――別に現地の人間と接触するなとは言いません。北郷一刀の居場所を突き止めるためには、現地の協力者は必要ですからね
うるさい。
――しかし本来の目的を見失っては困りますね。外史が消滅すれば、人間関係など意味がない。持ち越せなどしないのですからね。利用する程度に留めておくのが無難ですよ
耳障りだ。
――すべての外史に存在する北郷一刀を滅する。そうしなければ、あなたは永遠にこの円環から脱することはできない
「黙れよっ!!」
静寂の中、突如として候景の叫びが響き渡った。薪の爆ぜる音が聞こえる。炎を見つめるうちに、眠ってしまったらしい。
頭の中で反響する于吉の言葉を払いのけるように、候景は
(俺の甘さが莉音を殺した)
候景は左慈との修行で、幾度も死域を乗り越えた。だがそれは、自分が死んでもやり直しがきくから、左慈も遠慮をしなかったのだと思っていた。
だから候景は、莉音たちにそれほど苛烈な修行を行わなかった。疲れたから今日はここまでにしようと言われたら、それに従った。
優しさと甘さをはき違えた結果、莉音は命を落とすことになった。もっと地獄を見せるべきだったのだ。死域に踏み込ませるべきだったのだ。
修行で死ぬことと、実戦で死ぬこと。そこに何の違いもないということに、候景は気づいていなかった。
(なぜ俺なんだ……)
馬鹿げた問いだった。答えなどないと分かっているはずなのに。
心が沈んでいく。深く、深く。
(もう嫌だ……誰か俺を……
何度も何度も何度も何度も外史を繰り返し、候景の心は自分でも気づかないうちにすり減っていた。炎蓮の死が引き金となり、莉音の死が決定打となった。
人間が生きていく上で必要なものは色々とあるが、そのひとつに"
また、薪の爆ぜる音がした。その時、于吉の垂らした毒が作用を始めた。壊れかかっていた候景の心を
「……この外史を終わらせる」
そう決意した候景は、兗州へと向かった。
なんの根拠もないが、北郷一刀は曹操のもとにいるのではないかと思ったのだ。もしこの予測が外れていたのなら、揚州から荊州へ向かい、北上して洛陽に向かうつもりだった。
烏桓のことなどどうでも良かった。どこをどれだけ荒らそうとも自分には関係なかったし、防備の固められている南皮が落ちるということはないとも思っていた。
「滑稽だな」
北郷一刀を殺せばこの外史は消滅するというのに、三姉妹のことを
山中で一夜を過ごした候景は夜明けとともに動き出した。数時間ほど走ったところで小さな村が見えてきた。情報収集のために立ち寄ることを決めた候景は村に向けて歩き出す。門前には二人の村人が立っていた。
竹の槍を持ち、木の板でできた鎧を身につけている。烏桓が侵入していることはもう伝わっているのだろう。
騎馬を防ぐ逆茂木が設置されていた。
候景に気づいた二人は、一瞬身を固めたものの、一人であることに気を緩めたようだ。その時、門の向こうから顔に傷のある銀髪の少女が姿を現した。
今度は候景が身を固める番だった。面倒なことになったと思いつつも、今さら方向転換などしては余計に怪しまれる。候景はそのまま村に近づいていった。
「あなたは? この村に何か御用ですか?」
「ただの旅人だよ。水と食糧の補充に寄っただけだ」
銀髪の少女――楽進は候景を睨みつけた。本人は無自覚だっただろうが、現在の村の状況から、楽進は緊張状態であったため、仕方のないことといえよう。
歩き方や所作から、目の前の男が練度の高い武人であることは見て取れた。
だがそれ以上に目を引いたのが、瞳の輝きだ。泥濘のような濁った瞳にも見えるし、悟りを啓いたような澄んだ輝きにも見える。
「どこへ向かう途中ですか?」
「陳留が良く治められていると聞いたんでね」
「……なるほど」
楽進は納得したようにうなずいたが、通れとは言わなかった。
「良いと思いますよ。異民族の手先にも見えませんし、補給もなく陳留まで行くのは厳しいでしょう」
門番の援護もあって、楽進は渋々従った。だが何か引っかかるものを覚えたのか、同行を申し出た。
「私は楽進。字は文謙と申します」
「候景だ」
「今は異民族が辺りを荒らしまわっています。補給を終えたらすぐに陳留に向かうといいでしょう。本当なら、もっと西へ、洛陽にでも行かれるのがいいのでしょうが……」
「あんたはここの村人か?」
「いえ、私も陳留へ行商に向かう途中でこの村に寄ったのですが、異民族の話を聞いて協力することにしたのです。陳留に報せは走らせたようなので、援軍が到着するまでの時間を稼ぐことくらいならできます」
(とはなると、まだ曹操に仕えてはいないわけか)
