終わる世界の片隅で   作:則天去私

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第二章

 一体どうやって確認しているのだろうか。音価は僕の方を振り返ることもなく声を飛ばしてくる。ぼ~っとしてどうしの、と。

「ん? うん、音価と初めて会った時の事を思い出してた。思い返せばあの時から色々あったなあって」

 僕や僕が巻き込んだ竜平達は、音価の周囲に対して幾つもの布石を打ったり対策を行った。そのどれもが完全に成功したとは言えないけど、多少の効果はあったと思う。

 音価は黙って前を向いたまま、小さく頷いた。もう一年近く関わって来て、ようやく分かる程度の小さな動作。僕は、そんな小さなことに気付けて嬉しくなる。

「あの時はごめんなさい。今は感謝してる。ありがとう」

 恥ずかしそうに呟いた。木々の梢が風に擦れる音にまぎれ、ふんわりと耳に届く。

 去年の初夏、初めて会った頃の音価は今よりも大分尖っていた。その事を言っているのだろうか。昔のことなど気にすることはないのに。

「謝罪も感謝もしなくていいんだよ。僕は勝手にしたいことをしただけだし、その結果に怒りこそすれ引け目を持ったりする必要はないんだ」

 むしろ僕の我儘に巻き込んでごめん。

 最後の一言は、音価に聞こえないようそっと唇を震わせた。

 ちらっと音価が振り返ったように感じたけど、きっと僕の見間違いだ。だって音価が今の会話で眉根を寄せるなんて事はないのだから。

 音価へのいじめは、思ったよりも長引いた。今思うと僕達のとった方法が稚拙だったせいだと思うが、いじめ方が暴力から無視に変わる程度しか出来なかった。音価自身はこれを「直接的な被害が無い分ましになった」と言って、それ以上僕達が何かするのを拒んだ。そのため結局いじめは残ってしまった。僕達としてはもう少し音価がクラスに溶け込めるようになって欲しかったから、正直残念だった。

 まあ外堀を埋めるように音価のクラスを学校全体から孤立させたり、加害者と「楽しい話合い」をしたのはやり過ぎだったかなと反省したりしてる。

 ともあれ音価は夏を越え、秋も越えて冬を越えきるまで、その無視と言う無言の圧力に耐えきった。実際、音価はそれほど無視に堪えていた様子もなかった。音価は、みんなと邑のおかげと言ってくれているし、僕もそうだと良いなと信じている。

 初めの内こそ警戒心の強い音価だったが、夏も盛りを迎える頃、僕にだけはようやく少しだけ心を開くようになってくれた。互いに名前で呼び合うようにもなり、実は、ようやく信頼してくれたんだと感動して、ちょっと嬉し涙がでかけた事を僕は皆に秘密にしていたりする。それからの音価は他の皆とも打ち解け、僕にはより一層懐いてくるようになった。そんな音価を見ていた僕の気持ちは、我が子の成長を見守る親はこんな気持ちを抱いているのではないだろうかと思えるものだった。

これは後で聞いた話だが、実はこの頃夏弥が音価に、僕が裏で何をしていたか逐一話して聞かせていたらしい。その事もあり、音価は僕に露骨な好意を向けて来る事も多くなっていった。

 

秋の事だった。その日、部活動と称して部室で本を読んでいたのは僕と音価の二人だけだった。実はこの状況は音価が仕組んでいたらしが、僕は何の疑いも持たずにいつも通り本を読んでいた。今思うと、流石に人が少なすぎるとあの時に感づくべきだった。偶には静かな部室もいいもんだと読書しながら考えていた僕は、音価がいつの間にか目の前まで接近している事に気付けなかった。だから唐突に音価が口を開いた事に驚いて固まってしまったのもしょうがない。

「ねぇ邑。好き。付き合って」

「…………はい?」

「好き。愛してる。恋人になって」

 再び部室が静まり返る。窓の向こうから遠く届く蝉の羽音がいやに大きく耳障りだ。僕はフリーズしている脳を最大加速で始動させる。

 え? いや、どういうことだ? 音価が告白? 誰に? どうして?

 まるまる五秒かけて、僕は思考を整理する。したつもりになる。

「……返事しなきゃダメ?」

「ダメ」

 困った……。どうもこの状況、逃げられそうにない。それに音価の目を見る限り、冗談の類でもなさそうだ。

 ようやく頭が回ってきた僕は、冷静に考える。

 音価が僕に異性として好意を持っている? そうだ、きっと音価は友人としての好意と勘違いしてるんだ。いや、本当にそうか? 音価がそんな事に気付かないはずはない。ちゃんと区別した上で告白してくるだろう。じゃあ、なぜ僕なんだ? 僕が一番音価の傍にいる異性だからか? 音価がその程度で僕に好意を持つとは思えないが……。

「邑はいつも私を助けてくれた。何もしていない振りをして、本当はどれだけの事をしてくれていたのかも知ってる。私は、そんな邑が好き。それに邑は私に、もっと迷惑を掛けてもいいんだって言ってくれた。だから私は邑に迷惑を掛ける」

 疑問に頭を悩ませた矢先、期せずして答えが得られた。それにしても……。僕は考えのまとまらない中で口を開く。

「……僕なんかを好きになってくれてありがとう。それと、この告白を迷惑だなんて思ってないよ。

 えっと……ごめん。悪いと思ってる。でも、僕は音価とは付き合えない。ごめん……」

「そう……。きっと邑ならそう言うだろうと思ってた。でも、せめて理由だけでも聞かせて欲しい」

 音価を直視することがこんなにもきつくなるとは思わなかった。それでも僕は、精一杯の根性で視線を繋ぎとめる。

 うっすらと涙を滲ませて、音価は微笑んでいる。それはきっと、僕がいつか音価の微笑みを綺麗だと言ったから。

「音価が僕に好意を、こういう形だとは思わなかったけど持ってたのは、薄々気づいてた。でもその気持ちは……僕が他の誰よりも、音価を助けようとしてたから生まれたものだよ。きつい事を言うけど、音価は僕じゃなくて音価を見てくれる人を求めてるんだ。僕は、その気持ちには答えられない。それに、音価はとっても魅力的な女の子だ。僕にはとてももったいないよ」

「そんな事ない! 私は……私は邑の事が好きで……! 邑じゃなきゃ嫌! 他の誰も好きになんてならない! 私の事を見てくれたから邑を好きになったんじゃない。私を見てくれたのが邑だったから好きになれた! だから……お願い……。私と……」

「……っ。それでも……僕は……ごめん。僕なんかに音価は勿体ないよ。音価に手を差し伸べたのがたまたま僕だったから、音価は僕を意識したんじゃないかな。そんなのフェアじゃない。音価にはもっと良い出会いが待ってるはずだよ。だから、ごめん」

 泣きながら首を振る音価を、僕は見ていられなかった。ジュースを買ってくると言って、僕は部室を後にした。

 自分が情けない。こんなやり方で音価を拒絶するしか出来ないなんて、僕は最低だ。それでも、僕は音価に応えちゃダメなんだ。音価がいくら強く僕を好きだと思っていても、それはきっと間違いだから。それに何より、僕はそんな下心から音価を助けたんだとは思いたくない。ここで音価と付き合ったら、僕は初めからそれが目的だったみたいじゃないか。音価はそれを許してくるだろうけど、僕はそんな自分を許せない。自分を許せない僕を、音価は好きになんてなっちゃいけない。

ああ、なんだ。口では音価の為とかいっておきながら、結局僕は僕のためだけに音価を振ったのか。僕はなんて、ゲスなんだろう。

自己嫌悪に苛まれながら、僕は缶コーヒーを二本買って部室に戻る。

音価はもう落ち着いたようで、ぼんやりとリノリウムの冷たい床を見つめていた。

「はい、コーヒー。音価はブラックで良かったよね?」

「うん、ありがとう」

 プルタブを起こしてコーヒーを音価に手渡す。音価はそれをそっと受け取った。

「さっきはその、ごめん。言い過ぎた。僕もその……音価の事は好きだよ、初めて会った時からずっと。でも、今音価と付き合ったら、僕はその為に音価を助けたって事になって……僕はそんな事の為に音価を助けたかったんじゃないんだ。音価と付き合ったら、それは僕が音価を助けた見返りになっちゃって……えっと、つまり僕はまだ音価と付き合えない。僕はそんな自分を許せない。だから……どういう事かと言うと……」

