病める時もすこや物語 作:足洗
初恋の相手を聞かれても少し困る。
けれど初めて好きだと告白した相手のことははっきり覚えてる。
正しくは、忘れられる訳がない。
中学からの帰り道。
駄菓子屋横の自販機の前で。
ムードもタイミングもあったもんじゃない。
ただ必死にしどろもどろで想いを伝えた。
幼馴染はさっと顔を赤くして……静かに頷いてくれた。
手を繋いでゆっくりと歩いた。
汗の滲む手が恥ずかしかった。
はにかむ彼女が堪らなく綺麗だった。
見馴れた夕暮れさえ特別に見えた。
自宅近くの岐路で別れた。
本当は家まで送りたかったが、がっついてると思われるのが嫌で見栄を張ったのだ。
彼女は察してくれたと思う。
手を振った。
何度も振り返った。
それが────俺が見た幼馴染の最後の姿だった。
中学から大学に入るまでの時間をよく覚えていない。
まるで他人の半生のアルバムを眺めているように現実感がなかった。
記憶は日に日に褪せていく。
けれどそれは崩壊や風化とは違う。
思い出は遠ざかる分だけ懐かしく、一級の古物めいて綺麗に朽ちていった。
あの日暮の路が瞼の裏に映える。
俺は未練がましく過去にしがみついていた。
灰色の景色。
今日もまた講義を消化する。
義務を履行する。
ちゃんと生きる。
ちゃんと生きる。
ちゃんと。
あの娘の分まで。
講義棟を横目に俯き歩いた。
その花壇の向こうに──色付くものが見えた。
久しく感じなかった色。
色のある誰か。
女性。
学年はわからない。
ただただわかるのは。
この廃れ切った目に映るのは。
あぁ、彼女だった。
交通事故。
即死だったと聞かされて。
棺に納まるケアされた綺麗な顔を見下ろして。
許しを得て同道した火葬場の収骨室で生白いそれと対面しても。
実感はなかった。
あの娘がいない。
その事実だけを持て余す。
遺影に写る無邪気な笑顔が何故かもうこの世にない。
五年前に一度俺の思考は静止した。
今日この時まで。
遺影の姿だけが
あの日のまま止まってしまった彼女の時間を思う。
俺がここまで過ごしてきた無為のそれを渡せたなら、どんなにかよかったろう。
幾度も抱いた愚かな願い。
あの娘が、今も生きていてくれたなら。
今日までの歳月があの娘にも許されたなら。
それはきっと。
彼女のように成長するのだろう。
花壇の向こうの彼女のように。
瓜二つだった。
あの葬儀こそ嘘だったのだと。
あの娘は今もどこかで生きていて、今日今この時ようやく再会を果たせたのだと……狂った錯覚を起こすほど。
俺はまるで誘われるように彼女に歩み寄り声を掛けていた。
ナンパだ。
目の前に現れた青年の行為を言葉にするならそれ以外にない。
街中でもなくバーのカウンターでもなく、真っ昼間の大学構内で。
ナンパは別に初めてって訳じゃないけど。
なんだか妙に印象的だった。
状況や時間帯の奇異さはともかく。
青年は見るからにナンパに不馴れで、口ぶりも態度も軽薄やパリピとは程遠い。
女友達は挙ってガード役に回る。
青年は有体に言って不審者だ。
警戒するのが当然なのだけど。
何故か私は彼が、気になる。
その表情が、目が、ひどく印象的で。
縋るような、痛みを堪えるような。
喜びを、心底噛み締めるような
それがあまりにも憐れだったから。
我ながら失礼な感想を無視できず私は結局彼と知り合った。
初対面の悪印象を彼は極早い段階で覆した。
軽薄とか軟派とかからは縁遠い。
ひどく誠実な人柄の青年。
同学年だと知って驚く。
