その日、村の皆が寝静まった夜更けに私はアウグストゥス卿に喚び出された。
彼らはブラッドリー村長の家の離れを利用した簡易的な宿に駐屯している。
その中の一室で、わたしは彼とテーブルを介して向い合って座っていた。
壁にかけられた燭台の炎が静かにゆらめき、一瞬だけその顔に暗い影を作る。
オルハイム・アウグストゥス枢機卿。その名は聖都からはるか遠いこの村に住んでいても流れてくる。
齢35にして枢機卿にまで上り詰めた希代の英傑。度重なる異教徒との戦いでも抜きん出た武功を今なお示し続ける名声は、今やエル・ラピスの国土全てに響くほどだ。
本来であれば、私など一介の聖女が話すどころか、お声がけすることすら許されない存在である。
「……まずは、ユーリアの再審査の件でお手間をお掛けいたしましたこと、謝罪いたします」
私は椅子から立ち上がると、床に伏して頭を下げた。
ユーリアの祝福を再度審査して欲しいと聖都へ嘆願したのは私である。
慈悲深いアウグストゥス卿は私の無茶な願いを聞き届けてくださったが、当然その結果が芳しくなければその責めを負うのは覚悟していた。
ユーリアは結局何の祝福も授からなかったようだ。私のお節介がよりあの子を傷つける結果になってしまったかもしれない。
「お気になさらず。そしてご安心を。私が貴女を喚び出したのは、その件についてではありません」
「えっ?」
私は思わずおもてを上げて、アウグストゥス卿の顔を見上げてしまった。人を安心させるような笑みがそこにはあった。
「マザー・クラリエッタ、お座り下さい」
わざわざわたしの椅子を引いて促されてしまう。枢機卿にここまでされては従うほかなく、素直に座り直した。
つまり、私は喚び出された理由を完全に読み違えていたことになる。
「さて、我々聖都教皇庁は貴女が《勇者》を見出した功績をとても評価しています」
「それは……過分なるお言葉でございます」
「つきましては、あなたに聖都武装聖女隊の教導班のポストを用意する、と」
「今、何と」
思わず、思考が止まる。
「あなたがこの村へ赴任して11年、ですか。十分に貴女はこの辺境の地での役目を果たされました。教導班はかつてあなたが負傷除隊した後に希望していた職であると聞いています。いかがですか?」
私は、11年前に戦いで左足を失い、この村に来た。
かつて戦うことしかしてこなかった私は説法も祈りもまともにできなくて、何をすればいいのか、迷える民に説法を行う聖女でありながら、そんな己自身がどう生きていけばよいのかすら見失っていた。
今ではもはや懐かしい、そんな時期だった。
「私は……この村へ来て聖女たるものがどうあるべきか、村民の皆様と日々女神マルグレーテへと祈り、静寂に暮らす中で、逆に教わり続けてきました。かつて異教徒や魔物と戦うことでしか信仰を表現できなかった私が祈りと説法のみで聖女たることができたのは、全てこの村での経験のおかげなのです」
わたしが変われたのはこの村の優しい人々のおかげだ。
そして何よりユーリア、あなたの存在がわたしの冷え切った心を溶かしてくれた。
「ゆえに申し訳ございません。せっかくのお話でございますが、私はこの村から離れるつもりはございません」
叱責されると思った。しかし断ったにもかかわらず、わたしがそう言うのを予期していたかのように、アウグストゥス卿はその笑みを崩さない。
「そうですか……ですが、このまま何も無し、という訳にもいきませんのでね。して、あの娘はどうされるおつもりですか?」
「え……?」