 しどろもどろになって言葉に詰まってしまう。歩きながら考えた、自分の気持ちを素直に打ち明けようとしてみる。この胸の奥の感情はまるで机をひっくり返したかのようで、自分でもどうなっているのか分からない。気持ちのメモ帳も筆記具も見つからない。だから、自分の血肉を削ってごりごりとそこらの床に書き付けていくしかない。

「もういい、邑。邑が何を言いたいのか大体分かった。それに、私はそんな変に生真面目な邑だから好きになった。だから私は諦めない。邑が私と付き合ってもいいと思えるまで、邑にアタックし続ける。いい、よね?」

 雨上がりにの空には虹がかかる。細かい水の粒が太陽の光を浴びて作り出す光のスぺクトル。発生原理が分かっていても、その美しさは心に直接訴えかけてくる。だから、雨上がりの音価も同じように綺麗に見えた。

 嬉しかった。それ以上に後ろめたかった。僕は半ば無意識に頭を下げた。

 ありがとう。ごめん。ヘタレな僕でごめん。

「そんなに謝ったり自分を卑下しないで、邑。これじゃ邑の事を好きな私がバカみたい」

 冗談めかして言う音価。そりゃ、音価は馬鹿だよ。だって僕を好きになったんだから。愛すべき馬鹿ってやつだ。その馬鹿さが嬉しい。愛おしい。

「きっと僕も馬鹿なんだよ。だって僕を好きになる大馬鹿に好きになって貰えたんだから」

 僕らは互いに顔を見合わせた。堪え切れずに吹き出す。

「ぷっ、はは、はははははは」

「くすっ、ふふふふ、ふふふふ」

 大爆笑だった。

 それまでの重たい雰囲気をぶち壊すかのように、僕らは笑い合った。大して面白くもなんともないのに、心の底から笑いが湧きあがって来て頬が痙攣した。腹が捩れた。涙が溢れた。

「……邑」

なに、音価。

「好き。大好き。愛してる」

ごめん。僕も好きだけど付き合えない。

 僕らは互いに互いを確認する。笑顔のままで。

「ねえ邑。これからも毎日告白するから、覚悟してね」

 音価の流し目は驚くほど妖艶で、背中を嫌な汗が伝う。僕は自分の理性が大分不安になりつつも答える。

「お手柔らかにね、音価」

 浅はかな決断をしたかも知れない。でも、決してこの事を後悔したりはしない。そう心に誓った。そして、これからずっと音価を大切にすることも。

 窓の外では蝉の合唱が鳴り響いていた。僕にはそれが、互いを引き寄せあうラブコールに聞こえた。

 

 あの頃は青かった。まあ今も青いけど。思い返すだけでも顔が赤くなる。

そして本当に音価は毎日、たったの一日も欠かすことなく告白を続けてきた。その度にに僕は音価を振ってきた。ここまでくると最早意地だ。今更音価の想いを受け入れるだなんて出来ない。そんな事をしたら今までの自分を否定してしまう。残るものは何もない。

僕は改めて自分の酷薄さを感じながら、音価に尋ねる。

「どう、音価? その地図に載ってる範囲は大体廻れた?」

「うん、大丈夫。細かい情報も全部メモしてある。ただ、地図自体にあまり広い範囲が描かれていないから、今日はこれ位にした方が良いと思う」

 打てば響くように帰ってくる音価の声。音価は必要な事以外はあまり話さない。でも、必要な事は余さずに話してくれる。だから、音価が言うからには今日はもう撤収した方がいいのだろう。

 音価と二人で山道を散策するのは楽しく、後ろ髪をひかれてしまう。また、こんな機会があるといい。そう願わずにはいられない。

「そうだね。じゃあ一度ペンションに戻ろうか。皆もそろそろ僕らを待ってるんじゃないかな」

「分かった。邑、私以外の皆も、きっとこの状況に困惑してると思う。皆邑みたいに強いわけじゃなから。だから邑が何とかしてあげて。私にはそれは無理だから」

 口調や表情が変わったわけじゃない。けど、悔しげな、寂しげな気持ちが音価から伝わってきた。自分じゃどうしようもない無力感を感じているのだろうか。そんな事ないのに。皆が音価を頼りにしている事に気付いていない事はないだろう。僕は、そんな音価の焦燥感も一緒に何とか出来たらいいなと思った。

「うん、心配しないで。僕でどれ程役に立つか分からないけど。それでも僕に出来る事なら是が非でもやらせてもらうよ。よし、そうと決まればさっさと戻ろうか」

 獣道程の小道を、顔に垂れかかってくる木々を払いながら、僕と音価はペンションへの帰りを急いだのだった。

 

 「ただいま、みんな」

 何か朗報があると嬉しいな。

 僕は玄関から入ると、もう既にロビーに集合していた夏弥たちに声を掛けた。

「おかえり、二人とも! こっちは色々と収穫があったわよ。そっちこそどうだったのよ?」

「うん、このペンションの周りはちゃんと調べてきたから安心して。とりあえず今すぐに危ないとかってことはなさそうだったよ」

 僕と音価は揃って椅子に座る。

 すかさず差し出されるコーヒー。

「ふふ、こちらも収穫がありましたよ。はい、コーヒーです。熱いので気を付けて下さいね。音価さん、少し邑さんに近づき過ぎじゃないですか? もう少し離れましょうね?」

 にこやかなはずなのに、羽衣の笑顔は僕に恐怖を感じさせた。音価もガタガタと震えながら椅子を持って僕から遠ざかる。反対に羽衣は僕にすり寄ってくる。

「ようよう、モテるねこの色男! どうせ外でも、音価ちゃんとイチャイチャしてたんだろ!? 羽衣ちゃんが怒っても当然だよな!」

 気を逃さずに昇が茶々を入れる。

止めろ、昇! 被害を受けるのは僕なんだぞ。

背後でさっきが膨れ上がる。恐る恐る振り返ると、鬼の形相の夏弥がいた。

「へえ~、良い度胸ね邑。私たちは必死になって家具をどかしたりしてたのに、邑は外で音価といちゃいちゃしてたんだ? それに帰って来てすぐに羽衣とべたべたして……」

「いやいや、誤解だよ夏弥! 僕たちは決してそんな事はしてな」

「問答無用! 天誅!」

「ぐふっ……!」

 的確に鳩尾に入る夏弥のこぶし。

 ついでに引き離されている羽衣。

 音価は、さりげなく昇と竜平を盾にしている。

 僕は、勢い余って土下座をするように床に倒れこんだ。

 いつも通りのやり取りが繰り広げられる。これが本当にいつも通りなのは少し悲しいけど、僕はどことなく安心した。僕は、皆が自分を見失わずにいてくれたことに安堵して、ほっとため息を吐いた。

 

 それじゃあまず、私たちから報告しようかな。

 夏弥が提案し、竜平も頷く。僕たちは大人しく椅子に座って待つことにする。

 どうやら僕と音価以外の皆は、既にお互いに戦果を報告し終わっていたらしく、改めてペンション内の事を説明してくれるという事になった。

「お約束通り、最初はいい知らせからするね! このペンション、思ってたよりもかなりしっかりと備蓄してるわよ。例えばお米。多分六人で二カ月くらい十分な量だと思う」

「ああ。それに医薬品も充実していた。軽い怪我や病気までなら対処できるだろう。栄養サプリも種類が揃っている。目下、二カ月をここで暮らすとして健康管理については支障がないだろう」

