地球の寿命は、あと二月らしい。
僕らはそれを、合宿先のペンションで知った。
部活名を、文学部と言う。分かり難いけど、文芸部ではない。大学の学部でもない。
活動内容は、多分、世間一般の人が考える文芸部とは少し違うと思う。能動的に創作活動をすることはない。ただ受動的に、文学作品を読み漁るだけだ。
まあ所詮は建前で、本当は僕ら仲良しグループのたまり場に、部室が欲しかっただけなんだけど。
そんな部活で何が合宿だ。そう笑われるかもしれない。だが理由はある。旅費を学校に負担させるため、という。幸いに顧問が随分とフランクな人で、「基本的に同行しないし責任も負わない」事を条件に了承してくれた。
「どうやら地球が滅亡するようです」
合宿最終日の朝、僕らは顧問に叩き起こされた。
最も、まだ男連中しか起きてないけど。竜平と昇も、器用な事に椅子に座りながら寝始めたから、僕が相手しなきゃ駄目だよね。
この顧問、安井翔先生は、僕が言うのも何だけど様々な意味で問題教師だ。正直相手したくない。一体何度こいつのせいでトラブルに巻き込まれたことか……。今も訳が分からない事を言ってるし。冗談でも止めてほしい。
「そんな事より、何で先生がここに居るんですか? 学校に着いた時に合流するんじゃなかったんですか?」
他の教師にばれないように、学校では先生も僕らと一緒に行動する手筈になっていた。だと言うのに、何故ここに先生がいるのか。
「うん、そのはずだったんだけどね。なんか地球が滅亡するって話を聞いたから、伝えに来たんだよ。流石、模範的な教師だよね」
おかしい。いくら変人とは言え、ここまで荒唐無稽の話をする人ではなかったはずなのだが。夏の暑さで頭がやられでもしたのか。
「あんたほど出鱈目な人はいないと思うんですが……」
丁度女性陣が起きてきて、僕の呟きは無視された。聞けよ。
「ああ、見砂さんに九さん、それに桜さん。やっと起きたんですね。今日も相変わらずお美しい。どうです、これから私と一緒にもうひと眠りしませんか? お金なら払いますよ」
開口一番生徒を口説き始める先生。既に懐から札束を取り出している辺り悪質性が高い。
「って何を堂々と言ってんだ、この性犯罪者! いいから続き話せよ!」
つい口調が荒くなる僕。でも仕方ないよね、相手は性犯罪者だもん。ついでに蹴りの二、三発も繰り出しちゃったけど仕方ないよね。
先生はそれを楽に躱しながら、俺の存在に今気付いたという風に顔を向けて来る。細かい動作がいちいちオーバーリアクションで癪に障る。
「まだ地球が滅びるって言う、与太話しか聞いてませんよ。わざわざこんな所までやって来て、本題は何なんですか?」
「ああ、どうもそれが本当らしくてね。ここは圏外だから携帯電話やネットの類は使えないよね? だからこうしてわざわざ伝えに来たんだ。電話でも良かったんだけど、こうして最後に君たちの事を見ておきたくてね。私も学校辞めて、遊んで暮らすつもりだから、一応さよならを言いに来たんだよ。じゃあ用を済ませるね。
さよなら。
ああ、都会は荒れそうだから、暫くはこのペンションにいるのが良策だよ」
ああ、忙しい、忙しい、と言いながら、先生は既に立ち上がっている。
静かな部屋に、先生の立てる物音がやけによく響く。
「いやいや、ちょっと待って下さいよ! なにも説明になってませんよ。せめてもう少し詳しく話して下さいよ」
「そうは言っても私もこれ以上詳しくは知らないからねぇ。ああ、そうだ。もうすぐ朝のニュースで詳しいことが分かると思うから、それを見なよ」
ああ、これで本当にさよならだね。寝ている皆にもそう伝えておいてね。先生はそれだけ言うと、さっさと帰ってしまった。
振り返ると、いつの間にか女性陣も皆眠ってしまっている。まるで狐につままれたみたいだ。
そう思いながら、僕は皆を起こし始めた。
「…………以上が先生の言ってた事だけど、皆はどう思う?」
「どうって言われても、どうせ嘘でしょう?」とは夏弥
「いんや、あの人嘘だけは吐かないから、案外本当じゃね?」は昇
「邑が居るならどうでもいい」分かり易く音価
「うむ、もしもの事を考えていた方が良さそうだな」の竜平
「皆さんと一緒なら心配無いと思います」どこかズレてる羽衣
うん、何も分からないよね。
「じゃあとりあえずは様子見と言うことでいい?」
了承の声が上がった。
