終わる世界の片隅で   作:則天去私

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第五章

 私達が最初に出会った日の事を覚えていますか?

 そう切り出した羽衣を、僕達はじっと見守った。

僕達が羽衣と出会ったのは冬だった。東京では珍しく雪が降り積もり、交通機関が麻痺する代わりに人々は雪かきを楽しんでいた。

電車の復旧見込みが途絶えたその日、僕達は部室に籠って駄弁っていた。そこに安井先生が連れて来たのが羽衣だ。

「何でわざわざあの日に紹介されたのか、邑さんと九さんは御存知でしたよね。樫さんと見砂さんはどうですか?」

 竜平と夏弥が揃って首を横に振る。この日の事情について、僕と音価は安井先生から説明されていたものの、竜平達は気を使い過ぎないようにと何も聞かされていなかった。

「雪が、白かったんです。白くて冷たくて、空虚だったんです」

 羽衣の目は、もう何も見ていなかった。僕達を通り越し、あの日の自分を愛おしんでいる目だった。

「今の巻谷さんと同じです。パニックを起こしたんです」

 そこで羽衣は息を整えた。思い出すのが辛いのか、僕らに改めて知られるのが怖いのか。はにかむように、決意するように、羽衣は唇を噛んで僕達ひとりひとりを見渡した。

「自殺未遂です。安井先生が止めて下さらなければ、きっと本当に死んでました」

 羽衣の声は軽く、心なし弾んでいるように聞こえた。

興奮しているのか、自分を制し切れなくなりはしないかと不安に駆られる。それでも僕は羽衣を止めようとはしなかった。

死ぬのが怖かった。

羽衣はそう続ける。

「降り積もる雪を見て、ふと怖くなったんです。雪の儚さ、冷徹さが死のイメージと重なって」

 死んだら、何も考えられなくなるじゃないですか。何も感じず、考えることも出来ない。意識がなくなって、ずっとそのまま。生きてる意味が、なくなるように思えたんです。

 夏弥が怪訝そうな顔で口を開きかけた。それがどうして自殺未遂に繋がるのか、真逆の行為ではないのかと。きっとそう言いたいのだろう。

 夏弥の様子に気づき、羽衣が口角を持ち上げる。

「ええ、良くある誤解なんですが、自傷は死ぬ為にするものだけじゃないんですよ。自分が生きてる実感を得るためにするものなんです」

 聞いた話だと、そもそも羽衣がリストカットを始めたのは三年前、当時通っていた中学校でのトラブルが原因らしい。担任教師に襲われ、発覚を恐れた彼主導によりクラス内で迫害されていたと安井先生は言っていた。

 高校に入ってからは安定していたらしいが、あの雪の日に再発してしまったらしい。

「その日は、どうしても自分が抑えきれなくて。目の前が真っ白になったと思ったら安井先生に介抱されていました」

 雪のせいで校内も混乱していた。その解決に奔走していた先生は、信頼がおける僕達に少しの間羽衣を見ていて欲しかったらしい。道理であんな日に羽衣を連れて来た訳だ。

 緊張で疲れて来たのか、羽衣の体からは段々と力が抜けてくる。それでも声のハリを失わせず、先を続ける。

「今回も同じです。地球がなくなるって聞いて、最初は信じられませんでした。そうですよね、いくら何でも荒唐無稽過ぎますから。でも徐々にそれが現実のものなんだなって感じるようになって。どんどん怖くなっていってしまって。でも誰にも頼ることができなくて……。気付いたら、ロビーで血まみれになっていました。」

 きっとそれを見た昇は動揺して、パニックに陥ったのだろう。

 自分の腕を強く握りしめ、それでも羽衣は、もう顔を俯けはしなかった。

 辛いだろう、こんな話を打ち明けるのは。僕だったらきっと途中で投げ出している。自分の弱い部分を曝け出すことほど、勇気のいる事はない。

「どうしても、自分が実感できないんです。それなのに、死ぬ事の実感だけは、沢山あるんです。何回も死にかけてますから。だからどんどん怖くなるんです。怖くなるから、切るんです。切って、生死の境目が見えるんです。そこから戻って来るときだけは、自分が生きてるって実感できるです」

