ただ走る。燃えさかる村の中を、教会からできるだけ遠くへ。
ポプラが他にいるかもしれない魔物に襲われていないことだけを願う。
魔物はなかなかわたしを殺さなかった。
付かず離れず、まるで狩りを楽しむかのように。時折針を飛ばしてきては、その中の1つがわたしのふくらはぎを抉るように掠める。
「ぐうっ!」
火傷したような熱さに呻く。片足が持って行かれたような衝撃がありそのまま倒れ込む。
見れば右足からどくどくと血が溢れ地面を濡らしていた。
倒れたまま振り返ると、数メートル先からひたひたと迫る魔物が見えた。
痛みで右足が動かない。いっそひと思いに殺せばいいものを。
さっきわたしたちを探していた時もそうだけれど、本当に知性があると思わせられる。
魔物が口を開いた。このまま焼き殺す気か。
火刑は苦しいと聞くけれど、せめて死ぬまでの苦しみが短くなることを願い、強く瞼を閉じた。
ただ死を待つのは恐ろしい。それでも、ポプラを助けられた。だから、これでよかったと思う。
死を覚悟して、初めて前世の記憶というものに感謝する。
しょせん2度目の人生。既にわたしは1度死んだのだ。
それなら、わたしより助かるべき命があるに決まってる。
痛みと熱さは、まだやってこない。
そして、ギャウ、と獣が苦しむような悲鳴が響いた。思わず目を開き、息が止まる。
白銀の鎧を纏い、身の丈ほどもある大剣を携え、
そして、間違えるわけもない、5年ぶりでもすぐにわかったほどに見慣れた金髪。
《勇者》たる聖騎士、アドルの背中がそこにあった。
「ユーリア、間に合って、良かった」
よほど強行軍で帰ってきたのか、肩で息をしている。
「なんで、ここに」
「言っただろ」
そして、一閃。魔物の胴が寸断され、そのまま絶命する。
アドルは振り返って、優しげな笑みをわたしに向けた。
それはかつての自信なさげなものではなくて、火の玉のような意思を秘めた、騎士の顔だった。
「君は僕が守るって」
「どうして……」
わたしは、アドルの願いにはきっと応えられない。
だから、離れようとした。お前から背を向けて逃げようとした。
それなのに。
「いいんだ」
エメラルド色の瞳が、わたしを射貫く。
「気づいたんだ。君が僕のことをどう思っていたとしても、たとえ僕のことが好きじゃなくても、関係ないって事に。だって、大切なことは数え切れないほど、既に君から貰ってる」
だから、と、アドルは続けた。
「ユーリア、君を愛してる。でも、見返りなんていらない。僕は、ただ君を守るために、強くなったんだから」
かつてわたしはアドルに言ったのではなかったか。《勇者》の祝福にふさわしい男になれと。
吟遊詩人に詠われる300年前の《勇者》グレンゴルは遍歴の聖騎士として天翔る竜の顎を砕き、地の底に蔓延る朽ちぬ黒金の巨人を滅ぼし、富も栄誉も賜ることなく、ただ清貧のままにその旅の最果てで死んだ。
それが、ただのおとぎ話だと思っていた己を呪う。
アドル、お前もそうなるのか。
そう、成らざるを得ないように追い込んでしまったのか。
わたしの、せいで。
ただ、絶望する。その時、大地が揺れた。
『カロロロロ……』
一体いままで何処に潜んでいたのか、燃える家屋を踏みつぶすように、赤い炎を纏った巨大な影がわたしたちの前に姿を現した。
猿を巨大にして、手足を極端に伸ばしたらこうもなるだろうか。
異様に長い手足を関節で折りたたみ、顎が奥まで裂けた狼の口。その背にはさっきの魔物と同じくびっしりと山嵐のような針がある。
「随分と大物だな……」
アドルは呟くと、両手で大剣を構えた。これほど恐ろしいものと当たり前のように戦おうとするなんて。それでこそ勇者たる者なのだろう。
何が《勇者》の祝福に相応しい男になれ、だ。どれほど重いものをアドルに背負わせてしまったのかと、目の前に広がる現実がその罪科をわたしに囁く。
わたしは思わず叫んだ。
「アドル!」
「ユーリアは下がってて! ごめん、痛いだろうけどもう少しだけ我慢して」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
でも、わたしには何も言うことができない。戦う力なんてないから。
わたしは呆然としながら、魔物へ向かっていくアドルをただ見ているしかなかった。
※
どれほどの時間が経ったのか。
『クアアアアア』
アドルが跳躍し、魔物が鞭のように振り上げた腕を切り飛ばした。
着地したアドルはひどく消耗しているようで、荒く息を吐く。
わたしはただ足を引きずって隠れているしかなかった。右足が動かないので逃げることもできない。
アドルの戦いを燃え残った建家の陰から覗く。
介入できるような戦いじゃない。ただ、アドルを見つめて無事を祈ることしかできない。
だから、気づかなかった。
別の複数の魔物が、わたしの方を見ていることに。
「ッ! ユーリア、そこから逃げろ!」
「え」
気がつけば、側面から2体の野犬型の魔物が迫っていた。さっきアドルが倒した魔物以外にもいるかもしれないと予測していたのに、警戒を怠った!