 夏弥が作ってくれた簡単な備品の目録に、音価と二人で目を通す。予想以上に充実しているようだ。大きいとは言えないペンションなだけに、これだけの備蓄があるのは驚きだった。

 良かったな、ここは楽園らしいぜ。

 ぽつりと昇が呟いた。昇らしいようで昇らしくない言葉に違和感を覚える。けれども、その事を良く考える前に再び夏弥の説明が始まってしまい、意識の外に追いやられる。

「悪いニュースの方だけど、普通の食べ物は後二、三日しか持ちそうにないの。冷凍食品はあまりなくて、日持ちするのはお米くらい。本当に、サプリ頼みの生活になっちゃうと思う。」

「そうだ。後は、やはりインフラだ。今はまだ水道も電気も通ってるが、いつ止まるか分からないぞ。幸い小型の発電機は設置してあったが、燃料の軽油は大して残ってない。ガスは言わずもがなだろう。こればかりは如何ともしがたいな」

 食べ物の事は取り敢えず置いておくとして、インフラはどうしても心配だ。

 キャンプをしたことがあれば、誰でも経験はあるだろう。火を熾すのがいかに大変か。明かりを灯し続けることにさえ燃料の気を使う。シャワー設備は貧相で、下水の処理すら苦労する。文明に慣れてしまった人間にとって、電気や水道は命綱だ。

 分かり切っている事だけに、竜平の口振りは重かった。

「う~ん、そうか。予想道理と言えば予想道理だけど、やっぱり芳しくないね。最悪この近くの川で生活用水は確保するとして、電気とガスは無理があるかな……?」

「水も、川水をそのまま飲料水にするのは避けたい。濾過はするとして、一度沸かすべき。どうしても燃料か電気は必要」

 音価の言葉に皆黙り込む。こんな時だからこそ、僕達は電気の重要さを切実に感じる。

 暗くなった場を持ちなおす為に何かしら話さなくてはと、僕が口を開きかけたその時、すっと羽衣が片手を挙げた。

「一つ提案をいいでしょうか。この地図を見て下さい。こことここに山小屋があるでしょう? 今は夏ですが、何かしらの備蓄はあるんじゃないでしょうか? 勿論燃料も」

 羽衣が広げた地図を皆で覗き込む。確かに、このペンションから少し離れた所に山小屋のマークが掛かれていた。

 街への交通手段が無い事で、このペンションに閉じ込められたとすっかり錯覚していた。そうだ、この周辺で必要な物を調達できるなら、多少ペンションを離れたってかまわないんだ。あまりここから離れるという発想が思い浮かばず、思考が凝り固まっていたことを自覚する。こんな時だからこそ柔軟に考えなければいけない。反省。僕は心の内で自戒する。

 不意に見えた救いの灯に喜び、僕たちは口々に羽衣を褒めた。羽衣は照れ臭そうに頬を朱に染めている。

「地図見せて。……うん。この距離ならどっちも半日あれば行って帰って来れる。途中登山道を使ったりするから比較的安全。害獣にさえ気を付ければ何の問題も無い。一度行ってみる価値はある」

 地図からざっと距離や高低差を計算し、音価が地図の片隅に書き込んでいく。未開の山を切り開くわけではない。何とかやってやれなくはなさそうだ。

「うむ。何かを運ぶにしても、俺と昇か邑がいれば大丈夫だろう」

 ペンションの備蓄が直ぐになくなる訳じゃない。何かを運ぶにしても、ゆっくり少しずつ運んで行けば十分だろう。僕らだけでも問題なくやれるはずだ。

 それでも、本当に行ってみなければ何があるか分からない。しばらくは燃料を中心に、あまり資源の無駄遣いはしないように僕達は決めた。

「まあ何にせよ良かったじゃねえか! うじうじしてても始まんねえからな。

 じゃ、次は俺の番かな。つってもほとんど何も分かんなかったぜ? どこの部屋も大して変わりはねえし。目新しいものも無かったしなあ」

 さっきとは打って変って明るくなった昇が大げさな身振りで話す。

 今まで暗い顔をしていたのが嘘のようだ。良かった。こんな状況だからこそ、せめて心が折られることだけは避けたい。

「でも、ペンションの周りを調べてたら、幾つか面白いものもありましたよ?」

 羽衣が横から口を挟んだ。昇は一瞬びくりと肩を震わせて顔を背ける。

「あれ? 昇と羽衣って一緒だったんじゃなかったっけ?」

 音価と出かける前に決めたペアではそうなっていたはずだ。僕達がいない間に、何かあったのだろうか。

「ええ、そうです。でも昇さんは途中からぼーっと昼寝を初めてしまいまして……。最後は私一人で歩きまわってたんです」

「「「じと―――――――」」」

 五人分の視線が昇に集まる。

 ぴりりと乾燥してしまいそうな冷たい空気が漂う。

 でも仕方ない、これは昇の自業自得だ。いくら何でも女の子一人に全部任せっ切りで昼寝してたらダメだろう。

 昇は冷や汗を流しながら弁解を始めた。

 自分がはやることはやったと。羽衣は勝手にやっていただけなのだから、自分が責任を負うのは筋違いではないかと。

何と言うか、凄く情けない。

 それに対して、当然だけど夏弥がキツイ口調で反論する。女の子が一人で歩き回っているんだから、ちょっと気に掛けるくらいしたっていいじゃないかと。

 残念ながら、夏弥の言い方は些か乱暴に過ぎた。結果、昇と夏弥の空気が険悪になり、二人で口論が始まってしまった。お互いに凄い剣幕だ。昇は口から唾を飛ばしながら夏弥の事を罵倒する。夏弥は笑顔で昇に反論し、的確に弱点を突いていく。

 ものの数分で、生気をなくして目が虚ろになった昇が出来上がった。「いい仕事したわ、私」と言った表情で、夏弥は額の汗を拭う。部屋の隅で「俺は能無しクズミジンコ以下……」と呟く物体は目に毒だから直視しないようにした。

「まあまあ皆さん。これは私が勝手にやってた事ですから、あまり昇さんを責めないで下さい。私も無事だったんですし」

 羽衣、その台詞はもう少し前に言ってあげた方が良かったと思う。きっと今の昇にその言葉は届いていない。

「えっと、それでですね。ペンションの裏に薪が積んでありました。多分ですけど、暖房機器や湯沸かし器などの電化製品の一部を代用できるようになってるみたいです。ここは冬が厳しい所ですから、防寒については随分しっかりしてますよ」

「ふむ、気付かなかったな。確かに用途不明の余計な設備が多いとは思っていたが」

 竜平が相槌を打つ。考えてみれば、こんな山奥で人も来ない場所ではそれくらいの対策はされていて当然だ。雪の重みで電線が切れたら全滅など悲惨すぎる。

「薪は結構沢山ありましたよ。多分バーベキュー用だと思うのですが、屋外で火を使うための場所や道具もありましたし。これで大分電気を節約出来るのではないでしょうか?」

 よく調べてくれている。薪で暖を取ることはないと思いたいが、火を使う料理で重宝しそうだ。折角大量に備蓄されている米を炊くにも、熱源は必要なのだから。

 もうこれ以上は皆から伝える情報がないと見てとったのか、今度は自分の番だとばかりに、音価が身を乗り出した。

「羽衣の見立てなら信頼できる。良かった。これで全部?

