終わる世界の片隅で   作:則天去私

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第六章

 目を覚ます。

「っ、音価!」

 がばっと体を起こ……せない事に気付く。音価が寝ながら僕にしがみついていた。安らかな寝顔。それを見て安心する。生きていて良かったと実感する。

 っと、思い出したように左腕が痛む。でも倒れる前ほどの激痛じゃない。

骨折したと思っていたけれど、酷い打撲程度で済んでるのかな?

 音価を起こさないように、そっと体の位置を変えた。もっとよく音価が見えるように。首に見える包帯が痛々しく、自分の無力を思い出させる。でも、大事は無い様でほっとする。

 さあ、一体何があったのか。あの、「空が落ちてくる」中、僕は気を失ったはずだ。直前の「それが落ちてきた」時の事から考えるに、きっとすぐにあの不可解な現象は収まったはずだ。とすると、「空が落ちてきた」事が原因でどこか怪我をした、なんてことは無いだろう。過度の貧血と酸素不足。それが意識を失った理由だと、今なら分かる。

 そういえば、ここはどこだ? 見た所、僕が使っていたペンションの一室みたいだ。音価に気を取られ過ぎていて、周囲を見ていなかった。まだまだ頭が回っていないらしいな、と苦笑いがこみ上げる。

これからどうするべきか。その悩みに答えをくれたのは竜平だった。

「お、起きたか邑」

 静かにドアを開けて入ってきた竜平。目を覚ました僕に気付き、笑顔を見せる。手に持っていた盆を机の上に置き、近づいてくる。

「気分はどうだ? 腕は痛むか?」

 少し心配そうな顔をして、僕の目を覗き込んでくる。

「うん、大丈夫。もう痛みは引いてるよ。

 それよりも、あれからどうなったの? 気付いたら僕の部屋、だよね? にいるし、音価は横で寝てるし。皆は無事なの?」

 とりあえず思いつく限りの質問を浴びせる。小声で。まだ音価を寝かせておきたい。

 体を起こそうとした僕に手を貸しながら、竜平は質問に答えた。

「うむ、まあ全員無事だ。怪我はしていても命に別状はない。そうだな、順を追って説明した方が分かり易いだろう。邑はどこまで覚えている?」

 取り敢えず飲め、と言われて、盆に載せて持って来たカップを渡される。熱いコーヒーだ。礼を言って受けとる。いつ起きるか分からない僕のために持って来たとは考えにくいから、これは音価の為に持って来たのだろう。音価はどれ程僕についてくれていたのか。

「二回目の空が落ちてきてる途中まで、かな。その後の事はさっぱり」

 両手でもったカップから、コーヒーを啜る。ひどく旨く感じる。

「うむ、そうか。結果だけ言うと、杞憂はあの二回目で打ち止めだった。だが、それを切っ掛けにして結構な規模の地震が起こった。山という事で懸念はあったが、幸いな事に特に被害は無かった。これに関しては今の所問題は無いだろう。まったく、このペンションはよく金を掛けられている」

 皆は、空が落ちてくることを「杞憂」と呼ぶことにしたらしい。なるほど、言い得て妙だ。

 竜平はそこで一旦話を区切る。窓まで近づき、カーテンを開く。

 突然目に飛び込んできた眩しい光。一瞬何も見えなくなるけど、すぐに目が慣れて景色が見えてくる。そこで僕は絶句した。

 ペンションを取り囲んでいた木々は、その半数近くが根こそぎ倒れている。近くに見える山も、地すべりを起こしたのか地肌をさらす。本当に、このペンションが無事でいるのが奇跡のように感じられる。

「これだけ酷い地震にも関わらず、このペンションのインフラは健在だ。建物の損害も皆無で、近くにあった川も特に変わりはない。生活の心配は無用だな」

 目の前の惨状が惨状なだけに、俄かには竜平の言葉を信じられない。未だ混乱したままの僕をよそに、竜平が先を続ける。

「本題に入ろう。二回目の杞憂が収まった時点で、俺以外は皆意識を失っていた。気付いていると思うが、気を失った原因は貧血と酸欠だ。そう長い事でもなかったし、羽衣とお前以外は何の問題も無かった」

「え、羽衣以外はってどういうこと!?」

 軽い口調で重大な事をさらっと話す。思わず手に持ったカップを取り落す所だった。竜平がこの調子って事は、羽衣も多分今は大丈夫なんだろうけれど、やっぱり不安だ。

 軽い苦笑を浮かべて、竜平が詳しい説明をしてくれた。

 どうやら羽衣は、出血のせいで体が弱り過ぎていたらしい。掛かり過ぎた負荷に耐え切れなかった。竜平が見つけた時には息をしていなかったそうだ。

「待って。それ、かなり危険だよね? 本当に大丈夫だったの?」

「うむ、問題ない。気付いてすぐに人工呼吸したからな、すぐに息を吹き返した。今はもう大事ない。それより問題はお前だ、邑。もう二日も寝たきりだったんだぞ?」

 え? 何で?

 ある程度は覚悟していたとはいえ、そこまでとは。まあ、そんな事は大して重要じゃない。後で聞けば十分だ。今一度コーヒーを啜り、急ぎ過ぎてちょっぴり舌を火傷する。涙目になりながら、それで? と先を訊くように竜平を見上げた。

「本当に全く覚えていないのか? まあ、幸いと言えば幸いか。とにかく、羽衣が息を吹き返した直後に地震が来た。それが収まった後、お前以外は全員意識を取り戻した」

 それから今まで、専ら休養に専念していたらしい。

 怪我の手当てをし、僕をここまで運んで。

「昇の事だが、杞憂で倒れてから理性が戻った。暴れることもない。ただ、大分やつれてな。あいつの面影はもう残っていない。本人の希望で部屋に軟禁してはいるが、そんな事しなくても出てこないだろう」

 発狂しないと言うだけで、精神がやられている事に変わりはない。

 竜平の見立てでは、当分の間はパニックを起こさない、いや、起こせないようだ。生きる活力そのものが、今の昇にはないらしい。

「昇の今後については、邑が決めてくれ。直接被害にあっているお前と九が決めるべきだが、九はお前に一任すると言っている。それに、昇はお前に裁かれることを懇願している。煮るなり焼くなり好きにしてくれ、だそうだ」