 一瞬、羽衣の瞳が暗くなったような気がした。次の瞬間、羽衣の体が大きく傾ぐ。

 反応できたのは竜平だけだった。体が地面にぶつかる前に抱き留め、そっと横たえる。頭を自分の腿に載せ、心配そうに顔色を窺う。

羽衣の浅い呼吸音が次第に安定して、力の抜け切った体に魂が戻ってきた。申し訳なさそうに口を開こうとするも、空気を色付けるまでには至らない。

「なあ、桜。俺達がいてもまだ、自分が実感できないか?」

 目の奥を確りと見据え、竜平が問いかける。

 羽衣は申し訳なさそうに、ほんの少し目線をずらした。

 それで、僕達は羽衣の気持ちを悟ってしまった。

「自慢じゃないが、俺はこれまで自分が死ぬなんて考えた事も無かった。まあ、体が弱い方ではないし、そんな事を考えられる程頭が良くはないんでな」

 脈絡なく語り始めた竜平。皆一様に不思議そうな顔をして竜平を見る。

「そんな俺でもな、最近死ぬってことを考えるようになったんだ。地球滅亡でこれだけ大騒ぎになってるからな」

 竜平が何を言いたいのか、うっすらと分かってきた。きっと羽衣を元気づけたいのだろう。

 今一度静かに息を吸い込んだ竜平が、口を開く。

「結局、答えは見つからなかった。だがな、俺は桜と、桜達全員と一緒にいられて、今が幸せだと実感してるんだ」

 死ぬのが怖くないと言えば嘘になる。だがそれ以上に、今が楽しい。

 竜平の言葉で僕にも衝撃が走った。確かに、今の生活は楽しいものだった。でも、僕は竜平ほど心からこの生活を楽しめてはいなかった。今に順応しようとして、割と精一杯だったように思う。

「桜、俺はな。今が楽しいから、それだけで、今生きてる事が嬉しい。上手くは言えないが、生きてる実感がある、そういう事だと思う。俺はそれを、桜にも感じて欲しいんだ。

 ……俺が、お前に感じさせてやる。お前はお前だと、感じさせてやる。もう残り少ないかもしれないが、俺の全てを懸けて、生きていてよかったと、お前に思わせてやる」

 口下手な竜平が、一心に語りかける。こんなに長く話す竜平を、僕は初めて見た。

 周囲の僕らを気にすることなく、竜平は羽衣を見詰め、ひたすら真摯に前向きに言葉を紡ぐ。

「桜、好きだ。初めて見たときからずっと好きだった。付き合ってくれ。後悔はさせない。これからの一瞬を、過去の全てよりも現実に感じさせてみせる。お前がいるから、お前の為に、俺は自分を見失わない。だからどうか、俺と付き合ってくれ」

 羽衣は呆気にとられ、呆然と竜平を見返す。徐々に顔色が戻ってきて、すぐに真っ赤になる。

 皆、羽衣を見詰めた。その返答を待って。誰しもが真剣だった。

 八つの目に見詰められ、羽衣は普段からは想像もつかない素早い動きであたふたする。竜平の腿に頭を載せているせいで逃げることも出来ず、諦めて口を開く。

「え、で、でも私、邑さんが……」

 ちらちらと僕を見ながら、羽衣が首を横に動かす。

このままじゃダメだ。何がダメなのか説明できないけど、このまま羽衣に、拒絶の言葉を言わせてはいけない。

僕は視界の端に音価を捉え、決心する。

「羽衣、前にも言ったと思うけど、僕は音価が好きなんだ。僕は羽衣とは付き合えない。僕は、音価と付き合うから」

 それに、竜平は本気だ。答えは、竜平に向かって言うべきだ。

 僕も竜平も、こんな状況に酔っているだけかも知れない。場の雰囲気に流されているだけかもしれない。でも今は、そんなことどうでも良かった。たとえ勢いで言った言葉だとしても、胸の奥底にしまっておいた真実に違いはないのだから。