そして朝のニュースで、僕らは改めて驚くことになる。
「こちらは首相官邸です。ただ今入った情報に依りますと、首相は国家の代表として、地球の滅亡が近づいている事を肯定しました。繰り返します。地球の滅亡が近いと、首相が認めました。詳しくは分かり次第お伝えします」
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どの局も、同じような緊急ニュースを流し続けていた。どうやら日本政府はこの事を公表するつもりはなかったらしく、首相は必死に口を閉ざしていた。しかし他国――おそらくは米国だろう――では既に情報が流出しているらしく、そのせいでリポーターに追及される羽目になったようだった。散々渋った挙句、首相がやっと公表した情報はこれだけ。
地球の滅亡が2カ月に迫っている事。
太陽が急速に肥大化し、数日で地球は飲み込まれるであろう事。
その過程で地球は特定の広域に重力異常をきたし――要するによく分からない事が起こりそうである事。
日本はそれを、米国との共同研究によって知った事。
全ての対策が徒労に終わってしまった事。
死んだ目をして乾いた笑い声をあげる首相の顔が印象的だった……。
その後テレビでは、慌てずに今後の情報を待つこと、情報の真偽に気を付けるように、等の諸注意を繰り返し流していた。
幸いなことに、皆この突然なニュースに戸惑っているらしく、まだ大きな暴動やパニックは起きていない。少なくとも日本では。
「ホワイトハウス前から中継です。ただ今ホワイトハウスには、多くの民衆が押し寄せています。初めは地球の滅亡に関する情報の提示を要求していた民衆は、集まるにつれてパニックの様相を呈しています。警察や軍隊の中でも混乱が広がっているようで、対応が遅れ、歯止めが利かなくなりつつあり、民衆の暴徒化が心配されています」
「中国の北京市内からです。民衆は既に暴徒化しており、死傷者も出ている模様です。我々の宿泊しているホテルも暴徒に囲まれており、危険な状態ですので、安全が確保出来次第、再度中継をします」
アメリカでも中国でも、既に重力異常が起きているらしい。まだ僕にはそれが何なのかよく分からないけど……きっとすぐに体験することになるだろうと感じた。
そして僕らの、そして世間の大部分の予想よりもだいぶ早く、日本でも小さな暴動は起こり始めていた。どうやら民衆を煽っている人達がいるようだった。まったく迷惑な話だ。こんな非常事態だからこそ、なのだろうけど。
「町の様子を見て来ますので、皆さんはここで待っていて下さい。大丈夫です、往復で三時間ほどですので午後には戻ります。不用意に外出しないで下さいね、お客さんにもしもの事があればペンションのオーナーとして死んだ妻に顔向け出来ませんから」
見事な客商売の意地と、そして完璧な死亡フラグを見せて唯一の大人がいなくなった。ついでに車もなくなった。
ところでこのペンション、車で一時間と少し、徒歩で半日の山道を行かないと町まで行けない。何でも、有名な作家がここで晩年を過ごしたそうなのだけれど、今の僕らには不便なだけだ。
結局ペンションのオーナーは帰って来なかった。
いやいや、こう言うとまるで彼は死んでしまった様だが、そんなことは無い。町で見かけた暴動が楽しそうで、ついついそれに参加してしまっているのだという。暴動が楽しそうとか、どんだけストレス溜まってたんだこの人。
「そう言う訳で私はしばらく帰れません。せっかくなのでそのペンションは君たちにあげます。大事に使って下さいね。ではお元気で
あ、ちょっと待って、今行くから! 僕も参」ブチッ
それが彼の最後の言葉だった。どうした客商売……。
「幸か不幸か、僕たち完全に孤立した訳だけど、みんな、どうする?」
どうするも何も、様子見しかない。言いながら自分でそう分かってしまう。まさかこれから半日かけて暴動の起きている街に行く訳にもいくまい。
皆もそれが分かっているのか、苦い顔で押し黙っている。
「ほとんど何も分かってないんだもの。どうしようもないわよ……」
「うむ、情報収集に徹するのが得策だろうな」
沈黙して暗い空気が流れ始めて、夏弥がようやく口を開いた。それでも、現状への愚痴でしかない。賛同した竜平も、彼らしくなくどことなく投げやりな口調だ。
「邑さえいれば後はどうでも」