 やっぱり、というべきだろうか。昇について語る竜平はすごくつらそうだった。それもそうだろう。竜平にとっても昇は親友だ。その昇があんなことをしでかしたんだ。竜平だって思うところは色々とあるに違いない。僕だって、昇が音価にしたことを思い返すだけで腸が煮えくりかえる。それこそ、殺したいほどに。

やめよう、これ以上は考えちゃいけない。

コーヒーに映った自分の顔を見て、思考を止めた。カップの中身を一気に飲み干し、火傷をしたのか喉がひりひりと痛んだ。

「ありがとう、詳しく教えてくれて。昇については追々決めていくって事で。今は考えたくない」

きっと、声が冷たくならないのは、熱いコーヒーのお蔭だろう。

「ところで、僕が二日間寝たきりだったってどういうこと? 全く身に覚えがないから少し不安なんだけど」

 丸二日寝るなんて、初めてだ。あれ程弱っていた羽衣でさえ寝込んだ訳ではないという事は、矢張り左腕がよろしくないのかも。

 竜平は、わざとらしい深刻な顔をした。

「うむ、それはだな……。俺よりも適任がいるようだ。彼女に任せよう」

 にやり、と唇をゆがませる。竜平が視線で促す先に、音価がいた。いつから起きていたのか、僕の顔を見てはちきれんばかりの笑顔を浮かべている。

「邑! 目が覚めて、本当に良かった……! もう起きないんじゃないかって、すごく心配だった……。もう、離さない」

 泣きながら抱きついてくる音価。堪え切れずに、ベッドに倒れこんでしまう。

「ご、ごめん、音価。また心配かけたね。っと、僕も良く事情が分からないんだけど、どうなってるの? 僕が二日も寝てたって本当?」

 よしよしと頭を撫でて、音価の機嫌を取る。直ぐ近くに迫る綺麗な顔のせいで、意識が落ちる直前の事を思い出した。顔が熱い。脈が早い。音価にばれてはいないだろうか。

「うん、本当。邑の左腕、多分骨が折れてる。そのせいで邑は高熱を出して、意識が戻らなかった。最初の杞憂が収まった時にはもう酷い状態だったけど、自覚してなかった?」

 ごめん、気付いてた。それも結構前から。

気まずさに顔を逸らした先で、竜平が大きくため息を吐いた。音価の膨れ面が視界の端に映った。

「もしかしなくても、音価は僕の看病を? そっか、ありがとう。また音価に助けられたね」

「うん、助けた。助けられた」

 言って照れたのか、はにかむ音価はどうしようも無く可愛かった。見ていておかしくなってしまいそうなほど。胸が高鳴った。

 それにしても、やっぱり折れてたか、左腕。あんまり痛まないから平気かと思ったけど、単に音価の看病のお蔭だったようだ。

「ねえ、僕でもこんなに酷いのに、羽衣は本当に大丈夫だったの?」

 話を聞いてからずっと疑問に思っていたことを尋ねる。いくら腕が折れていようと、羽衣の方が重傷だったはずだ。元々の体力の差を考えても、もっと重症になっていておかしくない。竜平もどことなく羽衣の体調について話をしなかったし、気になっていた。

「うん、今はもうぴんぴんしてる。貧血もほとんど直ってる。羽衣が元気と言うより、邑が衰弱してただけ。怪我のせいもあるだろうけど、本当に目が覚めなかった原因は心身の疲労だと思う。邑、この一週間でどれぐらい寝てる?」

 事ここに至ってやっと得心した。ああ、思いのほか疲れが溜まっていたのか。そりゃ、いくら骨折でもこんなに寝込むなんておかしい。

思い返してみれば、あまり長い休憩を取った覚えがない。やることは沢山あった。なければ自分で作った。動いている間は、何も考えずに済むから。そりゃ倒れもするか、と一人苦笑いする。

「はは、言われてみればそうだね、あまり寝てないかな。自分で自分を把握しきれないだなんて、まるで子供だね、反省しなきゃ」

「むっ。邑、笑いごとじゃない。これからはちゃんと寝ること。休むこと。いい?」

 珍しく僕に強くものを言う音価。至近からのその迫力に、僕は反射的に頭を下げる。

「ごめんなさい、これからはちゃんと寝ます」

「本当?」

「勿論!」

「分かった。もう、倒れないで。本当に怖かった」

 僕の胸に顔を押し付ける音価。相変わらずいきなりだ。でも、そんな仕草がひたすら愛しい。僕は優しく音価の頭を撫でた。

 と思ったら、いつの間にか音価に服を脱がされていた。

あれ、おかしいなあ。これは当然の介護、という顔をしている音価が不思議でならないよ、僕は。

「ゴホン、あ~、なんだ。俺は邪魔みたいだな。外に出ている。終わったら呼んでくれ」

 そうだ竜平がいたんだった。今更気づいて一気に顔が赤くなる。

「あ、いや、わざわざそんな。って終るって何が!? そんな意味深に笑って出て行かれても困るから戻ってきてお願い!」

 必死の懇願で竜平を呼び戻す。苦笑いを顔に張り付けた竜平は、やれやれ、と首をすくめて僕から音価を引きはがしたのだった。

 

 それから十数分後。腕の状態を確認してから、僕は食事をとることにした。いつも通りの缶詰飯だけど、すきっ腹の僕にはこれ以上ない程旨く感じられる。因みに音価の介護付き。「腕を怪我してるから」の一言で、僕は箸を取り上げられた。嬉しい事は嬉しいんだけど、流石に竜平に呆れられて部屋を出て行かれてしまった。