きっとこんな機会でもなかったら、僕も竜平も自分に素直にはなれなかっただろう。後悔しただろう。だから、今だけは、この状況にも感謝したい。

ポスッと胸に衝撃。見下ろすと音価の頭。

泣きじゃくりながらしがみつき、僕の名前を呼ぶ。

「今までごめんね、音価。利用するみたいになってごめん。本当に、ごめん。でも、これからはもう音価を悲しませない。だから、どうか、これから僕と一緒に居てほしい」

 動かせる右腕で音価の頭を掻き抱く。

優しく、優しく、僕の宝物を胸に抱く。

 顔を上げると、寂しげな顔をした夏弥と目があった。そうか、僕は今、夏弥も振ったのかと今更に思う。

「良かったね、音価……。やっと、報われたね」

 言いたいことはもっとあるだろうに、それだけ言うと夏弥はにっこりと微笑んだ。目元を赤らめたその笑顔は、僕が見た夏弥の中で一番だった。

 いい友達をもった。僕も、音価も。精一杯の感謝を込めて、僕は笑みを返す。まだ顔を上げられない音価の代わりに。

 羽衣は、固まっていた。目を大きく見開き、つらつらと真珠色の雫を零す。竜平が、その横顔をじっと見詰める。

「羽衣。竜平の想いに応えて欲しい。それがどんなものであっても、竜平はそれを受け止めてくれるから」

 竜平が大きく頷く。急かすことはなく、ただ答えを待つ。

「私は……私は……!」

 ぐっと下唇を噛む羽衣。

言葉にならない言葉が痛い。悲しみが、伝わってくる。

「……ごめんなさい、樫さん。それでも私は……まだ邑さんの事が……」

 一瞬、音が消えたように感じた。

「そう、か。……答えてくれて、ありがとう」

 横を向く竜平。唇を噛み締め、耐えるように虚空を睨みつける。

 そっと近づいた夏弥が、羽衣の上体を起こした。代わりに自分の足に羽衣の頭を載せる。羽衣は少し抵抗したものの、まだ力が戻らないのか、夏弥に従った。

 夏弥の意図に気付いた竜平が目礼する。

「すまない、すぐ戻る」

 そう言って、竜平は川の方へ向かって行った。最後まで声を滲ませず、確りと前を向いて。どこまでも格好よく、颯爽と歩き去った。

 僕達は、黙ってその後ろ姿を見送った。

 

 三十分後。普段通りの竜平が返って来た。いつもの様に背筋を伸ばし、迷いなく前を向き、その姿からは言いようもない迫力を感じる。

「すまない、待たせた。早速だが、これから昇を説得しに掛かろう」

 着いて早々話を切り出す竜平。あんなことがあった直後だというのに、何と頼もしい事か。

「そうだね。それじゃ、どうしようか。昇はまだペンションにいるよね?」

「うん、今はペンションの中で大人しくしてる」

 さっき状況を確認しに行った音価が答える。音価に一人で様子を見て来てもらうことに躊躇いはあったものの、今の僕よりはずっと頼もしい。

「よし、ならペンションへ向かおう。説得は俺がする。ただ、念のため全員出来る限り一緒に行動だ。邑達は動けるか?」

「僕は勿論。腕がちょっと痛むだけだから。荷物をもつのはきついけど、全然問題ないよ」

 大丈夫とは、言えなかった。本当は左腕はもう動かない。きっと骨が折れているのだろう。そのせいで熱が出始めている。朦朧とする意識は、繋ぎ止めるだけで神経を使う。意識して呼吸を整えなければいけない。真っ直ぐ歩けるかも疑わしい。

 それでも、今はそれを皆に悟られるわけにはいかない。これ以上、皆を不安にはさせられない。

「私も何とか大丈夫です。少しふらつきますが、多分歩けます」

 服に付いた赤色のおかげで、皆の注意は羽衣に集まっている。いつもは過剰なまでに目敏い音価も、僕の異変には気付いていない。直接手当てした夏弥も、まさかここまで酷い状態になっているとは思わないだろう。

 そして、皆で話し合う。どうやって説得するか。失敗したらどうするか。最悪の場合、何を優先するか。

 移動を開始したのは、日が傾き始めたと分かる頃だ。竜平が先頭を歩き、その後ろを羽衣が続く。羽衣の両脇で音価と夏弥が支える。僕は殿だ。

 この順番で良かった。そう強く思う。

 移動は円滑に進み、あっという間にペンションの近くに到着する。遠目にまだ昇がペンションの中にいることを確認し、みんな気を引き締めた。

 早速行動を開始する。

素早く動けない羽衣はペンションから少し離れて僕らを見守り、荷物も全部そこに置いておく。夏弥も一緒だ。

竜平と僕が説得役で、ペンションに近づく。昇の警戒を解くため、武器になるものは何も持っていない。竜平は一人で良いと言ったものの、自他ともに認める口下手の竜平だけでは説得は難しいという事で、僕もついていくことになった。

不測の事態に対応すべく、音価には皆の中間に陣取ってもらう。

「昇! 聞こえているだろう!? 話がしたい! 出て来てくれ!」

 皆が所定の位置を確保した時点で、竜平が呼びかける。これで反応が無ければ厄介なだけに、僕らは息を殺して昇の反応を待つ。

 数分後。もう駄目かと思い始めた矢先、音も立たずにゆっくりと玄関の扉が開いた。昇が顔を覗かせる。包丁を片手に持ち、虚ろな顔からは表情が読み取れない。

 嫌な汗が背中を流れた。

「……何だよ」

 玄関扉で体を半分隠し、昇は言った。

良かった、会話できるまで落ち着いたみたいだ。話し合えるなら、説得の余地もある。

「うん、ちょっと話したいことがあってね。取りあえずここで立ち話も難だから、中に入れてもらっていいかな?」

「いや、ここで充分だろ? ほら、話せよ」

 昇は包丁を突き付けて先を促してきた。あまりいい状況とは言えない。まあ、広い場所の方が僕らに有利か。それだけは幸いだ。

 気持ちを切り替えて先を続ける。

「羽衣から一応の事情を聞いたよ。昇がこんなに悩んでたなんて知らなかった。ごめ……」

 ドン!