「あらあら、皆さん顔を突き合わせて、一体何があったのかしら?」
こっちの二人は相変わらずだな。だけど今はそれが嬉しい。変わらないものは何時だって変化の恐怖を和らげてくれる。
結局全員一致で何もしない事に決めた僕ら。大して気にしていない様な言い方だけど、皆かなり緊張しているみたいだった。僕は妙にざわざわした気持ちで皆の会話を聞いていた。起こってしまった後悔を悔やむかのように。
こうして何もしないまま、もといテレビを見続けていたら昼になった。有り合せの昼食。乱雑な皿洗い。日常で最低限必要な事だけはする。ちなみにテレビからは朝以上の情報は集まらなかった。テレビ局にも暴動が及んでいるらしく、ちゃんとした報道が出来ている局が半分以下に減っているということ以外は。
食後テーブルに着き、お互いの動きに目を光らせ動かない皆。行動しないという動作に辟易した僕が、最初に口火を切った。
「さて、こうしていてもはじまらない。そろそろ何かしらの行動を起こすべきだと思うんだけど、何をするべきかな?」
どことなくほっとした空気が流れた。皆、誰かが動くのを心待ちにしていたようだった。
「現状の正確な把握から始めてはどうだろうか」真っ先にそう言った竜平の助言に従って、今の僕らを確認する。
人里離れて隠遁するには都合のよさげなペンション。反面外界との接触は難しそうだ。徒歩以外に移動手段はなく、情報を知ろうにもその手段が限られている。有線で通っているという回線のお蔭で見られるテレビが唯一の情報獲得手段か。
「現状の把握っつったて、何も分かってないぜ? テレビは碌に見れない、通信機器は繋がらない、車がなくちゃ山も下りれない。こんな状況でどうしろって?」
荒れた様子の昇が息巻く。無意識だろうか、肩を小刻みに揺らし、きょろきょろと視線が彷徨っている。
一瞬、嫌な空気が流れた。
皆がひた隠しにしていた恐怖心に、昇の恐怖が伝染したかのようだった。浮ついた、地に足着かない漠然たる不安。コインの落ちる音が響きそうな張りつめた気配。
「そんなにカッカしなくてもいいだろ、昇。こんな状況で参ってるのは昇だけじゃないんだから」
精一杯の精神力で、平静な声を出す。僕は動揺なんかしていないし、いつも冷静だよ、と暗に呼びかける。僕になら頼ってくれていいんだよと。
「……悪い。気が立ってて思わずな。だけどよ、今の所ほとんど何も分かってない事に変わりは無いぜ? どうするんだ?」
昇がそう言ってくれたおかげで、一気に空気が弛緩した。先の不安から目を逸らし、今の事だけに集中する。良くはないのかも知れないけれど、現状の最善だと信じたい。
流れの変化を感じたのか、羽衣が意見を出した。ようやくまともな話し合いになりそうで僕はこっそり安堵の吐息を漏らす。
「その事なんですが……、分かってない状況というのは、今私たちが置かれている外の状況の事ですよね? それは、差し当たり私達が生活する上でそこまで重要でしょうか? 取り敢えず、今私たちがいる状況、つまり、このペンションとその周辺を調べる事から始めたらどうでしょうか?」
みんな、うんうんと頷いている。言われてみればそうだ。ここは街からは大分離れている。街でちょっといざこざがあったからと言って、今ここにいる僕らに直接の影響はない。
テレビの向こう側で暴動があったからと言って、僕らに何の関係があると言うんだ。
「確かにその通り。どうせ暫くここから離れられそうにない。なら、ここについて知っておくことは重要だと思う。……私と邑の性活のためにも」
いち早く反応する音価。語感が怪しいのには気付かない振りをする。それが身の為だというものだろう。
「そうだね。みんなの生活のために、このペンションについて調べてみようか。じゃあ、各自適当に調べてみて、2時間後にこの談話室に集合、という事でいいかな? あ、危なそうな場所には近づかないで、あとで報告すること。みんなのためにね」
だから僕は「みんな」を強調したけど他意はない。
了承の言葉が様々に上がった。一人しょんぼりした顔をして「そんなに邪険にしなくても良いのに……」と呟く音価を除いては。
