「トレーナー。――失礼する」
デスクワークにちょうどキリがついたところで、六時間目のチャイムが鳴る。そろそろ担当が練習に顔を出しに来るかと思い、缶コーヒーでも買いに行こうと席を立ったその時だった。ガラッと扉が開き、トレセン学園の教員が着るジャージを身にまとった褐色のウマ娘と目が合った。
「ア、アノー……こんにちは」
彼女は一人生徒を連れてきていた。しかし申し訳ないことに会った記憶がなかった。彼女の持っているクラスの子たちはだいたい顔と名前が分かるので、おそらくあまり目立っているわけではないのだろう。だからこそ、こうしてトレーナーである自分の前に連れてきたのだと理解した。
「こんにちは。せっかく来てもらったし、そこに座っていいよ」
「ハ、ハイ! ありがたくございます!」
たどたどしい発音だった。日本語の勉強はかなりしたのだろうが、こちらに来てまだ日が浅いのかもしれない。より一層、怖がらせるようなことをさせてはいけない。
「トレーナー……この子の、面倒を――見てやってほしい」
「クリスエスがわざわざ生徒を紹介しに来るなんて。珍しいね」
「……」
うん、とゆっくりうなずいたものの、クリスエスはそれ以上の言葉を発さなかった。昔から彼女はそういうところがあったし、多くは語らずとも連れてきたその子は素晴らしい素質を持っている、と言いたいのかもしれない。確かに、間違いなく真面目であろうということは伝わってきた。
「トレーナさん! これを……受け取ってくだサイ!」
言われるがままに、クリアファイルに入った書類を手に取る。そこにはみっちりと、自分の体の状態とそれに合わせた練習メニューが書き込まれていた。実際にトレーナーが作成して担当ウマ娘に提示、あるいは学園側に提出するような、かなりきっちりとしたフォーマットだった。
「この子は、選抜レースを――まだ、迎えていない。Classmate――同級生にはすでに、トレーナーがつき、デビューをしている子が何人もいる。しかし――全く焦ることなく、正確に、完璧に自分の状態を分析し、デビューに向け、着実に努力を重ねている」
「このメニュー……全部自分で考えたのか?」
「ハ……ハイ!」
トレーナーでもここまで綿密なトレーニングメニューを提案できる人はそうそういないだろう。そしてここまでの大器を持っていながら、いまだ機会に恵まれずにいる子を気にかけていたクリスエスの方にも驚く。
「トレーナーサン、Advice、をください……!」
「うーん……」
トレーナーはウマ娘の状態を見るプロ。とはいっても、他人のことである以上、本人の分析にはどうしても勝てない部分がある。それ以外で有益なアドバイスができるとすれば、彼女自身の走りを見てからだ。俺はクリスエスの予定を確認し、二人で一緒にグラウンドでフォームや力の入れ方などを見させてもらうことを提案した。
「ありがとございマス!」
三人でグラウンドに出て、しっかり準備運動をさせた後、合図を送るとすぐに走り始めた。走り方一つ見るだけでも、走ることを楽しいと思っていて、それを全身で表現できる子なのだと実感した。
「彼女は、Expression――自分を表現することが、あまり得意ではないらしい」
「あんなに楽しそうに走ってるのに?」
「言葉の壁がある、という意味だ」
「なるほど……」
「彼女の――母国語は、英語ではない。英語も日本語よりは、達者だが。ゆえに、クラスでも他の子たちの話についていくのに、苦労しているようだ」
シンボリクリスエス。今なおこの学園に名をとどろかせる名ウマ娘は、トレセン学園の教員として戻ってきた。クリスエスの活躍以来、日本のレース界のレベルの高さに驚いた世界各国のウマ娘たちが、続々とこの中央トレセンにやってきていた。そこで、留学生のみを対象とし、公用語を英語としたクラスが新設され、クリスエスはその担任になった、というわけである。「日本のレース界に革命を起こす」――クリスエスがトレセン学園にやってきた時、打ち明けてくれたその使命は見事なまでに果たされた。
