エル=ラピスの北端、聖都ラピスラズリから遙か最果てに位置する国境の街サルヴァ。
隣国との緩衝地帯である
曇天の雲に覆われ、灰色の山脈から吹き下ろす冷たい風はこの街の景色をいつだって灰色に塗り潰してきた。
南の暖かな
脛に傷がある者、異端者として追われる異教徒。
エル=ラピスで生きられぬ、そして国境も越えられぬ者たちは関所の無い山脈を越え隣国へと逃れようとする。サルヴァはそんな後ろ暗い流れ者の貧者たちが死出の旅を前にして集う、あるいは行く先も無く留まり続ける街だった。
亜人や妖精の住処と言われる黒嶺山脈に入った人間の行く末を知る者はいない。
黒嶺とは女神マルグレーテが好んだ白色と相反する、祝福すら届かぬ異境の地を意味する。
※
あれからわけもわからないまま森を抜け、炎上した村からあがる黒煙を狼煙代わりに位置を確認すると、わたしは北の方向へ何もない平原をただひたすらに走った。
夜になれば手頃な木の幹にもたれかかり剣を抱いて泥のように眠る。
そして、朝になればまた北へ向かって進む。ただ何日もその繰り返し。
この剣を持っている間だけは身体能力と感覚が鋭くなり、そのおかげで小動物を狩ったりすることくらいはできた。食べられる野草を見繕うだけではすぐに倒れて動けなくなっていただろうから。
足の怪我もいつの間にか治っていた。この剣の力は自己治癒能力すら高めるようで、ただ持っているだけだというのに《勇者》の祝福の強さを思い知る。
通りかかった村でお母さんから伝えられたサルヴァの街がどこにあるかを聞き、ある時は行きずりの行商人の馬車に乗せてもらっては降り、北へ北へ。
ある時はお金がない代わりに剣のおかげで獣を相手取る用心棒の真似事をした。何かに襲われたら自分を囮にして見捨てても構わないと言えば、渋い顔をされたり、素直に心配されたり。
サルヴァに行きたいと言うたびに聞く人は、小娘がひとりなぜあんな場所にとみな顔を顰める。時には犯罪者扱いされることもあった。聞けば後ろ暗い人間や異教徒が集う治安が悪い街だという。
そんな中で、サルヴァに向かうという陰気な商人の馬車に乗ることができたのはとても運が良かったのかも知れない。
ごとごとと揺れる荷車の中で、お母さんから渡された銀色の聖印をただ見つめる。
女神マルグレーテの姿が彫り込まれた聖女の証。
『……すぐに追いつきます。さすればその時にこそ、貴女を娘と呼びましょう』
「……お母さん」
ただの気休めかもしれない。それでも、最後の言葉にすがって聖印を強く握った。
ルイボス、というのが誰かはまったく知らない。ただ、お母さんの友達なのであればきっと所在を教会で聞くのが1番だろう。
会えば力になってくれるとお母さんは言った。
……でも、わたしはどうしたいのだろう。ただ言われるまま逃げて、その先は?
どうして村に魔物が現れたのかはわからない。でも、アドルがわたしを守り死んでしまったこと。そしてお母さんを見捨てて逃げてしまったことだけは逃れようのない事実だった。
わたしにあるはずがなかった祝福が本当は存在していて、それが原因でわたしとお母さんは襲われたのだということは何となくわかる。
でも、わたし自身ですら持っていることを知らなかった祝福の内容を誰が知れるというのだろう? なら、5年前に祝福の有無を審査したとき、アウグストゥス卿がわたしに嘘をついていたとしか思えない。
つまり、わたしたちを襲おうとしていたのはアウグストゥス卿が用意した刺客ということになる。だってわたしの祝福の正体を知り得たのはあの人だけなのだから。
お母さんはそれに気づいた。だからこそ、わたしを逃がした。
傍らに置いた剣をちらりと見る。
脳内に流れてきたメッセージから推測すると、わたしが持つ《継承》の祝福とは、死人の祝福を武器として取り出せてしまう力だ。
今頃聖都では異端者として指名手配でもされているのかもしれない。聖騎士アドルから《勇者》の祝福を奪い行方をくらました背教者とでも、いくらでも理由はつけられる。
「幼馴染を殺して逃げた女、か」
間違いじゃない。実際、わたしが殺したようなものだ。
村の皆はわたしを恨むだろうか。
全部お前のせいだとポプラがわたしを弾劾するのを思い浮かべると辛くなり、ぎゅっと目を閉じる。そうしなければ大声で泣いてしまいそうだったから。
ただ身を縮こまらせていると、やがて馬車が止まった。
「着きましたよ。お嬢さん」
「……ありがとうございます」
「早く出てもらえますかね。こちとら仕事がありますんで」
ぼそぼそと喋る深い帽子を被った商人から叩き出されるように荷車の外に出ると、馬車は街に入ることなくそそくさと街の入り口から離れていってしまった。別の入口があるんだろうか?