彼は随分大人びていた。
いや、老成していると言ってもいい。
言葉尻や態度に見て取れる落ち着きだけじゃなく達観がそう見せる。
まるで倍近く人生を歩んできたような重みを彼に感じた。まるで、どこかの誰かの人生まで律儀にしょい込んでしまってるみたいに。
そして彼はとても聞き上手だった。
私の話に真剣に耳を傾けてくれる。
丁寧に、厳かに、まるでこれが今生の別れになるかもしれないからと聞き漏らしのないよう。
一つ一つの言葉に応えてくれた。
軟派な出会いとは裏腹な慎重さで。
彼は私に向き合った。
その時の彼の目が私は少しだけ苦手だった。
嫌いとか気分が悪いとかそんなんじゃなくて。
その逆の意味で、ひどく擽ったくて。
彼との大学生活は平穏そのものだったけど、退屈と感じた事は一度もない。
構内で会う度、彼は微笑んだ。
言葉を交わす度、彼は嬉しがった。
ただ隣にいるだけで彼は幸せそうだった。
私は、戸惑う。
誰かに想われる事。
慈しまれるという事。
それがこんなに暖かくて切なくて。
愛しいものなんだって事に。
そして気付けば私の方が────彼を好きになってた。
何度目かのデートの日。
街をぶらつく。
彼は必ず車道側を歩いた。
車が通る度に少し大袈裟なくらい私を庇ってくれた。
大事にされてる感じがしてむしろ嬉しかった。
だから、うっかり口が滑ったんだと思う。
溢れ出るみたいに。
「貴方が好き」
私はすぐに迂闊なこの口を押さえて、しまったって顔。
彼は一瞬驚いて。
また、痛みを堪えて。
ありがとう
とても……嬉しい
そう言って静かに泣いた。
狼狽する私に彼は微笑むばかりで、その涙の理由を決して語ってはくれなかったけれど。
私達は恋人同士になった。
その事実で全部が些事に変わった。
この日から私の人生の折れ線グラフはきっと上限に達したままフラットだ。
まるで中学生の初恋みたいにはしゃいでたと思う。
私はすっかり熱を上げていたのだけど。
私が、彼のもたらすその慈愛に同じだけの想いで応えられていたかは自信がない。
だってそうだろう。
彼は、私が生きているだけで充分だと言った。
軽口の気配すら含まず。
それもそうか。
彼が私に真剣でなかった事など一度もなかった。
それを重い、なんて欠片も感じない私も大概だ。
半同棲みたいな生活。
互いの部屋を行き来して大学でも別講義以外はほとんど一緒。
それに何ら不自由や苦痛を感じなかったのは勿論、それら全て私が望んだ事だからだが。
何より彼の嬉しそうな顔が堪らなく好きだったからだ。
こんなにひたむきに自分を愛してくれる人がこの世にいるなんて。
奇跡みたいな毎日に、私はただ無邪気に幸福を食む。
けれど。
けれど一つだけ。
私は不満を抱えていた。
他人が聞けば十人が十人、私を贅沢者と詰り指を差すだろう。
あの日、悪質なナンパから私をガードしようとしてくれた友人達すらも今や掌を返して彼に味方する。
彼に不満なんてない。
これは、不安だ。
彼の愛情にすっかり浴した私はもはや彼なしに生きていく自信がない。
だから“その日”を私は恐れてる。
彼は月に一度一日だけ一人の時間を望んだ。
自分の時間を私の為に使い潰して当然、みたいな顔する彼を心配する所大だった私としては、それは素直に喜ばしい提案だった。
ただ彼は絶対にその日付を譲ることだけはしなかった。
月の内のその日だけ、友人の誘いは勿論、私との約束すらずらしてでも。
彼は一人、出掛けていく。
まさか他に女の影が……!