「担任として、であれば――特定の生徒に肩入れするのは、推奨されないかもしれない。それはトレーナーの仕事、であって、教員はみなを同じLevelに引き上げることが使命だ」
「けど、クリスエスは見逃さないでいてくれたんだな」
「……!」
「できる子に合わせすぎると、ついて行けない子がたくさん出てくる。だから、平均よりも少しついて行けていない子に合わせる。それは確かに、学校の立派な役割だ」
クリスエスは間違いなく「できる子」だった。G1レース勝利という栄冠に何度も輝いたし、トゥインクルシリーズ最終戦となった有マ記念は今も語り継がれるほどの名レースを演出してみせた。ただ、抜群の才能を持った子が何人もやってくるこのレース界において、クリスエスは決して天賦の才に恵まれたわけではなかった。彼女自身、幼い頃は今のままではレースの世界に飛び込むのは不可能だと思っていたという。
「だが――突出しているにも関わらず、埋もれそうなTalentを見つけ出すのは、教員である私の使命――トレーナーは、そう言いたいわけだな」
「そういうことだ。トレセン学園がただの学校という枠組みを出ないのなら、今でなく、将来輝くだろうウマ娘を見つけ出すことはできない。君の任されたクラスはきっと、学校とは別の役割を求められている」
クリスエスは「レースの世界に行けなかったかもしれない自分のこと」を理解している。それは先生という職業に就くにあたって、重要なことだと俺は思う。客観的に見れば出来が悪い、と評される子の気持ちを理解するのは、先生にとって必要な視点だ。そしてどうすればそんな子が輝けるのか、その道しるべを示すことも、クリスエスにはできる。
「とっ……トレーナーさん! ど、どーでしたか……!?」
「うん、もう少し力を込める場所を意識して走ってみよう。力を入れるべき場所に力が入っていないと、飛ぶような走り方になってしまう。姿勢が悪くなって、むやみに筋肉を痛めることにもなる」
「は……ハイ!」
軽くアドバイスをしてもう一周。もともと自分の状態や走りの課題を言語化するのが得意なのか、抽象的なアドバイスでもそれを飲み込んでものにし、先ほどとは見違えるほどの正しいフォームに矯正されていた。これだけ変われば、自分でも成長を感じられてもっと走るのが楽しくなるだろう。ウマ娘にとって、走ることが楽しいと身をもって感じることは何より成長につながる。
「トレーナーは――他人からの目線でも、ウマ娘の状態を言葉にし、伝える能力に秀でている……自らの走りが基準となってしまうウマ娘には、できないことだ」
「人間じゃウマ娘の走りにはどうやっても追いつけないからな。そこの差がある分、むしろ客観視できるのかもしれない」
「なるほど……トレーナーに、ウマ娘でなく人間が多いのは、そういうことか……」
俺とクリスエスでは、今トラックを走っている彼女を見る目が違っているだろう。しかし向いている方向は同じだ。正しく見出され、適切な指導を受ければ、結果輝かしいウマ娘になれると確信している。
「トレーナー。……あの子の面倒を、頼まれてくれるか」
「クリスエスなら、ここでもう一回頼みに来ると思ってた」
「……?」
「君がこれからも、留学生クラスの担任として使命を果たし続けてくれるなら。俺はそれに応え続ける。そのつもりだ」
「なるほどな――」
先ほどの一周より明らかに速くなって、彼女は帰ってきた。自覚もあったようで、晴れやかな顔をしてこちらにやってきた。
「一ヶ月後。そこで選抜レース勝利を目指そう。それまでトレーナーとしてアドバイスをする。いい走りができれば、君の専属トレーナーになることを約束しよう」
「ホント……ですか!?」
俺は彼女とがっちり握手を交わす。ほっとしたのか、クリスエスが静かに笑みを浮かべていた。使命を一つ果たした仕事人が、一足先に校舎の方へ戻ってゆく。俺は二人で、その大きな背中を見送った。