痛みをこらえてむりやり足を動かしてそこから離れる。
それでも、ただ歩くくらいのスピードでしかなかった。
迫った魔物たちが、いくつもの黒い針を足を引きずって歩くわたしに向けて撃ち出したのが見えた。
明確な死を感じて、目を閉じようとした。
瞬間、白い影が前を横切る。
そして、放たれたすべての針が、アドルの身体を鎧ごと串刺しにした。
「あ……」
「う、おおおおおおおおおッ!」
アドルは、聞いたこともない獣のような咆哮を上げた。むりやりに大剣を横薙ぎにし、一太刀で2体の魔物を両断した。そのままぼたぼたと血を吐きながら片腕を失った巨大な魔物に突進する。
わたしは上段に構えたその大剣に光が宿ったのを見た。
「ユーリアは、絶対に、絶対に僕が守るッ! ───だから、消えろ! 《雲斬り》!」
何の音も、しなかった。目が眩むほどの光の糸が、文字通り空間を縦に切り裂いたのだけが見えた。
一瞬の後、何の断末魔もなく、縦に両断された魔物の死体だけが、残った。
そして、アドルが大剣を取り落とし、力なくその場に仰向けに倒れる。
わたしは絶叫してアドルに駆け寄った。足を引きずって、血がどれだけ出ようと構わなかった。
「アドル……アドル……! ねえ! おい!」
意識を失いかけているアドルに必死に呼びかける。胸や腹からは矢のような黒い針がいくつも突き出ていた。これが致命傷だなんてこと、誰が見ても分かる。
「ユーリア、無事で、良かった」
喋るたびにアドルの口から血が漏れる。もはや目の焦点も合っていない。
「どうして庇った! あんたはッ、わたしなんかよりずっと価値があるのに……!」
わたしの人生なんてただの延長線だ。そんなもの、命を賭してまで守る価値なんてない。
守ってくれてありがとう。そんな言葉を言うべきなのはわかっているのに、罵倒のような言葉しか出てこなかった。
「ねえ、ユーリア。昔さ、勇者の祝福を貰ったとき、誇れる自分になれって、言ったよね」
「ッ……! ああ、そう、だな」
「僕は、君に、自分のことを、誇れるように、なったかな……?」
「なった、なったよ……! だから、結婚してやる! 子供だって産んでやるよ! 嫌じゃない! だから、だから……!」
愚かな女だった。今更そんなバカなことを言ったって、救いにもならない、何の意味もないことは分かっているのに。
「だから、死ぬな……!」
「ふふ……」
「何笑ってんだっ、こんな時に」
「ユーリアは、僕に怒ってくれることはあっても、泣いてくれることは、なかったな、って」
涙が止まらなかった。血で染まった白銀の鎧に、ぼたぼたと水滴が零れる。
「バカ、バカバカバカっ、好きな女を泣かせて喜ぶ男がいるかっ」
「ごめん、ね? ユーリアはさ、いつも、やさしかったよね。だから、すきだったんだよ」
「何を、言って」
「ぼくのこと、いつも、まもってくれて、だめなときは、おこってくれたでしょ。そのおかえし、すこしくらいは、できたかな……」
違う、断じて違う! それはわたしが前世の記憶があるからで、かわいそうだから大人らしく守ってやろうって、上から目線の感情でしかなくて。それは、純粋な気持ちでやってきたわけじゃない!