「はい、あーん」

「ぱくっ、むぐむぐ……うん、美味しいなあ。やっぱり音価の手で食べさせて貰ってると思うと、味も変わってくるよ」

 こんなやり取りを繰り返していたから当然かもしれないけど。

 お互いに恥ずかしくて、必要以上に芝居がかってしまう。でもこんなひと時が幸せで、生きていられた事に感謝した。

 食事をしながら、この二日間の話を聞いた。

ずっとペンションの修繕をしていたらしい。あれだけ壊されていたから、大分大変だったそうだ。窓ガラスの代えなんてないから、窓には木板を打ち付け。壊れた家具を補強して廃棄して。荒れた室内を掃除したらしい。それでもまだ完全には元に戻っていないと言うから、専ら一人で作業に当たっている竜平の苦労はまだまだ続きそうだ。

音価は僕の看病に付きっ切り。羽衣は大事を取って寝ているようにと、竜平が部屋に押し込めていた。気持ちは分からなくはないが、随分と過保護だ。いかにも竜平らしい。昇は部屋に監禁、もとい軟禁。当然ペンションの修繕の手伝いは行えない。

夏弥だけは手伝っていたけれど、割と力仕事が多かったせいで、あまりはかどらなかったようだ。本当にこの二日間は竜平に頼り切りだったという。本人は大丈夫だと言ってるけれど、結構無理をしているのでは、というのは音価の言。明日にでも竜平を無理矢理休ませるつもりだったと音価は言った。

 一通りの話が済んた。食事も終わった。都合よく備蓄されていた鎮痛剤を水で飲み下す。

固定された腕は、動かすとまだ痛んだ。

「変な折れ方はしてないから、固定しておけばその内くっつくと思う。でも当分はそのまま。出来るだけ動かさないで」

 腕を動かそうとした僕を見て、音価が教えてくれる。

 骨折って意外と何とかなるもんだなぁ。これも音価のお蔭か。

「分かった、暫く無茶はしないようにするよ」

「うん、本当に。邑の腕の分、私が手伝うから。色々と」

 最後の言葉が、やけに含みを持つ。相変わらずの音価だ。言葉の端々に罠を張り、言質を取ろうと画策する。悪意何ぞ欠片もないのに、つい癖で背骨に冷たいものが走った。

 色々の中身は想像しないぞ。

「ありがとう、助かるよ。お手柔らかにね」

変わらない音価を見て、僕は自分の気持ちを再確認した。

本当はずっと分かっていた。自分の中に持て余していたものの正体と、音価の好意が本物だという事が。それでも一歩を踏み出せなかったのは、僕が臆病だったからだ。何だかんだと自分に言い訳して、音価の優しさに甘えて。

近づき過ぎる事が怖かった。深く傷つけてしまうことに戦慄した。

だから距離を取ろうと思った。その事によって傷つけてしまったとしても、深く関わることで付く傷よりは浅いから。

でも今は、分かってしまった。人生にそんな悩む暇なんてないぞと。深く傷つけるだけの時間もない、と考えてしまうのは打算だろう。打算でも、切っ掛けになった。ずっと敬遠していた選択。それを再び見出す切っ掛けに。

悔いを残したくないんだ。自分にも、音価にも。傷つけてしまうかもしれない。悲しませてしまうかもしれない。でも、幸せになって欲しい。僕が、幸せにしたい。

「音価。僕が寝込んだせいで有耶無耶になってるけどさ、改めて、僕は音価が好きだ。あまり長くは無いかもしれないけれど、どうか僕と付き合って下さい」

「うん、いいよ。私も邑が好き。愛してる。どんなに短い時間でも、邑と一緒に居たい」

 今まで何度も音価に告白されてきた。でも一度だって、僕から告白したことは無かった。

 だからだろうか。こんなにも緊張してしまうのは。こんなにも音価の事が愛おしく、可愛らしく輝いて見えるのは。

 僕らは互いの目を見つめ合って。二度目のキスをした。

 

 「言い忘れてたけど、羽衣と竜平も付き合い始めたから」

 ……!

 話すことは全て話し、他愛無い会話の最後に音価がそう言った。

「え、なにそれどういう事っていうかこれはお祝いでもあげるべきで僕はどんな顔で羽衣と会えばいいんだろう?」

 嬉しい。竜平の想いが届いたのか。あれ、でも僕、なかば振られたような形になってないか? 何か釈然としないぞ。この間まであんなに僕にべったりだったのに。

「落ち着いて、邑。言葉になってない」

「いやいや、これが落ち着いていられる? だってついに竜平の念願が叶ったって事だよ? そっか、竜平も恋が実ったんだね。何て嬉しい事だろう。でもどんな経緯で羽衣はオーケーしたの?」

 バンッ!

 僕が音価にそう捲し立てていたら、いきなりドアが開いた。物凄い勢いで羽衣が入ってきた。

「それは私が説明しましょうか♪」

 にこにこしながら、羽衣が語り出す。どうして僕たちの話が聞こえていたのか気になるけど、そんなこと今更だ。もしも音価なら、盗聴はおろか盗撮していたとしても不思議ではない。あれ、もしかして僕、音価に大分調教されちゃってるかも。それを不快に思わないことが一番怖い。

ところで、珍しく音価が顔を引きつらせているのはどうしてかな? 悪い予感がするのは気のせいだと思いたい。

「竜平さんって素敵なんですよ♪ だって私のファーストキスを強引に奪って、命まで助けてくれて♪ すっごく優しくて頼りになるし、もう理想の男性ですよ♪ ああもう、早く竜平さんに会いにいかないと♪」

 そして嵐のように去って行った。

 今の誰? あんなに嬉しそうに話す羽衣は見た事ないよ?