 ……じゃあ次は私たちが話すね」

「ああ、ちゃっちゃと済ませてくれよな」

 部屋の隅で膝を抱えて小さくなっている昇が返事を返す。まだ暗いけど、放っておいても平気かな。

 皆のお蔭で日常生活の不安が大分解消されたと思う。このペンションもかなりしっかり調べてくれている。僕たちも負けてはいられない。僕は音価と目配せをしてから話し始めた。

 

 「……最後に、この場所とここから南側は危険だから近づかないで。以上。終わり」

 可愛らしいどくろマークを書き込みながら音価が地図を示す。増水した川水が流れ込む場所なのか地盤が大分緩くなっていた場所と、崖のすぐ近くにも関わらず木が生い茂って見通しが悪い場所だ。

「って言う事は、基本的にこの地図の範囲は安全ってこと?」

 夏弥が、別の小さな地図を示しながら訊く。このペンションの周辺案内図のようなもので、オーナーの手書きなのか、かなりデフォルメ化された地図だ。しかし、山小屋以外で僕達がペンション外に必要とする場所の情報は全て揃っている。流石、伊達に何十年もここでオーナーをやっていた訳ではない。今はもういないのが惜しまれる。

「うん、そうだね。一応場所ごとに注意点を書き出したメモを音価と僕で作っておいたから、それも参照してみて。この地図とメモはロビーの一番大きなテーブルに貼っておくから、皆もここで確認してね」

 よく山の近くのホテルなどに置いてある、でかい木の切り株で作られたテーブル。このペンションにも御多分に漏れずそれが置いてあった。普段食事の時に使うテーブルではないし、地図を貼っておくのに丁度良いだろう。

 何か新しい事が分かったら、地図に書き込むなり付箋を貼りつけるなりしておけばいい。

「じゃあ早速山小屋の場所と経路をマークしておこうぜ!」

「私も手伝う。昇じゃ地図を読めるか不安」

 意気揚々と地図に書き込んでいく昇。それをサポートする音価。音価が昇に対してこんなに優しいなんて珍しい。いや、初めてじゃないだろうか。きっと、音価なりに気を使っているんだろう。今の僕達の中では、昇が一番不安定そうだから。

 僕は皆を見渡して会議の終わりを告げる。

「よし、これで大分状況が把握できたんじゃないかな。ええと今の時間は……五時か。結構時間も経ったし、一度テレビとかで外の様子を確認してみようか」

 まだ繋がるといいんだけど。そう口走りそうになったけど、寸での所で思い留まった。あまりネガティブな事を言っていても始まらない。今は前向きな事だけを言うべきだ。

「そうですね。あ、私は通信機器が通じるか試してみます。多分ダメでしょうけど……」

 僕たちは話し合いを終え、ホッと一息つく。とりあえず為すべきことは為した。僕らは不安になりそうな気持ちを誤魔化しつつ、テレビを点けてラジオの周波数を合わせる。電話はやはり繋がらなかった。

 

 「テレビ局から中継です。暴動は現在主要な都市を中心として始まり、既に警察や自衛隊にも出動要請が掛かっている模様です。しかし今の所暴動の勢いが弱まる気配はありません。日本政府内でも混乱が生じ、今朝の会見以降首相以下三人の大臣が行方不明となっています。なお、各地でインフラ設備が破壊され、電気・水道の供給も大部分の地域で停止され、復旧の目途は立っていません

 世界各地の情報ですが、アメリカや中国を始め多くの国で広域重力異常が観測されています。各種通信手段は軒並み使用不能に陥り、二時以降国外からの情報は途絶えたままです

 ……はは、あははは、あひゃひゃひゃゃゃああはははは! もう終わりだ! 日本も! 地球も! みんな終わりだ! あはははははははは」ブチッ

「はいは~い、長野市の特設ブースから今日は俺DJオッズがニュースをお送りするぜ!

リスナーの皆も知ってるだろうけど、長野市では今暴動の真っ最中! かくいう俺も暴動に参加しながら放送するぜ。ここの奴らはみんな気のいい奴らばかりでさ、浄水場だけは壊さないって宣言してるぜ。その分下水場を壊すってよ! ぎゃはは!」

 結局僕らは絶望するだけだった。テレビやラジオでさえ、無事に放送している局は二、三局しかない。それも、どれも自棄になってしまってるものばかりだ。その自棄もいつまで続くか分かったものじゃない。これじゃ何も分からないままじゃないか。

 僕らは呆然としてテレビを注視し、ラジオに傾聴した。耐え切れず、最初に声を出したのは僕だった。

「ね、ねえ皆、これ以上こんな事してても仕方ないよ。夕飯がまだだったよね。夕食にしようよ、僕米炊いてくるね」

 うん。そうだな。そうね。ああ。そうですね。

 皆も重い空気に耐えかねていたのか、上辺だけ元気のいい返事が返ってくる。

 夏弥が「料理しましょっ」と音価と羽衣を引っ張って行く。うん、少し不安だ。音価はともかく、後の二人は食材をダメにする予感しかしない。

 それでも口々に夕食の段取りを決める僕ら。現実逃避だと自覚しながら、僕らはそれを止められない。この山を下りれば、もう今までの世界は残っていない。僕らはそれを信じられずに、僕達の中だけで世界を完結させるしかないんだ。

「ならさ、景気づけに一発バーベキューしようぜ! 道具とかは揃ってるんだろ? いつまでも暗いままじゃつまんねえよ。せめて今日ぐらいパーッと盛り上がろうぜ!?」

 意外と言おうか妥当と言おうか、バーベキューを言い出したのは昇だった。目を爛々と輝かせ、今にもよだれが垂れそうだ。竜平もその横で、しきりに首を縦に振っている。寡黙なようでいて分かり易い奴だ。

 確かに、冷蔵庫にあった肉は長くは持たない。これから先冷蔵庫や冷凍庫が使えなくなる前に、生ものは消費しておくべきだ。何より、どうせなら旨い内に食べたい。

「邑さん、どうしますか? 折角ですからバーベキューでも良いと思うんですが」

「うん、僕もそれに賛成。音価も夏弥もそれでいい? よし、じゃあ僕ら男子は鉄板とか火の用意、音価たち女子は食材の準備を頼むよ」

「分かった。保存のきかない食料も全部持ってくる」

 皆で明るく笑ってバーベキューの用意。僕らはこの時、何のためにここに来たのかを思い出した。そう、遊びに来るためだ。ならとことん遊びつくそう。僕らは大急ぎでバーベキューの準備を進めた。せめて今だけは、この瞬間を喜びで満たしたいから。

 

 「この肉、美味しい」

「うん、すごく美味しいね。グラム幾らの使ってるんだろう?」

「美味しくて幸せです♪」

 うっとりと目を緩ませる三人。それでいて箸の動くスピードが変わらないのは愛嬌なんだろう、きっと。だから呆れて思わず「君ら良く食べるね……」と呟いてしまうのは仕方がないことだ。

 音価を筆頭にここの女性陣は皆大食漢(?)だ。音価なんて一人で僕ら男子陣の三人分は平らげている。これで三人とも痩せているんだから女性って不思議。男は三人、肩を寄せ合って細々と野菜をつつく。レディーファーストって大事。

 僕が余所見をしている内に、昇と竜平が僕の分の野菜を食べてしまっていた。僕は二人を軽く睨む。折角確保出来た食料だと言うのに。

「まあまあ、邑。そんな怖い顔すんじゃねえよ。それよりもさ、いいもんが見つかったんだ。ちょっとこっち来てくれよ。竜平も来るよな?」

「? 僕は構わないけど……。音価たちが気付いて不審がらないかな?」

「うむ、あの三人は肉に夢中だ。離れても気づくまい」

 地味に竜平が不機嫌だ。きっと肉をあまり食べられなかったからだろう。まあ、あんなに美味しそうに食べられてはもう手出しは出来ない。僕は苦笑して、連れだって早足に歩く二人の後に続いた。

 昇が連れて行ってくれたのはペンションの脇、ボイラー室の近くだった。そこにはあまり大きくはないが、しっかりとした石組みの土蔵らしきものがあった。昇はその前に仁王立ちして、自慢げに胸を張ったまま動かない。

