一夜明け、いまだ目の前で眠り続ける女性を眺めながら、盧生は考える。
こいつ誰だ? と。
実は何度も外史を渡りながら、盧生は孫堅と出会ったことがなかった。
北郷一刀が孫家にいた時は、孫堅はすでに死んでいて、盧生は出会わなかった。
他の地に落ちた時に生きている外史もあったが、盧生は出会う前に殺された。
(容姿からみて孫策の親類ってことは間違いないだろう。可能性が高いのは母親……性別が逆転しているのが外史なら、こいつは孫堅か?)
猪肉の燻製を齧りながら、盧生は図らずも正体を看破した。
そのまま燻製肉を食べ終え、さてどうするかと考え始めた時、女性の目がゆっくりと開いた。
首がくるりとこちらを向き、二人の視線が絡み合う。
「……劉表の配下か?」
「まさか。ただの旅人だよ。あんたが流木と河遊びをしていたんでな。お節介かとも思ったが、引き上げさせてもらった」
「……そうか。オレは矢に射られて……」
女性は一瞬だけ眉根を寄せて、小さくため息を落とした。
「まずは礼を言おう。オレは孫堅、字は文台だ」
「盧生、字は無常だ」
とそこで、孫堅の腹の虫が盛大に声を上げた。
「粥ならあるぞ。食べるか?」
「ああ。もらおう。あと肉もな。持ってるんだろう?」
鼻をひくひくと動かしながら、孫堅が獰猛な笑みを浮かべた。盧生は肩をすくめて、燻製肉を差し出した。
粥を豪快にかき込み、燻製肉を咀嚼する。毒から快復した直後とは思えないほどの快食ぶりだった。
食事が落ち着いた頃合いをみて、盧生は情報収集を始める。
「天の御遣いってやつを知ってるか?」
「あん? 管輅とかいう占師が広めたっていう与太話か? おまえそんなモン信じてるのか?」
孫堅は呵々と笑いながら燻製肉を噛みちぎった。
「ありゃ、民衆の願望だろう。それほどこの国は乱れている。黄巾どもも落ち着いたとはいえ、漢の腐敗はいきつくところまでいっちまった。宦官と腐れ儒者どもをどうにかしない限りは、この国も長くねぇだろうよ」
その言葉に、盧生は息を呑んだ。
(まさか山に籠っている間に黄巾の乱が治まっているとは。それにこの反応だと、北郷一刀は孫家にはいないようだな)
何度も外史を繰り返した盧生は、ある程度外史の流れを知っている。この後は反董卓連合が結成される。
(黄巾後ということは、孫堅は官軍や曹操らと合同で黄巾賊の鎮圧にあたったはずだ。なのに天の御遣いを知らないということは……董卓のところか。厄介なところにいやがる)
董卓陣営には、ほぼ間違いなく呂布がいる。難易度は一気に跳ね上がった。
「食い終わったら
「おまえはどうするんだ? 礼ぐらいさせてくれよ」
「洛陽へ行く。急いでいるんでな、気持ちだけもらっておこう」
「ならばオレも行こう。案内くらいはしてやれる」
「……いや、帰れよ」
盧生は割と本気でそう言った。
「そう言うな。借りを返さねぇままなのは収まりが悪い」
「あんた確か、刺史だか太守だか、ともかく役人なんだろう。いなくなったら大変なんじゃないのか?」
「ハハッ、そんな大したモンじゃあねぇよ。オレが死んだ後は、娘がなんとでもするだろうさ。この程度で折れるようなら、孫家もそこまでってこった。孫文台は死んだ。これからは若いやつらの時代さ」
盧生は呆れたように嘆息した。無責任というか、娘を信頼しているというのか。
(いや、自由なんだ、こいつは……)
そう思い直して、盧生は少しだけ孫堅が羨ましくなった。
「孫堅が死んだなら、別の名前が必要だな」
「む? そうだな、どうするか……なにかあるか?」
「侯景はどうだ?」
「侯景……由来はあるのか?」
「
「ほう。悪くないな」
意外と乗り気な孫堅だった。
「ふふっ、名前も決まったところで、旅をするなら武器が必要だな。おまえの剣……相当な業物だな。ちょっと見せろ」
返答を聞く前に、孫堅は盧生の脇に置いてあった剣を手に取った。
「ふむ、やはりか。南海覇王にも劣らぬ業物だ。どこで手に入れた?」
「袁家の蔵から」
それを聞いて、孫堅は目を丸くした。
「くはははっ、袁家から分捕ってきたのか。そりゃ業物のはずだ。バレたらどうするつもりだ?」
「俺は盗んだやつから貰っただけだ。つまり善意の第三者だよ」
この剣は山籠もりしている時に、左慈が調達してきたものだ。袁家の倉から盗ってきたらしいが、袁家にもプライドがある。賊に入られたとは言わないだろう。そもそも袁家くらいになると、蔵の中身をすべて把握しているのかも分からない。それほどの財力なのだ。