 顔の向きはそのままに、音価に尋ねる。

「……要約すると?」

「息を吹き返させられて惚れたみたい」

「簡潔な説明ありがとう」

 性格が変わって羽衣とは思えない。うん、幸せならそれでいいんだけど、ちょっとついて行けないかな。これが竜平のお蔭だと言うなら、喜ばしい限りだ。

「ふ~、やれやれ。起きてすぐに羽衣に惚気られる何てあんたついてないわね。あ、盗み聞ぎしてたわけじゃないからね。邑が起きたって聞いて顔を見に来た時に丁度話が聞こえただけだから」

 羽衣と入れ違いに、夏弥が入ってくる。どこか言い訳気味なのは、僕達の話を聞いていたことへの罪悪感からだろうか。

「羽衣はずっとあんな感じなの?」

 もしもこの二日間ずっとあの調子なら、音価たちはさぞ苦労したに違いない。

「うん。事あるごとに惚気て竜平にくっついてる」

 そりゃ災難な事だ。心の中で二人に同情する。

「そうそう。始めは竜平も、もう死ぬんじゃないかって勢いで喜んでたわよ。今は少し落ち着いてきたみたいだけど」

 竜平はそんな素振り、全然見せなかったな。別に隠す事なんてないのに。恥ずかしかったのかな。

 話を聞く限り、何だかんだで二人の関係は良好らしい。やっぱり僕としてはどこか寂しく感じる部分が無いわけではないけれど、二人が幸せならそれで十分だ。僕にはもう音価がいるし。

「ねえ、あんた今音価の事考えてたでしょ?」

 唐突に夏弥が詰ってきた。どこか責めるような目つきの割に、口元は軽く苦笑い。

 やれやれ、と首を振るくらいなら、見逃して欲しいな。改めて人から指摘されるとくすぐったいよ。

「え、何でわかるの!? そんなに顔に出てた?」

「はぁ……。分かるも何も、音価の方を向いて優しく微笑んでるんだもの。音価も微笑み返してるしさ。ちょっとは私がここにいるって思い出して欲しいわ。全く、急に皆カップルになり出して……。独り身の私はどんどん肩身が狭くなるわよ」

 夏弥はにやりと唇を吊り上げ、肩をすくめた。

 今度は僕と音価が苦笑する番だった。

 

 「それで、昇の事についてだけど」

 その日の夕方。起きてからまだ数時間しか経ってないけれど、僕達はロビーに集まっている。

皆と言っても昇はいない。結局僕は、昇の顔が見れなかった。音価たちに止められたのもあるけれど、何よりも見たら殺しに掛かってしまいそうだったから。

「僕は、あいつを許せない。せめてこのまま軟禁し続けるべきだ」

 集まって早々に、口火を切った。

 皆の顔を見ないように、部屋を見渡すようにして声を出す。修繕の進んだ部屋は大分綺麗になってるけれど、窓ガラスが無いせいで圧迫感を感じる。明かりを点けるために発電機を回しているから、今後の事も心配だ。

 言葉の裏に意味を持たせる。これでも譲歩していると。本来ならば、もっと残酷な仕打ちをしても構わないはずなのだと。

押し黙る皆。これまで避けてきた話題なのかもしれない。顔に影が差す。まるで自分自身が糾弾されているかのように。

これじゃまるで、僕が悪役みたいだ。

でも僕は、怒りを収めようと思わなかった。爽やかに笑って後を続ける。

「昇のした事は、僕達への裏切りだよね。住む場所を壊した。皆の命を危険に晒した。とても許されることじゃない」

 説得や提案などではない。ただ自分に賛同させるため、昇への反感を煽っていく。まずは感情から。次に理性へ。

「このペンションの惨劇を見てみなよ?」

「また発狂しないって断言できる?」

「次暴れたら本当に取り返しがつかないよ?」

「一緒に生活していて安心できる?」

 皆の目から生気が失われていく。僕の言っている事はどれも事実だ。否定できることは何一つない。皆もそれが分かっているから、口を噤んでいるのだろう。

酷く嫌な気持ちになる。隠していた自分の矮小性。他者への根本的な不信感。自己陶酔。薄汚れた自分の心に、皆の手が触れる。

痛い。心が、痛い。

だから僕は、これが最善だと自分に嘘を吐く。

昇の不安は周囲へ伝染するだろう。解決のしようがないから。それだけは避けなければいけない。クオリティオブライフ。僕達が近いうちに死ぬ事は、分かり切っている。今更そこから目は逸らせない。だからこそ、今と言う時間を楽しさや喜びで満たしたい。死ぬ間際に後悔に沈みたくない。人としての尊厳を守りたい。そのために、昇は邪魔だ。

大きく息を吸い、皆を見渡した。何か意見はあるか。そう、目で問い質す。

ゆっくりと口を開いたのは、予想通り、音価だった。

「邑、それは私が昇に傷付けられたから? その復讐なら、私はしてほしくない」

 あれだけの事をされてもまだ、音価は他人を許せる。信じていられるのか。その強さが羨ましい。

音価の発言は間違いなく本心だ。けれど、その実僕の意見を後押しするためのものでもある。これを否定することで、ただの感情任せな結論ではないと皆に分からせるために。

「いや、それは違う。勿論音価が傷つけられたのは許せないけれど、それについて音価が許したのなら僕が口を挟む権利は無いよ」

 僕達の平穏を守るために、昇とはしばらく距離を置くべきだ。

「そう……。ならもう何も言わない。私は邑の意見に賛成。少なくとも、軟禁しておくべきだと思う」

 音価の発言で流れが傾いた。竜平が重たげに意見する。

「うむ、俺も邑に賛成だ。正直あまり感心できるやり方だとは思わない。が、事実昇が邑の判断を望んでいる以上、それに従うのが筋だろう」

「私も賛成です。昇さんが暴れたのは私のせいでもあるので、できるなら自由にしてほしいです。でも、昇さんが邑さんに処分を一任したと言うなら、私が口を挟めたことではないです。邑さんの意見を尊重します」

 次々と賛成が集まる。それを嬉しく思ってしまう自分が、汚らしく見えた。

 残り一人。一番の強敵が残っている。子供の頃から一緒で、僕の威嚇が効かない相手。自分の意思を絶対に曲げない、頼もしい幼馴染。夏弥は僕の目を真正面から見つめ返して言った。

「私は反対よ。いくら何でも軟禁はやり過ぎよ。そこまでしたら、それこそ私たちが人でなしじゃないの。それに邑! あんたはそんなに親友の事が信じられないの? 見損なったわよ!」