こうしてペンションを調べる事にした訳だけど、どこから調べようか? なんだかんだといって、自分たちの部屋は調べつくしている。きっと皆もそうだろう。なら、まだ調べていないところは、他の客室、共用スペース、管理人の部屋など普段客が立ち入れない場所、ペンションの外の四か所に大別できる。際立って広いわけでもなければ特に危険もないペンション内は女性陣に担当してもらうとして、僕は屋外を探索するべきだろう。肉体面で頼りになる竜平にも手伝ってもらえば万全だ。僕がそう判断して竜平に近づいた時、音価に声を掛けられた。「邑はどこを調べるつもりなの?」と。
「僕はペンションの外を調べるつもり。あんまり室内に居ても息苦しいだけだしね。調査ついでにぶらぶらと歩きたかったんだ。これから竜平を誘って、二人で調べるつもりだよ」
体力的な問題には言及しない。気を遣わせても悪いだろう。
「邑が屋外に行くなら、私もついて行く。それに、ペンションの中だからこそ、家具をどかしたりしなきゃいけない。男手は必要だと思う」
と思ったけど、そんな浅い考えは当然のごとく見透かされてしまう。相変わらず音価の勘の鋭さは健在だ。その上で、更にそれが分かっているのが当たり前のように話を進めてしまう。音価と話しているといつもこうだ。僕を分かってくれているんだ、とひどく嬉しい反面、彼女には隠し事は出来ないなとびくびくもしてしまう。
もっとも、それらを含めて音価のことが大好きなのだけれども。
「う~ん、確かにそうだね。じゃあ竜平と昇に分担して夏弥と羽衣を手伝ってもらおうか。 ちょっと待ってて、皆と話して大雑把に分担を決めて来るから。あ、簡単に用意していてくれると嬉しいな」
結局、ペンションとその周辺の探索の分担はこうなった。
・他の客室と共用スペース…夏弥と竜平
・管理人の部屋など客が普段立ち入れないスペース…羽衣と昇
・ペンションの外…僕と音価
ペンションの外はあまりにも雑すぎる括りなので、地図を基にして近くの重要そうな場所の確認という事になった。夏弥と羽衣は、僕と音価だけでペンションの外に行くのは危険だと反対したけど、元々大して危険な場所でもないのだからと説得したら、何とか聞いてくれた。「その危険じゃないのに……」とか、「先手を打たれましたか……」とかぼそぼそ呟いていたけど、一応承諾しくれたんだからいいんだよね?
早速僕と音価はペンションから出て探索を始める。音価はロープ(長さは約十メートルで一メートルごとに結び目付)二本とペンション近辺の地図、サバイバルナイフ、水と食料をそれぞれリュックにいれて用意してくれていた。日も高く、心配することは無いとは思っていたので、手を抜かずにされた準備に驚く。
「すごく手際がいいね。こういうの慣れてるの?」と僕は思わず訊いた。
「山に入るかもと思って、合宿に来る前に勉強しておいた。……このまま二人で新しい世界を作りに行ってもかまわない」
真っ直ぐ僕を直視した顔は真剣で、冗談を言っている顔ではないのが怖い。
「……ちゃんと戻ってこようね、皆も心配するしね……」
何はともあれ、心配することはなさそうだ。少なくとも探索に関してだけは。
地図を確認すると、近くに川が流れている事が分かった。幸いここ数日雨は無い。増水の心配もないだろうから、まずはここを見に行くことにする。この川はペンションに泊まった人が良く訪れるらしく、思いのほかしっかりとした道が出来ていた。念のために足元だけはちゃんと確認しながらゆっくり進む。
「生えてる木は白樺。いざとなったら樹皮が燃料に使えるし、大量に出る樹液は水の代用としても使える。樹の生育具合を見るに、川が増水してもペンション一帯は安全なはず。地すべりしているような場所もないし、危険はないと思う」
解説は音価でお送りします。思わずそう言ってしまいたくなる、妙に悦に入った解説だった。僕はそれを地図に細かくメモしていく。
それにしても予想外にサバイバルに強い。本当に、どんな時でも音価は頼りになる。
それを直接音価に言ったら、無表情に顔を背けて「褒められて嬉しい。邑のためにもっと頑張る」と言ってくれた。首筋や耳がほんのり赤くなっているのを見るに、照れているのだろうか。
普段はもっと大胆な事を自分から言っているくせに、ちょっとした事で女の子らしい仕草を見せる音価。そのギャップに思わず胸が高鳴った。どうしようもない興奮が全身を走り抜ける。いっそ体の制御を手放してしまえと本能が囁く。大丈夫、相手も同意の上だと。対して僕の中の天使も反論する。人は理性的であるから魅力的なのだ、本能で動いたら後悔するぞと。いや待て、これって単なる脅しじゃないか。僕の中の天使は僕を脅かして楽しいのか。
