病める時もすこや物語 作:足洗
中学の同窓会。
十年ぶりの帰郷。
人も町並も案外覚えているものだ。
故郷を長らく顧みなかった罪悪感が背中を刺す。
当時でさえ過疎半歩手前。
寂れた駅前の居酒屋でそれでも集まった20人ばかりの級友達。
二次会に繰り出そうとする彼らに詫びて、俺は会を中座した。
明日も早朝から仕事なのだ。
その電車を逃すと面倒だった。
窓口の既に閉まった半無人駅。
改札を通ろうとした時。
背後に足音。
「あの」
女声である。
振り返った先にあったのはやはりというか懐かしい顔。
駅の入口に立つコート姿。黒い艶髪が闇に溶け出しそうだ。
縁なしの眼鏡から伏し目がちにこちらを見詰める瞳。おどおどと遠慮がちな態度。
昔から変わらない。
幼馴染の娘。
幼馴染と言って差し支えない筈だ。
彼女はこの町の古本屋の娘で、子供の頃は俺も漫画本を求めてよく通った。
小中と同じクラスで学んだ。
雑多な思い出なら幾らでもある。
今夜の宴席では生憎それを彼女と語らう機会はなかったが。
用件を尋ねるまでもなく彼女は言った。
「貴方が、好き、です」
誤解の余地もない。
しかし唐突な感は否めない。
面と向かって差し出された告白は、それこそまるで中学生のように純だ。
悪く言えば幼稚だろう。大学を出て社会人になり長らく忘れていた柔な手触り。
無論そんな酷薄な感想を口にする訳もない。
俺はやんわりと言葉を選び……彼女の申し出を断った。
「どう、して」
ひどく愕然として彼女は問うた。
幸いにも断る理由は明確だ。
付き合っている人がいる。職場の同僚で交際関係になってそろそろ一年。
近く、結婚を申込むつもりだった。
惚気とも言い訳ともつかないこちらの事情に彼女は相槌も打たず静かに耳を傾けている。
自動音声のアナウンスが鳴った。
彼女はなおも無言を貫いた。
俺は罪悪感を覚えながら適当な言葉を探す。
──昔なら喜んで承諾した
──むしろ俺から申込んだろう
そう口にしてから遅まきに自分の言葉の無神経さに気付く。
これは、相手を虚仮にしている。
その様子を見れば、それが彼女にとって一世一代の想いの吐露であったと解ろうに。
謝罪するが彼女は依然無反応だった。
電車が来る。
ごめん、と一言置いて俺は改札を走った。
無人のホーム。
黄色線の手前。
暗がりの向こうから車輪の音。
やや遠く、前照灯が光る。
人を傷付けた罪悪感と分かり易い色恋沙汰。
俺は非道にもそれらを既に過去として顧みる。
一日の終わり。
同窓会の帰り際に起きた出来事。
電車が来る。
もうすぐ。
ライトがひどく眩しい。
間近に。
運転士の顔。
目の前に。
ブレーキの金切り。
不意に浮遊感。
電車が。
大きな音と物凄い力。
雄大な暗闇にまるで湯煎されたチョコレートのように体は溶けて、解けて、広がった。
木と鉛筆の臭い。
固い机の感触。
喧しく椅子を軋ませながら蹴倒して俺は飛び起きた。
教室中の視線が集まる。
黒板の前で担任だった男性教師が怪訝な顔をした。
学ランの詰襟に汗が滲む。
中学二年。
新学期だった。
自分が十年前の過去にいるのだと三日掛けてどうにか理解する。
凡夫が凡夫なりに現実を咀嚼するにはそれだけを要した。
納得はない。
否定を諦めたに過ぎない。
実家で寝起きし、健在の両親と暮らす。
同窓会で見た懐かしい面子が幼い姿で教室にいる。
学生服を着て毎朝学校へ。
俺の日常は回帰した。
在りし日の時代に。
何故どうしてとそれらしく慌てふためくことも忘れ思考は一点に絞られた。
どうすれば戻れる。
あの、社会人二年目の春に。
十年後の自分に戻るには。
考えた末、俺は現状維持を選んだ。
中学生男子の体に成人男性の精神が入り込んでいる。それを一旦忘れ。
日々を送る。
生活をなぞる。
変わらぬ十年を過ごせば、きっと再会できる。
彼女に。
俺は恵まれていた。
過去を懐かしむより今。
今よりも未来。
仕事は苦難も多いが、やり甲斐も見合うだけの報酬もあった。
なにより、心から人生の伴侶にしたいと思える人と出会えた。
俺は戻りたい。
彼女に再会し、もう一度始めたい。
現状、遡行と同じだけの跳躍の術がないならやはり同じ道筋を十年掛けて進むしかない。
それがどれほど歯痒くても。
そうして、記憶も朧で再現など望むべくもなく、ただ当り障りのない日々を維持しようとした──その矢先。
ある日、揺らぎはすぐに訪れた。
教室の隅で女子が複数人。一つの机を囲っている。
歓談、といった雰囲気ではない。