 昇が扉を蹴った。勢いのまま一歩近づいてくる。

「なめてんのか!? そんな事が聞きたいんじゃねぇんだよ! 殺すぞ!?」

 背後で小さく息を飲む音が聞こえた。夏弥だろうか。僕も泣きたいような気持に駆られる。

「おい、聞いてんのか!? もうすぐこの世界は終わるんだぞ! 今の俺達に意味なんてあるのかよ!? 何か言ってみろよ、おい!」

 口を開きかけた竜平を手で制す。今僕以外の誰かが何か言っても、昇は更に怒るだけだろう。

「昇、僕達は今生きてるじゃないか。それで十分なんだよ。皆も怖いけど、それでも耐えて頑張ってるんだ。昇も一緒に頑張ろうよ、ね?」

 自分で言っていて吐き気がする。表面を綺麗な言葉で彩った、中身がスカスカの言葉。僕の気持ちなんてこれっぽちも込められていない、唯の音の塊。そんな事しか言えない自分の無力さに腹が立つけど、でもこれくらいしか昇に言えることはない。だって、僕の本心なんて聞いたら、昇はきっと激昂するから。

 本当は、和解出来ても昇を自由にしておくつもりはなかった。

皆で決めた結論。どう転ぼうと、昇は危険だ。そんな危険な者を、自由にしてはおけない。

「はっ! 何言うんだよ、邑? 無意味だろうが、こんな暮らし。いっそ皆で死のうぜ? そうだよ、その方が絶対に良い。さあ、早く、死ねよ、おい!」

 昇の目に、段々と狂気の光が宿る。完全に逆効果だった。突き付けられた包丁の先が、ぐらぐらと揺れる。

 「取り押さえるか?」と目で尋ねる竜平。でも僕は小さく首を振った。包丁を持たれていては、いくら竜平でも怪我をしかねない。ましてや今の昇は完全に狂気に飲まれている。捨て身で僕達を殺すために応戦しかねない。

「待ってよ、昇。人間はいつか死ぬものだよ? 今は、それがちょっと早くなったって言われてるだけだ。大丈夫、何も変わってないんだよ」

「あ? 何が大丈夫だってんだよ。結局死んじまうんじゃねぇかよ!」

 チッ、もう死ねよ邑。

 絶望に目の前が暗くなった。

 呟くように洩らしたその声が、僕の胸をえぐる。体温が下がったように感じる。

 もう無理なのか。何を言っても通じないのか。激昂して暴れ出す前に、どうにかして取り押さえるしかないのか。

「昇、僕達はまだ死ぬつもりはないんだ。悪いけど、死にたいなら一人で野垂れ死んでくれ。それに、死にたいんならここにはもう用はないだろう? 早く出て行ってくれ」

 言ってから後悔する。思わず本音が出てしまった。こんなこと言うつもりはなかったのに。もっと穏当なことを言うべきだったのに。

 言われた昇も、少し驚いた顔をした。しかしすぐに笑顔になる。

「っは、何を言い出すかと思えば、そんな事かよ? いいぜ? お前ら全員死んでくれるっつぅんならここからいなくなってやるよ。だから早く死ね!」

 駄目だ、完全にいかれてる。話が通じない。何を考えているか全くわからない。

 目が据わり、動きが緩慢になっていく。さっき僕を襲って来た時と同じだ。これじゃ、いつ襲われてもおかしくない。

 体で隠しながら、僕は後ろに向けてハンドサインを出す。事前に一つだけ決めていた合図。「離れろ」という意味だ。

 すぐに、羽衣と夏弥の気配がゆっくりと遠のいていく。本当は音価にこそ離れていて欲しかったけど、仕方ない。今はむしろ僕の方が足手まといになりかねない。

「……なあ。何で見砂と桜は逃げてるんだよ。俺達友達じゃなかったのか!? 

 ははは、やっぱりその程度か。俺と一緒じゃ死にたくないって事かよ、おい!!」

 まずい、気付かれた! 

 そう思った時には、もう昇は動いていた。体をかがめ、僕達の事は完全に無視して羽衣と夏弥に向けて駆けて行く。

 幸いな事に、竜平と音価は昇の動きに反応していた。とっさに竜平は足払いを仕掛け、音価は羽衣達に駆け寄っていく。

 でも、僕達は昇の事を甘く見ていたんだと思う。顔から地面に突っ込んでも、昇は何事も無かったかのように素早く立ち上がり、走り出す。堅く掴んだ包丁は、決して手から離れない。

 竜平でさえ一瞬反応が遅れ、僕に至ってはようやく動き始めた所だった。

「く、きゃきゃきゃくはっははあはきゃかやきゃっ」

 昇は訳の分からない言葉を口走る。狂い切ったそれを見て、聞いて、僕達は一瞬身を竦めてしまった。

それが、致命的な遅れになった。

 包丁を振りかぶり、今にも切りつけんばかりに羽衣達に迫る。狙いは、夏弥だ。

 やめろ、何で夏弥を狙う。近くに僕たちがいるじゃないか。こっちに来いよ、昇!