なーんて冗談めかす友達と一緒になって笑い合う。
私は何ら彼を疑っていない。
実家の様子を見に行ってるという彼の言を鵜呑みにしてるし、それでいいと思ってる。
大丈夫。
彼は絶対、裏切らない。
彼の明確な愛情を思い返して安堵。
けれど私は自分自身の愛情の重みを自覚していなかった。
自らの愛の量に、不安は正比例するんだと。
その日、私は彼の後を尾けた。
彼の実家の住所は知っている。
電車を乗り継ぐ。
隣の車両から窺った彼の顔は無表情で、ひどく静謐だった。
彼の家の最寄り駅。
彼は私に教えた通りの住所に向かってる。
途端に彼を信じ切れなかった自分が情けなくなる。
罪悪感を覚えながら彼の行く道のりを見て。
私は気付く。
彼が向かってるのは────墓地だった。
整然と並んだ石柱の群の間を彼は迷いない足取りで進む。
足音を殺して後を追う。
正常な躊躇は、津波のような不安に押し流された。
誰かの墓碑の影に隠れて彼の背中を見る。
墓石に刻まれた苗字は彼のものではなかった。
花を活けて、線香をあげる。
屈んで両手を合わせ、彼は項垂れる。
彼の背中が無闇に小さく見えた。
不安はむしろ増大していた。
どうして?
彼は墓参りに来ただけ。
恥じる事でもなければ弁解すべき事でもない。
恥じるべきは私で、謝罪すべきなのも私だ。
だのに私は彼を追う。
春先の晴れ空は私の思考回路より白々しい。
不安が。
心臓が早鐘を打つ。
私は一体何を恐がってるんだろう。
追う。
彼は彼の実家ではない家を訪ねた。
表札の苗字は、墓石に刻まれていたものと同じだった。
引き返せ。
私の中のまともな部分が叫ぶ。
不安が耳を塞いだ。
裏通りに面した生垣は隙間が多く、覗き見には丁度よかった。
縁側。
雨戸と障子を開け放してる。
あぁ今日は天気が良いから。
部屋の中がよく見える。
和室、観音開きの仏壇の前に座り、焼香する彼と。
そこに飾られた遺影には。
無邪気に笑う女の子が。
きっと中学生くらいの。
“私”が写っていた。
私は全てを理解した。
初対面の彼の顔。
痛みを堪えて、喜びを噛み締めて。
彼の慈愛。
ただひたむきだったそれ。
無償の献身の理由。
私が被ってきた慈しみの厳かさが、私の顔を見る度に浮かべる優しい優しい、優しい微笑の意味が。
全て。
私を通して。
私のこの顔を通して。
誰に注がれ続けていたのかを。
理解した。
思い知った。
それでも
それでも……。
俺は卑劣だった。
俺は邪悪だった。
その事実を。
俺に覆い被さる彼女の爛々と光るその目を見て。
苦しみ歪むように笑う痛ましい“あの娘”の顔を重ね見て。
今、ようやくに再認する。
俺は二度、裏切ったのだ。
彼女を、あの娘を。
「それでもいい」
血を吐くように掠れた声で彼女は呟く。
「貴方が見てる顔が私じゃなくても、貴方は生きてる」
自分が生きている事が。
あの娘が、生きていない事が。
許せなかった。
俺があの日見栄を張らなければ。
最後まで手を繋いでいたら。
あの娘は、あの娘は。
彼女を見付けた時、償いの機会を得たと感じた。
それが無上の罪だと知りながら。
止められなかった。
彼女に惹かれた。
あの娘を重ねながら、あの娘ではない彼女を愛した。
「渡さない。死人になんか」
胸倉を掴み、額を己の胸板に押し付けて彼女は絶叫した。
「絶対に渡すもんかっ!!」
服を剥ぎ取られる。
制止に伸ばした手を彼女は握り、指を絡め涙を流す頬に寄せた。
淫らな笑みに歪んだ顔。そこに穿たれた昏い瞳が己を見下ろす。
「じゃあ死人の子供にできないことしてあげる。いっぱいいっぱいいっぱい、なんでも」
口付け。
喰らい付き貪るような。
親に縋る子供のような。
彼女は無邪気に笑った。
涙を流して、からからと空疎に笑った。
俺は俺が壊してしまった大事な人をただ見返すことしかできず。
そして。
この期に及んでなお重なり合う。
彼女と、あの娘が。
泣き笑う彼女の背後に。
薄闇に立つ朧な姿。それが現実なのか妄想なのか、もはやわからない。
少女は俺を見詰めて。
花のような笑顔はそこになく、能面の無がひたすらに彩って。
唇がそっと、囁く。
────許さない