席に座った一人に三人が詰め寄る。
万年筆がどうの、貸す貸さない、空気読め大袈裟キモい。
程なく暴言が漏れ聞こえ始めた。
いとも容易くイジメは始まった。
標的は古書店の一人娘。
黒い艶髪に眼鏡の、彼女だ。
数日に亘り暴言や無視、教科書や上履きを隠す、机に落書き等。
ありがちだがいずれもエスカレートを予感させる。
中学生。子供の残酷さを改めて感じた。
これは、無視すべきだろうか。
逡巡はしかし僅か一瞬で、結局俺は首を突っ込んだ。
決して正義感などではない。
彼女らより少しだけ年嵩だからこその傲慢だ。幼稚な愚挙に対する嫌悪感。
少なくとも、書店の娘に対する善意や義心などではなかった。
焼却炉の傍で今日リンチが行われる。
イジメっ子が反応に乏しい娘に業を煮やして焼け残った角材で彼女を────
それを。
俺は何故か知っていた。
いや、思い出したのだ。
過去の今日を。
十年前のあの日はゴミ捨ての当番だった。
俺は偶然その現場を目撃した。
振り下ろされた角材から頭を庇って、彼女はその尖端で手首を切ったのだ。
ひどく血が出て、赤々とした傷痕がずっと残って。それがひどく痛ましくて。
無性に、可哀想だと思った。
俺は真っ直ぐに校舎裏へ走った。
今なら。
今行けば。
間に合うかもしれない。
果たして、まさにその瞬間だった。
リーダー格の女子がそれを片手間に振り被る。
当人は軽く小突く程度のつもりなのだろう。
しかし結果は惨事に繋がる。誰も、一瞬先さえ想像力が及ばない時がある。
だが今は、未来を知る埒外者の自分がここにいる。
振り下ろされた角材と彼女の間に。
躍り出た
腕で受ける。
砕けた木片が辺りに散った。
暴行だ犯罪だと、十年分余計に蓄えた語彙で淡々と語るこちらに怯んだのか、それとも気味悪がったのか。
イジメっ子達は去っていった。
後で個別に話を着けねば。徒党を離れると人間は案外話が通じるものだ。
不意に、制服の袖を引っ張られた。
彼女が腕に縋り付いてくる。
無理もない。
複数人に囲まれた上に殴られ掛けた。
さぞ怖かったろう。
腕に飽き足らず、彼女はこちらの胸板に額を押し付けてそのまま抱き付いてきた。
黒髪の艶と光沢を見下ろして、やや途方に暮れる。
気安く頭や体に触れるのもどうかと思うし、子供をあやすようにというのも変だ。
仕様もなく、されるがまま通り一遍の労りだか慰めだかを口にする。
彼女はほんの微かな声で。
「やっぱり」
と言った。
零れ落ちたその囁きの意味について語られることは遂になかった。
謎めいた微笑。
レンズ越しにこちらを見上げる、粘つくような視線。
その日以来、俺の傍には常に彼女が侍るようになった。
登校、休憩時間、昼食、部活動はしていないので無論下校時も。
彼女は雛鳥のようにひたむきに俺の後を追い回す。
下手すれば自宅までも。
そんな有様だから、周りは存分に冷やかし家族も下衆の勘繰りに余念がない。
「迷惑、かな……」
遠慮がちにそう呟く彼女を拒むのは難しい。
罪悪感が疼く。
彼女が俺の行動に恩義を感じてこうして懐いてくれているなら、それは素直に嬉しい。
けれど俺の懸念はやはり、この時間の運行の“正しさ”だった。
過去を思い起こす。
思えば。そう、ふと思い返せば。
昔もこんな風ではなかったか。
あの時は、出遅れた為に守りきることが叶わず、怪我を負った彼女を俺が手当てしたんだったか。
それが縁で親しくなり、友人なりの付き合いをするようになった。
それこそ再開された今のように。
下校時。
茶化す級友共から逃げて彼女と二人帰路を歩く。
不意に、彼女は俺の手に触れた。
指を絡め、握る。
俺が見返すと彼女はさっと下を向いた。夕暮れではない赤みが彼女の顔を彩る。
可愛らしいと思う。
懐かしいと、感じる。
こんなことが前にも、あったような気がする
何故。
こんな思い出を俺は十年も忘れていたのか。
綺麗だ。
幼気な顔に女性としての未来を重ね見る。
俺は知っている。
十年後の成熟した彼女も素朴だが魅力的な人だった。
そう、同窓会の席でも何人かの男共が色めき立って言い寄っていた
記憶は未来に過去に行ったり来たり。
俺は忘れまいと日々努力した。
しかしその度、薄れていく。
今に飲まれていく。
未来が遠い過去になっていく。
今が。
この茜の夕陽のように侵食する。
彼女の手は暖かかった。
俺はまだ、覚えている。
地元の高校から県外の大学へ進学し、商社に就職したこと。
失敗や成功を幾らか為して、そして。
そして…………あれ?
