病める時もすこや物語 作:足洗
バレンタインにチョコを貰った。
クラスの女子からの、言うまでもなく義理なのだが。
だから格別嬉しいとも思わないし、自慢できるものでもない。
ただ、これは口実になると思った。
今日学校でこんなことがあったと。
妹と、話をする切欠に。
茶化されてもいい。むしろそれこそ望むところ。
本当に、久しぶりに話をしたかったのだ。
そして俺のそんな下心というか、思惑は……大きく裏切られる。
夜遅く帰ってきた妹は、リビングにいた俺の姿を認めるや顔を顰め舌打ちした。
いつものことだ。
無言で部屋から去って行かないだけ今日は大分機嫌がいい。
冷蔵庫を漁る妹に早速仕入れてきたばかりの話題を振った。
大部分は無視されたように思うが、チョコを貰えたと言った時。
「……は?」
その背中が、強張ったように見えた。
反応があった。
俺はまずなによりもそれが嬉しくて仕方なかった。
日常会話さえ近頃はまともに交わせない。妹は徹底的に俺を避けていく。
嫌われているのだ。
理由は……わからない。
多少、理不尽だとも思う。
けれどなにより、妹の気持ちをわかってやれないのが申し訳なくて、悲しい。
だから。
俺は調子に乗って少しだけ話を盛った。
もしかしたら付き合えたりするかもな、なんて。
軽口だ。
そんな可能性はないし、そんな魅力も自分にはない。
それがあるなら俺は妹にここまで嫌われたりしなかったろう。
ある日突然、妹は人が変わったように俺を心底嫌悪するようになった。
俺が中学に上がった頃だったか。家でも学校でもずっと一緒だった時間が学校が変わることで少し、遠退いて。
それからはあっという間に。
思春期特有の苛立ちと近親の男に対する忌避。
それは子供の、女子の成長において避けられない通過儀礼なのだと両親はフォローした。
保健体育の授業でもそう習う。
悪いのは彼女ではない。
俺は距離感とかいう曖昧な概念に最大限神経を使いながら、それでも根気よく妹と接した。
しかし彼女の俺に対する態度は日増しに硬化していく。
笑って欲しかった。
調子に乗んなって。
夢見てんなよって。
女子からの義理チョコで舞い上がってる馬鹿な奴だって。
妹の笑顔をもう何年も見ていない。
嘲りでも、呆れでも、構わなかった。ただこの子とまた、あの頃のように、と。
なのに。
振り返った妹の顔は、暗澹と歪む。
「──死ね!死んじまえ!おに、い、お前なんか……大嫌いだ!!」
違う。
違うんだ。
こんな顔をさせたかったんじゃ。
リビングを飛び出した足音は、廊下を抜けて玄関を出ていく。
俺は阿呆のように突っ立ってただ妹を見送った。
その瞬間、それ以外何もできなくなった。
家族に。
たった一人の大事な妹に、俺はここまで憎まれていたのか。
これほど憎まれながら自分の悪性を理解も自覚もできない。
ひどく情けなくなった。
当て所を探し、仕方なく開け放しの冷蔵庫に近寄る。
ふと、足下に。
小箱が落ちていた。
綺麗にラッピングされている。
時期から言って間違いなくバレンタイン用の品だろう。
誰かに送られたか、これから送るものなのか。
表面にはしっかりと宛名が書かれていた。
“お兄ちゃんへ”
俺は、訳がわからなくなった。
妹の考えも、彼女の言葉の辛辣さも。
ただ今は。
あの子を、追い掛けなければいけない。
小学六年の時、クラスの友達が訳知り顔で私に言った。
『兄妹は結婚できないんだよ』
私と兄の仲の良さを大抵の人は微笑ましいと笑ったが。
最初に気付いたのは母だと思う。
私の兄への態度。
私が兄に注ぐ視線。
私が兄に触れる手付き。
同じ女だから女の気配には敏感になる。
大人に近付いた今なら私にもわかる。
私は女で、私にとって兄は一人の男性だった。
兄と手を繋ぐことを禁止された。
一緒の布団で寝るのは勿論、部屋も別々にされた。