冷たい風が肌を刺すように吹き付ける。
空はどんよりと曇っていて、門扉や見張りの兵すらいない寂れた入口が目の前にあった。街を囲む石壁もところどころひび割れていて、欠け落ちた岩のような欠片が地面に散乱している。かつて補修しようとしたのか、粗末な木組みの足場が壁の側に瓦礫のように積み重なり朽ち果てていた。
そして街の向こう側には、壁のようにそびえ立つ山脈がある。
陽の光も当たらず、限りなく深い緑と黒い岩場が連なる山々は、人間が立ち入ることすら拒絶しているように見えた。
腰の使い古されたホルスターに剣をしまい、マントのような粗末な外套を羽織る。
どちらももはや売り物にならないからと、かつて馬車に乗せて貰った商人に渡された物だった。
恐る恐る街の中に入れば、街の目抜き通りのはずなのに薄暗い。人通りはあるが、街を歩く人たちはずいぶんと洗っていないようなぼろ切れのような服を纏い、疲れ切った表情をしている。
ある程度まともな身なりの人もいるが、皆どこか近寄りがたい無頼のような雰囲気を帯びていた。
左右にはところどころ斜めに歪んだ家屋が並び、乾いた泥と石でできたひび割れた壁には生気の無い浮浪者が力なくもたれ掛かっている。
村よりずっと広い街だというのに、これでは田舎の村に住んでいたわたしたちのほうがいい暮らしをしていたのではないかと思ってしまう。
そして人とすれ違う度にその落ちくぼんだ目がわたしの姿を捉えているのがわかった。いや、正確にはちがう。
(きっと、この剣を見ている)
かつてアドルだったもの。外套から鍔や握りに複雑な意匠が掘り込まれた白い剣が覗くたびに視線を感じた。
見ただけでも普通の剣ではないことがわかるんだろう。ただの小娘が帯びられるようなものではないのだろうから、余計アンバランスで怪しく見える。
じっとりとまとわり付くような視線に気づかないふりをして剣の握りに手を添えると、祝福の効果で身体が軽くなる。
この剣に宿っている《勇者》の祝福が使えるのは、この剣を握っているときだけだった。お母さんもそれがわかっていたからこそ、けして剣を手から離すなと言ったのだろう。
この近くをうろいている時間が長ければ長いほど危険かもしれない。
わたしは足早に教会らしき屋根の建物を探して歩いた。見れば街の奥の方はまだマシなようで、まともな建物が建っているように見える。崩れかけて歪んだ建物は街の入り口付近より少ない。
街の奥に向かおうとすると、
「おっとぉ、あぶねえなあ」
路地裏の暗がりから、ひどくわざとらしい声とともに1人の男がわたしの目の前に立ちはだかった。
酒でも飲んでいたのか、ふらふらと酔っ払ったような緩慢な動きをしている。
だがその隻眼はどこか値踏みするようにわたしの全身を観察している。顔の右側に大きな縦の切り傷があり、右目は閉じられたままだ。
恐喝狙いの輩にしか見えないのできっと下手に出てはいけない。
「危ないのはあなたです。どいてください。急いでいるので」
「残念、俺はヒマでヒマでしょうがねえのよ。だからちょっくら相手してくれねえかなあ、姉ちゃん。それに随分と上等なモン持ってんじゃねえか……」
「触るな!」
腕を掴まれそうになり、鋭くなった感覚が勝手に身体を動かした。思わず剣を抜くと、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべた男は慣れた身のこなしで飛び退き、同じく帯びていた暗銀の剣を構えてみせた。
「そんな物騒なもんあんたには似合わねえよ。だからよこせよ、な?」
「よく見たらそこそこ上玉じゃねえか。異端認定でも喰らって逃げてきた高等司祭の娘か何かか?」
「興味ねえな。こんなクソの掃き溜めに高そうな剣持って小娘1人でフラフラしてんだ。どうされても文句なんぞ言えねえよなあ」