そしてそんな勘違いをした上から目線のバカ女のせいで、たった今、お前を失おうとしている。
「ねえ、手……繋いで?」
両手で包むように血だらけの手を握る。
泣き虫で弱虫のアドル。いじめられてグズっている時、いつも仕方なく手を引いて帰った。そして最後に手を繋いだあの日、わたしに言ってみせた。
『僕、ユーリアを守れる男になるよ』
「バカ……そんな約束、守れなんて、誰が言った……」
わかっている。そう仕向けたのはわたしなのだから。
「ふふ、ごめんね、なんだか、ねむくなってきちゃった。かえるの、おそくなって、おかあさんにおこられちゃうかなあ?」
「……大丈夫。夕日になる前に起こしてやるから、ゆっくり眠れ」
「ぜったい、だよ? ユーリア、おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ。アドル」
そして、手を握っていたアドルの力が抜ける。
アドルは死んだ。死んで、しまった。
ただの無力で愚かな女を守って。
「ううっ、ぐうううううううう!」
生きていれば、わたしを守ってさえいなければ、アドルはこれから勇者として何十万もの命を救えたはずだった! 後の世まで語られる偉大な英雄になるはずだった! それをわたしが台無しにした。わたしの無責任な行動のせいで、アドルはわたしなんかを守って死んでしまった!
今すぐ発狂して魔物の目の前に飛び出して死んでしまいたかった。
でも、目の前のアドルの遺体を見て、それだけはできぬとギリギリの所で身体が強ばる。
ただ、歯を食いしばって耐える。
今わたしが死んだら、アドルはいったい何のために死んだのだ。せめて、わたしなんかを守りたいと思った男の気持ちだけは踏みにじる訳にはいかない。
震える手で、ただ眠っているようなアドルの頬を撫でる。
まだ生きているかのように、暖かかった。
あの痛がりで弱虫だったあいつが、最後まで、悲鳴の1つも出さずに逝ったのだ。きっとわたしにできるだけ罪悪感を残さないために。
「ごめん、ごめんなあ……痛かったよなあ……」
【祝福:継承の発動条件を満たしました】
【対象者:アドル・オスロー ギフト名:勇者】
【祝福継承作業中……アイテムを生成します】
「は……?」
思わず、間の抜けた声が出る。幻聴だと思った。
機械アナウンスのような無機質な音声が脳内で鳴り響く。
瞬間、アドルの身体が輝き、光の塵となって消える。
その跡には、一振りの白い片手剣が残された。
【《聖剣アドル》を生成しました】
【効果を開示します。所持者に《勇者》の祝福を追加する。トレード可能。所有権:フリー。このアイテムを廃棄することはできない。このアイテムを破壊することはできない】
【繰り返しますか?】
「なに……これ……」
ただ、呆然とする。
わかるのは、アドルの身体が消えてしまって、代わりにこの剣が出てきたことだけ。
祝福? 継承? 何が起きているのか、わからない。
何かに肩を押されるようにして、わたしは剣を握った。
ただ、そうしなければならないと思った。
すると、身体に異様な力が湧き上がる。足の痛みすら無くなって、重かった身体が一気に軽くなるのを感じた。これがアドルの力であることを、本能的に理解する。理由はわからない。
周りを見回せば、新たに現れた数匹の魔物がわたしを見下ろしていた。
でも、怖くはなかった。
今なら、わたしでもきっとこいつらを倒せるという確信がある。
アドル、どうか、今だけは、わたしに力を貸して。
せめて、
この時、わたしはまだ考え至らなかった。
この剣の持つ力の意味を。そしてその恐ろしさを。
※
「魔物に襲われて、ユーリアが逃してくれて! 私、ユーリアを見捨てて……ごめんなさい、ごめんなさいっ! マザー、私、なんてことを……!」
いくらかの魔物を倒し教会に戻った私は、ただ懺悔するように慟哭するポプラを見て愕然とした。
「……っ」
あれほど教会にいるよう言い含めたのに。どうして。