「どうしたの」
彼女が問い掛けてくる。
二人、寄り添って歩く。
ふわりと甘い香り。微かに紙の本の匂い
不快ではない。
その真逆の印象。
なんだか随分長く、彼女とこうしてきた気がする。
これが自然。
これが、あるべき姿なのだと。
俺は頭を振った。
じっとこちらを見上げてくる瞳の色があまりにも蠱惑的で。
照れ隠しの意味もあったろう。
視線から逃れた末、彼女の胸ポケットにそれを見付けた。
万年筆。
「……これ? これはね、お祖父ちゃんの形見なんだ」
穏やかに彼女は言った。
話題を誤ったろうか。
慌てて詫び言を並べる己に彼女は責めるどころか微笑んだ。
「祖父が海外旅行中に露店商から買ったもので、その人が言うには……本物の魔女が使っていた品なんだって」
思いがけず、お伽噺めいた曰くが飛び出してきた。勿論馬鹿にする気はないが。
特に気にした様子もなく彼女は言った。
「願いを、叶えてくれるの」
その時過った表情を俺は上手く認識できなかった。
見えなかったのでも複雑怪奇な
静謐だが一瞬たりと安定しない。
揺れ動き歪み巡る。
無数の感情がある。
あるということ以外に何もわからない。
掴めない。
理解、できない。
笑みに近しい何かを浮かべ、彼女は囁いた。
「今日ね、家に私一人なの」
今度はわかる。
これは恥じらいと、熱情
「うちの親、今夜は町内会の寄合で宿舎で宴会なんだって。だから」
絡まった指が蠢く。
何故か、彼女の細い指から俺が想起したのは大樹に巣食う宿木だった。
「朝まで二人きりだよ……」
耳孔に注がれる吐息と誘惑。
中学生にはあまりにも刺激が強すぎる。
そして俺は幸いにも
一人が不安ならこっちの家に来ればいい────我ながら妙案に思えた。
中学生、子供だから問題ないと言い切れない。この年代なら十分間違いは起こり得る。
大人を自称しながら情けないが。
家には両親がいる。あらゆる意味で安全だ。
「来て」
手を引かれた。
彼女は俺の目を見て。
「お願い」
俺はそれを拒────頷いた。
気が付けば俺は彼女の家にいた。
町の古書店の奥の居住空間。
彼女手製の夕飯は、俺の好物の鯖味噌だった。
食卓で交わした他愛ない会話。
あれよあれよと一番風呂まで頂いてひたすら恐縮する俺に、彼女ははにかみながら嬉しそうな顔をする。
「夫婦みたいだね」
上手い返しは浮かばなかった。
ただ、わからないのだ。
ここにいることが、ではない
ここにいることに何の疑問も抱かないことが。
これを当然と受け入れ、馴染み、あるいは望んでさえいる自分が。
突如として現れた。
真っ当な疑問や躊躇を覚えるべき器官が眠りに落ち、残ったのは、彼女の行為の悉くを許容する自分。
まるで彼女の人形にでもなった心地で。
けれどそれなら、仕方ないか。
彼女の部屋に通された。
ベッドに座るよう勧められやや躊躇しながらも従う。
「お風呂もらうね。待ってて」
流し目と笑みが異様な熱を持って俺を撫でた。
一人部屋に取り残され、徐に室内を見回す。
家具はベッドと勉強机と本棚だけ。中学生女子という偏見を差し引いても飾り気は少ない。
机には、一冊のノートがある。
全国どこの小売店でも手に入る大学ノート。何の特殊性もそこにはない。
ない筈の物体にどうしてか、視線は釘付けになる。眼球に見えない糸を括り付けられでもしたかのように
強烈に吸い寄せられる。
知らず、俺は立ち上がり机に歩み寄っていた。
他人の私物に勝手に触れるべきではない。
などという一般論以前に。
警鐘、警鐘が。
頭蓋骨に響く。
その恐怖すら伴う危機感が脳天を突き破って出てきそうだ。
触れるな
開けるな
絶対に見るな
確かめなければ
見るな
この目で
見るな
終わるぞ
終わらせる
お前が終わる
お前の何か
なにもかもが
やめろ
やらなければ
よせ
俺はそっとノートを開いた。
それは、どうやら日記のようだ。