「手紙で頂いたとおり、聡明な子ですね。ユーリアは。あなたがたが並び歩く姿はまるで
笑みは、崩れない。
心臓が、跳ねる。それでも、視線は離せない。
見透かされているのか、私が、戒律を犯していることを。
「……何が仰りたいのか、わかりかねます」
「ああ、貴女のマルグレーテへの信仰を疑うわけではありませんとも。だからこそ、ユーリアをこのまま貴女のもとへ置いておくには忍びない。マザー・クラリエッタ、
コツ、コツと靴の音だけが異様に部屋の中に響いた。立ち上がり、わたしの横に立った枢機卿の瞳が私の顔を見下ろしているのを感じた。
口の中が乾いて喉が張り付きそうになり、思わず早口になる。
「どうしろと言うのです」
「代わりのご提案です。ユーリアの中央聖女学院への入学を許可しましょう」
「それは……」
「おや、何か存念でも?」
ありえない。
中央聖女学院。聖都ラピスラズリにある、教国史上最古の聖女教育機関。
教皇庁の有力者による複数の推薦がなければ入学審査を受けることすら許されない。そのうえで3桁に登る入学審査を経てふるいにかけられた選りすぐりの聖女候補たちにのみ、その門は開かれる。
卒業した者は例外なく青き衣を纏う上級聖女に名を連ねることになる。
同じ聖女とはいえ、私などからしたら雲の上の話。はるか遠くからご尊顔を拝することが精一杯の方々だ。
そんな学院に、ユーリアの入学を許可するという。審査ではない。入学させるというのだ。
おかしい、おかしすぎる。
クラリエッタ、冷静になりなさい。
ほんの小さく息を吐き、鼓動を整える。
「いいえ、素晴らしいお話だと思います。ユーリアの将来のためにも。ですが……卿がそこまであの子を、その、目にかけておられるとは思いませんでしたので」
「少し話しただけですが、実に優秀ですよ。あの歳にして己というものを持っている。教育が良かったのかもしれませんね」
「そんな、ことは」
思わず否定する。
ユーリアが聡かったのは最初からだ。私が何かをしたからではない。まかり間違ってもそんなことを思ってはならない。ユーリアの母は私ではないのだから。
「ご謙遜を。マザー・クラリエッタ。ではそのような方向で取り計らって構いませんか?」
「アウグストゥス卿、ご無礼を承知を申し上げますが、それを決めるのは私ではありません」
「ほう?」
初めてその笑みを湛えた表情が意外そうに歪んだ。
「あの子はまだ年齢は幼くありますが……すでに物事を冷静に判断できる賢さがあります。ユーリアに話はさせていただきますが、どのような選択をするかはあの子自身に委ねていただけませんか」
「……良いでしょう。いえ、むしろそうでなければ、意味がない。私は明後日まで村に滞在する予定です。色よい返事を期待しています。貴女たちにマルグレーテの瞳の導きがありますように。マザー・クラリエッタ」
「導きの先に青き輝きをもたらし給うよう。アウグストゥス枢機卿」
話はそれで終わった。どのように教会まで帰ったのか、まるで記憶が無い。
ベッドで横になった後も、ずっと頭に疑問だけが渦巻いている。
「……ユーリアを? なぜ……?」
私に元々希望していたポストを用意したのは驚いたが、まだ分かる。
だが、なぜ祝福のないユーリアに興味を持つ?
聖都が誇る祝福審査機関、それも枢機卿が直々に審査してなお祝福を得られていないと確認されたのに?
いくらユーリアが聡いからと言って、度が過ぎている。
私が《勇者》を見つけた褒賞にしても、立場としては教会預かりの孤児でしかないユーリアに何故そこまでする?