抑えきれぬ憤怒が漏れそうになる。違う、ポプラは悪くない。クラリエッタ、冷静になりなさい。
大丈夫だ。ユーリアは死んでない。聡い子だ。どうにかして魔物から逃れているはずだ。
そうだ、そうに違いない。そう思わなければ、今にも心が引き裂かれそうになる。
祭壇の向こう側の壁に鎮座する女神マルグレーテの像が見えた。
教会は女神の家。聖女たる私が狼狽えるなどあってはならない。
拳を握る。爪が痛いほどに掌に食い込んだ。
この憤怒は、己に対しての至らなさに対してのみ向けなければならぬ。
「ポプラ、ユーリアは賢い子です。何も考えずに飛び出していくようなことは決してしません。貴女を助けたことも、自分が残ったことも、きっと貴女たち2人ともが助かる最善の道を模索した結果でしょう。だから、信じて祈りましょう。女神は必ずユーリアをお救いくださる。ユーリアはきっと無事です。必ず戻ります」
「マザー……」
「早まったことはけして考えぬように。良いですね」
ポプラは泣きはらした目で小さく頷いた。
それを見て私は礼拝堂を見回す。皆、不安に押しつぶされそうになっている。
できるのなら、今すぐに教会を飛び出してユーリアを探しに行かねばならぬ。今も、そうせずにはいられぬ自分自身の心を押しとどめるだけで精一杯なのだ。
だが、聖女として彼ら村民を放置するなど、どうしてできようか。
「いくらかは滅しましたが、未だ魔物はこの村に。ゆえに私はこの女神の家たる教会、そして皆様の命を守らねばなりません」
「おい、それは違うんじゃねえのか? マザー」
そう言って有無を言わせぬ調子で近づいてきたのは、近所に住む狩人のベルク氏だった。癖のようにカイゼル髭を撫でつけながらも、その鳶色の瞳は鋭く私を射貫いている。
「何が違うのです。私は、聖女として皆様を守らねばならぬと───」
「ユーリアは、あんたの娘だろうがッ!」
ベルク氏はその場で足を踏みならした。ユーリアの笑顔が脳裏に浮かぶ。
違う、違うッ! 私は、聖女だから。戒律を、守らなければ。
「……ッ、私は、聖女」
「ああ、そうだろうさ! でもそれだけであんたがユーリアを育ててきた15年が嘘になるとでも言うのか!? マザー、いいや、クラリエッタ。あんたが決心できないなら俺が代わりにやってやる! 何が魔物だ! 自分の身くらい自分で守れらあ! 戦えるのはあんただけじゃない! 狩人を舐めんじゃねえ!」
そして手に持った弓を掲げてみせた。
「あんたらはどうだ! 怖いのは分かる! ダチや家族が死んだ奴だっているだろう! 俺だって恐ろしい! でもその為に母親が子を助けに行けねえなんてのは間違ってるぜ! そうじゃねえのか!?」
演説のごとき口ぶりに、俯いていた村人たちが「ああ」「そうだ」「その通りだ」と呟きながら次々と立ち上がる。
「答えは出たようだな。教会は俺たちに任せろ。なんとかしてみせるさ」
そう言うと、ベルク氏は得意げに笑ってみせた。私は、呆然として何も言えなかった。
追い出されるように教会を飛び出した私は走った。焼き焦された村人たちの遺体を、自分が切り刻んだ魔物の死体を視界に捉える。
救えなかった。皆、良い隣人だった。このようなことで、死ぬべきではなかった。
せめて祈りを捧げて安らぎを捧げねばならぬと心が締め付けられる。
だが、それでも、今だけは済まぬと目もくれずただ走る。そして、見つけた。
「ユーリアッ!」
建物が完膚なきまでに破壊された瓦礫の山。右手に剣を握ったまま、足から血を流してぼうっと立ち尽くしているユーリアがそこにいた。
走り寄って思わず抱きしめる。張り詰めていた気が緩み、目頭が熱くなる。
「無事でよかった……! 貴女に何かあったら、私は……!」
絶望のうちに死んでしまうかもしれない。
「おかあ、さん?」
「ええっ、私です。クラリエッタです。あれほど教会に居るように言ったのに、貴女という子は……!」
そして、気づく。周囲には切り刻まれた魔物の死体が散乱していた。
「この魔物たちは、一体……?」
