劉虞、字は伯安。出自が不確かなどこぞの筵売りと違って、正統な皇族である。
正史では異民族対策について公孫賛と対立していた。この外史でも対立は同様だが、その施政は真逆であった。
つまり、劉虞が異民族排斥派で、公孫賛が融和派だった。
正史では彼の前に烏桓は戦わずして帰順したとされているが、この外史では拠点を奪われる窮地に落とされていた。
張純と結託した烏桓の
青州牧、孔融もまた袁紹のもとへと逃れてきた。孔融は孔子の末裔であり、正真正銘の孔子ニ十世というエリートである。
本人は最後まで部下と共に戦うと公言したが、部下たちがそれを認めず太史慈に託したらしい。阿斗を抱えて脱出した趙雲よろしく、太史慈は孔融を抱えて単騎で烏桓の騎馬兵を薙ぎ払って渤海まで辿り着いた。
孔融の嘆きと嘆願に心を打たれた袁紹は、二枚看板の一枚を切った。文醜に精鋭一万を預けて青州へと派遣したのだ。
しかし文醜が青州に到着した頃には、烏桓兵の影も見つからなかった。
烏桓軍の動きはまさしく電光石火であり、荒らすだけ荒らして、略奪を終えたらすぐに現場を離れて雲隠れする。彼らに防衛という概念はない。次々と奪い、攫い、その場を後にする。
文醜が出立した頃には、すでに徐州で略奪を始めていたのだ。
この報告が届いた時、田豊はすぐに動いた。
顔良に二万、太史慈に一万の兵を預け、徐州との州境に派遣した。孔融が太鼓判を押したとはいえ、実力も定かではない太史慈に一万もの兵を預けることに反対した臣下も多かったが、袁紹の鶴の一声で決定事項となった。
緊迫した袁紹軍とは裏腹に、候景の日常はいつも通りだった。
いつものように三姉妹の相手をし、いつものように興行を行う。人和とともに収支計算をして報告書を作成する。
(張純か……。いたかな、そんなやつ。張飛の親戚ってわけでもないだろうし……)
この国において張という姓はありふれたものだ。村によっては、石を投げれば張姓に当たる、なんてこともある。
繰り返した外史の中で、候景の記憶は、些末事においてひどく曖昧であった。ほぼ毎回起こった黄巾の乱と反董卓連合以外の事件はほとんど記憶になかった。
一日の仕事を終えて、部屋へと帰る。三姉妹の屋敷の一室を借りているが、何かとあれば声がかかるので、いっそのこと別の家を借りようかとも考えていた。
蝋燭の火を吹き消し、寝床に入る。
淡い月明かりが足元を照らし、それが眠りへと誘う。
しかし、落ちようとした意識は、扉が開く小さな音で現実へと引き戻された。
「なんだ、もう寝ちまったのか?」
室内の灯りが消えていることに気づいたのか、莉音はつまらなさそうに呟いた。
「何かあったのか?」
「起きてたのか。いや、別にないさ。あいつらが来るとしても、さすがに昼間だろうからな」
田豊の立てた策は二段構えだった。文醜、顔良、太史慈の三方からの包囲で殲滅できれば良し。しかしその包囲をくぐり抜けて南皮に辿り着くことも想定していた。
地の利はこちらにあるが、烏桓騎兵の機動力は侮れるものではない。
「じゃあ、何の用だ?」
「おいおい察しが悪いな。女に恥をかかすモンじゃあないぜ」
莉音は候景に覆いかぶさり、自分の顔を近づけた。そこで、候景は莉音が薄く化粧していることに気づいた。
「
「……相変わらずおまえは風情がない。それはそれとして、その話ホントか?」
「ああ。証明しろと言われても困るが」
鉛中毒という言葉は知っていたが、実際にどんな症状が出るかは思い出せなかったからだ。
「なんか話が逸れたな。おまえは……なんていうか、他人に深入りするのを避けているな。最初からそんな傾向はあったが、最近はよくそう思うようになった。でまぁ、年長者としてお節介を焼きに来たわけだ。おまえ、大事な人間を喪っただろう?」
莉音は候景の瞳を真っ直ぐに見つめながら、言った。静寂の中で、候景の息を呑む音はことさらに大きく響いた。
「おまえにとって、そいつがどれだけ大事だったかは知らん。だが、死者に引きずられるな。あの世で一緒に……なんて考えるんじゃねぇぞ。女ってのはそんなこと望んじゃいねぇ」
