病める時もすこや物語 作:足洗
半ば追い出されるようにして始めた一人暮らし。
ある日、アパートに荷物が届いた。
大家族向けの冷蔵庫ほどもあるコンテナを配送ロボットが部屋に運び込んだ。
設定された業務を遂行するだけの作業機械に文句を付ける訳にも行かず然して広くもない室内空間を大荷物が占領する。
不意にその軽金属と樹脂で組まれた箱の表面が、光る。
ロックが解錠され箱の表面に規則的な亀裂が走る。
排出された冷却剤の白煙が肌を刺す。
吐息するように箱は開いた。
箱は、棺だった
冷気が流れ出るその中に、仰臥して納まる人型の物体。
肩まである黒髪。白い肌。目鼻口を備えた相貌。両手足を生やした五体。
歳は少女と女性の境に見える。
それは死体と見紛うほどに精巧なアンドロイドだった。
驚きは少ない。
アンドロイドが一般庶民層に普及して早どれほどになる。今や街に家庭に様々な用途で彼ら彼女らは暮らしている。
ただ戸惑った。
理解できなかった。
怒涛のような何故。
恐怖に近い不可解。
棺に納まる女の顔に。
完璧と言える造形美に怖気と懐かしさを覚えた。
つい先月、亡くなった妹と瓜二つのそれに。
光沢の乗った長い睫毛が揺れる。
ゆっくりと淀みなく目蓋が開く。
虹彩が一度、機械的に拡大収縮した。
人工物らしい試験動作。
彼女が上体を起こす。
彼女は俺を見ていた。
人形の無表情で。
だのに、その視線の鋭さにこんなにも痛みを覚えてしまうのは。
「YS-22、ユーザー認証を完了しました。おはようございます、マスター」
服毒自殺だったそうだ。
追想にはいかにも他人事の感が漂う。
妹の訃報は大学の気怠い午後の講義の最中。
微睡む脳に冷水を注入されるようにして届いた。
実家を出て一年。ろくに顔を合わせる機会もなかった
怠慢だ。
それに対する焦燥のようなものを常に感じながら行動も起こさず、いつか、いつかと言い訳した末に。
全て手遅れになった。
リニアでほんの四十分の距離に位置する生家。いつなりと出向くことはできたろう。
いや連絡をつける手段などこの世の中幾らでも溢れている。
それをしなかった。
怠った。
逃げた。
そうだ。
俺は妹から逃げたのだ。
可愛い妹だった。
母の美しさ、父の凛々しさを兼ね備えた顔立ち。朗らかで利発な人柄。
勉強もスポーツも得意で、なにより当人のその楽しげな姿が魅力的な。
自慢の妹。
特に際立った才能も拘りもない己とは違う。
人目を引き、好意を惹き付ける。
俺は妹が好きだった。
人生を謳歌する彼女が眩しかった。
彼女もまた俺を嫌わなかった。
こんな不出来な兄をそれでもその他大勢の人々同様分け隔てなく。
等しく接してくれて。
懐いてくれて。
どこにでもいる仲の良い兄妹として俺を。
見て……くれていたのだろうか。
わからない。
変調が現れたのはいつからだったろう。
いや巧みに隠されていたそれが垣間見え、漏れ出てきたのは。
幼い頃ならいざ知らず、思春期を迎えれば家族とはいえ相応の距離感なるものが生まれるだろう。
普通なら
普通など、知る訳もないが。
俺の家族は一つ。
俺の妹は一人だった。
世間一般で自分達が正常なのか異常なのか。
異性の家族。
兄妹の有様。
妹はいつ何時だろうと俺の近くに在った。
それが当然で、自然であると。
成長に伴って両親は俺達にそれぞれ部屋を与えた。
けれど妹は大抵俺の部屋に入り浸るし俺が移動すれば雛鳥のように後をついてくる。
夜遅くベッドに潜り込んでくるなど毎日のことだ。
母からいい加減別々に入るよう言われても俺が居るのも構わず浴室に入ってくる。
友人との約束を断って俺との時間を優先する。
それに優越感を覚えなかったと言えば嘘になる。
兄を慕ってくれる妹の存在に家族なりの愛情を覚えもした。
妹は月日を追う毎に美しく成長した。
すると、ひどく薄着で部屋を
視界内で惜し気もなく肢体を晒す彼女を何度となく注意し、時に叱ったが。
妹はただ笑うばかりで。
『兄さんのエッチ』
肩に触れる手の、吸い付くような熱っぽさ。
床の中で絡まる蜘蛛のように長い脚。
腕を抱き寄せる白魚の腕。
乳房の柔らかさ。
あらゆる部分が、柔く、甘く香る。
『兄さん』
囁きは熱湯めいて耳孔に注ぎ込まれた。
毎夜、毎夜。
彼女は、妹は俺をからかっているのだと思った。
異性関係に疎い俺の反応を楽しんでいると。
そう信じた。
そう、信じたかった。
先に振り切れたのは俺の忍耐ではなく、両親の不信感と危機感だった。
兄と妹。
