病める時もすこや物語   作:足洗

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狸心中

 

 

 新人時代、残業帰りの深夜の国道に毛むくじゃらの塊が落ちていた。

 酔狂の虫が疼いて車を降り確認するとそれは。

 狸だった。

 幸い死骸ではなかった。車に撥ねられたのか、足を怪我して動けないようだった。

 俺は狸を自宅に連れ帰り、手当てをして餌と寝床を提供した。

 自己満足だ。

 本来なら自治体に連絡するのが筋なのだろうが。

 格別のトラブルも無く、回復した狸を近隣の山に帰して、この珍事はあっさり終わりを迎えた。

 

 

 

 忙しい午前の会社の居室にヒステリックな怒声が響き渡る。

 どうやらまた事務のお局様から新人のあの子が叱責を食らっているらしい。

 黒縁眼鏡に柔らかな毛質のボブカット。地味な事務員の制服とはいえ身に纏う雰囲気からしていかにも垢抜けない。

 彼女が入社してそろそろ半年ほどだろうか。

 気付けばほぼ毎日のように彼女は先輩や上司から注意を受けている。

 もはや馴れの心地で俺はその火中へと近寄った。

 

 顔を真っ赤にして怒り心頭に発する事務長に頭を低くして事情を聞き取り、リカバリーの手伝いを申し出る。

 先方も俺がこうして彼女のフォローに回るだろうことは承知であった。

 

 ──若い子だからって甘やかして

 

 きつい声色で言い捨ててお局様はさっさと自分のデスクに戻った。

 

「……先輩、あの」

 

 暗澹と打ち沈んだ声。伏し目がちな視線がこちらを向く。

 俺はなるべく軽薄に笑い掛けた。

 仕事のミスを逐一指摘する事務長は勤勉で、目の前で申し訳なさそうに肩を落とす後輩はひたすら生真面目だ。

 どちらも間違っていない。

 そんな慰めをもう幾らか並べてから、とっとと業務のリカバリーに入る。

 

「ごめんなさい……私、こんなつもりじゃ……」

 

 俺は今やすっかりとこの部署での彼女の、事実上の教育担当になっていた。

 

 退勤後、彼女を飲みに連れ出した。

 今のご時勢、女性社員を食事に誘うにもいちいち気を遣う。

 彼女には嫌なら断ってくれと再三再四確認しているが今のところ拒まれたことはない。

 人手不足な我が社としても若手に辞められるのは痛手らしい。

 こうした後輩の精神的フォローが定番の時間外業務になりつつある。

 

「えへ、えへへ」

 

 無防備な笑顔が俺の後ろをついてくる。

 少々抜けたところが多いのは社内で十分知れたことだが。彼女は何かと世間知らずで所々に危なっかしい。

 余程の箱入り娘だったに違いない。

 特に車通りの激しい道をひどく恐がるものだから外出に同行する時は道選びにも気を遣う。

 

「先輩とお酒、嬉しいです」

 

 けれど、悪い子ではない

 ひたむきで、頑張り屋で、本当に素直な良い子なのだ。

 

「先輩はすごいです。私のことたくさん、助けてくれました。自分のことだってたくさんしなきゃなのに」

 

 存分に飲んで食べた帰り道。

 ふわふわとした足取りの後輩はふわふわとした声で不意に言った。

 

「先輩は優しいです」

 

 俺は照れ隠しにおどけて笑う

 彼女を見やる。可愛い後輩の愛らしい顔に、笑みはなかった。

 あるのは。

 平素の人懐っこい暖かみとは明らかに違う、熱。火傷を錯覚しそうなくらい。

 

「先輩が好きです。ずっと、前から」

 

 また照れ隠しや誤魔化しが幾つか浮かんで、結局どれもが立ち消える。

 

「私、まだまだこんなですけど、頑張ります。もっともっと頑張ってきっと、ちゃんと先輩に相応しい人間になります。だから」

 

 言葉の隅々まで真剣で、懸命で、熱っぽい。

 だからこそ、それ以上を聞いてやれる度量が俺にはなかった。

 言い訳のように慌てて彼女の言葉を制する。

 

 ──俺、婚約者がいるんだ

 

 元は部長の顔を立てる為に受けた縁談だったが相手女性とは波長が合い、今も円満に交際を続けている。

 

「は、え?」

 

 紅潮していた頬、顔から血の気が引き、青み、遂には漂白されていく。

 

「そ、んな。え、だって、それじゃ、私、今まで、何の為に……」

 

 路地に彼女のそんな譫言が響く。

 通りの向こうで車の走行音が嘶くと彼女はその場で身を固くして沈黙した。

 その夜、彼女とはそこで別れた。

 

 

 その後暫くの間は、後輩と顔を合わせるのがひどく気まずかった。

 無論彼女に落ち度ない。

 幸いにも彼女の立ち直りは思った以上に早く、仕事の調子も悪くない。

 むしろ以前よりミスが減ったとあの事務長が褒めるほどだ。

 白々しくならないよう俺が心配を口にすると。

 彼女は笑った

 

「はい、大丈夫です。もうすぐですから……もうすぐです」

 

 

 

 

 夜、久しぶりに長引いた残業を終えて会社を出る。

 生憎の氷雨が降り頻る通りを見てうんざりしていると、鮮烈な色彩に目を引かれた。

 赤い傘を差した女が一人街灯の傍に立っている。

 その傘の下に見知った姿を、自身の婚約者の顔を認めて、俺は驚く。

 彼女はこちらに手招きした。

 俺は小走りに雨を渡って、赤い傘の下へと滑り込む。

 一体どうしたんだ……と、そう問い掛ける前に。

 俺の意識は暗転し、傘を打つ雨音だけがいつまでも耳の中にこびりついて。

 いつまでも。

 いつまでも。

 

 

「私、あの日からたくさん頑張りました。人間の言葉覚えて、人間の暮らし学んで、人間の姿真似して」

 

 細い金属の格子の向こうで後輩は独り語りを続けた。

 

「先輩に気に入ってもらえる人間に化けようとしたけど無駄でした。だから」

 

 ケージは押しても叩いても噛み付いてもびくともしない。

 食らい付いたこちらの牙がただ軋むばかりで。

 

「先輩に、()()()もらうことにしたんです」

 

 程なく息が切れて、馴染みのない疲労感で体が重くなる。

 仕方なくケージの隅に設けられた寝床で縮こまって体を休める。

 俺を一心に見下ろす後輩の絡みつくような視線が今はひどく恐ろしい。

 あまりにも恐ろしくて、身も心も死んだように凝り固まってしまうほど。

 

「完全に変化し切ったら一緒に山に帰りましょう」

 

 言葉の意味が解らない。

 自分が誰だったか、思い出せない。

 はて、ここはどこだったろう。

 この雌の体はどうしてこう滅多矢鱈に大きいのか。

 しかし腹が減ったな。腹ペコだ。何か、食い物を探さないと。アケビか、幼虫か鼠でもいい。

 

「ずっと一緒ですから。死ぬまでずぅっと、一緒ですから」

 

 俺が力なく一鳴きすると、その雌狸は牙を剥き、にたりと嬉しそうに笑った

 

 

 

 

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