞ! 俺ぁ先生が勝つのに千円賭けてるんだからな!」
「ははは―――死ね」
反対側の歩道を歩いている馬鹿にガンを飛ばして気絶に追い込んで歩くと、笑い声や応援の声、楽しそうな声が辺りから聞こえてくる。実際、多くの人がイベント、という事で今日の事を楽しみにしているのだろう。そして楽しみにすべきなのだろう。遊びとは、イベントとはそういうものなのだから。ただ、
今はそれを素直に楽しめるだけの余裕はない。やはり信念は炎の様に胸の奥で燃え、揺らめいている。勝ちたい、倒したい、超えたい、その気持ちが強く胸の中で体を焦がしていた。そして俺も、クラウスも、今日という日に決着をつけない限りは本気で笑う事も馬鹿をすることもできないのかもしれない。俺は決着を求める。後悔との決着を。そしてクラウスは戦いを求める。己の存在意義を込めて。勝とうが負けようが、俺達の人生に一切の変化はない。
それでも、やらなきゃどんな小さな変化であっても、始められない。
「ガキの頃、夏休みの三か月間山に放り込まれたの覚えてるか?」
「あぁ、覚えてる覚えてる。いきなり気絶させられた上に隣の州の山にまで連れていかれた時でしょ? あの時は本当に焦ったよ。ナイフもロープもなし、コンパスもない。見た事もない森の中で残されたのはあのクソジジイの手紙で”ターザン生活してみて”とかいう頭のイカレた文章で、そこから石器時代にタイムスリップする生活だったよね、僕ら……」
「石斧は人類の生んだ最強の道具だってあの時は確信したわ―――あの頃は何をやっても新鮮で輝いていたもんさ。あの山猿が色んな理不尽を叩き込んできて、いろんなところ連れまわしてもさ、見るもの感じるものやる事が何もかも新鮮でさ、世界が輝いて見えたわ。始めて食った兎の味とか今でも思い出せるぜ」
じゃあさ、とティーダは言う。
「今は輝いていないのかい?」
「馬鹿野郎、今からその輝きを取り戻しに行くんだよ」
所詮は自己満足なんだが、そんな感じばかりなのかもしれないなぁ、なんてことを思う。そんな考えを胸に抱きつつ歩道を歩いていると、後ろから良く知る気配がする。振り返ることなく歩きながら身構えていると、軽い接触を背後に感じ、そのままそれが跳ねる様に肩の上に着地するのを感じる。視線を横へと向ければ、ヴィヴィオの姿がそこにあった。
「おっはよー! いやぁ、朝からお兄ちゃんに会えるとはなんたる幸運。お兄ちゃんの臭いすーはーすーはぁー……! 良し、補給完了」
「やだ、この子のレベル高くてついていけないわ。お兄さん偶にヴィヴィオの事を見ると禁断の扉を開けてしまったんではないかと心配になるわ」
「ゼーゲブレヒト家の人間はまともになってもベクトルがおかしい事に変わりはないから! ウチのガッデム絶壁もまともになればベクトル的には私と同じぐらいぶっ飛んだキャラになると思うよ! 根が深い分私よりもひどい事になりそうだけど」
「やめて。脅すのはやめて。お兄さんチャンピオンシップ前に心が折れちゃいそうなんです」
「大丈夫大丈夫。なんだかんだでお兄ちゃん顔はちょっとヤクザだけど精神的には物凄いイケメンだから、割と地雷だとかなんだか涼しい顔をして処理してくれるでしょ。それに昨日までのお兄さんだと怖くてちょっと余裕がない感じだったけど、今のお兄さん少し余裕がある感じだもん。なんだかんだ文句言いつつもどうにかしちゃうでしょ」
「的確に人の心を突くのやめよーね。ヴィヴィオっち何気にそこらへん超抉るからお兄さん偶にハートブロークンよ。あと顔がちょっと怖いのは気にしてる所だからあまり触らないで。お兄さん顔はヤクザでも心はエンジェルだから。殴る時も慈悲の心を籠めて殴ってるからね? こう、痛くなぁれ、痛くなぁれ、ってハートマークつけながら殴ってるからね?」
「お兄ちゃんお兄ちゃん! それある意味最悪だよ!?」