「わたしがやった」
「え……?」
耳を疑った。ユーリアに戦う力はないし、ましてや戦闘訓練を課したことなどない。
「お母さん、ごめんなさい。アドルが死んじゃった。わたしなんかを守って。全部、わたしのせい。それで、剣になって、その剣でわたし戦って」
脈絡がないが、理解はできる。アドル、どうしてこんなことに。
泣きながら言うユーリアの精神は限界だった。私は強くただ抱きしめることしかできない。
「ユーリア、あなたのせいではありません。決して……!」
カーラの顔が頭をよぎる。アドルの両親の絶望はどれほどであろう。
私とて、ユーリアを失う想像をしただけで狂うほど心がかき乱されたというのに。
それだけではない、カーラはいつだって、神聖騎士として戦う彼が出陣するたびに身を引き裂かれるほどの不安に襲われていたはずだ。
手紙をやり取りしている時も、アドルが危険な任務へ赴くことについてカーラの苦悩が文章から感じ取れなかったと言えば、嘘になる。
説法を生業にする聖女でありながら、今更になって、子を持つ親の気持ちを理解するとは。
女神マルグレーテよ、この惨劇ですら貴女の祝福の導きと仰られるのか。
胸の聖印を強く握る。女神は何も答えてくれない。
そして、ユーリアの持つ剣からは何か異様な気配がある。
一体何なのだ、この剣は。
「この、剣は」
「アドルが死んで、身体が、いきなり剣になった。頭の中で声がして、祝福を継承するとか、もう、何も分からない……」
「祝福を、継承?」
ユーリアはただ頷いた。
「この剣を使えば、勇者の祝福と同じ力が出せるって、頭の中で説明されて、それで、戦った」
そんな、馬鹿なことが。だが、どう見てもただの剣ではない。
奇跡を付与された聖剣か、あるいは魔法を付与された魔剣が、このような気配を纏っていた。
ならば、本当に《勇者》の力が宿っているとでもいうのか。
そこまで考えて、背筋に怖気が走った。
恐ろしい考えが浮かぶ。今まで積み重なったわずかな違和感。疑問に思っていた点が線となり全て繋がったような気がした。
ユーリアが祝福を下賜されていないと、誰が証明した?
祝福を持たないユーリアをなぜ聖都へ召し出そうとした?
その後も枢機卿が手紙で私との関わりを続けていた理由は何?
その理由が、この剣にあるとしたら。
「ユーリア、その剣を、私に少し預けてもらえますか」
言われるがまま渡された剣をおそるおそる握る。その瞬間、絶句した。
視界が異常に鮮明になり、身体が異常に軽くなり、手足に力が漲った。左足の義足すら気にせずに全力で走れそうな気さえした。
なんだ、なんなのだこれは。
自分が自分でなくなってしまったような錯覚がして、ひどく恐ろしくなり思わず剣を取り落とす。
カラン、と乾いた音が鳴り、ユーリアの身体がぐらついた。倒れるすんでのところで慌てて支える。
「大丈夫ですか!?」
「ううん、ちょっと、ふらついただけ」
「……この剣は、貴女が持っていなさい」
「え? うん……」
ユーリアに無理矢理剣を持たせる。するとふらついていたのが嘘のように身体に力が戻った。
よく見れば、足に怪我をしているのに普通に立っていられること自体がおかしい。
理解してしまった。どういうわけか、この剣には勇者の祝福の力が宿っている。
そしておそらく、ユーリアは自身の祝福でこの剣を創り出したのだ。
そして何より恐ろしいのは、
この剣を握りさえすれば、誰でも勇者の祝福を得たのと同じようにその力を振るうことができるのかもしれない。
無才の只人であろうと英雄に押し上げるであろう武器。
常識で考えればけしてありえぬ。祝福とはどれほど強力なものであろうと一世限りであり、受け継ぐことはできない。
その制約を突破できるのだとしたら、恐ろしいことになる。
ユーリアの持つ祝福は世界を左右するほどの力だ。
薄く笑みを湛えたアウグストゥス卿の顔がちらつく。
確信する。ユーリアのこの祝福の正体を、枢機卿は意図的に隠蔽したのだ!