 やっぱりだ。予想していたとはいえ、これは堪える。心が折れそうになる。

 やめてくれ。自分が人でなしだなんて、自分が一番よく分かってるよ。だから僕は今まで、精一杯自分を演じてきたんじゃないか。

 眩暈がする程強く奥歯を噛み締め、落ち着きを維持した。

「元、親友だよ。分かってくれ、夏弥。これは僕達の自衛手段であると同時に、昇の自衛手段でもあるんだ。暫く大人しくしていれば、僕だってまた昇のことを信じられる。それまでは、どうか昇にはあの部屋に引き篭もっていてほしいんだ」

 その信用が回復するのが、僕達が死んだ後だとしても。

 最後の一言は、声にならなかった。

「それはそうかもしれないけど、でも、なんか嫌なのよ! これじゃ私たちが昇をいじめているみたいじゃない!」

 夏弥は昔から、本当に大事な所では自分の感情に素直だった。自分が正しいと思った事を、貫き通す。理屈なんかお構いなしに、感情だけで正解を導く。

 だから、僕は夏弥の感情に訴えかけることにした。

「夏弥、本当に昇が自由を望んでいると思う? 今一番後悔してるのは、昇自身だ。昇が欲しているのは、許しじゃなくて罰なんだよ。だから、僕の好きなようにしてくれって言ったんだ。自由にしたら、昇は余計苦しむんじゃないかな」

「……」

 押し黙り、悩み始める夏弥。言っていて、ああ、昇はこんな気持ちだったのかと自分で納得する。

 なればこそ、少なくとも軟禁は継続すべきだろう。改めて、そう思う。そう、自分に言い聞かせる。

「夏弥の気持ちが分かるとは言わない。でも、僕だって昇をこのまま閉じ込めている事に、良い気はしないんだよ」

 幾分の本音。偽りある本心。

 共感を餌に、夏弥を導いた。

「分かった、私も賛成する。でも、様子を見てもう暴れない様だったら、直ぐに軟禁を解いてあげて? それくらいならいいでしょ」

ああ、それでいい。僕も最初からそのつもりだよ。

「よし、これで意見がまとまったね。昇の軟禁は、取りあえず一週間ぐらい様子を見て、それからまた考えようか」

 皆どこか釈然としない顔をしている。でも僕は、言う事だけ言うと一方的に話を終わらせた。疲れたから、と椅子に深く腰掛ける。それでもう、誰も何も言わなくなった。

 心配そうに見つめる音価の視線が、不快に思えた。

 

 昇の強い希望、という事で僕は昇と会うことになった。話合いで決まったことを竜平が伝えに行き、その時に言われたらしい。

強引に決めたんだ。会うぐらいはしたらどうだ?

 そう言って、僕に勧めてきた。口調の割に、竜平は僕の顔色を窺いながらおずおずとしている。

そりゃそうだ。あれだけ昇と対立すると明らかにしたんだ、竜平だって気を使ってしまうだろう。

「そうだね、でも竜平に立ちあってもらいたいな」

 いざ昇に何かされたとして、今の僕じゃ抵抗できない。せめて竜平にはついていてもらいたい。

「いや、二人きりで会いたいそうだ」

 僕の中で、昇への疑念が膨らむ。やはり何かするつもりなのか? それとも単に、腹を割って二人で話したいだけだろうか。

「分かった。なら、途中までは一緒に居てくれ。それで大丈夫だと竜平が思ったら、僕達を二人きりにしてほしい。それでいい?」

「うむ、問題ない。俺も万全を期そう。万が一の時は扉を強く叩け。直ぐに対応する」

 初めからそのつもりだったのだろう。竜平の言葉に迷いは無かった。

「ありがとう、助かるよ。出来ることなら、穏当に済ませたいけれどね」

 そして今、僕は昇の部屋の前にいる。夏の長い日はとっくに沈み、辺りは暗闇で満ちている。このペンション以外で一切明かりが見えないことが、心をざわつかせた。

 隣には竜平。心配なのか、他の皆も後ろで不安げに僕達を見守っている。特に音価。今にもこの面会に反対の意を唱えようとしていることが、姿を見ずとも伝わってくる。

「大丈夫だよ、皆。何も化け物と会ったりする訳じゃないんだからさ、ただちょっと昇と話して来るだけだよ」

 振り返らずにそう言う。

 口調だけは明るく。さんざん昇を非難した自分を棚に上げて。

だから、今の顔を皆には見られたくなかった。きっと凄く醜く歪んでいるから。怒りや憎しみと、言葉にしてしまえば軽いけれど、僕の心はどろどろに濁っている。

「それじゃ行こうか。竜平、よろしく」

 防音の効いている部屋だ。竜平は大声で、僕の来訪を告げる。声が届いていない事も考慮して、ドアを強く叩く。

大きく一つ息を吐いた。竜平は最後に僕を一瞥して、扉を開いた。

 暗い部屋。照明は落とされ、カーテンも引かれている。薄暗いその中で、昇は机の陰に蹲って膝を抱えていた。不意に差し込んだ光に気付き、ぼんやりと顔を上げる。逆光でよく見えなかったのだろう、暫くは虚ろな目を向けているだけだった。が、僕だと気付くとすぐにゆっくりと立ち上がった。僕達は身振りで、椅子に座るように促す。

 昇の挙動を警戒しつつ、竜平がパチリとスイッチを押し、明かりを点ける。人工の光の下、昇の全身が露わになる。

余程の心労からか、頬がこけ、目は落ち窪んでいる。濁った瞳を見てしまっては、昇が正気に戻ったとは信じられなかった。

「頼まれた通り、邑を連れてきた。話したいことがあるんだろう? 生憎俺も同席するが、少ししたら席を外そう。それで構わないな」

僕が後ろ手にドアを閉める。竜平は前を向き、決して視線を外さずに声を掛ける。

「構わない。恩に着る」

 返答は簡潔だった。そしてそのまま黙りこくる。

いざ昇を目の前にして、僕は自分の感情を抑えるので精一杯だった。噛み締めた唇からは鉄の味がして、爪を食い込ませた掌の痛みで平静を維持する。

 嫌な沈黙が場を満たした。もう自分の役目は終わったと言うように、竜平は口を噤んでいる。昇もぼんやりと宙を見詰め、そもそも明瞭な意識があるのかさえ良く分からない。掠れた僕の声でその静寂が破られたのは、部屋に入ってから数分が経過した後の事だった。