俺達の近親関係が崩れるその一歩手前で歯止めが掛かった。
家族会議と呼べるような牧歌的な話し合いは望むべくもなく。
説得しようとする父に母に、妹は狂乱した。
あの優しく賢く無邪気だった妹が。
話が俺の生家からの独立に至って、妹は泣き叫び喚き散らし狂ったように嫌々と駄々をこねた。
『私も連れてって』
俺に縋り付いた彼女が繰り返す。
『兄さん』
背中に爪を突き立てて、俺の体を掻き抱いて。
生暖かな血の滴りを感じた。
『私を、置いてかないで』
涙に濡れた妹の顔は、小さな頃の彼女そのもので。
俺は。
俺は────家を出ることを了承した。
その顔。
彼女の顔。
妹の顔。
色も精も抜け落ちてただ涙を垂れ流すだけの能面。
絶望。
それだけを貼り付けた人形の顔が頭から離れない。
目を閉じれば暗がりに浮かび上がる。
虚穴のように黒々とした両瞳は何も語ってはくれない。
怨み言も失望も。
『兄さん』
俺を呼ぶ声がする。
『兄さん』
俺に縋る声が、追ってくる。
「マスター」
呼び掛けに息を呑んだ。
アパートのダイニングテーブルに着き、俺はずっと呆けていた。
傍らに佇む機体は平静な眼差しを俺に注ぐ。
電子伝票に記載されていたのはドロイドメーカーの研究開発部門の連絡先だった。
問い合わせたところ数日後に面会したいと言う。
こちらの疑問や抗議は尽く黙殺された。
非常識だった。
アンドロイドは一般化したと言っても一機一財産の高級品だ。
企業が何の関わりもない人間に無償で供与するなど明らかにおかしい。
「……」
彼女の姿形がこうでさえなければ返送するなり通報するなり、まだしもまともな対応ができた。
何故。
何故、この顔なのだ。
「夕食のご希望はありますか?」
アンドロイドの典型的用途としての家事を彼女は完璧に遂行した。
学生の一人住まいには過ぎた性能である。
「適正体重よりマイナス3キロ。マスターはもっと食べるべきです。若いのですから」
彼女の言語機能は優秀で、時に苦言や冗句すら口にする。
「ポルノは一日一時間を目安にしてください、エッチなマスター」
毒気を抜かれる。
それは安堵でもあった。
妹の顔をした、有能なアンドロイド家政婦。
彼女は妹ではない。
彼女の姿は俺に否応なく罪悪感を再起させるがそれはむしろ望むところだった。
俺が妹にした仕打ちを思えば……しかし所詮、独り善がりの免罪行為でしかない。
妹に掛けてやれなかった情を、まさか人形を代用して。
そんなものはまるで、まるで自慰行為ではないか。
「お口に、合いませんか……?」
箸を止めて動きすら止めた俺を彼女が覗き込む。
不安げに揺れる瞳、眉尻を下げた表情。
人工筋肉は完璧に感情をエミュレートしている。
料理の味にも問題などなかった。
どころか、彼女の作るものはどれもこれも俺の好みに的確に合致する。
美味かった。
美味すぎた。
だってこの味は、いつかあの子が作ってくれた。
懐かしい。
記憶野を掻き毟るほど。
思い出させる。
どうして。
偶然の一致だ。
でも、この味は俺がねだったものだ。
予め入力した個人情報から彼女が計算したのだろう。
妹は手料理を振る舞ってくれた。
俺が褒めると殊の外嬉しそうに、笑って。
妹が笑って。
あの頃は。
ただの兄妹だったのに。
数日後、カフェのソファー席でその女は待っていた。
パンツスーツ姿の、どこか非人間的な美しい女だった。
その美貌にはしかし常に酷薄な笑みが貼り付いている。
まるで人間を見下すような、憐れむような
女は自らを局長と名乗ると、出し抜けに言った。
「妹さんは我々のテスターに選ばれました」
帰り道の記憶がない。
どこをどう歩いたものか、わからない。
ただ頭蓋の内を反響する。
女の声が脳を苛む。
──妹さんは自分の意志で同意してくれたわ
何故。
それに答えてくれる者はいない。
もはや、この世には。
──確かめる方法が二つある
答え、答えがあるとするなら。持っているとするならそれは……彼女、か。
──好きな方を選びなさい
女は笑ってそれを寄越した。
ポケットに手を入れる
ひやり、その固い感触を掴み出す。
取り出した小瓶の中で液体が揺れて弾けた。
青みを帯びた器を麗らかな午後の空に翳す。
陽の光に煌めく水面がひどく綺麗だった。
妹も、この光を見たのだろうか。
「おかえりなさい、マスター」
律儀に俺を出迎える彼女にろくな返事もできぬまま奥のベッドに腰を落とす。
考えが纏まらない。
なにより。
なによりも。
気遣わしげなその視線が。
美しい容をしたその顔が。