「で、こんなとこに連れてきて一体何だっていうのさ、昇?」

 勿体ぶって何も言いだそうとしない昇を急かす。昇は更に勿体ぶって大げさに鼻の下を擦った。

「ふふ、そんなに急ぐんじゃねえよ。俺も無駄に羽衣ちゃんと別行動してたって訳じゃねぇんだ。まあこれを見な!」

 そういって昇は徐にポケットから鍵を取出し扉を開け放つ。扉の裏側にあったボタンを押すと、土蔵の中は昼の光で満たされる。

そこには、何と酒が山の様に積んであった。

「えっ! もしかしてここって酒蔵? それもこんなに多く! しかも高いお酒ばっかりじゃないか! 具体的には十万以上の!」

 僕は興奮を抑えきれず酒蔵の中の酒を一本一本点検して回る。どれもいい酒ばかりだ。スーパーで売ってるような酒は一本もない。辛めの日本酒が多いが、ウィスキーやワインも揃っている。梅酒などの果実酒は自家製なのか、手書きのラベルが貼られている。蝮酒だなんて下手物までおいてある。ここはどこの酒屋だ。

 折角だし幾つか頂く事にした僕ら。高そうな酒を適当に見繕って持ち出し、急いで自分たちの部屋に持ち込んでベッドの下に隠す。

流石に飲酒が女子三人に見つかる訳にはいかない。変に真面目な三人だ。きっと咎められるに違いない。こんな上物を前にしてお預けを食らうのはごめんだ。

今夜一緒に飲もうぜ、と三人で誓い合って、僕らはバーベキューに戻った。

「邑。暫く見なかったけど、どこに行ってたの?」

 帰って早々音価に詰問される。どことなく目が座っているのは気のせいかな? 気のせいだと良いな。ついでにもう肉が欠片も残ってないのも気のせいだといい。

「ちょ、ちょっとお手洗いに。女子にそんな事言えないでしょ? だからこっそり行ってきたんだ」

 嘘はついてない、嘘は。実際トイレにも寄ったし。

「へえ~。三人で、こっそり、トイレに行ってきた?」

 一語一語丁寧に力を込める。口を開く度にちらりと垣間見える赤い舌にぞくぞくするけど、今はそんな事考えてる場合じゃなかった。

「う、うん、そうだよ。やましい事なんてこれっぽっちもないよ? ホントだよ?」

「邑がそう言うなら信じるけど……。邑には私に隠し事して欲しくない」

 絶対信じてないけど、僕が言うから信じることにしたんだろうな。不満が見事に顔に表れている。

ダメ押しとばかりに、音価は上体を少しだけ屈めて上目遣いをする。シャツが大きいせいで、胸の奥がちらちらと揺れて目に毒だ。暗くてよくは見えないけど、本能的につい意識してしまう。視線を上げると潤んだ瞳で凝視されるし、これは過酷な状況だ。

 ズキズキと、音価の上目使いに心が痛む。だが、だが決して酒の事が見つかる訳にはいかないんだ。僕は自分の良心を無視して音価を誤魔化す。

「き、気のせいだよ。僕が音価に嘘なんか吐くわけないじゃないか。まあそれは置いといて、僕も肉が食べてみたいな。すごく美味しいんだって? 楽しみだな」

 露骨に話題を変えてみた。まあ、僕が隠し事をしているのはもうばれているから、今さらこの程度どうってことない。それに、きっともう肉は残ってないから、音価も責任を感じて少しは大人しくなってくれるだろう。

「はい、これ邑の分のお肉。竜平と昇の分は無いから、見つからないように食べて」

「あ、ありがとう」

 誤魔化す事には成功したみたいだけど……。不憫な竜平と昇は野菜しか食べてないような。うん、僕は君たちの分までこの肉を味わって食べるよ。僕は急いで、且つ味わって肉を食べた。

 そして肉の味は――生まれてこの方一度も食べた事のない美味しさ。きっと黒毛和牛だと思うその肉は、香りだけで食欲を限界まで刺激する。口に入れた途端肉汁が弾け、僕は肉の味しか考えられなくなる。しっとりと柔らかく、それでいて心地いい噛み応え。筋などあるはずもなく、溶けるように口の中で肉が解れていく。貧弱な僕の語彙では美味しいとしか言えないその味は濃厚で、僕から焼肉の概念を一掃する――だった。いや、まあ、とにかく美味しかった。

 その後も僕たちはとにかくはしゃいだ。空元気ではなく、本気で心の底から笑いあった。そう、世界がどうなろうと僕達は僕達だ。世界が壊れたからって、僕らの世界まで壊されてやるもんか。

 食べて飲んで、大声で叫んで。それでもまだ足りなくて、仕舞にはその場に寝転んだりして転げまわった。それはもう其処らの犬みたいに。

僕たちはバカみたいに楽しく笑ってる方が性に合っている。皆もきっとそう思っているだろう。今はただ楽しめばそれでいいじゃないか。それの一体何処が間違っている?

ようやく僕らの興奮が収まり収拾がつくころには、もう真夜中になっていた。

「もうこんな時間ですか。私は眠いのでこれで……」

「ホントだね。じゃ、ちゃっちゃと片付けちゃおう。お~い、男共! 鉄板とか運んで~!」

 羽衣がうとうとし始めたので、バーベキューもお開き。後片付けのツラさが、祭りの後の静けさ、寂しさを紛らわしてくれる。

 僕らは片づけを終えると自室に帰る。ちなみに僕と竜平と昇は目配せをする。今夜一時に玄関前に集合。アイコンタクトでこれだけ連絡を取る。僕らはひっそりと二次会に思いをはせた。

 

 ところで今さらだが、このペンションについて少し説明しておきたい。

細い県道を山の中腹まで登り、そこから車一台程の幅しかない山道で山の奥に進む。その山道の終点にこのペンションはある。西には川が流れていて、北には山小屋が点在する。道があるのは東で、ペンションが南向きだからか、少し広めのスペースが南にある。ペンションの裏、つまり北側や西側にはボイラー室や酒蔵があったり、薪が積んであったりする。

ペンション自体は二階建て。東西に長い形をしている。一階にはロビー、食堂(兼娯楽室兼書庫)、浴室に管理人の部屋。丁度真ん中に階段があり、二階は東と西に分かれて客室がある。この客室、シングルが東西に四部屋、ツインが六部屋ずつある。合計二十部屋、山奥のペンションだという事を考えれば大きいのではないだろうか。僕たちは本来四部屋借りていただけだが、ペンションのオーナーがいなくなった今、それにこだわる理由は無い。一人一部屋で目いっぱいに使っている。

部屋割りだが、東は内側から順に、僕、竜平、昇の順だ。西は矢張り内側から順に、夏弥、羽衣、音価。皆ツインの部屋を使っている。この順番は話し合い(主に女性陣の決定)で決められた。位置の理由は察するべし。通路の反対側にも部屋はあるのだが、何故かそちらは使わない事になった。これも女性陣の決定による。理由は訊いても教えてくれなかった。

 

何はともあれ、バーベキューを終えた僕たちは自室で寝る準備をしていた。

コンコン。

不意に響く控えめなノックの音。時刻は零時半。竜平たちとの秘密の二次会は一時のはずだ。こんな時間に誰だろうか? 僕は首を捻りながらドアを開けた。勿論酒はしっかりと隠しておく。

「あの……ちょっといいかな、邑?」

ドアの外にいたのは夏弥だった。可愛らしい向日葵色のパジャマ姿で、何故か枕を抱えて。先ほど暴れた時の勢いはどこえやら、しんみりした様子で所在無さげに立っている。

「うん、いいよ。取り合えず入りなよ、廊下で話してると皆に聞こえて五月蝿いかもしれないし」

「ごめん、邑」

 夏弥は普段からは想像できないような覚束ない足取りで部屋に入ってくる。ふらついていると言うよりは、何か柔らかいものの上を歩いているかのようだ。その顔には疲労と困惑、それに恐怖が色濃く見える。いつも元気な夏弥には珍しい事だ。その様子から、僕は薄々夏弥が何をしに来たのを悟る。