確かに、祝福なき聖女も世の中にはいないわけではない。
祝福がなければその役目に支障をきたすわけではないし、むしろ祝福なき民の拠り所として求心力すらある。私も何人かその名を耳にしたことはある。だが……。
祝福が強ければ強いほど、女神マルグレーテに愛された人間として尊ばれるのは当然の話だ。
現に中央聖女学院出身の上級聖女は例外なく強力な祝福を有している。
だからこそ枢機卿たる人間がただ聡いだけの子供をそこまで評価する理由が、私にはよく分からなかった。
……いや、あるいは、枢機卿は単に今の私を哀れんでくださったのか。
『マザー・クラリエッタ、貴女は愛情と信仰の狭間で、じきに苦しみを得ることになるでしょう』
「分かっているわよ……そんなことは……」
思わずベッドで丸まり、きつく膝を抱く。
最初は真似事だと思った。思い込もうとした。
それでも、ユーリアを我が子と錯覚するのを止められない。ユーリアに「お母さん」と呼ばれるたびに心がえも言われぬ喜びを感じていることを自覚する。
ユーリアは聡明だ。私に育児の才能があった、だなんて思わない。
あの子は最初から異様に物覚えが良かった。そしてその聡さを鼻にかけることもなく、心優しい子に育ってくれた(いじめを止めるためとはいえ、殴り合いの喧嘩をするのはやめてほしいが)。
冗談が好きで多少悪戯っぽいのは玉に瑕だけれど、それもまた魅力の1つだろう。
枢機卿の言うように聖都で学べば確かに素晴らしい聖女へとなるのかもしれない。
歴史に名を残すような存在になる可能性すら私は否定しない。
でも、産まれたときから見てきたから分かる。
きっとユーリアはそれを望まない。
名声を望まない。野心や功名心が欠落している。ユーリアはこの村で過ごす平穏を愛している。
私は、彼女の望まないことはさせたくない……。
※
次の日、わたしとお母さんは、村の墓地ひとつひとつを回って丁寧に祈りを捧げるアウグストゥス卿を案内していた。高名な枢機卿直々にそうするとあって、感激して涙を流している人までいた。
村の全てのお墓を回ったあたりでお母さんから言われたのは、わたしを聖都の聖女学院に入学させる提案があるという話だった。
アウグストゥス卿直々のご厚意だそうだけれど、わたしはあまりこの村から離れることを考えていないのであっさり断ってしまった。お母さんが行けって言うなら行ったかもしれないけど、自分で選べと言われたのでわたしは迷わずその選択をした。
特に後悔はしていない。
「ユーリア。約束、忘れないからね」
「ん、がんばんなさい」
アドルが枢機卿の一団と一緒に聖都へ出発する日。
わたしとアドルが交わした会話はそれだけだった。
決意に満ちた、旅立つ男の顔だった。
それなら、もう他に何も言う必要は無い。
わたしの隣では急速に仲良くなった元ガキ大将たちが涙を流して別れを惜しんでいた。
いつでも帰って来いよ。俺たちのこと忘れんなよ。むしろ俺たちがそっちに行く。なんて肩を叩かれている。
アドルは名残惜しそうに1度だけ目を擦った。
こんな泣いてくれる友達ができたんだ。
きっとあんたなら《勇者》の祝福にふさわしい男になれるよ。
「カーラ、お元気で。また手紙を書くわ」
「ええ、エッタ、あなたも。フフッ、どちらの手紙が先に着くかしら」
お母さんとカーラさんがハグしながら言葉を交わしていた。
同い年の子供を育てている共通点で、この2人の仲が良かったのは知っていた。
教皇庁からの援助もあるそうで、アドルの両親はふたりとも聖都まで移住することにしたようだった。
きっとすごく迷っただろう。ここから聖都は遠い。よほど強い思いで会いに行こうとしなければ、この村と、ここで生きている人たちとは今生の別れになるかもしれない。
それでも、息子と一緒にいることを選んだ。
同じように、わたしもお母さんと一緒にいることを選んだのだろう。
「行ってきます!」
アドルが拳を掲げて踵を返す。その目の前には白木の馬車がある。
「いってらっしゃい!」
わたしのその言葉は村民たちの同じ声によってかき消される。そして、馬車と兵士の一団は遠ざかっていく。
馬車が見えなくなるまで見送ったあと、そろそろ帰ろうとお母さんの顔を見上げた。
お母さんは何かを決意したような、堪えるような表情でわたしを見ていた。
「ユーリア、今後いついかなる時も一切、私のことを母と呼ぶことを禁じます。2人だけの時でも同様です。破れば問答無用で馬屋で生活してもらいます。分かりましたね」
わたしはすぐにそれが冗談じゃないことを知った。