夏弥と羽衣は背中を見せて逃げている。そのせいで、迫る昇に気付いていない。いや、気付いてるのかも知れないが、逃げる以外にしようが無い。

僕と竜平は昇の背中を追うけど、もう追いつけない。竜平が追い付けないなんて、一体どうなっているのか。昇は運動が苦手だったはずなのに。

 今何か出来るのは音価だけだ。頼む、何とかしてくれ音価。

 そう、願ってしまったからだろうか。瞬間感じる悪い予感。現実はそう上手くいくはずがない。血の気が引いた。

違う、昇の狙いは夏弥じゃない。昇の狙いは……。

 ぐるりっと昇の首が回る。その眼が音価を捉える。

 あの音価が体を強張らせた。駆けていた足を踏み外す。

 嫌な予感と言うのは、大抵当たってしまう。僕はそれを実感して

「動くなっ!!!!」

ああ、やっぱり。

昇は音価を後ろから抱え込み、その首に包丁を添わせる。

「動いたら九を殺す。じっとしてろ」

 何てお約束道理の台詞。でも実際に言われた時、これほど効果的とは思わなかった。体が石になったかのように固まる。自分の顔から表情が消えていくのを感じる。絶望感と無力感に苛まれる。

 「はは、どうする邑? 安い展開になってきただろう? このまま九を殺しても良いんだぜ? はははは、何とか言えよおい!!」

 勢い余って音価の首に包丁が食い込む。「うぅっ」と苦しそうな音価の唸り。

 くそっ、僕は何を! ……もういい。昇なんてどうでもいい。音価さえ救えれば、それでいい。いや、音価を救わなくちゃならない。その為に、あいつを排除しよう。

 僕は噛みしめた歯の奥から声を絞り出した。

「ごめん、僕が悪かった。謝るよ、本当にすまなかった」

「あ? 謝罪なんて聞きたくないんだよ。

 っ動くな、竜平!」

「……」

 気付かれてしまった。竜平ならもしや、と思ったけど、駄目だった。

竜平は、昇が僕に気を取られている間に後ろに回り込んでくれていた。昇に気付かれ、悔しげに眼を細める。でもこれで、僕、竜平、羽衣と夏弥で昇を囲むような位置を取れた。最悪の状況だけは、何としてでも回避するんだ。

「っ邑、私のことはいい。早く昇を……!」

 喉が震えるたび刃先が柔肌に食い込む。一筋、血が流れる。

 昇、お前を殺してやろうか?

「黙れ、音価。殺すぞ?」

 耳元で囁く。流れ出る血が量を増す。

「早まるな昇! なあ、僕達友達だろう? こんなバカな事してないでさ、早く元に戻ろうよ、ね?」

 駄目だ、焦って何を言えばいいか分からない。必死に笑顔を繕うものの、本当に今自分が笑えているか自信がない。昇の事が憎くて憎くて堪らない。頭がどうかしてしまいそうだ。

「は? 何が友達だよ、笑わせんな。なあ邑。安い三文芝居だ。音価を離して欲しかったら、竜平を殺せよ」

 包丁の切っ先が、更に音価の首に食い込んだ。音価の顔が歪む。上手く呼吸ができないのか、半端に口が開く。

 手が震えた。自責の念に駆られる。目の前が真っ赤に染まる。

 僕が間違えなければ。問答無用で、昇を取り押さえておけば良かった。自分が傷付く事を恐れなければ、こんな事にはならなかったのに。

 押し黙って話せなくなった僕の代わりに、竜平が話し出す。

「昇、こんなことをして何になる? 俺達の関係が悪化するだけだ。いいから九を離すんだ。俺達はお前に手を出さない。大丈夫だ」

 ゆっくりと、聞いている者を安心させる声色。竜平の落ち着いた声で、僕も少し自分を取り戻す。

「笑わせるなよ竜平。どうせお前も死にたくないだけだろ? でもな、もうすぐ皆死んじまうんだよ。なら今すぐ皆で一緒に死のうぜ?」

 駄目だ、話がループしてる。きっともう、昇は何も考えていない。自分で嵌ってしまった結論だけで話をしている。これじゃ何を言っても無駄だ。

せめて時間を稼いで何か別の手を打たなければと、僕は口を開いた。でも、肝心の言葉が出てこない。想いが、思考が言語化できない。

 と、僕の意図に気付いたのか、ずっと黙っていた夏弥と羽衣が口を開いた。

「あんた、自分が何してるか分かってんの? 友達の首に包丁突きつけて殺そうとしてるんだよ? 何バカな事やってんのよ。ほら落ち着いて、ね? 大丈夫、私たちは昇の事を責めたりしないから。皆昇のこと分かってるから」