隠れて一緒にお風呂に入っていたら母に物凄い剣幕で怒られた。
兄はひたすら戸惑い、小六だった私はただ泣いた。いけないことをした、そんな朧気な実感がひどく恐ろしかった。
自分の想いを理解できないまま禁忌に触れる罪悪感を母に覚え込まされて。
訳もわからず私は兄を避けるようになった。
それが正しいと信じて。
母や、母に何か吹き込まれた父に監視される日々。
私は自分を穢らわしい者なんだと思いながら心を押し殺した。
兄の妹で在ろうと努力した。
けれど思春期になると心はどんどんささくれ立っていく。
体は嫌でも女に変わっていく。
そしてそれは、兄も同じだった。
男性として完成されていく兄の姿は私を酷く狂わせた。
母に隠れて兄の衣類を盗み、その匂いを嗅ぎながらベッドの中で自分を慰めた。何度も、何度も、何度も、何度も……何度も。
足りない。満ちない。
ダメなんだと気付いた。
けれどその“先”に進めば終わることを知っている。
だから、遠ざけないと
私は耐える。
求めることに抗う。
そう教わった。
そうしなければ家族が壊れると思った。
犯罪者を見るような母の目に応えて私は兄を嫌う。
態度で言葉で、演じる。
そうすることが私のこの家での義務になった。
心は自然、私自身の望みとは逆方向に捻れ、歪み、そうして引き裂かれていった。
兄の悲しそうな顔が、胸の中の何かを軋ませる。痛い。辛い。ごめん。ごめんなさい。
違うの。
私、私は貴方に、そんな顔をさせたいんじゃ。
遊びを覚えて、それらしいグループに属して。
夜は外を徘徊することで家を避けた。
両親の不審の視線が私を窒息させる。
なにより。
兄に会いたくない。
ううん、本当は。
会いたい。
声を聞きたい。
触れたい。
頭を撫でて。
同じ部屋で、傍でずっと。
私は、彼と、あの人と……。
チョコは、せめてもの罪滅ぼしだった。
そしてせめてもの、希望だった。
お願い。
お願いです。
どうか、見捨てないで────
夜中にチョコを冷蔵庫に仕舞おうとして、兄に見付かった。
私がどれだけ悪態を吐いてもいつもいつも優しい言葉で気遣ってくれるのが嬉しかった。
応えられない自分が、堪らなく嫌い。
私は背中で兄の声を聞く。
安心する。
泣きたくなるくらい。
それが不意に、他の女の話をし始めた
チョコを貰った?
付き合えるかも?
は?
なにそれ
無邪気に笑う兄の顔。
私は初めて憎しみを籠めてそれを見返した。
なんで。
どうしてそんなこと。
そんな顔で。
私の大好きなその顔で言うの。
私がどんな思いで。
どんな気持ちで今まで。
この何年間を生きてきたか。
知らない。
この人は何も。
だから?
だからって!
「大嫌いだ!!」
胸の中で何かが砕けた。
私はそれを抱えて走った。
駅を出て雑踏を歩く。
当てはない。
漫画喫茶か友達の家か、ナンパに付いて行くだけでも一夜の宿くらいはどうにかなる。
もう、どうでもいい。
自分が守ってきた家族という名の檻。
その為に蔑ろにした大切な────大好きな人。
自分の努力の途方もない虚しさ。
全部が混ざりあってぐちゃぐちゃで。
もう、嫌だ。
どうして。
どうして私は貴方の妹なの。
ねぇ…………お兄ちゃん
その時、背中を打つ声に息が止まる。
今だけは絶対に会いたくない人が道の向こうからこっちに駆け寄ってくる。
私は逃げた。
人混みが邪魔で何も考えず道路へ飛び出す。
その瞬間、横から轟音。
いつ現れたんだろう。
トラックのヘッドライト。
咆哮めいたクラクション。
そうして諦めに吐息。
あぁ死ぬんだ、私
腕を引かれた。
引っこ抜けるんじゃないかってくらい強く。
道に倒れ込む。
固いアスファルトが掌を削る。
重く鈍い音がした。
それはゴムボールみたいに跳ねて道路の隅に転がる。
糸の切れた人形か、捨てられたボロ布みたいに。