候景にとっての死とは、普通の人間にとっての死とは意味合いが異なる。死ねば終わりではない。次の外史へと飛ばされるだけだ。それが莉音の目には、死を軽く考えているとか、死に向かっているように映ったのだろう。
また外史を渡る際に肉体年齢がリセットされるのか、それともこの身体そのものが年を取らないのか、老いないということが、精神年齢の成長を阻害していた。
(なんか勘違いしているみたいだが、説明のしようもないしな。それに……あながち間違いというわけでもない)
死者に引きずられているというわけではないが、炎蓮の死は予想以上のダメージを候景に与えていた。
もう自分が何度死んだかも覚えていない。百は超えていないはず……その程度の認識でしかなかった。
だからこそ、情を交わした人間の死というものが、己の死よりも鮮明に残ったのだ。
莉音は候景の手を取って、自分の左胸に押し当てた。
「これが
莉音は候景を引き寄せ、視線を交わした後、唇を交わした。
「まさかこの莉音姉さんが不足だとは言うまいな?」
莉音は妖艶な笑みを浮かべて候景に流し目を送った。候景は小さく笑いながら、唇を返した。
そんな二人を、月だけが見下ろしていた。
◇
烏桓軍は田豊の想定外の動きをした。徐州から西に向かったのだ。泰山に入った烏桓軍はさらに西進していると報告が入った。
そして時を置かずに、陳留郡の太守である曹操から共闘されたしとの文が届く。袁紹は苦笑しながら、それを承諾した。
だが田豊は違和感を持った。通常ならば兗州の州牧である劉岱から援軍要請が来るはずだ。
(宗室の方は袁家に隔意を抱いているということかしらね。州牧は州牧同士で連携しているのかもしれないし)
そう思った田豊は、顔良、太史慈の両軍を魏郡から兗州に向かわせることを決めた。文醜は万が一のことを考えて一旦南皮に戻すこととなった。
汝南袁家からの報告はなかったが、あの当主が民のために出兵するとも思えなかった。自分たちの領分に手を出されたのならば別だが、烏桓はそれを理解しているだろうか。
名門袁家はその財力から襲った際の実入りも大きいが、兵を多く抱えているために相応の危険もある。
だからこそ、田豊は二枚看板を切ることで烏桓を渤海へと誘引しようとしたが、烏桓はそれを避けるように兗州へと向かった。
(どう判断するべきかしらね……)
狙いが読まれているのか。それとも深く考えていないだけなのか。
(それに……なぜ官軍は動かない?)
劉虞から洛陽へ報せを送ったことは聞いている。袁家からも洛陽にて司徒を務める袁隗へと使者を派遣した。
その使者が帰ってこないことも田豊の不安を大きくしていた。
(洛陽でも何かが起こっている?)
これは突発的な反乱ではない。周到に計画されたものではないのか。田豊は漠然とした疑問を抱き始めた。
その不安もよそに、事態は悪い方向へと動き始めた。
◇
「ついに私たちも出撃か」
莉音は支給された対騎馬兵用の大盾を握りしめた。騎馬兵の突撃にも耐えられる頑丈な盾だった。頑健な莉音ならば、この大盾で引っ叩くだけで、騎馬兵はひとたまりもなく落馬するだろう。
西進した烏桓を追って、田豊は顔良と太史慈を魏郡経由で陳留へと向かわせた。だがその動きを読んでいたように、烏桓の別動隊が徐州から冀州に侵攻してきたのだ。
文醜は休む間もなく出撃することとなった。莉音もまた文醜隊に組み込まれ、出撃となったのだ。
候景は笑顔で莉音たちを見送った。というのも、候景は異民族を甘く見ていたのだ。彼の知る異民族といえば、鮮卑の
負けはしたが、一対一で戦えば勝っていたという自信がある。あの時は強行軍で駆けつけたために疲労が濃かったし、和連に接近するまでに気を使い過ぎていた。
普通に戦えば勝てる。だが候景は気づいていなかった。普通に戦わない、戦わせないのが異民族なのだ。右腕を負傷していたとはいえ、炎蓮はそこらの武将など寄せ付けないほどに強かった。だが負けた。
そして候景が強襲した時も、和連はすぐに首を取り戻しに来たと見抜いて、その首を
異民族を甘く見るべきではなかったのだ。
文醜は別動隊に大打撃を与えて退けたものの、部隊は半壊して南皮に引き返すこととなった。そこに、莉音の姿はなかった。
その日、一人の男が南皮から姿を消した。