「あんたの村は大丈夫なのか?」
「私の村は小さな寒村です。あえて狙うような村でもないでしょうし、いざとなれば裏山に避難すれば問題ありません」
「……あんたは異民族をどれほど知っている? 戦ったことは?」
候景がそう問いかけると、楽進は難しい顔をした。
「騎馬民族だということは知っています。それ以上は何も……」
基本的に民の敵といえば、
だが賊と異民族は違う。賊は元農民が多く、大した装備でもない。それに比べて異民族は、言ってみれば軍隊だ。そうでなければ、幽州、青州、徐州がいいように荒らされているわけがない。
そういった異民族の脅威を候景は楽進に伝えた。
「逃げた方が良い。山中ならばやつらも追ってこない」
騎兵の強さは何といっても、その圧倒的な機動力にある。行動が制限される山中や森を、彼らは嫌う。戦うのは徹底的に平原だ。
始皇帝が長城を建設したのも、馬でも飛び越えられない高さと、回り込まれない長さを必要としたからだ。それだけ異民族を恐れていたのだ。
「凪~、馬防柵の設置終わったで。ってそいつ誰や?」
沈鬱な表情を浮かべていた楽進を疑問に思いつつも、李典は候景に目を向けた。
「候景だ。水と食糧の補充に寄っただけでな。すぐに出て行く」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなたは相当の武人だとお見受けしました。力を貸してもらえませんか!」
切羽詰まった様子で、楽進は候景の腕を掴んだ。
「なぜそこまで必死になる? あんたもただ立ち寄っただけだろう?」
「それは……」
「なんや兄ちゃん、薄情やなぁ。困ってる人がおったら助けんのは当たり前やろ」
口ごもる楽進に対して、李典は答えはあっけらかんとしたものだった。
「困っている人を助けるのは……当たり前……?」
その言葉に、何か引っかかりを覚える。自分は何か、大切なことを忘れているのではないか。あるいは、気づいていないのではないか。
「せやせや。それに異民族の連中に好き勝手させといたら、ウチらの村にも来るかもしれへんやんか」
「……そうか。あんたは、凄いな」
「へ?」
褒められたのが意外だったのか、李典は間の抜けた声を上げた。
「この荒んだ世の中で、他人を気遣うことができるのは尊いと思う。なかなかできることじゃない」
「そ、そう? い、いやぁ~、なんや照れるなぁ。だははっ、もしかしてウチに惚れてもたんか?」
「そうかもしれんな」
「え? そうなん? むむむ、まあ悪い気はせぇへんなぁ」
余程照れくさかったのか、李典はほほを掻きながらくねくねし始めた。
(人を助けるのは当たり前。何かを……思い出せそうな気がする。本来の自分を……ふっ、本来の自分? 何を感傷的になっているんだ、俺は……)
「では、力を貸していただけるのですか?」
「そうだな。微力ながら協力しよう」
そう答えると、楽進はほっと胸をなでおろした。もちろん候景にも下心はあった。彼女たちに協力すれば、曹操の内側に入りやすくなる、ということだ。
「そういや、まだ名乗ってへんかったね。ウチは李典、字は曼成や。よろしゅうな」
「ああ、よろしく」
作業はあらかた終わっているようであった。三羽烏の最後の一人、食事の支度を手伝っていた于禁を紹介されて、一時休憩となった。
村人は警戒を強めている様子だったが、候景は本当に烏桓がやって来るのかは懐疑的だった。
幽州、青州、徐州で略奪を終えた烏桓はかなり潤っているはずだ。張純の反乱に協力しているといっても、普通は自分たちの利を一番に考えるだろう。張純は幽州にて劉虞の居城に居座っている。そこに戻るにせよ、自分たちの領地に戻るにせよ、深く入り込み過ぎている。
そろそろ帰還を考える頃だろう。
引っかかるものを感じつつも、望楼から見張りを続ける。この村に訪れて二日目の昼過ぎ、候景の目に、地平線から立ち昇る
望楼に設置された鐘を鳴らす。村中に甲高い音が響き渡った。
「敵が来たんかっ!?」
慌てて駆けつけた李典が望楼を見上げる。候景は目を細めながら塵煙の向こうに見える旗を確認して、李典を手で制した。
「曹の旗だ」
「曹っちゅうことは、曹操様の軍や。間に合ったんやな」
しかし偽計の可能性も捨てきれなかった。曹軍を破った烏桓が曹の旗を利用しているのだ。これならば、簡単に村に入り込める。
そう疑ったが、それは杞憂だった。先頭に見える女性は、候景の知る顔だったのだ。
夏侯淵。曹操の信任篤き側近だ。その隣にいるのは
そして、その後ろに相乗りしているのは――
(いる……じゃねーか!)