「違いねえ」
後ろからも下卑た笑い声が聞こえる。目線をやると、いつの間にか2人の男が背後に回り込んでいた。2人とも廃材をただ削り出したような木の棍棒を持っている。
周囲にはちらほら遠巻きにぼうっとこちらを眺めている人たちが何人かいるけれど、これが日常かのようにただ見ているだけだ。無視している人すらいる。逃げたり野次馬になる気配すらない。
きっとこういう強盗じみたことすら、この街では珍しくない光景なんだろう。
「……それ以上近づかないで」
呟いて、左手で剣を構えた。だが、相手は魔物ではない人間である。
底冷えするような恐ろしさが冷たい氷となってお腹の底に溜まる感覚があった。
顔に吹き付ける風すら気にならないほどに。
「おいおい無理すんなよ。身体が震えてるぜ? 剣なんかろくに振ったこともねえんだろ?」
「そうかもね。でもそんな小娘と戦って後悔するのは、きっとあなたたちだよ」
「このクソガキがあっ」
精一杯挑発して、剣を振り上げた男に体当たりするように脇を抜ける。
そして剣身を横にしてその背中を勢いよく殴りつけた。
男はそれだけで呻きながら倒れた。《勇者》の祝福で瞬発力も筋力も向上している今のわたしに金属の棒でぶっ叩かれたらそれはきっと痛いだろう。
こういう手合いであろうと、わたしは人間を殺せるか? わからない。だから、殴ることにした。
人間は胴を抉るか頭を叩けば死ぬ。逆にそれさえしなければなかなか死なない。
「テメエっ、兄貴を」
見向きしなくても後ろから棍棒を振り上げている2人の姿が想像できた。振り向きざまに棍棒を両断し呆けている一瞬で勢いよく腹を蹴り飛ばす。最後にうろたえた最後の1人の肩口に思いっきり剣を叩き付けた。バキ、と骨が折れた音がした。響き渡る野太い悲鳴。
腹を押さえて咳き込んでいる蹴り飛ばした男に近づくと、尻餅をついたまま後ずさった。
構わずわたしは目の前に剣を突きつけて、できるだけ冷たい声で言い放つ。
「わかったでしょ。もうわたしに関わらないで。襲ってこなければこれ以上何もしないから」
男がわずかに頷くのが見えたのを合図に、わたしは踵を返して早足で街の奥へ向かった。
3人相手なうえに侮られていたから何とかなったけど、これ以上仲間がいたらそれこそどうしようもなくなる。とにかくこの場所から離れたかった。
骨を叩き割った感触がまだ手に残っていて、ひどく気持ち悪い。
路地の奥から覗いていた1人の子供の視線に、わたしはその時まだ気づかなかった。
※
ルイボスという人物はこのサルヴァの教会の聖女だった。
簡単に見つかったとほっとしたのも束の間、別の問題があった。
「いない?」
「どこにいるかは私も知りません」
「それならお帰りになるまで教会で待たせてもらえませんか」
「……あの方は教会には顔を出しませんので、待っていても同じことかと」
「顔を出さないって……その、聖女、なんですよね? ルイボスさんは」
わたしは信じられなくて思わず聞き返してしまう。聖女は教会に詰めて日々の儀式や説法を行う義務がある。それが戒律だからだ。お母さんがそれを厳粛に守っていたように。
「貴女がこのサルヴァの街についてどれほど知っておられるか分かりませんが、貴女の常識はこの街で通用しないとお思いになった方がよろしいかと」
薄汚れて灰色にすら見えるくたびれた法服を着た老いた司祭は、疲れ切った皺の深い顔でため息をつき、天井の隙間から覗く灰色の空を見上げた。
サルヴァの教会は街のはずれ、街を囲む壁を背にひっそりと建っていた。
街にあるだけあって村よりも大きな教会だけれど、聖書にある壁にはめ込まれたステンドグラスはひび割れ、礼拝堂に入れば天井にはところどころ穴が空いていて廃墟と言われても仕方が無い有様だった。
長椅子の背で指を滑らせればたっぷりと指に埃がつくくらいで、もしかすると、祈りに来る人すらいないのかもしれない。