■月■日
また始まる
今日も授業の内容に変化なし
とりかえずあの人の背中を眺めた
中学生だけどそれでも私より広くて大きくて分厚い
男の人の背中
やっぱりドキドキする
■月■日
朝、あの人の家の前
声を掛けようか迷って、やっぱりやめる
流れを変えると面倒だった
あれが起こる日を待とう
我慢だ
■月■日
変化のない町並と時間
私の目標も変わらない
あの人がいればいい
いいと思えることが嬉しい
■月■日
そろそろ準備しよう
あの子達を使うことにも慣れた
角材の角度に注意
前は血や傷の処理に困った
でもあの人が動揺して心配してくれたのはよかった
とても、とてもよかった
また試そうかな
文面の気安さに反して内容はどこまでも異質だった。
ただ不穏だった。
彼女は何のことを言っている。
何を、知っている?
■月■日
とうとう来た
彼と出会う日だ
ずっとこの日を心待にしてる
何度繰り返してもこの気持ちは変わらない
今度こそ
上手くいきますように
どうかお願いだから
今度は絶対
彼を私の
■月■日
驚いた
設定したタイミングから大きく外れる
彼が私を守ってくれた
こんなパターン初めて
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
でも彼に怪我をさせてしまった
ごめんなさい
痛かった?
でも嬉しい
嬉しい
こんなことって
■月■日
なんだか彼が大人びてる
それ自体はとてもとても素敵だけど
気になる
■月■日
変化してる
些細だけど学校の人間の動きが違う
彼の行動が変わったから?
■月■日
彼と話をしてやっぱり少しだけ印象が違う
まるで彼が歳を取ったみたい
そうだ
思い出した
十年ぶりに会った彼だ
同窓会の夜に
あの夜に
あの夜
あの
後は判読できない。
ページの下半分が破り捨てられていた。
そして俺は確信する。
彼女もまた覚えているのだ。
彼女もまた未来からこの今に。
ページを捲る。
そこには。
■月■日
あなたも
「戻ってるんだね」
背後からいっそ当然に。
彼女の声が。
振り返れば彼女はそこにいた。
カーディガンを羽織り、濡れ髪にタオルを掛けて。
唇に湛えられた笑みが、消える。
眼鏡の奥で瞳が昏む。
「あの夜のこと……」
怖れ、期待、諦め、そして何かを求めて。
あらゆる仄暗い感情が混濁して俺に絡み付く。
「覚えてる……?」
怖々と彼女は問うた。
おどおどとした態度、眼鏡の奥の伏し目がちな瞳。
変わらない。
あの日あの時と。
忘れもしない。
記憶は常にあった。
自ら拒んでいたのだ。
それを開くことを。
自覚することを。
自分の────死を。
俺はあの同窓会の夜。
ホームに突き落とされ、電車に轢き潰されて死んだ。
手足は千切れ体は挽かれ血の霞に成った。
終の瞬間、極めて破壊的な死というものを俺は確実に味わい尽くした。
背筋が震え、歯の根が合わない。
死。
これに勝る恐怖はない。
「大丈夫」
ないと、思っていた。
彼女と今、真の意味で再会するまで。
俺の手を取る彼女。
俺の目の前にいる誰か。
俺を殺したなにか。
そんなものが何故こんな顔をする。
叱られた子供のような。
恋する乙女のような。
それがあまりに理解不能で、恐ろしい。
俺は彼女がわからない。
「ずっと好きだから」
痛みを堪えて彼女は囁く。
罪の告白と同質の声音で。
「どうしても、諦められないから」
机のノートに目をやって彼女は。
「最初は本当にただ日記をつけてただけ。万年筆で書いたことが現実に起こるって気付いて、これで貴方に振り向いてもらおうとした。学校の、町の皆が私と貴方を祝福して、あらゆることを私達が結ばれる為に動くよう“設定”した。でも、どうしてか……貴方だけはダメなの」
少女は歯噛みして奥歯を軋ませた。