「昇、自分の言葉で説明して欲しい。何故あんなことをしたんだ?」

 また静寂。まるで虚空に向かって声を掛けているようだ。

聞こえているのか不審がった竜平が、昇の顔を覗きこもうと一歩踏み込む。それに反応し、やっと昇は声を出した。

「羽衣が、血塗れになってた。怖かった。もうじき死ぬって言う事実を突き付けられた。何も考えられなくなった」

 自分の記憶を漁るため、見開かれたで過去を見ているようだった。

 また黙りこくってしまう前に、続きを促す。

「覚えていないで済ませる気はないよね? それで、どうしたの?」

「ああ、ちゃんと覚えてる。家具が壊れていく破砕音。邑の腕に食い込む角材の感触。音価の首に当てた包丁の柄の固さ。全部、覚えてる」

 蒼穹に押しつぶされて、意識を失うまで。

 僕はまた拳を握りしめた。

落ち着け、大きく呼吸しろ。これ位の事で取り乱すべきじゃない。

他人事のように話す昇が気に食わなかった。まるで自分に責任はないとでも言っているようで、イラついた。

「そうか。冷静になれたのはどうしてだ?」

「杞憂で意識が途切れた。それに、経験して分かったんだ。パニクってても意味ねえ。あんだけ問答無用にぶちのめされたんだ。もう何しても意味何かねえんだってな」

 小刻みに昇の手が震え始めたのが見えた。昇は組んだ手に額を当て、それを誤魔化した。

「もう死ぬのは怖くない?」

 だから、核心を突いた。ここからが正念場。本音を引き出したかった。

 案の定、動揺を見せる昇。一瞬痙攣した後、床を見詰めながら叫ぶ。

「怖ええよ! 死にたくねえよ! まだ生きていたいよ! ……でも、もういいんだ。もういいんだよ。どうせ俺はもうすぐ死ぬんだから」

 縮こまる昇は、虫けらのようだ。せせこましく、自分本位で、浅ましい。

虚無感で我に返ったというのも馬鹿らしい。確かに、あれだけの圧倒的な自然の力を体感して、僕らは悟った。人の力でどうこう出来るもんじゃないと。そりゃ、生きる事そのものが空虚に感じられても仕方ない。

だけれど、昇が恐怖した死の実感も、虚無感からなっているというのに。これじゃ、生きながらに死んでるみたいだ。

「ごめん、邑。本当にすまない。お前たち、とくに邑と音価には酷い事をした。ごめん、俺が悪かった」

 頭を下げる昇。僕は何も言わなかった。その先に、昇が本当に言いたいことがある気がしたから。

「だからさ、いっそ殺してくれよ。俺のこと憎いだろ? 許してくれだなんて口が裂けても言わねぇ。その代り、せめて俺を殺してくれよ。もう先の無い命だ。これで償いたいんだよ……!」

 言うだけ言ってまたうなだれる。僕を直視しようとはせず、床だけを凝視する。

 本当に、自分勝手な奴だ。さんざん周囲を混乱させておいて、死にたくなったから死ぬだと? ふざけるのもいい加減にしろ。

 ふつふつと怒りがこみ上げる。本当に殺してしまおうかと言う考えが頭を過る。

「……竜平、悪いけど席を外してくれ」

 一拍の戸惑いを挟んだ。

「いいのか? まだどうなるか分からんぞ? まさか、本当に殺すだなんて事は……」

「はは、大丈夫、そんな事はしないよ。するとしても、今ここでじゃない。もっとふさわしい場所があるよ。ふふ、流石に冗談だって」

 まだ何か言いたそうな竜平を手で制し、背後のドアを開けた。息を飲む音が聞こえるが、それを無視して竜平に視線を送る。竜平は渋々、といった様子で部屋を出ていった。「何かあったらドアを叩けよ」というのを忘れずに。

「さて、昇。人払いは済んだ。腹を割って話そうか。初めからそのつもりだったんだろう?」

「俺を、殺してくれるのか?」

 問いかけてくる目は本気だ。狂信者のそれと言ってもいい。まるで、僕に殺されることが唯一の救いだとでもいうように。本当に、救いようがない。

「いや、そんな事はしないさ。僕はさ、正直今でも君の事が憎いよ。音価を傷つけた君が、僕達を裏切った君がこれ以上なく憎い。それこそ今すぐに殺したい位には、ね」

 だったら……! と口を開きかけた昇を手で制す。まだ言いたいことは残っている。

「でも殺さないよ? だってさ、それは君が望んでいる事じゃないか。僕はそんな事はしない。君に希望を与えるだなんてしたくない。もっと苦しめば良いんだよ。それこそまた狂う位にね」