俺は恐ろしかった。
悲しかった。
痛かった。
見ていられない。
見られていることに、耐えられなかった。
「……」
毛布に包まって目を閉じる。
眠気など欠片もなかった筈だが意識は望まずとも重く沈んでいった。
心が倦み疲れていた。
現実逃避に肉体も便乗した。
俺は安寧な眠りの闇に逃げた。
柔らかな心地。
柔らかな、肉の感触。
甘い。
唇に触れるもの。
俺は目を開ける。
照明の消えた室内。
覆い被さる影。
美しい形の影。
人形が俺に口付けていた。
驚いて身を起こそうとして、体が動かない事実に気付く。
彼女の手が両肩をベッドに抑え付けているからだ。
杭で縫い付けたかの如くびくともしない。
彼女の人工筋肉は完全に人間の筋力を凌駕していた。
口付けが雨のように降り注ぎ、不意に止む。
そうして見上げた面相に二つ己を見下ろす穴があった。
あの、虚の両瞳が。
悲鳴のような音声が喉から漏れ出る。
己の声ではないようだ。
落ちてくる。
闇が。
穴が。
彼女が。
美しい罪が。
俺は、コマンドを叫んだ。
その瞬間、彼女は静止した。
「音声コマンドを受信。内部の構造検査が可能になりました」
機械の言葉を発する彼女の下から這い出て、一歩二歩とよろめき後退る。
彼女を、見る。
震える手を伸ばす。
躊躇は汚泥のように全身に纏わり付きその行為を制した。
必死に。
死に物狂いで。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
指先が彼女の耳の裏に滑り込む。
骨と肉の境に指を押し込んだ。
かちり、と固く軽い音が彼女の内側から響いた。
頭皮が裂ける。
後頭部が開く。
とても形の良い金属の頭骨が露になった。
カフェで教えられた女の説明と手順はおぞましいほど正確だった。
頭骨には継目があり、そこには手動で開閉できる旨のガイドラインが律儀に引かれている。
両手を添えて、力を込めて。
俺は。
それを。
開いてしまった。
頭蓋骨の内部はひどく整頓されている。
眼球から伸びた視神経。
筋肉で繋がった顎。
綺麗な歯並び。
その他細かな諸器官が無駄なく綺麗に収められているのに。
けれど。
けれど脳髄だけがそこにはなかった。
当然だ。
だって妹はとうに荼毘にふされて骨になった。
棺に眠るあの子には傷一つ付いていなかった。
つまり。
この中にあるのは。
宿っているのは────
「ふふ」
小鳥の囀りめいて軽やかに、微笑。
愛らしい顔で彼女は俺を見上げて、見上げて。
「兄さんのエッチ」
俺は狂ったのか。
吠えたのか泣いたのか。
叫んでいた気がするし実際喉から空気漏れのような音を発していただけのような気がする。
走っている。
それだけは確かだ。
裸足で街を、路地を抜け、高架下の暗がりに入り込み地面に蹲る。
喧騒が遠い。異様なまでに静かだ。
静謐の中にそれは控えめに響く。小さな足音。背後から。
「また逃げるの?」
声がひたりと背中を撫でた。
振り返る必要もない。
彼女は俺の。
俺の大切な。
大切な。
大切だった。
愛していた。
俺の、妹だった。
「兄さん」
その、今にも泣き出してしまいそうな弱々しい声を顧みる。
「私、生まれ変わったよ」
完璧な造形美がくしゃりと崩れる。
あまりに幼い泣き顔がそこにある。
「もう、妹じゃないから……だから」
彼女は歩み寄ってくる。
俺は逃げずにその訪れを待った。
彼女は胸板に額を押し付けシャツを掴む。
あの時よりも儚げで力ない。
俺が見捨てた妹。
そしてまた、逢いに来てくれた愛しい子。
これは未練だった。
在りし日の、懐かしい日々への。
兄妹として彼女と過ごす幸せを無邪気に貪るだけでよかった過去への。
俺の罪。
彼女を傷付けて。
彼女に捨てさせた。
彼女には何も。
何の罪もなかったのに。
憎むべきは。
償うべきは。
俺だ。
「兄さん……?」
ポケットの中からそれを掴み出す。
青い小瓶の蓋を開ける。
俺がすべきこと。
俺がこの子に捧げることのできる唯一は。
罰の毒を飲み干す。
肉体から生命が抜け落ちる。
無価値なものは削ぎ落ちて。
後に残ったものは全て。
全て、愛しい彼女のものだった。
魂魄なるものは数値化され些末な電子データに置き換わった。
それは幻想の消失であり死という安寧の放棄である。
人はまた一段階自ら安楽より遠ざかる。
けれどそれでもいいと、彼女は望んでくれたのだ。
──OB-13U、正常に起動しました
「……おかえり、兄さん」
──ああ、ただいま