何故かは分からない。目的など理解できない。
だが、おかしいとは思っていた。わたしが赴任してから今まで、この地域で魔物など出たことはない。
村に戻る前に、この近くで現れた魔物を討伐したとアドルは言っていたが……。
今まで魔物の影すら無かった村に急に魔物の群れが襲撃し、都合良くそこに《勇者》たる聖騎士が現れ、祝福を受け継げる人間が居合わせていた。
ただの偶然なのかもしれない。ただ、いかなる手管を弄したのかはわからぬが、意図的であると断じるだけの材料は揃っている。
だとするなら、狙いは……。
絶望的な未来が脳裏に浮かぶ。私はきつく目を閉じた。
そして瞼を開くと、ユーリアの顔をまっすぐに見つめて、その手を取った。
「ユーリア、今すぐこの村から逃げましょう。一緒に!」
「え……? でも、魔物は、もう。それに教会の皆が」
「私の考えが杞憂に終わればそれでよいのです。後で皆に謝りましょう。ですが、そうでなければ恐ろしいことになります。魔物はただの撒餌にすぎない。魔物を差し向け、この村を焼き尽くし、勇者を害した者の狙いは、貴女です! ユーリア!」
女神マルグレーテよ、お恨み申し上げる。
なぜ、なぜ、貴女はこの子に計り知れぬ苦難を背負わせるに至ったのか。
貴女の与える祝福とは、只人を救済するためのものではないのか。
ユーリアの手を引き、村を抜け、森の中に入る。
もし追っ手がいるとすれば、土地勘のある自分たちの方が容易に抜けられ姿を眩ませられようという考えだったが、それが甘かったことを知る。
森を走り、待ち伏せるように目の前に現れたのは黒い全身鎧を纏った3人の騎士。全てフルフェイスで顔は視認できない。
周囲の気配を辿る。その奥の木陰にさらに2人。背後はまだ囲まれていない。
ならば、今しかない。ユーリアの耳元で囁く。
「ここから北の国境近くにあるサルヴァの街に、ルイボスという老婆が住んでいます。この聖印を彼女に見せなさい。必ず力になってくださいます。逃げるのです。その剣からけして手を離してはなりませんよ」
そして首に提げた聖女の証たる聖印の紐を引き千切って無理矢理握らせた。
勇者アドルよ、どうかユーリアを守って。
濃厚な殺気が満ちる。そしてそれが私のみに向かってきているのを肌で感じた。村を焼き、勇者を殺し、私を殺してでもユーリアを奪おうとする者たちが、この子をまともに扱うなどあり得ない。
「わたしも戦う! それに奴らの狙いがわたしなら、わたしが───」
「喧しい! 戦いも知らぬ小娘のさえずりで時を無駄にするな! 然らば、行け! 行きなさい!」
戸惑いがちに剣を構えたユーリアを一喝する。だが、それでも怯んでくれなかった。
「ならっ、それなら約束して! 絶対に、絶対に死なないって!」
ユーリアの絞り出すような声に、心が張り裂けそうになる。
「お母さんッ!」
ユーリアが絶叫した。
否、死してでも、貴女は必ず逃がす。だから、私はできぬ約束をする。
「……すぐに追いつきます。さすればその時にこそ、貴女を娘と呼びましょう」
振り返らずに、呟く。
後ろで走り去る足跡が聞こえた。それでよい。
知っていた。情だけでなく理を説けば聡いあなたは必ず逃げてくれると。
背負っていた鎌を抜き、石突で地を突き衝撃で折りたたまれた刃を跳ね上げた。
いずれも相当な手練れである。
何より、目の前にいる右手にバスタードソードを携えた男は相当の強者であることを感じさせた。この男が頭であろう。
卑怯とは言うまい。助太刀なき一騎打ちなど、聖都の御前試合でもなければあり得ぬことだ。
鎌を回し長柄を背にぴたりと付け、下段に構える。
「我が名は女神マルグレーテに隷するエトナ村が聖女、クラリエッタである。貴公、その出で立ち、一角の戦士とお見受けする。もはやなぜ我らを狙うかなど聞かぬ! 名乗られよ」
自ら名乗って、酷く心の中で嘲笑う。村民を捨てて走る者などもはや聖女ではない。女神に隷するなど、どの口が言えようか。
騎士たちは何も答えない。
「声を出すことすら憚られる身の上であるか。恥を知れい!」
絶望的な戦いだというのに、何処かに心が滾る己がいることを感じた。
若き闘争の日々からはもはや遠く離れている。だが、この業で娘を守ることくらいはできよう。
「なれば、もはや語るに及ばず。異教徒を尽く恐怖に陥れた、血に浴する黒き花の鎌狩りを知るがいい!」
※
すぐに追いつく、だなんてただの気休めだと分かっていた。
お母さんが死ぬかもしれないと分かっていて、それでもわたしは逃げ出した。
北に行けと言われたが、今自分が何処へ向かっているのかすらわからない。
でも、生きなければならない。