「ええ、そうです。今ならまだ間に合いますから。取り返しのつかない事になる前に、音価さんを放してあげて下さい」

 二人が精一杯いつも通りの口調でいようとしている事が感じられる。内容はあって無いようなものだが、時間稼ぎにはなるはずだ。

「ああ、結局死ななかったんだ、羽衣は。てっきりあのまま死ぬのかと思ってたんだけどなあ……。まあいいや。折角生きてるんだ、もっかい死なね?」

「……!」

 羽衣の顔がこわばる。夏弥が睨みつける。竜平が拳を握りしめる。

 駄目だ、昇はもう不穏な会話しかしようとしない。

 何とかしなければ。その一心で、思考を回す。

 ――どうしたら音価を助けられる? 昇は竜平を殺せば助けると言っていた。でも間違いなくそれは嘘だろう。今さら昇の事を信用する方がどうかしてる。なら不意を突くか? いや、今の昇はラリッて何をするか分からない。本当に音価を殺すだろう。せめて、音価と僕を交換できないか? 駄目だ、昇のリスクが大きいだけで、当然却下されるだろう。一度この場を流すか? 昇が応じてくれれば機はあるはずだ。昇の疲れがピークに達したところで急襲を掛ければ何とかなる。でもきっとそれくらいは昇も分かるだろう。この場で決着を付けようとするに違いない。なら他には…………。

 何を考えてるんだ僕は。どれも現実味がないじゃないか。

 頭が揺れる。思考が定まらない。焦る気持ちばかりが先行して碌に考えが纏まらない。くそっ、考えろ、考えるんだ。何か手はあるはずだ。あの昇だぞ? 僕は兎も角、竜平なら遅れをとる訳は無いんだ。そこに勝機があるはずだ。

「邑! お前ちゃんと聞いてるのか!?」

 昇の叫び声で意識が現実に戻ってきた。びくっと体が震える。

「っ! な、何かな昇? 勿論ちゃんと聞いてるよ。僕が竜平を~って話だよね?」

「そうだ。早く殺さなくていいのか? こうしてる間も、ほら、音価の首に包丁が食い込んでくぜ?」

 これ見よがしに見せつける昇。きっと呼吸困難だろう、音価の顔が真っ青だ。そんな状況でも、音価は僕に目で訴えかけてくる。何を言いたいかなんて、見なくても分かる。

絶対許さない。そう、強く思った。

「……土下座するから許してくれないかな?」

 そう言って地面に手をつく。体面なんか気にせずに、そのまま額を土に打ち付ける。何度も、何度も。そのうちに額から血が流れ出したけど、今は気にしているほど暇じゃない。皆唖然として見てるけど、構わない。少なくともこうしている間は、昇の手が緩むだろう。

「はははははははははは、は、は、は。じゃ、殺せよ、早く。どうせ時間稼ぎだろ? 小賢しい真似すんじゃねえ!」

 見抜かれていた。頭が真っ白になった。

それでも、重い体をのろのろと動かし、立ち上がる。立ち上がりながら、悟った。きっとこれが最後の説得だ。僕は真っ直ぐに昇の目を見て言った。

「どうしても、音価を離してくれないのか?」

「いや? だから言ってんだろ、竜平を殺したら音価は離してやるってよ? きゃははは」

 ゆっくりと、竜平に向き直った。もっともらしい顔つきで竜平を睨む。夏弥と羽衣が、まさか、といった顔で僕達を交互に見るくらいには。

本当に殺すつもりなんてない。殺せるとも思っていない。だから僕は、竜平に目で訴える。「頼む、上手くやってくれ」と。

「ああ、そうそう。言い忘れてたけどさあ、死んだふり、とかそんな茶番止めろよ? その時点で音価を殺すぞ?」

 この程度想定内だ。竜平も微塵も動揺しない。ただ「長引かせるぞ」と考えていることが、目を見れば分かる。

「それじゃあ始めようか。竜平、悪いけど音価の為だ。死んでくれ」

 昇の真似をして薄笑いを浮かべる。少しは狂っているように見えるだろうか。

 竜平は黙って拳を構えた。それが答えだとでも言うように。

僕も、ゆっくりと右腕を構える。左腕を構えようとしない僕に気付いて、昇が嬉しそうに笑った。

「ちょっ、何やってんのよあんた達!? こんな事しても意味ないって分かってるでしょ? ふざけてないで終わりに」

「黙ってろ夏弥! これからが見物なんじゃねえか」

 低い声で昇が夏弥を制す。本当に、本当に滅多に出さない昇の嬉しそうな声。ただ、悲しかった。

「ほら、さっさと始めろ、期待してるぜ? どっちが死ぬか。ああ、邑が死んでも音価は離してやるよ。安心しな。離すだけはな……」

 意識を切り替えろ、竜平との殺し合いに集中しろ。互いに本気ではないと言っても、昇に気付かれてはいけない。それに、僕は片手が使えなくて疲労も色濃いのに対して、竜平は万全の状態だ。万が一にも手は抜けない。