説教台の向こう側にある女神マルグレーテの像だけはかろうじて掃除されているようで、その周りだけは清潔に保たれている。
ただ、それが逆にわざとらしさを感じるし、この教会が寂れていることをより強調しているような気がした。
それにしても変だ。
エル=ラピスにおいて、一定規模を持つ街を治めるのはラピスラズリより派遣された大司教たちであるというのは本で読んだことがある。なら大司教がいるはずのこの教会がこんな荒れ果てているのはどう見てもおかしいんだけど……。
「あの……失礼なことをお聞きしますが、この教会はどうしてこのような状態に? 街の教会には聖女だけでなく大司教がおられるとお聞きしたのですが。それに、この教会には司祭様しかおられないのですか?」
「貴女はこのサルヴァについてどれほどご存じで?」
「いえ、ここには来たばかりでほとんど何も」
わたしがかぶりを振ると、老いた司祭はため息をついた。
「ここは“下層”だからです」
「下層?」
「貴女も既にお察しでしょうが、このサルヴァはけして治安が良い街とは言えません」
それはそうだ。歩いているだけで強盗に襲われる街なんて正常ではない。
「このサルヴァの街は2つの区画に分かたれた街です。市民権を持つ者はすべて鉄の柵で隔たれた先“上層”に住んでいます。大司教が座す教会もそちらに。大司教に資格なしと判断された者は上層に立ち入ることはできません。この教会は下層に住む者たちのために設けられましたが……見ての通り、ただ形ばかりがあるのみです」
「どうしてそんなことに……」
「大司教による治安維持施策の1つです。このような辺境の果てを訪れる者は、皆どこかに後ろ暗いものを持っていますから」
そう言って司祭は乾いた笑いを漏らしてわたしをちらりと見た。
暗にお前もそうだろうと言っているのか。いや、もしかすると、この人自身も。
「どういった事情でこの街を訪れたのかはお聞きしませんが、貴女のような年若い方はすぐにでもこの街を離れることを勧めます。いずれきっと、後悔することになるでしょうから」
そう言われて、わたしは教会を追い出された。
『あなたにマルグレーテの瞳の導きがありますように』
お母さんが毎日のように言っていた別れの挨拶を思い出す。
聖女や司祭は教会で祈りを捧げ、帰宅の途につく人たちにそう言って送り出す決まりなのだという。
そしてわたしは今、そう言われることはなかった。
目の前には荒れ果てて雑草が伸び放題の、かつて花壇だったものがある。
ここが教会の形をしただけで意味の無い建物であるというなら、ひどく救いの無い話だと思った。
そしてこんな街にいる聖女とは一体どんな人なんだろう?
本当に力になってくれるような人なんだろうか。すこし不安になってきたけれど、今はお母さんの言葉をただ信じるしかない。
瞬間、がさり、と雑草が音を立てた。
誰かが小石を投げ込んだのだと気づいた。
投げ込まれたであろう方向を見やると、木陰に隠れるようにして背の低い少年がひとり、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
わたしが声をあげると少年は答えず、ちょいちょいと手で手招きをした。
わたしは素直に木陰に近づいた。スリかもしれないけれど、そもそもわたしは今お金を持っていないから問題ない。
すると少年は小声で囁いた。
「ねえっ、さっき大人たちをぶちのめしてたでしょ。見てたんだ」
「いや、まあ、そうだけど……あれはたまたまで」
あれはわたしの力ではない。この剣がなければただの小娘でしかない。
そんなことを知らない少年はすがるような瞳でわたしを見つめた。なんだかとても嫌な予感がした。
「だから、お願いがあるんだ。聞いておくれよ」