生かされて、しまった。
「アドル……お母さん……!」
絶望のまま、森の中を走り続ける。左手にはアドルの剣、右手にはお母さんの聖印を握りしめて。
2人の気持ちを、無かったことにしないために。
―――――――――――――――――――――――
目線を下げれば、自分の腹に大きな穴が空いて、その内から千切れた臓腑がまろび出ている。
右足も左腕も、いつの間にか失ってしまった。
残っているのは右腕だけだ。
だというのに、痛みすら感じない。血を流しすぎて、全身の感覚も失われた。もはや助からない。
酷く冷静な気分だった。
周囲には4つの死体がある。唯一逃げたあの頭らしき男のことを思う。
今の衰えた私では奴の右腕を持っていくことくらいしかできなかったが、利き腕をもぎ取られた身でユーリアを追跡することはできないだろう。少なくとも時間を稼ぐことはできた。
もはや私にできることはない。
あの子の無事を願いながら、死に往くだけだ。
人の死とは、これほどあっけないものか。
冷静になると、ふと脳裏を走馬灯が駆け巡る。
不思議と、戦いに明け暮れていたかつての記憶は薄れていた。
思い出す景色は、いつだって村の日常のことで。
そのそばには、いつも私を呼ぶ貴女がいて。
『お母さん』
どくん、と心臓が小さく跳ねた音がした。
……駄目だ。
『……すぐに追いつきます。さすればその時にこそ、貴女を娘と呼びましょう』
なぜ、私はそんなことを言ったのだ。
目を背けられなくなる。蓋をしていたはずの己の本当の気持ちに。
「ああ……あああ……!」
もはや取り返しがつかぬと理解して、心が慟哭した。
「死にたく、ない」
そう、思ってしまった。あの子を残して。
こんなに身体は冷たいのに、ぼろぼろと涙が止まらない。
ああ、ユーリア、私の、私のただひとりの娘。
産婆とともに貴女を取り上げた時、人はこのように産まれくるのだと、初めて知った。
『お願い、この子を、ユーリアを、この子だけは』
そう言って出産した束の間、震える手で私の手を握り、息絶えた名も知らぬ貴女の母。
己の名すら名乗らず、それでもなお貴女の名だけは今際に伝えきった彼女。
若くして死に往く流れ者の哀れな女だというのに、ひどく羨ましいとさえ思った。
己が子すら産めぬ身体だと知ったのはいつだったか。
それから鎌を手に神の敵と戦い続け、女神マルグレーテへの信仰に全てを捧げる人生だった。
それでよかった。
信仰のために己の全てを投げ打てば、戦うこと以外何もできぬ罪深い私にも価値があるのだと、この世に生を受けた価値があるのだと、そう思っていた。
人並みの幸せなど、願っていなかった。
なのに。ユーリア、貴女がそれを私にもたらしてくれた。神の敵を討ち果たすのみでしか己を証明できなかった私に、たくさんの幸せを与えてくれた。
なのに、
「ごめん、なさい……ユーリア……」
ごぼり、と喉からせり上がってくる血の塊を吐く。
生きて帰って、貴女との約束を守ることはもうできそうにない。
狂おしい後悔だけが胸に渦巻く。
母としてもっと抱きしめてあげたかった! できることなら、娘として愛してあげたかった!
共に祈り、ふたりでパンを焼き、畑を耕し、野草を集め、ささやかな花壇の世話をして、あの子の冗談に怒ったり、笑ったりする。そんな何気ない暮らしこそが掛け替えのないものだった。これからもそうやって、ずっとあの子の成長を見守っていきたかった!
それこそが、私の生き甲斐だった……!
そんなことに、今更気づくだなんて。
いいや、とっくに気づいていた。
それでもなお、戒律を理由にして言い訳していたのは、私自身だから。
時間はいくらでもあったのに、思い出すのはできずに後悔したことばかり。
だから、せめて。
ユーリア、愛しい我が娘よ。
これから訪れるであろう貴女の苦しみを少しでも私が肩代わりできたならと、思わずにはいられない。
聖印を失い、戒律を破った私に女神に祈る資格はない。
だから、ただの人として、母として願う。
苦難の荒野を彷徨う貴女の運命が、どうか少しでも安らぎのあるものであるように。
「愛して、いるわ。幸せに、なりなさい……」
呟いて、ゆっくりと目を閉じる。
なんだか、とても眠い。
【祝福:継承】
あなたは特定条件下において対象者の祝福を肉体から分離し、同等の効果を得たアイテムとして生成することができる。
ルール①
あなたはアイテムの形状を指定することができない。
ルール②
あなたは生命活動が停止している者をのみを対象にすることができる。
ルール③
あなたは対象者の生命活動が停止してから30秒以内にその身体に触れなければならない。