僕が自分の本能と人としての道徳との板挟みになっているその時、歩いていた僕らの目の前で、木々がふっと開けた。そこには川が流れていて、日の光を反射した川面は虹色に輝いていた。清流に揺れる澄んだ水が、木々の薄暗がりを歩いてきた目には眩しい。
僕はその神々しいまでに美しい光景を見て、一瞬呆けてしまった。何気ない光景。だからこそこんなにも愛おしく感じるのだろうか。色々なものが変わりつつある今、変わらない風景として存在する森の中の小川。変化こそが不変の在り様なのだ。
ああ、世界が終わるとか何とか言われてるけど、そんなことは関係ない。こんなにも美しいものが、ここには自然と存在しているんだ。たとえ何が起ころうとこの景色は本物で、きっとこの景色を見ている僕たちも本物なんだ。
こんな機会だからか柄にもなく感慨に浸っている僕の横で、音価は冷静に川の周囲を確認する。
「川岸は思ったよりしっかりしてる。水質に関しては何とも言えないけど、この透明度と事前に調べてきたこの地域の土壌を考えるに濾過すれば多分飲料水として使える。魚はいるけど、野生の動物の足跡は近くにない。ただ、川幅は五メートル位で渡れないし、流れも速い。水深も深いから落ちると危ない」
テキパキと情報を確認、地図へのメモも欠かさない。何も出来ずに呆けきっていた自分が情けない。かといって、これ以上何か出来ることがないのも事実なのだ。
僕は素直に音価の事を称賛した。自分とは違って、多くの役に立っていると。頼りっぱなしで申し訳ないと。
しかし音価は、これでもまだ足りないといった様子だった。もっと準備していれば、もっと役に立てたのに。そう悔やんでいた。
それでもさ、音価。僕たちの中では音価が一番詳しいよ。だからそんなに悔しがることは無いんだ。むしろ誇れることだと思う。僕は君がいてよかったと思ってる。今はただ、気負うことなく、とりあえずの確認だけできればそれで十分だよ。
そんな思いを、恥ずかしくて口にしようかどうか少し迷ったけど、結局言ってしまった。どうも、僕自身色々と動揺して、自分に素直になってしまっているようだ。
そんな必要はないのに、「ありがとう」の返事が返ってくる。川の方を向いた音価からは、表情が見えない。一体何に対してのありがとうだろうか。気遣ってくれたことへのありがとう? 今一緒に居ることへのありがとう?
風が川面を一撫でした。漣が立ち、光のスぺクタルが細切れになる。半透明の鏡から、不透明の透明へと変化する。
「邑の優しさに、ありがとう」
ゆっくりと、幾分の情味が籠った声音だった。音価はそこから動かず、じっと川を見続けている。僕は近くの岩に腰を下ろした。
「僕は他人に優しくなんてないよ。もし僕を優しいと思うなら、それは結果が優しく思えただけだ。僕自身が優しいわけじゃない」
所謂結果論だ。僕は自分に優しい。そのエゴイスティックな行動が、最終的に他人にも優しい結果になっているに過ぎない。他人に優しくしようとした結果でないなら、それは優しさではないだろう。
「邑はいつもそうやって誤魔化す。そんな事ばかり言って、いつも偶然他人の利益と自分の利益が一致したことにしてる。それは優しさ以外の何物でもない」
それに、今この景色を見て感動出来ている事が何よりの証拠だと続ける。
こんな状況でも、何かに感動できるだけの余裕があるのは、何に対しても優しいから。全てを受け入れられる優しさがあるから、どんな時でも動揺し得ないのだと。
「僕はただ能天気なだけだよ。それに、まだ何も実感が無いんだ。いきなり世界が終わりますって言われて、はいそうですかって納得何て出来やしない。第一、そんなものは優しさじゃなくて図太さだよ」
僕の声は、夏の虫の喧騒に溶け込んだ。いつの間にか、川面はまた落ち着き、半透明にきらきらと僕らを映し出している。
不意に、音価が声を押し殺して笑い出した。いきなりどうしたのかと、僕はおろおろする。何か変な事でも言ってしまっただろうか。
ひとしきり笑い終えた後、音価が振り返った。晴れ晴れとした、何かが吹っ切れたような綺麗な笑顔をしていた。