喧騒が消えて夜光も色も視界から遠退いて。
けどそれだけは。
ただその人の姿だけが、私の眼球に像を刻む。
私は地面を這って、這って。
その人にしがみつく。
動かない。
べたりと掌を血が滑った。
夜景の下でひどくどす黒い。
彼の命は流れ出す。
兄は頭から赤黒い血を次々次々次々と垂れ流していく。
寝顔を見下ろす。それは普段私がこっそりと盗み見るそれと何ら変わりない。
穏やかな形。
愛しい容。
今、永遠になろうとする貌。
自分がいつどうやって病院に来たのか覚えてない。
救急車の中でも私はただ彼の寝顔を黙って見詰めていた。
彼が死んだら私も死のう。
考えといえばそのくらいで。
あとは全部現実感がない。
ベンチで呆としてると、蒼白になった両親が走り込んできた。
私を抱き締めながら何か言ってる女を私は無感動に見下ろした。
両脚の対麻痺。
一命を取り留めた彼はまるでその代償のように半身不随になった。
茫然自失する両親が、慰めの言葉も見失ってとぼとぼ病室を出ていく。
麻酔から覚めた彼は夢現の様で私を見て、私の名前を呼んで、ふ、と微笑んだ
私は込み上げてくる全てを声にして泣いた。
縋り付く私の手に彼の手がそっと重なる。
私は、その優しさに
そしてそれと同じくらい────歓喜が背骨を震わせた。
強く激しく狂おしく。
罪深い悦びを噛み締めて。
私は確信する。
手に入れたんだ。
この世で一番欲して、絶対に得られないと絶望したものを。
最愛の人を。
支配する権利を。
私の生活は一変した。
灰色の檻から薔薇色の楽園に。
彼の介護をする。
体を拭き、着替えを手伝い、寝返りを打たせ、強張った両足をマッサージし、食事を作り、排泄の処理をする。
今までの苦痛の日々が嘘のように。
それら全てに喜びが同居した。
尿瓶を持った私を見上げる彼の、惨めさを噛み締めたその瞳でさえ愛おしかった。
私の所為なのに。私なんかを助けたばっかりに貴方は。
でも。
だからこそ。
私は私の全てをこの人に費やす義務がある。
誰が何と言おうと。
共働きの両親が時折私の負担を気遣う素振りを見せるが無視した。
私の入れ込み様に案の定母は苦言する。
『貴女にも自分の人生があるでしょう』
彼の人生を壊したのは私だ。彼の健常な未来を鎖したのは私だ。
私の人生なんて、もうない。私の命は彼の為に在る。
『あれは貴女の所為じゃ』
理解者ぶって定型句を吐くその人に首を傾げた。
「私の所為じゃないなら誰の所為なの?」
母も父も言葉を飲み込む。
私は問う。
「あの人を傷付け続けた私を、それでも思いやってくれたあの人はああなった。誰にも罪がないならなんであの人は自由を、未来を、両足を奪われたの? ねぇ」
慰めも弁護もお門違い。
全てはもう動かない。揺るがない。
どうにもならない。
恍惚と、私は既に確定した未来に疑義するその二人に問う。
「答えろよ、おい」
私は傲岸で邪悪な
母の思う通りの。
罪人だった。
罪と義務。
権利と喜び。
罰だけが存在しない。
貴方と私の閉じた世界。
ベッドに横たわる貴方が私の手の中にある限り、私の人生は幸福なんだ。
貴方の心はこれからも傷付くのだろう。
五体満足の生を剥奪され、赤ちゃんみたいに愛でられることに貴方の理性やプライドはガラス細工のように壊れていくのだろう。
ごめんなさい
でも、やめてあげない。
許さない。
貴方はひたすら誠実に、純粋に、兄として私を愛してくれた。
それがどんなに苦しかったか、悲しかったか。
貴方にはわからない。
だから、これから少しずつわからせてあげる。
「私は一度だって貴方を兄だなんて思ったことないよ」
戸惑い、恐れ、労り、痛む。柔らかで爽やかなだけの親愛なんてもう要らない。
私は彼にキスした。愕然とする彼に微笑んだ。
二人の始まり、兄妹の終わりを祝して。
「貴方を、愛してる」