目が覚める。
もう一度、微睡みへと向かいそうな体を無理やり起こす。3年間も続けていれば慣れそうなものだけど、私はそう上手くは行かなかった。辛いものは辛いのだ、特に私の様な人間には。
ふと横を見るとユカリが静かに寝入っていた。先の一件以来、家との確執も無くなったので家から通うものと思っていたのだけどそうではなく、今はここ百花繚乱の宿舎で寝泊まりをしている。本人曰く「先輩方ともっと一緒にいたいんですの!」とのことだったが、キキョウもレンゲもここに寝泊まりしていない今、その価値はあるのだろうか、と思ってしまう。
──そういえば寝返り一つうった気配が無いのだけれどこんなところにも良家の教育が響いているのだろうか…?それとも安心して熟睡しているだけ…?だとしたら私は───。
そんな考えを頭を振って振り払う。こんなこと考えるべきじゃないとわかっているのに。
また思考の網に捕らわれないように、洗面所へと身体を動かす。──私はそれしか逃げる術を知らなかった。
ギシギシと床板が悲鳴をあげる。キキョウ曰く、調停室の方は先生がやって来た時に何故か一緒に直してくれたらしいが、宿舎にはまだ手が回っていなかった。出来れば早めに直してしまいたいが、如何せん今の百花繚乱には人手が足りないのだった。もう一度先生に手伝って貰えればあるいは早く直すことが出来るかもしれない。だが先生は多忙な身だ。そんなことでいちいち来てもらうわけにはいかない。───いや、呼べば来てくれるのだろう。自分がどれだけ疲れていたとしても無い時間を無理やり作り出して。そして私達の前ではなんでもない事のようにヘラヘラと笑うのだ。あの人はそういう大人だ。
以前考えたことがある、「本当の自分を隠して偽りの自分を演じることの何が悪いのかな、そんなことはよくあることだよ。」そう言ってくれた先生の本当の自分は何なのだろうと。変な人で、案外抜けている人ではあると思う。生徒におんぶして貰ったり、頭の匂いをかぐこともあるらしい。あと、シャーレの仕事量的に生徒に手伝って貰うのは仕方ないとは思うが、私的な買い物すら管理されているのは流石にどうかと思う。それに、私に無限焼き鳥の幸せスパイラルっ子と言ってきたのもそうだ。───まああれは緊張を解すための冗談のつもりだったのだろうけど。
見聞きする噂を鑑みるに、人間的には完璧な人ではないのだろう。では先生の見せる「先生」の部分はそんな人間が演じている役なのだろうか。いや、少なくとも私はそうは思わない。完璧でない部分も「先生」の部分も、どちらも先生の本質なのだろう。
そうでなければここまで多くの生徒から信頼を勝ち取ることも無かっただろうし、文字通り身を削ることも無かっただろう。そして短い時間ではあるものの、先生と関わりを持った自分の直感がそれを裏付けていた。
顔を上げて鏡を見る。そこにはいつもと変わらない、弱くて空っぽの人間の姿があった。そう、私には何もなかった。先生のような聖人さも、ユカリのような折れない心も、レンゲのような勇気も、キキョウのような優しさも。そしてアヤメのような人を引きつける魅力もなかった。
だからあのお祭りの日、私は偽りの仮面を被ることにした。百花繚乱の委員長代理、御稜ナグサをいう役を。その決意は今も変わっていないし、これからも変わることはないだろう。
だけど、いくら考えないようにしていたとしても、「私は上手く役を演じることが出来ているのだろうか。皆に失望されてはいるのではないか。」という思いからは逃げることができなかった。
さっきのユカリの寝姿を見た時だってそうだ。頼りになる先輩として見られているか、さっきの振る舞いは委員長代理としてふさわしいか、そんな思いがふとした時に私の足を止めるのだった。「私はアヤメにはなれない。」だからこそ私は委員長代理という仮面を被った。だけどアヤメの影に隠れることしかしてこなかった私には「委員長代理はどのように演じれば良いのか」そんなことも分からなかった。