「ごめんなさい。でも、邑があんまりにもいつも通りだから嬉しくてつい。本当に、こうして邑と話せてよかった。……実は私、今朝から凄く不安だった。きっと、安井先生の言っていた事は本当だと思うから」
いろいろと破天荒ではあったけど、冗談でも嘘だけは吐かない人だったから。だから本当に、二か月後に地球は滅んでしまうんだと思う。
寂しげな眼をして僕の事を見詰めてくる。僕はその視線から目を離せなかった。
「……音価は、死ぬのが怖い?」
普通は怖いだろう。でも、音価は違う答えをくれると思った。
僕はまだ、この感情を持て余している。いきなり地球が滅びるだなんて現実味のない事をいわれても、どう思えば良いのかさえ分からない。だからこれが恐怖なのかどうかさえ分からない。
「ううん。私は、私が死ぬこと自体は怖くない。死後の事を考えるなんて無意味。昔からそうだったから、今さら死ぬのが怖くなるなんて事はなかった。でも、邑と一緒に居られるのがあと二か月しかないんだと思ったら急に嫌な気持ちになって、どうしても邑のそばから離れたくなかった」
そう、口では何と言っていても、音価は本当は周りの皆にすごく気を使っている。だからさっきみたいに、他の人に先んじて行動する事は、実は少なかったりする。
道理で、さっきはやけに積極的だった訳だ。なにも気付けなかった自分に嫌気がさすのと同時に、こんな僕でも音価の支えになっているんだと嬉しい気持ちが溢れてくる。
「今は、邑を見失いたくなかった。私は……邑のおかげで、今こうしてここに居られるから。その邑と離れてしまったら、私は本当にここに居ていいのか分からなくなる」
邑は迷惑だった……?
不安げに揺れる瞳。どこかでぽちゃんと川の水が鳴った。
「いや、迷惑なんかじゃないよ。僕は音価について、迷惑だと思ったことは一度も無い。これまでも、これからも。音価を背負い込む覚悟なら、もうとっくにしてるんだ。それは重荷じゃなくて、僕の幸せの形だから。いくらでも僕を頼ってよ。その分僕も君を頼るから」
一陣の風が通り抜けた。川の上を流れる冷えた風が、火照った僕らを撫でていく。
今度のありがとうは、何に対して言われたのか、はっきりと分かった。
恋人として付き合って欲しい。唐突に、何の脈絡もなく音価がそう言いだした。
だけどそれは、僕らの間では、いつもの日常だった。だから僕はいつものように、感謝に断りの言葉を添える。冗談染みた、いつものやり取り。今朝から続く非日常から、ようやく脱出できた。そう確信して、僕は顔をほころばせた。
音価の言葉は本気だった。それはいつも音価に言われている事だけど、その真摯さは変わることが無い。僕は音価の本気を感じながら、しかし決してその想いには答えられない事も自覚した。
音価が僕の事を慕ってくれているその想い自体は、多分本当の想いなんだと思う。でも、その想いを抱くようになったきっかけがいわくつきである以上、それはフェアじゃないと僕は思う。
ともかく僕は、音価がいつも通りの調子を取り戻してくれたことに安堵した。
川の水は澄み、近づいてみると、深い底まではっきりと見通せた。透明な液体は、空気との境目すら感じさせない。
「じゃぁもう少しこの近くを探索してみようか。地図がどの程度正確か、確かめておきたいしね」
「うん、この近くで完全に二人きりになれそうな場所は……」
僕たちはゆっくりと歩き始める。前を行く音価の背中を眺めながら、僕は音価との出会いの輪郭を思い出す。
何の事はない。僕は音価をいじめから助けようとしただけだ。それも結局は成功と言い切れないものだったけれど。
音価との初対面は衝撃だった。ゴミ置き場の倉庫に閉じ込められていた音価。まさか今の時代に、それも自分の通っている高校でそんな馬鹿げた事が行われているなど考えてもいなかった。
だから首を突っ込んでみた。お節介でも何でもない、下世話な好奇心だ。それに対して感謝や好意を向けられるのは居心地が悪い。
確かに、それを恩だと感じてしまうのは本人の勝手だと思う。でも僕は、決してその思いには応えられない。だから何回も諭し続けた。説得しようとしてみた。そのどれもが徒労に終わってしまった事は残念ではある。けれど、僕はやっぱりそれでも、音価に好かれて嬉しかった。
僕はそんな曲芸染みた鬱屈した感情を抱えている。音価の事は好きだ。でも決して、この感情に素直にはなれない。それは音価を裏切ってしまう事だと僕は思うから。