候景の心臓がドクンと跳ねた。その男は間違いなく北郷一刀だった。平服をまとっているため、一見では現地人と見分けがつかない。
(白く輝く衣と言ったのが悪かったか)
その特徴は確かに目を引くが、大きすぎる特徴は他を
(夏侯惇がいないのは僥倖だが、慌てて仕損じると面倒だ。チャンスは一度と考えろ)
殺気を内に潜め、自制する。
村人たちは大喜びで曹軍を迎え入れた。
「この村は大丈夫そうだな。防備もしっかりしている」
声には張りがあったが、疲れているようにも感じた。烏桓が跋扈しているのは確かなようで、仕事に追われているのだろう。
軍議というほど大げさではないが、現状確認という意味で両者は打ち合わせをすることになった。曹軍からは夏侯淵と許緒と北郷一刀。村からは村長と、三羽烏、そして候景も志願してその場に立ち会わせてもらっていた。
「ひとつ、よろしいですか」
挙手したのは候景だ。まずは心理的な距離を詰める算段である。
「なんだ?」
「北方異民族が幽州、青州、徐州を荒らしているのは聞いています。州牧様はどう対処しているのでしょうか? 曹操様が冀州の袁紹様に援軍を要請したとは聞いていますが……」
「なんだと? 華琳様……孟徳様が袁太守に援軍要請だと? そんなことを誰から聞いた?」
「誰と言われましても、ここに来る前に冀州を通ったのですが、誰もが噂していましたよ。曹操様と袁紹様で異民族を挟撃すると」
「なん……だと……」
夏侯淵が目を見開く。そして顎に手を当てて考え始めた。
その反応に、候景も疑問を抱いた。
(曹操は袁紹に文を出していない? 確かに曹操と袁紹の関係を考えれば、妙ではある。だとすれば偽物……太守の印綬を偽造したのか? そんなことができる人間は限られている。そもそもそんなことをする理由はなんだ?)
「……劉岱」
ぼそりとつぶやいた夏侯淵の言葉は、かすかに候景の耳にも届いた。
(劉岱……たしか兗州の州牧だったな。だとすれば烏桓が兗州に入ったのも納得できる。劉岱が張純と繋がっているのなら、この反乱は周到に準備されたものということか……)
しかし候景にはまるで関係のないことだった。烏桓も張純も劉岱も、誰が何を画策していようとも、どれだけこの外史が混迷を極めようとも、北郷一刀を抹殺すれば外史は
「劉岱は華琳様を良く思ってはいない。早くお伝えせねば!」
「お、お待ちください。我らの救援に来てくださったのでは!」
飛び出そうとする夏侯淵を村長が押し留めるが、余裕を失った夏侯淵はキッと村長を睨みつけた。
「敵の狙いは我らの戦力を分散させることだ。本命は陳留か南皮か。どちらにせよ、このままでは華琳様の立場が危うくなる!」
「で、ですが……」
「心配はいらない。陳留郡で異民族に荒らされたという村はまだ聞いていない。噂をばら撒いて、我らを疲弊させようとしているのだ。おのれ! 華琳様が苦心して築いた地盤を我が物とするつもりか!」
そう言って、夏侯淵は飛び出していった。
「あ、待ってくださいよ! 秋蘭さま!」
それを追って許緒も飛び出す。最後に残った一刀も、ペコリとお辞儀して出て行こうとするが――
「北郷殿、少しよろしいですか?」
「へ? あ、はい。なにか?」
候景に呼び止められて、一刀は足を止めた。振り返る一刀と、進み出る候景の距離が詰まる。
笑顔を浮かべて右手を差し出す候景に、一刀は握手かな? と思い相好を崩した。人懐っこい笑みだった。
候景は迷いなくその手を素通りして、貫手を放った。
完全に音と殺気を消した一撃だった。例え隣に呂布がいたとしても、この一撃は防げまいと確信できるほどの一撃。
繰り出された貫手の爪先が北郷一刀の肉体に触れる瞬間、候景の身体に電流が走った。
その直後、頭の中で音がした。カチリ、と。歯車が噛み合う時のような音が。
――北郷一刀は……俺だ!
唐突に理解した。もしかしたらそれは、魂の共鳴だったのかもしれない。思い返せば、今回はなんの根拠もなく、北郷一刀は曹操のもとにいるのかもしれないと思った。そしてその予測は当たっていた。
しかし攻撃は止まらない。滑らかな貫手は滑り込むように肋骨の隙間を通り、北郷一刀の心臓を突き破った。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。波打つように揺れた世界は、やがてガラスが砕けるようにパリンと割れた。
外史が消滅したのだ。