「ぐおぁぁぁっ!?」
全身を稲妻に貫かれたような痛みを感じて、男は跳ね起きた。
両手、上半身、下半身と確かめていくが、目立った傷はない。先ほど感じた痛みも引いている。
「なんだったんだ、あの痛みは……」
「目覚めたようですね」
背後から聞こえた声に、男は振り返った。
そこにいたのは、奇妙な道士服を着た眼鏡の青年だった。温厚そうな顔つきではあるが、その視線はゾクリとするほどに冷たい。
男は思わずつばを飲み込んだ。
「……誰だ?」
「于吉と申します。あなたは?」
陰気な声で、青年は名乗った。そして問い返す。男は名乗り返そうと口を開くが、言葉が出てこない。
いや、出てこないのは言葉ではない。問いに対する答え、すなわち自分の名前だ。
「俺は……誰だ?」
「ふむ。記憶が混濁しているようですね」
于吉の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。だが男は気づかない。それどころではないのだ。自分が何者か分からない。これほどの恐怖はそうそうない。
「まずは、自分の顔を確認するといいでしょう」
懐から取り出した丸鏡を男の前に差し出す。そこに映ったのは、端正な顔立ちをした青年の姿だった。肌は陽に焼けたような褐色で、髪は白に近い銀色だ。
「これが俺……か?」
自分の顔をペタペタと触りながら、他人事のように呟く。自分の顔なのに、まるで親しみもなく、実感もない。
「ここはどこだ? 病院か?」
「いいえ。体が動くようなら、外にでも行きましょうか」
于吉に促され、男は寝台から足を降ろした。立ち上がり、身体の具合を確かめる。特に異常は感じられなかった。
扉の外は人の波で混雑していた。だがその街並みに、男はいささかの見覚えもなかった。
「どこだ?」
「ここは洛陽ですよ」
「……洛陽? それって中国……だよな? 俺は中国人か? いや、これ、日本語だよな」
混乱した様子で男はつぶやいた。いまだに名前は思い出せない。それでも記憶が綺麗さっぱり飛んでいるわけではない。
赤ん坊状態になっているわけではなく、言葉や基本的な知識は残っているようだった。
「そろそろ本題に入りましょうか。あれを見てください」
男は混乱しながらも、于吉の指差す方向に視線を向けた。そこには煌びやかな鎧を身につけた金髪の女性が高笑いしているところだった。
全然中国人っぽくないな、と思いながら男は女性を見つめる。そして、その女性と従者との会話が聞こえてくる。それが耳に届いて、男は眉根を寄せた。
「……いま袁紹様って言ったよな。袁紹って三国志に出てくる袁紹か? いやでも、あいつ女だし……同名か? 子供に信長とか幸村と名づけるようなモンか……」
子供に偉人の名前を付けるというのは、十分ありえるだろう。
「いえ、あれは間違いなく袁紹ですよ。袁本初です。三国志に出てくる武将のね」
「……袁紹が女? いや、それよりも三国志? 古代中国? まるで意味が分からんぞ!」
混乱を通り越して、男は軽い恐慌状態に陥った。自分の名前も分からない。この世界もわけが分からない。
「落ち着いてください。ここは正史と枝分かれした外史の世界。いわゆるパラレルワールドです。三国志に登場する有名武将の多くが女性になった世界ですよ」
「なんだよそりゃ。たちの悪いエロゲーみたいじゃねぇか。中国からクレームが来るだろ」
「性別転換ネタは江戸時代からありましたよ。曲亭馬琴の『傾城水滸伝』は有名ですよね」
「いや、知らねぇよ! つーか三国志じゃなくて水滸伝かよ!」
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。そんな大声を出すと気づかれますよ」
于吉はやれやれといった様子で男を宥める。その言葉に、男は違和感を覚えた。
「気づかれるとマズいのか?」
「ええ、まあ。話を続けましょう。あちらをご覧ください」