 夏弥は僕が勧めた椅子を断ってベッドに腰掛けた。身を守るようにぎゅっと枕を抱きしめている。

僕はゆっくりとインスタントのコーヒーを二杯淹れる。片方はミルクと砂糖で夏弥好みの味に整え、軽く撹拌したら手渡す。

「はい、これ。インスタントで悪いけどね。砂糖とミルクは多めにしておいたから」

「わざわざありがと、邑」

 僕たちは暫く無言でコーヒーを啜る。お互いのカップの中身が半分をきった所で僕は声を掛ける。

「それで、夏弥。わざわざ僕の所に来たって事は、何かあったんだろう? どうかしたの?」

「……邑は、本当に地球が無くなると思う?」

 カップのコーヒーに映った夏弥の顔が揺れる。

 昼間我慢していた緊張の糸が切れてしまったんだんだろう。夜の暗闇は人を孤独にしてしまうから。山奥の沈黙は、考えなくていい事まで考えさせてしまう。

それでも、僕を選んで来てくれた事が少し嬉しい。僕を頼ってくれてありがとう。だから僕はその思いに応えなければならない。

「僕は、地球は本当になくなると思う。安井が断言したから。あいつはふざけた奴だけど、絶対に嘘を吐かない。わざわざこんな山奥まで来てあんなことを言ったんだ、きっと地球は本当になくなるんだと思う」

 信じたくない気持ちは強い。本当かどうかなんて知りようがない。でも、安井が言った事が嘘だとはどうしても思えなかった。

「そう……。邑はそう思うんだ……。それで邑は……自分が死ぬのが怖くないの……?」

 俯いた夏弥の表情は分からない。湿った声さえ聞こえなければ。

「分からない。死んじゃえば何も感じられないし、考える事も出来なくなると思うから、悲しみも恐怖も意味は無いって僕は思ってる。死ねば楽になれるって言うのはたとえようもなく本当の事なんだと思うよ。でも、いざ死んでしまう自分の事を考えると、それは嫌だ。嫌なんだけど……僕はそのどっちも実感を持って意識できないんだよ。だから僕が今持て余してる感情は不安なのか恐怖なのか嫌悪感なのか、そんな事もよく分からないんだ」

 僕はカップの中のコーヒーに映る自分の目を見ながら訥々と語る。心の奥底から本音だけを浚って言葉にする。

 ああ、僕はこんな事を思ってたんだ。

 語りながら気付く。これは一度も言葉にしたことのなかった僕の気持ちだ。本気で来ている夏弥にぶつけるのに相応しい。

「やっぱり邑は強いんだね。私は……怖くて怖くておかしくなりそうなのに! 何で、何で邑はそんなに強くいられるの?」

 顔を上げ、何か強烈な感情を堪えるように目を瞠る。思わず動き出そうとする体を、気力だけで抑え込んでいるように見えた。

「音価にも言われたんだけど、僕は強くなんかないよ。戸惑って、ただ状況に流されてるだけだよ」

自分でこの状況を変えるつもりがないから、何も気負うものがないんだよ。

「違うわよ。邑は自分の意志でこの状況を受け入れてる。受け入れたくないのに、無理矢理受け入れさせられてる私達とは違う。それに邑はこんな時にも現実から目を逸らさずに自分を見れてる。私たちの中で今それができてるのは邑ぐらいなのよ」

 そんな事はない。音価は当然のように今を受け入れてるし、竜平だって自分を見失っていない。

 でもそれは心の中に留めておく。真っ直ぐ夏弥の瞳を見詰め、感情の動きを掴もうと躍起になる。

「僕の事はどうだっていいんだ。夏弥は、そんなに自分が死ぬのが怖いの?」

「怖いに決まってるでしょ! じゃなきゃこうして邑に会いに来たりしないわよ!」

 叫ぶ夏弥、黙る僕。涙目になって立ち上がった夏弥の手では、カップが音を立てて震えている。その水面には、もう何も映っていない。

 部屋の防音がしっかりしていて良かった。今の夏弥は他の皆に見せられない。

僕は尋ねた。どうして夏弥はそんなに死ぬのが怖いのかと。

「どうしてって……さっきあんたも言ってたじゃない!? 私が何も残らなくなるのが怖いのよ! しかもあと二カ月だなんて! 私達まだ学生なのよ!? もっとしたいこと沢山あったのに……急に死ぬなんて言われて納得なんか出来ると思う? それに、このままじゃ私達家族にも会えずに死んじゃうかもしれないのよ? 邑はそれでもいいの? おじさんやおばさんに、もう二度と会えないかもしれないのよ!?」

「……」

 僕は夏弥の言葉に一瞬体を強張らせてしまった。薄々気付いていながらずっと無視してきた問題。誰も口に出そうとはしなかったのは、それを受け入れたくなかったからだ。

もう二度と家族や知り合いと会えない。

これ以上なく現実的で致命的な「死」の一側面。そしてこれは、僕らが今まさに直面している事実だ。

夏弥は身を乗り出し僕に哀願してくる。これからどうなるのか、本当にもう親には会えないのか教えて欲しい。

小刻みに震える肩は、寒いせいではないだろう。

「夏弥、よく聞いてくれ。僕は、もう家族に会えなくても構わない。いつか後悔することになっても、今、僕はそう思うんだ。だって今僕にとって一番大切なのは、ここに居る六人だから。この六人のために、もう他の人と触れ合えなくなっても、それは仕方がないって諦められる」

 勝手な価値観だ。だから押し付けることはしない。ただ淡々と自分を曝け出す。それで夏弥に何かを感じて欲しいから。その何かは僕には分からないけど、きっと夏弥の役に立つものだ。

「そんな……そんな残酷なこと言わなくてもいいじゃない! そんなこと言われたら私だって……!」

 ついにカップを取り落とし、頭を抱えてしまう夏弥。

 コーヒーがパジャマに跳ねなくて良かった。

頭の片隅で事務的なことを考えて自分を落ち着かせようとするのは、僕自身今の状況に参っているからだろう。

 僕はカップを拾い、こぼれたコーヒーを拭きながら夏弥に話し掛ける。

「ねえ夏弥。僕は、怖いなら怖いで良いと思うんだ。むしろ、死を怖がるのは人として普通なんじゃないかな? 死を怖がれるのは、それだけ死と向き合えているからだと思うよ」

 僕と違ってね。

「……残酷なようだけどさ、僕達はもう家族には会えないと思うんだ。こんな状況で、どこにいるのかも分からない。だったら今は、おじさん達の安全を祈るくらいしか出来ない。会いになんて行けないよ」

 ほんの少し、夏弥が顔を上げる。前髪で表情は読めない。でも、その奥にほんの少し光る何かが見えた気がした。

「はは、こんな時でも邑はぶれないんだね……。嫌ってほど現実を見せてくる」

ごめん。でも僕は他に言える事がないんだ。夢だけ語るのは何よりも残酷なことだから。

湿り気を含んだ声に、僕は返す言葉を持たなかった。

零れたコーヒーの片づけが終わり、布巾とカップを手に立ち上がる。

「……ねえ邑。あんたは……恨んだりしないの? こんな理不尽に襲われて、悔しくないの?」

 私は恨むわよ。悔しいわよ。

 背中に投げかけられる夏弥の悲痛な訴え。

 胸の奥が氷を当てられたかのように冷えた。それでも僕は、震えないように気を付けて言葉を紡ぐ。

「ああ、何とも思わないさ。どうせ僕らはいつか死ぬんだ。ならいつ死のうが構わないよ。それに、皆と一緒に死ねるんなら、それは少し幸せかなって思う」

 ほんの少し、空気が揺れた気がして振り返った。

 意外な事に、夏弥が笑っていた。涙に濡れた目を弓なりに細め、呆れたように、諦めたように、でも心底嬉しそうに吐息だけで笑っていた。

「はは、邑らしいね。ポジティブなのかネガティブなのかよく分かんない。でもなんか頼りになるのよね。うん、いつも通りの邑で安心した。

 ……色々と聞いてもらってごめんね。きついのは邑も同じな筈なのに」

 吹っ切れたのか、疲れたのか。腰掛けていたベッドに上半身を横たえる。シーツに顔を押し付け、「ありがと」とちいさな声で呟いた。布越しのくぐもった声は、優しく僕の耳に響いた。

