【完結】ひらがなこわい 作:烏賊葛
「あなた、だあれ?」
暗がりから鈴を転がすような声がする。ぺたり、ぺたりと足音が響く。
少年は無意識に構えていた。とはいっても、前世で格闘技の経験があった訳ではない。
ほんの僅か腰を落として、いつでも駆け出せるように、暗闇から何かが飛び出してきても対応できるように。
「……分からん」
ぶっきらぼうに呟かれた言葉に、暗闇からの声は小さな笑いを以て返答とした。
「あなた、自分が誰なのかもわからないの?」
「ああ。……俺が誰なのかも、ここが何処なのかも、何も分からん」
「ふーん。キオクソーシツ、って言うのかしら。お母様が読んでくれた本に出てきたわ」
どういう本だよそれ、とジト目になった少年の顔が面白いのか、声はまた無邪気に笑う。
笑いながら、ぺたりぺたりと足音が近づいてきて。やがて、暗闇から一人の少女が顔を出した。
少年よりも少し小さい背丈の少女だった。金糸のような髪の毛が、ランタンの光を反射してキラキラと輝いている。
機嫌の良い猫のように笑う少女の瞳を、少年はじっと見据えていた。
「…………あんたは、誰だ」
「ふーん。私を見てもびっくりしないなんて、あなた本当に何も知らないのね」
「そう言った筈だ」
不機嫌そうに目を細める少年に、少女はゆっくりと近づいていく。ぺたりぺたりと、裸足の足音が静かな部屋の中に響き渡る。
お互いの鼻が触れ合うほどに近づいて、それでも少年の目線は少女の瞳から僅かたりとも逸れない。
それが面白かったのか、少女の笑みが大きくなった。
「私はフィノ。フィノ・クーレウスよ」
「………………そうか。よろしく頼む」
しばしの沈黙の後。数歩下がって、少年が右腕を差し出した。
首を傾げる少女。さらにしばしの沈黙。
「握手、というんだ。知らないのか」
「聞いたことないわ」
「……そうか」
下ろそうとした手を、しかしフィノと名乗った少女は両の手で握り込んだ。
「……聞いたこと、なかったんじゃ、ないのか」
「手を差し出されてすることなんて、これくらいしか思いつかなかったもの。それとも、私はなにか間違ったかしら?」
「……いや、間違ってはいない」
「なら、いいじゃない」
新しい玩具を見つけたかのように、フィノは興味津々で少年の右手を弄り回している。
かがみ込んだ少女から目を逸らして、少年は一つため息をついた。
「ところで」
存分に少年の手を堪能したのか、フィノの手が離れる。
「いつまでも『あなた』って呼ぶばかりじゃいけないし、何か呼ばれたい名前とかないのかしら?」
少女の問いかけに、少年は考え込むように目を閉じた。