「ある意味でもなく最悪だよ」
やって来たヴィヴィオに少し笑いながらも、口から煙草を取って、握りつぶしながらそれを持ち歩いている携帯灰皿に捨てる。流石に子供の前で吸い続けるだけの勇気はない。それに臭い、なんて言われてしまえば物凄いショックで寝込むかもしれない。とりあえず煙草を捨ててから右手で肩の上に載っているヴィヴィオを一旦持ち上げ、肩車の形へと乗せなおす。ヒャッホー、と頭にしがみつくヴィヴィオの声を聞きながらそういやぁ、と言葉を零す。
「絶壁はどうしたんだよ」
「良い感じにお姉ちゃんに対する容赦抜けてるよね。まあ、我が家の絶壁だったら―――」
「―――あの、人を絶壁絶壁って呼ぶの止めてくれませんか? 一応女性に対して胸の話をするのはデリカシーとマナーの問題なんですけど、というか二人の場合だとそういう領域超えていますよね……」
溜息を吐きながらオリヴィエが後ろから合流して来る。何時か見た、サマードレス姿のオリヴィエは美人、と言っても過言ではないが、純粋に彼女の事をそう言える人間はおそらく彼女のうわべの部分しか見ていないのだろう。しかし中身を知ってまで言えるのであれば、それは自分の様な酔狂者なのだろう。ともあれ、ヴィヴィオを肩車で運んだままでいると合流して来たオリヴィエが半眼でヴィヴィオを睨む。しかしヴィヴィオはそれを受けても煽る様なドヤ顔をオリヴィエに返し、全く堪える様な姿を見せない。
「いやね、答えは大体解っているんですよ。それでも一応イストさんに聞きますけど、もしかしてウチのヴィヴィオが邪魔していませんか? 迷惑していませんか? 万分の一の可能性ですけど、もしそうでしたら家に連れ帰って超叱りますので」
ティーダとは反対側に並んだオリヴィエあそう言う。が、生憎とヴィヴィオに関してはそこまで邪魔とは思っていない―――というか責任を取っている、様なものだ。貶め、絶望させ、そして心を砕いた責任が存在するのであれば、その逆の責任もまた存在するのだ。
希望を与え、そして救ったという責任が間違いなく存在する。なのでヴィヴィオがよほどの無茶ブリをしない限りは、その全てを笑って許すつもりで自分はいる。それが自分らしい責任の取り方だと思っているから。故にオリヴィエへの返答はシンプルに、
「問題ないよ」
苦笑交じりにそう答えると、ティーダが反対側から言葉を付け加える。
「ロリコンだからな」
迷う事無くティーダの顔面を殴った。殴られ、そして飛んで行く姿までもがイケメンとなると少々顔が歪むまで殴りたくなるが、慣れてきたのかオリヴィエは驚きの表情ではなく、呆れの表情を浮かべていた。まだ会って二ヶ月程度の付き合いだが、その時間は温室の育ちのオリヴィエであってもこの付き合い方に対して慣れさせるためには十分すぎる時間だったようだ。
「ロリコンであるかどうかは別として、イストさんが特に思う事が無ければそれで別にいいんですけど……」
「ロリコン疑惑に関しては全力で否定しておく。俺達アメリカンは昔からデカイものが好きだ。デカイメシ、デカイ土地、デカイ家、そして胸のデカイ女だ」
「言ってることは解るんですけどチラチラ此方を言葉で殴りに来てる感じがするのは何故でしょうか」
「そりゃあそれが遠慮のない付き合いってもんだからさ。まあ―――ご愁傷様、ってしかかける言葉がないんだけどな」
その言葉にオリヴィエが視線を此方へと向ける。言葉の二つ目の意味を察知してだろう、
「どういう意味ですか?」
「どうでもいい石ころ相手に躓いている暇はない、って事よ」
チャンピオンシップCブロック第一回戦その対戦の組み合わせは、
―――イスト・バサラ対オリヴィエ・ゼーゲブレヒト。
一回戦からラスボス対ラスボスという構図。既に煽り合戦は始まってる。
あとティーダさんの正妻力。お前が女だったらやばかった。