 夏弥が元気になってくれて良かった。落ち込んでる夏弥はらしくないから。

 元気を取り戻した夏弥に一安心して、僕はひとり満足顔で頷いた。どうなる事かと思ったが、何とか役に立てたようだ。

時計の針は一時を指している。もう今の夏弥に僕は必要ないだろう。それにそろそろ竜平達と待ち合わせの時間だ。ロビーに向かわなくては。

 それじゃ今夜はお休み。ゆっくり休みなよ。そう声を掛けて部屋から出て行こうとした矢先、唐突に夏弥から爆弾が投下された。

「ねえ邑。今日は一緒に寝てくれない?」

 何を言われたか分からなかった。歩き出そうと片足を踏み出した間抜けな格好のまま、ゆっくりと振り返る。

 夏弥は僕に背を向け、枕を抱えてもじもじしていた。恥ずかしそうにぎゅっと枕を強く抱きしめ、脚を擦りあわせてせわしない。

「え、何でそうなるの? 今のは夏弥が恥らいながら曖昧な誘いをかけてきて、それを鈍感な僕が気付かずにスルーって流れじゃなかったの?」

 思わず本音が口を突く。仏頂面の夏弥がこてんとこちら側を向く。こめかみがぴくぴくと脈打っている所を見るに、さっきのは演技だったようだ。思わず心拍数が跳ね上がっていた事は悟られないようにしなくては。

「自分で鈍感って言うようなあんただから、しっかりと押してかなきゃいけないのよ」

 ため息交じりにやれやれと首を振られる。

僕は皆がいう程鋭くもないんだけどな。

「ま、まあ兎にも角にも、流石に一緒に寝るのは無理だよ? あ、昔は一緒に~とかも無しだからね? 今は昔とは違うんだから」

 無論丁寧に御辞退願う。予防線もしっかり張る。自分の理性に過度の信頼は置いていないから当然だ。

「分かってるわよ、それ位。むしろ昔と違うから誘ってるんじゃない」

 拗ねたように口を尖らせる夏弥。

 それじゃどんな意味で言っているのか非常に気になるが、それは訊いちゃいけない事な気がする。主に自分の身のために。

 いつまでも逃げ腰の僕に痺れを切らしたのか、夏弥に頭を小突かれる。

結構痛いよ? 握りこぶしに力入り過ぎてるよ?

「お願い。何かを期待してるわけじゃないの。でも、どうしても不安で、一人じゃ寝れそうにないの」

 不意に僕を小突くのを止めたと思ったら、急にしおらしくなって目を伏せる夏弥。それは演技なのかも知れないけど、一人になりたくないという思いは本物だった。子供の頃からずっと一緒だったんだ。口や表情で何と言っていようと、そこに隠された本心が何なのかは良く分かる。

 だから、夏弥を一人にするわけにはいかなかった。

 せめてもの妥協案で、僕は椅子で寝ることを提案したのだけれど、気を使って休めないから一緒のベッドで寝るように命令され、しぶしぶそれに従うことになった。仕方ない、夏弥が寝たらベッドから抜け出そう。

 かくして僕と夏弥は同衾することになった。いや、やましい事はないからね?

それと竜平、昇、今日はもう行けそうにないや。いろんな意味でごめんね。

 

何はともあれ、一緒にベッドで寝る事になった夏弥と僕。さっきの夏弥の動揺っぷりを見てると、これも仕方がないと思う。僕で夏弥を落ち着かせられるなら、出来るだけの事をしたい。

夏弥はベッドで、持って来た枕を並べている。わざわざ枕を持って来たんだから計画犯だよね。もう逃げられそうにないや。蜘蛛の巣に引っかかった羽虫の気分。 

因みに夏弥は部屋に入るときに鍵をしっかりと閉め、さりげなく扉の前に机を移動させていた。勿論いつの間にか窓は閉められ、カーテンも引かれている。

もしかして最初からこのつもりだった?

「邑、もう遅いから早く寝ないと疲れちゃうよ?」

 夏弥がベッドから声を掛けてくる。その声が少し震えているのは聞き間違いじゃない。何だかつられて僕まで恥ずかしくなってきた。

「あ、うん、そうだね。えっと、じゃあ失礼して……」

 僕は恐る恐るベッドに入る。ついでに言うと僕は窓側。扉側は夏弥が確保してるね、これもう絶対狙ってるよね。

 ベッドに入った僕は出来るだけ端により、夏弥に背を向けて羊を数える。一匹ずつ柵を飛び越えていく羊たち。柵の意味ないな。

 懐かしい夏弥のにおいが鼻腔を満たす。昔、それこそ幼稚園児くらいの頃はよくこうして一緒に寝たもんだ。寝つきのいい夏弥はいつも僕より先に寝て、可愛らしい寝息を立ててたっけ。その幸せそうな顔を見ながら寝るのが僕は好きだった。

小学校に上がる頃から必要以上のスキンシップはしなくなったけど、それでもこうして寝る事はたまにあった。いつも夏弥が僕を抱き枕代わりにするのには当時から閉口していたなあ……ってあれ? さっきまで脳内に居た羊は何処に行った? 戻ってこ~い。

 羊と昔の夏弥の寝顔が交互に脳裏を過る。どんどん混乱してきて訳が分からなくなってきた所で、背中に夏弥が当たり一気に現実に引き戻される。

 ベッドは広いんだし、もう少し離れたらどうかな。

 その提案は一蹴され、むしろより強く夏弥は僕にくっついてくる。

「別にいいじゃない、これ位。それとも邑は何か都合の悪い事でもあるの?」

 いろいろ有るけどどれも夏弥には言えないなあ。

 しばらく沈黙が流れた。いつもどこでも変わらない、寝る前のあの静けさ。

 っう、ぐすっ、っひっく……。

 その静寂を破り背後の夏弥がしゃくりあげ、驚いた僕は体をこわばらせた。

「ごめん、すぐに離れるから。でも、今だけはこうさせていて……。本当は分かってる、分かってるから、気持ちの整理がつくまでは、お願い……」

 強張った背中に何か濡れたものが押し付けられる。

 僕は自分の鈍さを呪った。たったあれだけ話したくらいで、恐怖が完全に消える訳なかった。急に死刑宣告されたようなものなんだぞ? すぐに気持ちの整理がつくはずがない。やっぱり夏弥は強がっていただけだ。ただ少し、強がるだけの余裕を取り戻しただけだ。

 僕は体の緊張を解いて、夏弥の自由にさせる。

 夏弥は、僕を抱き枕にして寝ていた頃と同じように、僕に腕を回して泣き声を押し殺す。夏弥に抱きしめられて痛いと思ったのは、これが初めてだった。

 そのまま十分ほど経っただろうか? まだ掠れた声で夏弥が話し掛けてきた。

「ありがと、邑。こんな面倒くさい事に付き合ってもらって」

 こんなに泣いたの何て久しぶり。泣いたらなんかすっきりしちゃった。

 優しい、いつもの夏弥の声だった。聞いているだけで心が安らぐ、月に向かって顔を向ける向日葵のような声だった。

「何回も言うようだけど、こんな僕でよかったらいつでも背中を貸すよ。いつも夏弥には世話になってるんだ。こういう時位、僕を頼って欲しい」

 きっとその言葉に意味はない。意味がないからこそ、間を繋ぐのに必要だった。

 世間話をするように、夏弥は僕に尋ねてきた。私もいつか、自分の死を受け入れられるようになるのかと。

「僕は、本当に死を受け入れられる人なんてそう多くないと思う。死を受け入れざるをえなくて、受け入れたふりをして諦めてるだけ。それが普通だと思う。実際僕は死ぬことを受け入れてるんじゃなくて、仕方が無い事だって諦めてるだけだよ」

