【完結】ひらがなこわい 作:烏賊葛
頬に衝撃が走る。突然部屋に踏み込んで来た初老の男に殴られたのだ、と壁に叩きつけられた少年が判断できるまで、少しの時間を要した。
「おじ様!?」
やや遅れて部屋にやってきたフィノが悲鳴を上げ、少年――レイジに駆け寄ろうとするのを、その男が遮った。
「フィノ、下がっていなさい。近づいてはならん」
「でも、おじ様!レイジは何も知らないのよ!!」
「それが本当だと!どうして分かる!?」
「私を見ても驚きもしなかったのよ!私達のことを知っているなら、絶対にそうはならないでしょう!」
言い争いを聞きながら、頭を振って立ち上がる。不思議なことに、殴られた頬の痛みもぶつかった背中の痛みも僅かなものだった。
「大丈夫だ、フィノ」
……文句を言われるのも、殴られるのも、慣れている。
「俺には、さっきまでの記憶が、ない。森の中で、拾われるまで、何をしていたのか、ここがどこなのか、あんたらが何なのか。何も分からん」
真っ直ぐに男の瞳を見据え、レイジは言う。
「あんたは誰だ。ここはどこだ」
転生する前のことなら覚えている。
家にも学校にも居場所がなかったことも。
高校卒業と同時に家族と縁を切って逃げ出したことも。
「俺のことが、気に食わんなら、それでいい。出て行けと言うなら、出ていこう……だが」
どうにかして潜り込んだ職場でもやっぱり居場所がなかったことも。
ろくでもない上司と同僚に仕事を押し付けられ続けたことも。
冷え切った布団の中で、疲労を抱えて浅い眠りに落ちたことも。
「何も、分からずに、追い立てられるのは、ごめんだ」
一言ずつ区切って声を出すのは、前世からの癖で……溢れ出す感情に流されないようにする、レイジなりの自衛手段だ。
感情をむき出しにすれば殴られ、蹴られ、罵声を浴びせられ。
だから、レイジは表情を、感情を、表に出さないようにしていた。
何もしなくても向こうの気分で痛めつけられるのだから、せめて殴られる理由だけは減らそうとした。
最も、そのせいで『気持ち悪い』と暴力が振るわれたのだから、あまり意味はなかったが。
「レイジ……」
彼女は――彼女たちは違った。
あからさまに怪しい自分を拾い、食事まで与え、ぽつぽつと呟くような自分の喋り方に耳を傾けてくれた。
罵声も暴力もなく、見ず知らずの自分を助けてくれた。
本来ならば自分が説明に出向くべき相手にすら、代わりに行ってくれた。
「おのれ
そう考えれば――あの一瞬が、奇跡だっただけで。
こうして怒りと憎しみを浴びている今こそが、自分にとっての普通だ。
泥のように濁った瞳で、目の前の男を見据えながら。
レイジは、そう考えていた。