凍りそうな冷たさの水を手に溜めて顔に掛ける。その後は訓練場でひとり鍛錬をする。ずっと、ずっと続けてきたことだ。アヤメの側にいても恥ずかしくないように。けれど、ここにアヤメはいない。私は何のためにこの鍛錬を続けているのか──委員長代理として続けるべきだと思っているのか、ただ単に習慣として続けているだけなのか、あるいは──アヤメがいなくなってしまったことを受け入れられていないからなのか、わからなかった。私にはわからなかったの。
──私はあの日、大きな決断をしたつもりでいたけれど、その実何も変われていないのかもしれない。
訓練場に着くと珍しく先客がいた。それなりに大きな空間である訓練場にひとりぽつんと佇む姿は、待ち人がいるような雰囲気だった。
「──キキョウ、今日は早いんだね。」
「少し野暮用があったから…。」
「…」
「…」
──会話が続かない。けっこう勇気を振り絞って自分から話しかけてみたけれど、その後がダメダメだった。──あの日以来、キキョウとは上手く話すことができていない。百花繚乱に関することや、挨拶くらいならなんとか話せているが、それだけだった。時々、キキョウが気を使って話しかけてくれるけど、答えに詰まったり、話を続けられなくてそこで終わってしまう。「前はどうしてたっけ。」そう考えた数は考えたくもない。何か言わなければと話すことも決められてないのに口を動かそうとした時。
「ナグサ先輩…その…。」
また沈黙が流れる。実際に流れた時間としては短く、体感時間としては永遠にも感じられるような時間だった。私はその言葉の続きを指先一つ動かすこともできずに待った。知らず知らずの内にアヤメの銃、百蓮を抱える手に力が籠っていた。
「この前の魑魅一座の起こした事件の報告書、読んでくれた?」
「えっ、あっ、一応読んだよ…」
「──そう…。」
まただった。何度自分は過ちを繰り返すのだろう。やっぱりこんな自分じゃ上手く演じることなんて──。そう考えてしまった時だった。
「少し野暮用があったから…。」
「この前の魑魅一座の起こした事件の報告書、読んでくれた?」
自分の口から出てきたのはそんな言葉だった。本当は野暮用などではなく、あの日伝えることが出来なかった言葉を伝えるために朝早くここに来たのだった。だけど、その言葉を素直に伝えるにはあまりにも私は天邪鬼だった。
そうして言葉を紡げずにいると、ナグサ先輩の表情が変わった。あの日以来、時々するようになった、どこか怯えているような、不安がちな顔。そう、あの顔だ。あの顔を見る度に怒りが込み上げてくる。大方、自分のことを卑下して自己嫌悪に陥っているのだと思う。けど私が腹が立つのは、それでうじうじしている事じゃない。私の大切な人が大切な人を貶しめていることが我慢ならないの。
だから、もうそんな顔をさせない為に今度こそ伝えなければいけない。そう心に決めて顔を上げようとしたその時。
爆発音が聞こえた。それとほぼ同時に商店街の店主が駆け込んできた。
「助けてくれ!商店街で不良達が暴れてるんだ!」
とりあえず軽く状況を聞いて、すぐに現場に向かわないと、と思ったその時。
「キキョウ、貴方はこの人から状況を聞いて作戦を建てておいて。私はレンゲへの連絡とユカリを起こしてくる。」
雰囲気が一変していた。先ほどまで胸元で縋るように抱えられていた百蓮は戦い、守る為の道具として握られ、どこかしどろもどろだった声色は冷静で落ち着いたものになっていた。
「わかった、こっちは任せて。」
「ありがとう。」
頷くと、すぐに宿舎の方に駆けていった。その姿を見送る。その姿が偽りであろうと演じたものであろうと構わない。ああ、その姿は私の敬愛する百花繚乱の委員長代理、御稜ナグサそのものだった。