「諦めて、受け入れてるんじゃないの?」

 難しい質問だと僕は思う。結果的にはこの二つの辿り着く場所が同じだから。

「うん、少しだけ違うと思うんだ。死を受け入れるってことは、つまり生きる事を諦める事だって僕は思う。生きる事に絶望した時にこそ、死を受け入れるって事が出来るんだと思う。ただ、人はその絶望の中じゃ生きていけないから……死んでしまう。逆に、死に対して諦めるって事は、生きる希望に縋り付いた結果の一つだと思う。どうせ死ぬにしても、命に意地汚く執着する人間が、いつか死んでしまうと、死を回避する努力を止めてしまうのが諦めるってことだと思う。それは取りも直さず僕の事でもあるんだけどね」

 僕自身意味を理解せずに言葉を紡ぐ。口が勝手に動いてるみたいな、僕の意思とは無関係な言葉の羅列。僕は僕の言葉に混乱する。

「う~ん、邑が何を言ってるのかよく分からないんだけど……つまり、邑は死から逃げようとしてないって事じゃないの?」

 こんな訳の分からない言葉から適切に意味を把握できる夏弥は、流石僕の幼馴染みだと思う。僕よりも僕に詳しい気がしてくる。

「そうだね、僕は死ぬのを回避しようとはしてないよ。もともといつかは死ぬんだし。でも、それが良い事なのか悪い事なのかなんて誰にも分からないさ。案外、怖がって震える事が、死への正しい人の在り様なのかも知れないよ」

 そう、この世界に本当に正しい事なんて一つもないんだ。

 どこかの星の王子様じゃないけど、大切なものは目には見えないし、大切じゃないものも目には見えないから。

「そうかもしれない。けど、私は邑みたいに死を怖がらずにいたい。今はそんなのとても無理だけど、いつか死ぬまでには、って後二カ月なのよね、それまでに死と向かい合って克服したいな」

 声に活力が戻ってきた。きっと、感情を理性で考えられるようになって落ち着きを取り戻したんだろう。感情に流されるままでは、辛い事もある。

「まあ、それも一つの心の持ちようだよね」

 ちょっと達観した風に言う。

 偉そうに自分の考えを話したから、急に恥ずかしくなってしまった。冗談めかして誤魔化したい。

 ほっとしたことに、夏弥はムッとして言い返してくれた。

「フンっ。邑の癖に何偉そうにしてんのよ! 私だって……明日になればいつもの私に戻ってるから……」

 夏弥はまた急に怖くなったのか自傷的になる。こんなに情緒が不安定な夏弥は初めて困惑する。でもきっと、これが最後だろう。さっきまでとは違って、ただ感情に流されている訳ではないから。だから安心させるように、夏弥の頭に手を伸ばした。

「大丈夫だよ、夏弥。僕がいる。いつでも僕を頼って良いから。怖ければ泣いても良いんだ。無理することは必要ないよ。死ぬ事に真摯に向き合って不安に押しつぶされそうになってる夏弥も、夏弥に変わりはないんだから」

「何回もごめんね、邑。これで最後にするから……」

 夏弥は声を押し殺して嗚咽を隠す。僕は不意に穏やかな気持ちになって、ずっと夏弥の頭を撫でていた。その髪は、水に手を晒しているように滑らかだった。

 しばらくして、後ろからはもう穏やかな呼吸音しか聞こえなくなった。泣き疲れて寝ちゃったのかな? と僕は夏弥の方を確認する。

 意外な事に、夏弥はまだ起きていた。僕にしっかりとしがみついたまま、暗くて顔はよく見えないけど、少なくとも落ち着いてはいる様だった。

 まだ起きてるの?

僕は言う。

 夏弥はこくりと頷く。

 僕はまた夏弥に背中を向けた。寝られるまでしがみついていても良いよ、と意味を籠めて。

 大分夜も過ぎだ。疲れも溜まっている。流石にもう寝るだろうと、僕はそう思ったけど、夏弥は違ったらしい。大分疲れているだろうに、まだ話そうとする。半分朦朧としながら。

「邑あのね、私やっぱり邑の事が」

 っていきなり何を言い出すんだ夏弥は! いきなり話が違う方向に向き過ぎだろう。

「ちょっ、え、待って待って! 夏弥は疲れて興奮してるだけだよ! ともかくそれは今話す事じゃないよ」

 咄嗟に夏弥を遮って声を被せる。もう寝たふりして誤魔化そうかな。無理かな。

「違う、そんなんじゃない。私が本気で言ってるのは分かるでしょ? 前にも振られたんだし」

 グサグサと心に夏弥の言葉が刺さる。ついでに背中に夏弥の拳も刺さる。

 僕もう寝たいのにな……。寝しなにまたこんな胃にくる話題は正直ツラい。

「ごめん、だけど今も答えは変わらないよ。僕は夏弥とは付き合えない」

 ちなみに僕が夏弥に告白されたのは、音価の告白の翌日。それからまあ、狭いコミュニティの中の話だ、部員全員が、僕と音価、ついでに夏弥の微妙な関係を知るに至っている。

 夏弥に告白されるまで、全く夏弥の気持ちに気付いていなかったなんて我ながら鈍感だけど、僕は当然夏弥と付き合う訳にはいかなかった。

「ならさっさと音価とくっつきなさいよ、じれったい!」

 膝蹴りが腰に入る。メキミシと骨が嫌な音を立てるのは空耳に違いない。

 これただの八つ当たりだよね? 僕にいろいろ恥ずかしいところを見られたから、最後に怒って誤魔化す算段だよね?

「だからそれは出来ないんだって。話すとごちゃごちゃしてよく分からくなるけど、とにかく僕は音価と付き合えないんだよ」

 最早ちゃんと誤魔化そうともしない僕。だって眠いんだもん。もう夢の世界に旅立ちたい。

「それってあんたのエゴでしょ? もう一年近く振られ続けてる音価の事、あんた少しは考えたことあるの?」

 僕は言葉に詰まる。考えた事は何度もある。毎日振るたびに考えている。その度に後悔もしてきた。でもやっぱり僕の出す結論は変わらなかった。

「あんたは自分の体面だけ気にしてるだけじゃない! あんなに音価が必死で……ああもう何か腹立ってきた! ちょっと邑、ちゃんと聞いてるの!? ったくあんたときたら……」

 長々続くお説教。そういえばこんなのも僕の日常だったな。週に二回はこうして夏弥に叱られて……あれ? 僕って結構情けない?

 ともかく夏弥はいつも通りに僕に説教を続ける。

 僕は内心、そんな夏弥の様子にやっと心の底から安心して、神妙にその説教を聞く。聞きながら思う。もう夏弥は大丈夫だな、と。これからも多少情緒不安定になるかも知れないけど、きっと何とかしていけるだろう。

 きっと夏弥も「もう私は大丈夫だから」と言う意思表示の為にこんな説教をしてるんだろう。

「……女の子にはすぐに色目を使うし、硬派な振りして軟派だし、意外とだらしないし、友達使いが荒いし、お金に意地汚いし、授業はしょっちゅうサボるし……」

 うん、きっとこれも夏弥の思いやり。ちょっと涙目になんかなってないからね? ホントだからね?

 説教が終わったのは、二時を回った頃だった。夏弥は説教をしている途中でうとうとしてきて、喋りながら寝てしまった。

 僕はそっと夏弥に毛布を掛ける。冬は厳寒で悩まされるこの地域は、夏でも夜は冷え込む。何も布団を掛けないでは風邪をひいてしまう。夏弥も、興奮して布団を蹴り飛ばすなんていつまでも子供のままだ。

 僕はそっとベッドから抜け出して、固い木の椅子に座る。いくら僕とて、流石に夏弥と一緒には寝れない。予備のタオルケットを羽織り、椅子に座って夜を明かそう。

 今日は長い一日だった。これからどうなるのだろう? 不安はまだ解消されない。同時に、こんな状況なのにいつもと変われない自分に嫌気がさす。ただまあ、そのおかげで皆が安心するなら喜ばしい事だ。

明日も朝が早い。早く寝よう。僕は深く息を吸って、目を閉じた。

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