 喧嘩なんていつ以来だろう。少なくともここ数年は御無沙汰だ。上手く出来るだろうか。

子供の頃の喧嘩のように、目の前の相手だけを見て神経を研ぎ澄ます。それは竜平も同じだ。手加減なし、に見える程には僕に敵意を向けて来る。

 僕らは互いにタイミングを見計らい、同時に動いた。

 右の正拳突き。からの右回し蹴り。初めの正拳突きで蹴りを隠している。竜平の流れるような体捌き。必要最低限の、研ぎ澄まされた動きで僕に肉薄する。

これでもまだ本気じゃないっていうんだから恐れいる。体を屈めて右腕で拳を払う。片足を上げている事もあって、バランスを崩したかのように地面に突っ込む。すかさずそれに追撃。頭部を狙ってネリチャギ。

でも大振りのその動きは、確実に捕えられる。横に転がって躱し、僕の足を取る竜平。立ち上がると同時に僕を転ばせる。右手側に転ぶようにして、受け身が取れるようにしてくれているのが竜平らしい。

鋭い拳が、僕の鳩尾を狙って振られる。躱せない。そもそも見えない。代わりに体に当たる前に力が抜かれていて、ダメージはない。僕はかなり効いたふりをしながらも関節技で竜平の腕を取る。でも竜平は完全に掛かり切る前に無理やり腕を振り解いて、僕から距離を取る。僕も急いで立ち上がり、竜平との間合いを確かめる。小休止。互いに息は荒れ、相手の出方を窺う。

「へ~、二人とも結構やるもんだなあ。特に邑なんか片腕で良くやるじゃねえか」

 能天気に昇がそう評する。良かった、上手く騙せている。これが失敗したら、それこそどうしようもない。後はどうこの状態を続けるかだ。僕は乱れた息を整えながら竜平に声を掛ける。

「やっぱり強いね、竜平は。素直に死んでくれないかな? 音価の命が掛かってるんだよ」

 体力を回復させるための時間稼ぎ。を装う。実際、疲労が限界に近い。お互いに上手く技を掛け合っていただけなのに、この様だ。この程度でも悲鳴を上げている左腕は、随分とまずい。

「そう言う邑こそ、片腕だけで流石だ。だが、残念だ。死ぬとしたらまずは邑からだろう。俺はまだ死にたくないからな」

 幾分の本音、僕への心配が声を伝う。「大丈夫か?」と不安そうに眼が揺れる。大丈夫。僕はそう、軽く頷いた。

 本当に、竜平にはかなわない。

「おお、おお、面白くなってきたじゃねえか!? いいぜ、いいぜ? どっちが先に死ぬ?」

 興奮したのか、昇はもう誤魔化そうともしない。結局は二人ともに死んでもらうのだと、暗に言う。気にならないと言えば嘘になるけれど、気にしていても意味がない。まだ目の前の茶番劇が待っているから。

 僕は再び正面を強く睨みつける。竜平も同じように睨み返す。お互いに、殺気は本物だ。ひとつ、ふたつ、みっつ。心の中でテンポを取る。呼吸を落ち着かせ、動くタイミングを見極める。

 第二ラウンド開始。そう心の中で呟いて、互いに動きだして……

 

 空が落ちてきた。

 

 雲は高度を下げ、空気は密度を増す。圧縮された空気で呼吸が阻害される。まさに、「空が落ちて」きた。

 突然だった。何の前触れもなく、急に体が重くなる。走り出した体が、バランスを見失って地面に落ちていく。僕の前では、竜平も同じように体を傾けている。

 「何が起きたの!?」と言いたそうな顔で、夏弥は倒れかけた羽衣を支える。足腰が弱々しく震え、今にも倒れそうにして、羽衣は白い顔で必死に夏弥にしがみつく。昇だけが、さっきと変わらずに立っていた。いきなりの事に戸惑っているのか、包丁を持った右手からは力が抜けている。音価はとりあえず安心だ。その事にひどく安堵して、心が揺れる。昇に抱きかかえられるような姿勢のせいで、何とか倒れずにいる、といった感じか。