 堪え切れずに口角が上がる。笑顔になってしまう。

もういいや。今更昇相手に取り繕っても何の意味もないじゃないか。

諦めて、僕はにこにこと笑いながら昇の目を見詰めた。

「……本当にブチ切れてるんだな、邑」

「うん、そうだよ。だから、当分の間君を監禁させてもらう。勿論命は保証するけどね」

昇の目が、悲しげに揺れた気がした。

止めてくれ、決心が鈍る。

嬉しい。もっと苦しめ。

やめろ、そんなこと思うな。もう汚れたくない。

「で、だ。君に一つお願いがあるんだ。なに、簡単な事だよ。しばらくしたらさ、ここを出て行って欲しいんだ。どうかな、やってくれるよね?」

 今度こそ、昇の目に絶望が過るのが見えた。ぼんやりと僕を見上げ、そのまま固まる。

僕は、動かない昇に近づいた。その喉に優しく手を添える。薄い肌一枚を境に、昇の呼吸と血の流れが手に伝わる。ゆっくり、ゆっくりと、優しく、真綿のように締めていく。

目を見て、言う。

「やってくれるよね、昇?」

「……ああ、分かった。お前の言う通り、ここを出て行くよ」

 安心した。安堵した。ほっとした。

 これで僕の目的は達成された。昇は自発的に、ここを去っていく。危険は排除されるんだ。昇も、この場所で焦って不必要に傷つくことはないだろう。

 不意に、昇が笑っている事に気付いた。また気が振れたのかと心配になる。

「はは、はははは、でもさ、やっぱり俺はお前に見捨てられたんだな。はは、そっか。そうか……」

 涙は頬を伝い、僕の手に触れた。人肌の温もりがあるその雫は、昇が完全に元に戻った事を、僕に教えてくれた。

「ねえ、どうして僕がこんなに怒ってるか分かる?」

「お前を裏切ったから、だろ?」

 正解。そう、その通りだ。僕を裏切って、僕達を傷つけた。

裏切りは、許されてはいけない。何があろうとも、人は人を裏切ってはいけないんだ。

流石に昇はよく分かっている。無駄に付き合いが長いだけはある。

「そうだよ、だから僕は本気で怒ってるんだ。でも……どうしてかな、お前を見捨てたくは無いんだよ。許せないっていう理性がある。許したいっていう感情がある。本当に憎いのに、殺したいとも思ってるのに! それでもお前を、助けたいんだ……」

 そうだよ、何年親友やって来たと思ってるんだ。許せないよ。許せないけど、何とかしてやりたいよ……!

「ははは、そっか、やっぱりお前は優しいよ、邑。ありがとな。こんな俺を、許したいだなんて言ってくれて。俺は馬鹿だから、お前が何を考えてるのか、あんましよく分かってねえ。でもよ、お前が間違ってないって事だけは、よく分かってる。だから、お前は、お前の信じる事をやってくれ」

 いつの間にか下がっていた僕の手。その手に伸ばされる昇の手。励ますように、励まされるように手は空を掻いた。

きっと、思っていたよりも昇は弱くなかったって事だろう。僕の本心を吐露できるほど、昇は自分を持ち直したんだから。

「なあ邑。ここを出てけってのも、なんか理由があるんだろう?」

 何の邪気も感じさせずに言う。気楽な世間話のように軽い調子。それままるで、いつも通りの日常にいる昇のようだった。

 言うかどうか決めかねていた思いが、ここで固まった。

「昇はさ、ここにいて、何か生きている意味を見いだせると思う? 思わないはずだ。だから、昇は自分を見失ったんだ。それは、ここにいる限りずっと続く。きっとまたいつか、心が壊れかける日が来ると思う。」

 停滞は、焦りを生む。その焦りが、心を蝕む。現状に満足していないなら、何かを探しに出掛けなければいけない。そうやって、自分を誤魔化すんだ。

「昇には、昇の生きる意味、つまり生き続けるってことを目指して突っ走って欲しい。それは、ここで死を待つよりも、昇にとってずっと有意義なものだから」

 きっとどこを探しても、生き続ける術など残ってはいないだろう。けれど、あると信じて追っていれば、追っているその最中は、幸せでいられるはずだ。

 偽らざる本音。昇は、これを受け入れてくれるだろうか。

「なるほど、つまり逃げ続けろってことだな? 俺らしくて、いいじゃねぇか」

 半分は強がりだろう。もう半分は、自分の進む先が見えたことの喜び。そうであれば嬉しい。

「死を怖がるってのは、生への執着だ。生きる事そのものに価値を見出しているんだ。だから、昇。お前は死ぬ直前まで生き続けて欲しい」

 大きく深呼吸。どうやら昇も、自分の行く先を決めたようだ。もうこれ以上語る言葉は必要ない。

「一週間後、ここを出て行く。いろいろ迷惑かけちまって、すまねえな」

「ああ、分かった」

本当は僕自身、これが最良の選択なのかどうか分からないでいる。昇も皆と同じように、ここで死ぬまで暮らす方が幸せなのかもしれない。でもやっぱり、それは昇の生き様に合わないと思う。だから、これがきっと今取り得る中で最善なんだ。

「昇、僕もね、そのうちここを出て行くつもりなんだ」

 ゆっくりと、自分の秘密を打ち明けるように話す。

 ずっと考えていた事だった。ここは確かに居心地がいい。最期はここで過ごしたい。でもそれまでに、世界をこの目で見ておきたかった。楽園のようなこの場所の外を。

「最後に、ここ以外の場所を見て来たい。それでもう一度、この世界は美しいんだって、そう感じたいんだ。たとえ荒れていたとしても、日々の生活の残りがそこにあるから」

 昇は呆れた顔をする。こんな時に何を暢気な。言わずとも伝わってくる。

 だからさ、進む方向は違っても、進む先は一緒なんだよ。

 座ったままの昇に、僕は手を差し伸べた。心の底から、偽りのない笑顔が浮かぶ。

「昇、僕は君を許さない。許さないから、お互い勝手に生きて行こう」

「ああ、分かった」

 そして僕らは、固く手を握りしめた。

 それまであった互いの友情を確認するように、もうこれからは無いだろう友情を惜しむように。

「あ、そうだ。まだ音価の事についてけじめをつけてなかったね。一回殴らせてもらっていいかな?」

 忘れていた訳じゃない。音価への非道を忘れられるものか。ただこれは、最後、話が終わった後にしようと思っていた。

 音価は、無条件で人を許すから。これはお互いの為に、必要なけじめだ。なくてはならない、罰もある。

「ああ、いいぜ。悪いな、音価を巻き込んで」

 ばつが悪いのか目を逸らしながら、昇は立ち上がった。

「これで終わりにしよう。だからもう謝らなくていい。この一発で、今までの件については全部終わり。それでいいかな?」

「ああ、それで頼む。強いのを頼むぜ? これで終わりだからな、後悔しないように殴ってくれよ」

 にやっとした、昇の強がり。僕も笑ってそれに応じる。お互いに目を見詰め、軽く頷いた。

棒立ちの昇。僕は右手を強く握りしめ、肘を大きく引いた。腰をいれ、拳に体重を乗せて、力いっぱい昇を殴った。

 ドンッッ!

