「……空か」
蒼穹が広がっていた。涼州の空ではない。なぜかそれだけは理解できた。
盧生は身じろぎもせず、仰向けのまま茫洋と空を眺めた。
どれほどの時間そうしていただろうか。唐突に、盧生の口から空気が漏れた。
「ははっ」
渇いた笑いが空に響く。何もない。何もなくなってしまった。おそらくここにも孫堅や皇甫嵩はいるだろうが、自分の知っている炎蓮と楼杏ではない。
「別に現地の人間と接触するなとは言いません。北郷一刀の居場所を突き止めるためには、現地の協力者は必要ですからね」
その声は、随分と久しぶりに聞いたような気がした。
「しかし本来の目的を見失っては困りますね。外史が消滅すれば、人間関係など意味がない。持ち越せなどしないのですからね。利用する程度に留めておくのが無難ですよ」
飄々とした声。
「外史に存在するすべての北郷一刀を滅する。そうしなければ、あなたは永遠にこの円環から脱することはできない」
腹に一物抱えたような声。
「では、また」
それきり、声は聞こえなくなった。
心の中に風が吹く。盧生は無意識に瞑目し、胸に手を当てた。
「……これが虚しさか。悲しさか。ああ、無常。まさに
人はそれを、愛と呼ぶのかもしれない。
「北郷一刀を、殺しに行こう」
呟き、空を見上げた。
しかし、身体は動かない。
仰向けに倒れたまま、ゆったりと流れる雲を眺めていた。
「行き倒れか?」
自分に近づいて来る足音には気づいていた。
だが敵意がないことから、盧生はそのままにしていたのだ。
過ぎ去るか、立ち止まるか。どうやら後者だったようだ。
盧生の顔に影が落ちる。
視界を覆ったのは、
首を傾け、女の後ろに視線を向ける。
男が四人、女が二人。頭、腕、腰など箇所は様々だが、全員が黄色い布を身につけていた。
(黄巾……か? この女と、後ろの女……だな)
盧生は一行の戦闘力を測った。一番腕が立ちそうなのが、自分に声をかけてきた大柄の女。とはいえ、一線級の武将には一段劣る。楼杏相手ならば、五合持つかどうかといったところだろう。
だが同時に疑問を持った。敵意がない。悪意がないのだ。純粋にこちらを心配しているように感じた。
「水、飲むか?」
問われて、盧生は初めて喉の渇きを自覚した。
「もらおう」
差し出された竹筒に口をつけ、水を流し込む。殊の外美味に感じられた。
「ありがとう。ところで、ひとつ聞きたいんだが……」
竹筒を返しながら、盧生はぐるりと一行を見渡した。
「あんたら、誰が推しなんだ?」
そう問いかけると、一行の顔つきがガラリと変わった。
「俺は王道を行く天和ちゃん!」
「あたしは地和ちゃんよ! 飛び跳ねる姿が一番かわいいんだから!」
「俺は人和ちゃんだ。前の公演で目が合ったんだよ。絶対俺に気があるね!」
「戯言抜かすなボケェ!」
「ほげぇっ!?」
「おいおい、喧嘩はやめろ。みんなの数え役満
『うっす! すいません
大女が声をかけると、皆は一斉に姿勢を正して拱手した。
「すまんね、うるさい連中で。私は程遠志。推しは地和ちゃんだ。あんた、名前は?」
「俺は……侯景だ」
「侯景ね。で、あんたは誰が推しなんだ?」
「ああ、天和……ちゃんかな」
盧生は少し迷った挙句、最初の男が口にした王道を行くことにした。
◇
なし崩し的に候景は行動を共にすることになった。一行は
ここで初めて、候景は自分が冀州にいることを知った。
到着した街はそこそこ栄えており、会場となる広場には大勢の人が集まっていた。
「あちゃ~、前の席は取れそうもねぇな」
「前の仕事がゴタついて遅れましたからね。今回は後ろで応援することにしましょう」