「貴方だけは思い通りになってくれない。他のどうでもいい人間は幾らでも操れる。現実の何もかも改変できる。なのに貴方は、貴方の心だけは……私に向いてくれない!」
俺の胸倉を掴み彼女は絶叫する。
「イジメから助けてくれたのが貴方で嬉しかった。初恋の人が……貴方が……」
脱力して、頭だけこちらの体に預けて彼女はぽつりぽつりと呟く。
「ノートを見せたのはね、隠してもどうせ見付かっちゃうから。後からバレて貴方に失望されたことが何度もある。あれが嫌で、心底恐かったから。浅ましいね」
否定も慰めも浮かばない。
彼女は頓着せず。
「これが何度目かももうわかんない」
耳に痛い沈黙が室内を固化する。
その中に彼女の迷い躊躇い逡巡、怯えを感じた。
彼女の悲しいほどの必死さが。
「貴方が好き」
飾らず柔な想いを剥き出しにした告白。あるいは幼稚でさえある。
震える小動物のようなその様に一瞬恐怖を忘れた。
非現実的で突拍子もない手段を使ってでも、恋の成就をのみただ願う。
もはやそれはいじましい。
けれどひたすらに、ひたむきだ。
自分を殺した相手の自儘な言い分でも、不思議と俺にその事を恨む気は起きなかった。
そんなにまで想われていたのだという事実に感慨すら湧いた。
だから。
すまないと思う。
俺はその気持ちに応えてやれない。
俺はやはり、未来に帰りたい。
両親の没後、それでも一人懸命に築き上げたものへの愛着を捨てられない。
その場凌ぎの嘘を選ばなかったのは俺が誠実だからじゃない。
強いて言えば、愚かだからだ。
要は失われたものへの執着を捨てられないでいる。
十年後に出会う人を、まだ出会ってもいない彼女を、それでも想っている。
過去へ戻ってもそれは強まるばかりだった。
彼女のひたむきさを理解する。
俺はそれに共感すら覚えた。
「なにそれ」
くすくすと彼女は笑う。
肩を震わせ喉肉を揺らし、嗤う。
嘲弄の調べ。
「ホントに、なに、なんで?」
肩を掴まれ、今度は俺自身を揺り動かし押しやる。
机で腰を打った。
本立てが倒れ参考書が床に落ちる。
豹変する。
空気が。
「それ50回は聞いたかな。ふふ、変わんないなぁ。おかしくなるくらい、さ!」
突き飛ばされて
クローゼットの扉に手をつく。
彼女を見た。
哄笑しながら、その指で俺の後ろを、扉を示す。
「開けてみなよ」
従う理由は皆無だったが従わずその無言の視線に耐えることこそ不可能だった。
恐る恐る扉を開く。
一畳半程の空間にびっしりと。
天井近くまでうず高く積まれたそれは、それらは全て。
ノートだった。
「貴方を線路に突き落とした日、全部がどうでもよくなってノートに願望を書き殴った。その時気付いたの、このノートは死んだ人を生き返らせることはできないけど時間を戻すことはできるんだって」
彼女はノートの山に近寄り、それを無造作に引き倒す。
ばさばさと床に散らばる。大量の、彼女の願望達が。
「十年前のこの年が私にとって一番大切な時間だった。貴方に会えたことで私の灰色の人生にも色が付いたの。些細なことって思う? でも欲しかったのはそれだけ。貴方と普通に恋がしたかった。振り向いて欲しかった。貴方から、触れて欲しかった」
いつしか少女は手に万年筆を握り締めていた。
それをノートに、突き立てる。
何度も、何度も何度も何度も。
「いろいろ頑張ったのにな。体の関係だけなら何度も。男の子って自分の意思じゃコントロールできないもんね。可愛かったよ? ふふ……貴方からは、一度も手を出してくれたことないけど」
妖しげな笑みが悦びと悲しみを内包する。
「監禁したこともある。一年持たなかったけど」
そこにはきっと、俺がいる。
「貴方の死体を抱いて私も死のうと思った。でも、やっぱり、また会いたくて」
縋るような視線にたじろぐ。
紛れもない怖気で。
「何をしても何をしなくても貴方は私の下から去ってく。県外の高校を受験するって聞いた時は怒りすら湧いた。どうしていつもいつも貴方は……だから、ご両親にあんなことまで」