 と大きな音がして壁にぶつかる。

「どうした!」

 とすかさず開く扉。すぐに部屋に入ってきた竜平は、この惨状を目の当たりにして目を白黒させる。

 まだ本調子でない僕の体は、この程度でも音をあげてしまう。息を切らし、傾ぐ体が誰かに支えられる。

 横を見ると、音価が僕の腰に手を回していた。ありがとう。僕の感謝にこくりと頷き、「何があったの?」と上目使いで訊いてくる。

「うん、全部話すよ。でもその前に、昇の手当てをしよう。大した怪我はしてないはずだけど、一応ね」

 唖然としている皆を仕切って、僕は皆とロビーまで下りて行った。

 

 昇の手当てが終わった。まあそんな大仰なものじゃない。頬が腫れ、口の中が切れただけだから、消毒してガーゼを貼っておしまい。今度こそ全員が揃って円卓に座る。

「で、何があったのか説明してくれるのよね?」

 夏弥が真っ先に話を切り出した。何がどうなっているのか分からない、といった表情で。

 口を開きかけた僕を遮り、昇が話し始めた。

「別におかしなことは何もしてねえよ。ただ、けじめつけてただけだ。最後に俺が殴られて、終わり。これまでの事は全部水に流そうって、それだけだ」

 上手くまとめてくれる。だから僕もそれに便乗した。

「うん、そうだよ。これで僕達の間には禍根を残さないって、そういう事だよ」

「え、じゃあ昇を監禁しなくてもよくなったの? なによ、邑もあんなこと言ってた割に甘いんだから」

 嬉しそうに言う夏弥。それはそうだ、結局自分の思った通りに話が進んだと思ってるんだから。

 僕は昇に視線を送った。この先を話す事を躊躇うのなら、僕が後を引き継ごうと思った。でも、それは無駄な心配だった。

「いや、それは違う。俺は決められた通り、これから一週間ここに閉じ込められる。それに変わりはねえ。それと……」

 ごくりと一回喉が鳴った。

「一週間後、俺はここを出ていく。行先はまだ決めてねえがな」

「「……!」」

 無言で驚く皆。緊張が走る。案の定、最初に声を出したのは夏弥だった。

「ちょ、ちょっとなによそれ!? 何でそんな話になってんのよ!? 邑! あんたが言わせてるんでしょ? どうなってんのよ!」

「僕に訊かないで、昇に訊きなよ。まだ昇は話してる途中だよ」

 目を伏せる夏弥。俯いたまま、か細く声を繋ぐ。

「どうなのよ? 本当に、自分の意思で言ってるの?」

「ああ、自分で決めた事だ。このままここにいても、俺はすることがないからな。ならいっそ、ここを出て行こうってな。俺はさ、無理だと分かっていても、最期まで生きる事を諦めたくねえんだ。意地汚く生き続けていたいんだ。そう、思えたんだよ」

 どこかしんみりとした沈黙が流れる。皆、今昇が言った事を噛みしめている。

音価が僕にアイコンタクトを送ってきた。「本当?」と。僕は小さく頷く。音価はそれを受けて、沈黙を破る。

「昇、私の意見を言う。間違いなく、私たちは二か月後には死ぬ。もうこれは変えられない。どんなことをしても死ぬ事に変わりは無い。それでも行くの?」

「ああ、無理だってのは俺も分かってるさ。けどよ、俺にとってはここで死を受け入れるってのは、生きることを諦める事なんだ。そしたらもう、俺が生きてる意味なんてねえんだよ。俺は生きる為だけに生きたいんだ」

 熱っぽく、力を込めて昇は言う。それはもう、僕に唆されて出てきた言葉ではなく、昇自身の言葉になっていた。

 僕は目頭に熱いものがこみ上げて、一人そっと俯いた。

「うむ、お前がそう決めたのなら、俺は反対しない。出来る範囲内で協力しよう」

「ええ、そうですね。昇さんのその考え、私には賛成できませんが、理解は出来ます。どうか気の済むまでやりたいことをなさって下さい」

「ああ、ありがとう。」

 皆が各々、納得した顔で互いを見る。それぞれの信念は違っても、それを受け入れるだけの器が、皆にはある。

 受け入れられないのは、夏弥だけだった。

「な、なにをすんなり納得しちゃってるのよ皆! ここから離れたら、もう二度と会えなくなるかも知れないんだよ!? せっかくこんなに快適な場所があるのに、みすみす手放さなくてもいいじゃない!」

 何かに恐怖しているように捲し立てる。信じられない物を見るような顔をする。

それを聞く昇は、夏弥とは正反対に冷静だった。

「確かにここは快適だ。でもよ、俺はこの快適さが嫌なんだ。快適な環境に甘んじて停滞していたくない。いくら怖くたって無謀だって、俺はまだ死にたくねえ。何度も言うが、何度だって言うが、俺は死にに行くんじゃなくて、生きに行くんだ」

 目に力がこもり、夏弥が怯える。怯えて竦んだ首を頷きと取ったのか、昇は夏弥との会話を打ち切った。

昇は最後に、皆を見回して言う。

「あと一週間で、俺はここを出て行く。勝手言うようだが、今までありがとう、皆。皆との生活、結局俺がぶち壊しちまったけど、楽しかったってのは本当なんだぜ」

 んじゃ、俺は部屋に戻るわ。ちゃんと監禁されないとな。

 言うだけ言って、昇は階段を上っていく。

 夏弥を除いた僕たちは、各々に昇の決断に賛成の声を上げて会話を始めた。どこに行けば助かりそうか、どこが危険なのか。所詮は机上の空論に過ぎない議論を、昇のために続ける。それが自分たちへの気休めに過ぎないと分かっていながら。

 座して死を待たず、立ちて生を求む。

 昇の意気込みは、間違いなく僕らに伝わった。色々と有ったけれど、今は出来る限り昇を応援したい。それは、僕達が採らなかった一つの道に違いないから。もしかしたら有ったかも知れない、自分の姿に見えたから。

そんな事を考えていたからだろうか。僕は、いつ夏弥が席を立ったのか気付かなかった。

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