盧生は善意の第三者と言ったが、事情を知っていて譲り受けたので、厳密に言えば違う。まあそんな法律なども存在しないが。
良質な武器を手に入れるのも簡単ではない。世に流通している一般的な数打ち物は青銅製であり、脆い。
キンキンキンキンポキッ、くらいの強度しかない。ひとつランクが上がると鉄製になり、もうひとつランクが上がると鋼製になる。
そこまでのクラスになると、基本的には一般の商店には出回らない。手に入れるには、金とコネが必要になってくる。
「気に入ったのなら貸してやるよ。丸腰じゃあ危ないからな」
「……そりゃありがたいが、おまえはどうするんだ」
「俺には
左慈との修行も基本的には拳法だった。これは左慈が拳法家だったというのも理由のひとつである。
「ほぅ。ならば腕試しといこうじゃないか」
「うん?」
「条件は対等だ。オレも無手で戦う」
「それは……大丈夫なのか?」
「戦場では武器を無くすこともある。そこで待ったなんて言えんだろう? 格闘術も
孫堅は獰猛な笑みを浮かべて盧生を睨みつけた。
「病み上がりに無理するな」
「毒は抜けている。肉を食ったら体力も戻った」
「肉食ったら回復するって、どんな理屈だよ」
半ば呆れつつも、盧生はその申し出を受けた。場所を表に移し、二人が向かい合う。張り詰められた気が二人の間で弾けた。
盧生は左腕を前に出した半身の構え。対する孫堅は、だらりと両腕を下げた脱力の構え。その構えから、一直線に突っ込んできた。
小刻みに揺れる孫堅の鼻っ柱に標準を定め、盧生はジャブを放つ。それをかいくぐるように、孫堅の体勢がさらに低くなった。
超低空の弾丸タックルだ。
(――寝技に持ち込むつもりか)
孫堅はそこらの男と比べても大柄だ。盧生とは頭ひとつ分以上の差があった。
寝技の格言にこういうものがある。
手よりも足を使え、足よりも頭を使え。
(猪突猛進の戦バカかと思っていたが、そうでもなさそうだ)
バックステップで間合いを広げつつ、低くなった孫堅の顔面に膝蹴りを放つ。だがその攻撃は孫堅の左手で掴まれた。そこを支点にして、逆の足で孫堅のこめかみに膝蹴りを放つ。
これには孫堅も虚を突かれた。しかし反応は早かった。その一撃も腕でブロックする。
しかし中空で行われた一連の攻防は、いかに孫堅といえども体勢を崩さざるを得なかった。
腰の回転で孫堅の左手を引きはがすと、そのまま額を蹴って間合いを元に戻す。
「なかなかやるじゃないか」
「あんたもな」
再度、孫堅の巨体が突っ込んできた。合わせて盧生も前に出る。
孫堅に口元に笑みが浮かんだ。
体を入れ替えながらの攻防。どちらもけん制の拳を放ちながら、必殺の一撃を放つ隙を窺っている。
先に踏み込んだのは盧生だった。孫堅の顔面目掛けて右の裏拳を叩き込む。それを孫堅は上体のスウェーで躱した。そしてがら空きとなった盧生の脇腹を狙おうと拳を握り込むが、突然視界が揺れた。
(なにが……起きた? あの軌道では絶対に当たらないはずだ)
予想だにしなかった衝撃に驚きつつも、孫堅は体勢を戻そうとする。だが足が思うように動かない。
盧生の腕が伸びてくるのが見えたが、身体が動かない。孫堅はそのまま喉を掴まれ、仰向けに押し倒された。
「まだやるかい?」
「……いや、オレの負けだ。おまえはなにを……ああ、そういうことか」
だらりと下がった右腕を見て、孫堅は察した。盧生は肩を外して射程を伸ばしたのだ。その一撃は孫堅の顎先を掠め、脳を揺らした。
筋肉の収縮だけで外れた腕を元に戻すと、具合を確かめるように盧生は肩を回す。
「あんたが万全だったら、勝負はわからなかったさ」
「毒は抜けていると言っただろう」
「その右腕、肩より上に上がらないんだろう」
孫堅の柳眉がピクリと動く。矢を射られたことによる後遺症が残っていたのだ。
「
「あん?」
「真名だよ。察しが悪いな。おまえも名乗れ」
「……ああ」
盧生は考える。これまでに真名を名乗ったことはなかった。というか、考えてもいなかった。盧生という名も与えられたもの。仮初めのもの。
すべては虚構。何もなく、空っぽ。
「俺は……
「そうか。ならば始めるぞ」
「終わったんじゃないのか?」
「いや、これから始まるんだよ。男と女の戦いがな」
そう言って、炎蓮は両足を虚の腰に絡めた。