湧き上がる極大の恐怖をその刹那、忘れた。
彼女の言葉に心は静止する。
なんと。
今、なんと言った。
「ご両親が亡くなれば地元に居ざるを得ないと思った。だから安らかに死んでもらったのに、結局大学も就職も他所に行っちゃった。何の意味もなかったね」
こちらの困惑や動揺を彼女は認めながら。
取り繕うでもなくむしろ淋しげに。
殺した、と言ったのだ。
立て続けに病死した両親。
為に俺は県外への進学を一旦は諦めた。
病床の穏やかな死顔が二つ今もはっきりと脳裏にある。
あれが。
あれをやったのが。
「何も変わらなかった」
気付けばその首を掴んで、床に引き倒していた。
覆い被さり見下ろした少女はなおも微笑んでいた。
わからない。
何故こんな顔ができる。
何故。
両手でその喉頚を包む。
押し込めば窒息、体重を掛ければ頸骨を砕くこともできる。
殺せる。
この。
親の仇を。
憎い者を。
こんな理不尽があるか。
恋情なら全て許されるのか。
どうして。何故だ。何故だ!
「それで私を見てくれるなら、いいよ」
握り混んだ手。
指先。
血が集まり憎悪に尖る眼球。
絞めて射殺すまでに籠められていた力が。
────ふ、と脱けた。
諦観。
そして悲しさ。
求めて止まず。
常識外の能力を得ても幸福になれない人間がここにいる。
そしてその不幸の元凶は、俺なのだ。
それがあまりにも馬鹿馬鹿しくて。
虚しい。
「そう……私には、そんな価値もないんだね」
俺は床に座り込んだ。
対して彼女は立ち上がって俺を見下ろした。
親に見放された子供のような顔で。
じわりと胸中に滲むそれを感じる。憐れみなど、筋違いだとわかっているのに。
「魔女は嫉妬深くて邪悪だから、人の恋も幸福も叶えない。その程度のことに気付くまで何十周も掛かった。気付いた時には手遅れだった。私はもう、後戻りできない……だけど」
それは、ずたずたに引き裂かれ打ちのめされ奈落に蹴落とされた人間の苦痛の表情。
そこにほんの一欠片。
壊れた笑みと共に宿る。
希望。
「貴方は覚えてた。十年後のこと。時間遡行でリセットされた筈なのに、貴方はここにいる。私と一緒に戻ってきた! 初めて変化した! 繰り返しを歪められた!」
爛々とその瞳が光る。
「なら、いつかは」
倦み疲れていた彼女に注がれる新たな活力。
狂気という力。
「貴方もいつか私を見てくれるようになるかもしれない」
それは間違いなく絶望と表裏一体の幻想だ。
彼女は壊れることを夢見るのだろう。
変わらぬものが。
変わらぬ愚かな俺が。
いつの日か。
「その為なら、私は何度でも……貴方を殺すよ」
そうしてあっさりと彼女は万年筆を振り下ろす。
その鋭い尖端は俺の首筋に突き刺さった。
痛みと血飛沫の熱。生命喪失の悪寒。
けれどそれらは所詮些末事だ。
紛い物なのだ。
「あは、はは、はははは」
この悲しみ以外、もう全て。
全て繰り返され流れていくだけの仮初。
俺はもう諦めた。
彼女はいつ、諦められるだろう。
その妄念を。
中学の同窓会。
十年ぶりの帰郷。
人も町並も案外覚えているものだ。
故郷を長らく顧みなかった罪悪感が背中を刺す。
寂れた駅前の居酒屋でそれでも集まった20人ばかりの級友達に詫びて、俺は明日の仕事の為に早々中座する。
半無人の駅、ホームに立ち電車を待っていたその時。
背後に気配。
振り返ればそこには懐かしい姿があった。
闇に溶け出しそうな黒髪、縁なしの眼鏡の奥で恐々と伏し目が俺を見上げる。
古書店の娘。
幼馴染の、彼女
素朴に、美しく成熟した女性に俺は笑い掛けた。
彼女は、ひどく淋しげに微笑を返して。
「貴方が好き……もう、どうしようもないくらい、大好き」
線路の向こうから軋る車輪の音。
前照灯の白い光に包まれ、俺達は今また再会する。