 一気に何十階分もの距離をエレベーターで上昇しているような荷重。血の気が引く、という言葉通りに、頭が冷える。血が頭に入って来ない。目の前が黒くなっていく。立ち上がれない。自分の体に押しつぶされる。息が出来ない。水の中にいるかのように、空気が肺に入らない。

 ドスッという音で、ついに昇達も立っていられなくなったことを知る。一体何倍の重さだ? せめて空を見ようと、僕は必死に体を動かした。

 「濃い」空だった。何が濃いのかはよく分からない。でも、なんとなくそう感じた。いつもより低い位置にある雲は際立って白く。空は青よりも蒼く。空気と水の境界が曖昧な世界。周りの木々は枝を撓らせ、容赦ない力に耐えている。さっきまで聞こえていた虫の声は聞こえず、代わりに鼓膜が破れるのではないかという音がする。いや、実際に破れ掛かっているのかも。急激に上昇した気圧に、体が対応できていないんだ。これはきっと、僕の体の中の音。外の音は、何も聞こえない。

 耳に激痛が走っている事に気付く。我ながら痛みに鈍感だ。良い事だとは、思わないが。

「*************!!!!」

 近くで昇が何かを喚く。でも聞こえない。耳を抑え、血走った目で頭を地面に打ち付ける。僕は正直、この状況で動ける事に感心した。僕はもう耳を抑えるだけの力も湧かない。

 一体どれほど続いただろうか? 体感では何十分も、実際には十数秒。その間だけ、空は落ち続けた。いつか僕らは空に潰される。そう思った矢先、体が浮いた。実際には軽くなっただけなのかもしれないけど、僕はそう思った。

「「「っは、はあ、はあ、はあ……」」」

 過酷な重力から解放され、僕らは揃って息を吐く。

皆は無事か!?

 僕と竜平は似たような状態で地面に這いつくばっている。二人ともまあ無事だ。夏弥は大きく息をしてるから問題ない。でも羽衣は地面に寝転がったまま動かない。そりゃそうだ、あんな貧血でこれじゃ気を失うのは当然だ。僕よりも先に竜平は気付き、まだまともに動かない体で這って行く。

すまん、今は任せる。僕はそう心の中で呟いて、昇と音価の方を見る。

 昇は完全に放心している。状況を理解しようともせず、地面を見詰めてぶつぶつと呟く。不気味だけど、さっきの狂っていた時よりは幾分マシだろう。音価は、少し離れて体を起こしたところだった。首の傷は思ったよりも浅そうだったが、今ので血が溢れだしてしまっている。でも、昇から離れ、大丈夫と僕に笑いかけてくれる。顔に色が戻っていることから、きっと本当だ。僕は、心の底から安堵のため息を吐く。嬉しさで涙が滲む。良かった、本当に良かった! 

音価に手を伸ばす。音価も気付いて、こっちに寄ってくる。手が重なり、僕は恥も外聞もなく音価を抱き寄せた。

「音価! 無事か!? 傷は大丈夫か!? 怖い思いをさせてごめん。無事でいてくれてありがとう、音価」

「うん、うん!」

 強く、強く、音価の体が軋むほどに強く抱き締める。腕が動かないとか関係ない。力の限り、音価を求める。音価もそれに応え、僕の背中に手を回す。

 そしてまた

 

 空が落ちてきた。

 

 「っぐ、う」

 口からは呻き声しかでない。どんどん重くなる体。力が抜けていく両腕。それでも、僕達は離れない。この手の中の幸福を逃がさない。

でもすぐに限界がきて、僕と音価は横向きに倒れた。

ああ、またこの空か。僕たちの自由を奪う空気。水のように纏わりつき、僕と音価を離そうとする。

負けるものか。音価に回した手に力を込める。僕に回された音価の手にも、力が入る。当然のように、僕たちは見つめ合った。

極限の中で、音価と目で会話した。

「音価。体は大丈夫?」

「うん、大丈夫。邑は?」

「僕も平気。心配しないで。

 ねえ、音価。キス、しようか」

「……うん!」

 短いやり取り。本当に伝わったかなんて分からない。僕の独りよがりなのかもしれない。そもそもこんな中で、バカげたことだと思う。勝手に興奮して、音価にキスを求めて。

 でも、間違いなく音価は唇を突き出し、目を瞑った。緊張なのか、体力が限界に近いのか、小刻みに震えながら。

 僕は迷うことなく、その唇を奪った。

 遠のく意識の中、音価を感じる。互いを手放さないように、互いを求める。

 水のような空気なのか、空気のような水なのか。僕はそれすら分からなくなって、唯分かるのは音価だけで。

 最後に瞼を上げ、背中から地面に倒れこんだ。

 ああ、空が落ちてくる――。

 

 僕は意識を手放した。

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