簡素といえ、舞台のようなものは用意されていた。後方からでも十分に観覧できるようだった。
そして、舞台の横に設置されている小さな天幕から、三人の乙女が飛び出し、舞台へ駆け上がった。
歓声が上がる。
『ほわぁぁぁっ! ほわぁぁぁっ!!』
声援に応えて、乙女たちが手を振る。
「みんな大好きーー!」
『てんほーちゃーーん!!』
「みんなの妹!」
『ちーほーちゃーーん!!』
「とってもかわいい!」
『れんほーちゃーーん!!』
恒例となった掛け合いから公演は始まった。
『ほわぁぁぁっ! ほわぁぁぁっ!!』
「みんなありがとー。じゃあいくよー」
彼女たちが歌い出す。
候景は何度となく黄巾の乱を繰り返したが、彼女たちの歌を聞くのは初めてだった。そんな余裕もなく、機会に恵まれなかったというのもある。
アカペラだというのに、様々な音色が声に重なって聞こえてきた。
遠雷のように響く歓声の中であっても、彼女たちの声はしっかりと候景の耳に届いた。
勇気の歌、希望の歌、愛の歌。どれも活力に満ちた歌だった。
それは候景の荒んでいた心に、毛細管現象のようにしみ込んで来た。
「おいおい、おまえ泣いてるのか?」
程遠志の言葉で、候景は自分が泣いていることに気づいた。
候景は初めて、歌の力を知った。
三姉妹の歌に感動した候景を気に入ったのか、程遠志は候景を仲間に誘った。
彼女たちは傭兵業を生業としており、主に商隊を護衛することで収入を得ている。その途中で数え役満姉妹という旅芸人に出会い、追っかけのようなことをしているらしい。
「おまえ、かなり強いだろ? そういうのって見りゃ大体分かるんだよ」
豪快に酒を飲みながら、程遠志は呵々と笑った。
そして武人の
程遠志の得物は青龍戟という、槍の発展型とも言える武器だった。斬る、突く、叩く、薙ぐ、払う、といった複数の用法を持つ万能型の武器だ。
とはいえ、さすがに入団テストでは使わない。二人が持っているのは木の棒だった。そもそも、候景はこちらの外史に来たばかりで、武器はおろか銭すら持っていなかった。
何をやるにしてもお金は必要である。左慈との修行である程度のサバイバル術は身につけていたが、やはりあるに越したことはない。
「はじめっ!」
鄧茂の合図で、試合は始まった。
候景が本気でかかれば、おそらく一撃でケリがつく。
だからこそ、候景には相手の面子を考えるくらいの余裕があった。
六割ほどの力で前に踏み込む。
それでもその速度は、驚きの
袈裟斬りの一撃を払いのけ、程遠志が候景の肩口目掛けて突きを繰り出す。
候景はしゃがみながら回転してその一撃をかわす。返す刀で程遠志の足を狙ったが、彼女はジャンプしてその攻撃をかわした。
そのまま上段から木の棒を振り下ろす。候景は斜めに立ち上がりながら、木の棒を振り上げてその一撃を弾いた。
両者の距離が開く。お互いに一息入れたところで、拍手が起こった。
「すげぇ! 目が追いつかねぇ速さだ!」
「
「
場が盛り上がったのを確認して、程遠志は木の棒を下げた。
「合格だ。こいつは今から私たちの仲間だ。文句ないね!」
『当たり前でさぁ!!』
こうして、候景は傭兵団の仲間と認められた。
「私のことは
「鄧茂です。音遠と呼んでください」
「ああ。俺の真名は、
二人と真名を交わしたところで、他の団員たちも集まってきた。
酒場に戻って宴を再開しようということになって、団員たちが歩き出す。
とそこで、莉音が虚の肩に手を回し、ガッと掴んだ。
「おまえ、手加減してただろう? そういう気遣い、嫌いじゃないぜ」
そう言って、ニカッと笑った。
傷の多い顔だが、端正で愛嬌のある顔だった。