于吉が手を伸ばした方向に視線を向ける。そこには紺を基調とした衣服に身を包んだ金髪の少女がいた。ちょうど先ほど見た袁紹を小柄にしたような感じだ。そして、それ以上に男の目を引いたのは、その隣にいる青年だった。
「白い学生服か? なんかすごい場違いな感じがするな」
「彼を殺してください」
「……殺す?」
「ええ、これで」
于吉はどこから出したのか、男の手に弩を握らせた。
「いや、待て。なんで俺が人殺しなんてしなくちゃならない!?」
「元の世界に戻るためですよ」
「……あいつを殺せば元の世界に戻れるのか?」
「ええ」
于吉は男の目を見つめながら答えを返す。その言葉は、男の心に不思議なほどスッと入ってきた。
「場所を変えましょう。彼を狙える狙撃ポイントまで。移動中に弩の使い方を説明します」
「ああ」
移動しながら、弩の使い方を習う。屋根の上に身を伏せ、標的を狙う。陽光を照り返す白い服は、格好の的だった。
放たれた矢は、青年の胸に突き刺さった。
◇
「随分と手懐けたものだな」
薄暮の中、左慈はなじるように于吉を睨みつけた。
「気に入りませんか? このやり方は」
「ああ。直接手を下す方が俺好みだ」
「僕たちが動けば、やつらも動きます。ですが、自殺ならやつらは動けません」
于吉は口元に陰惨な笑みを浮かべ、くつくつと笑った。
「おまえのことだ。ただ魂を写し取ったわけではないのだろう。普通の人間なら、ああも簡単に殺人を犯すとも思えん」
「たいしたことはしていませんよ。毒を一滴垂らした程度です。やりすぎると別人になってしまうのでね。それでは自殺になりません」
「回りくどいことをする。やはり俺の
そう言い残して、左慈は闇に消えた。
于吉はやれやれと肩をすくめ、次の外史へと足を運ぶ。
そこではちょうど、件の青年が目を覚ましたところだった。
「成し遂げたようですね」
「于吉! どういうことだ!? 元の世界に戻るはずじゃなかったのか!? 俺は確かにあの男を……」
「ええ、殺しました。北郷一刀という特異点を失い、外史は閉じた」
「だったらなぜ……? ここが日本じゃないってことくらいは分かるぞ」
「決まっているでしょう。次の外史ですよ」
于吉はこともなく言い放った。青年は呆然とその言葉を聞いている。
「外史は無数に増え続けています。ことが簡単に終わるのなら、あなたの手を借りずとも自分たちでやってますよ」
まるで感情のこもっていない言葉に、青年は舌打ちする
「じゃあなにか? その無数に増え続けている外史とやらを全部閉じなきゃならないってことか? ふざけろ! キリがないじゃねぇか!」
「キリはありますよ。増えるスピードよりも速く外史を閉じればいい。いずれは終わります」
「気の長い話だな。今ある外史の数は分かっているのか?」
「聞きたいですか? 昨日までの時点で99,822ですよ」
「9万……」
それが多いのか少ないのかすら分からない。分かっていることは、自分が9万回以上の外史で北郷一刀を殺さなければならないということだった。
「諦めますか?」
「……諦めたら、どうなるんだ」
「北郷一刀が死ぬか、あなたが死ぬか。どちらかの条件が満たされれば、あなたは次の外史へと飛ばされる」
于吉が無慈悲に告げる。青年はギリィと奥歯を噛みしめた。死んで楽になるという選択肢はない。まるで無間地獄のように感じた。
「
「クソがっ! やればいいんだろうが!」
地面を蹴り上げ、青年は悪態をつく。
「で、この外史の北郷一刀はどこにいるんだ?」
「公孫賛のところにいるようですね。この方向に真っ直ぐいけば村がありますよ。武器と食糧、少しですが銭も渡しておきましょう」
于吉は懐から取り出した物資を青年に渡す。
「この外史は任せました。僕は他の外史へと向かいます。手分けした方が効率が良いのでね。ああ、名前がないと不便でしょうから、とりあえずは
そう言い残して、于吉は消えた。
「クソがっ!」
懲りずに悪態をつきながら、盧生は地面を蹴りつけた。
サクサクいきます。