病める時もすこや物語 作:足洗
割れ鍋に綴じ蓋
お嬢様を拾った。
どうも、それ以外に表現のしようがない。
6月も目前の初夏只中。
夕立に降られながらの仕事帰りの道の先。
楓の木の下、雨宿りする彼女を見付けた。
墨を落としたような黒髪も、レースをあしらった白いブラウスも、陰で暗んだ紫檀色のプリーツスカートも重く濡れて少女の肢体を浮彫にしている。
深窓の令嬢とはこういう人を呼ぶ為にある形容なのだろう。
整った顔立ち、肌の透き通り青みすら帯びた白さ。
物憂げに空を仰ぐ黒曜石めいた瞳。
それらが総じて気を放つ。空気、存在感。
儚げで危うい。
それはひどく現実感のない人型だった。
見蕩れていたのも束の間。
俺は一瞬迷って、この場を素通りすることにした。
見るからに訳あり。
身形の良さ、なにより纏うものが堅気のそれではない。
トラブルは御免だ。
たとえこの矮小な良心を総動員したとしても荷が勝ちすぎる。
他人の問題を斟酌する余裕も、能力も俺にはない。
──見付かったか
──いや
その時、路地の角から低く固い声が響いた。
スーツ姿の男が二人、慌ただしく。
これは良心の発露ではない。
他人を、彼女を慮った行動ではない。
俺は俺自身の不安感の払拭の為にまず彼女に声を掛けた。
楓の木の傍に佇む少女を傘の下から卑屈に見上げる。
ブラウスの白が半ば光るようで、霧雨に煙る世界で彼女は妖精のようだった。
己の発想に悪寒を覚えながら用意していた文言を並べていく。
今そこで貴女を探している人がいた、と。
我ながら小賢しい。
こう言えば、何かから逃げる者はその場を離れようとするし誰かとはぐれてしまった者なら合流を図る筈だ。
姑息である。
そして、筋違いだった。
今更我に返る。俺は何故こんな小細工を弄して彼女を気に掛けているのだろうか。
少女は、依然儚げに。
「まあ」
と言った。
それは大変だ、とも、純粋な驚きの感嘆符とも判じられぬ。
期待した反応とは程遠い。
いや、彼女には俺の期待に応える義務などない。
彼女は微笑して、僅かにその整った形の顎を引く。
「困りました」
それが彼女なりの途方に暮れた仕草であるらしい。
「私、どうしたらよいのでしょうか」
逃げているのですか、と俺は問うた。
この上なく愚かな質問だったが確認せぬ訳にもいかない。勘違い一つが命取りのように思う。
彼女は微笑みながら頷く。
やはり、儚げに。
諦めている。全て。
何故かそう感じた。
しとどに濡れたその姿。雨に閉ざされた木陰。
ここが終点。
ここで自分の道は絶えていると悟って。
それは────俺に何かを思い出させるには十分だった。
符合。
重なる。
記憶。
臭い。
饐えた雨露とそれに混じる臭い。
冷たい。
体温が失われていく。
ここは冷えます、とまた俺は頭の足りぬことを言った。
今度こそ少女はきょとんとして小首を傾げる。
傘を差し出す。
その下に彼女を庇いながら俺は既に悔いていた。
己の身の程知らずを。
平屋建の荒ら屋。賃料の安さと間取以外に利点はあまりない。
築年数など俺の年齢の三倍近い。どこもかしこも傷み、廃れ、じき腐りだすだろう。
そんな畳敷の居間にぽつりと人形めいた少女が座っている。
場違い、ではない。
場こそこの人にそぐわぬのだ。
「この度は、本当にありがとうございます」
少女は平伏した。
俺は途端に居所を失くし、慌てて正座して頭を垂れた。
彼女の美しい絵姿の如き辞儀とは比較にならぬ無様さで。
洗い晒しのスウェットはいかな貴嬢といえど着こなすに難しいようだ。
男物では身丈も合わず、愛らしいというか先刻の装いより親しみやすい様ではある。
「私は──」
彼女は自身の名前を口にした。
こちらも簡単に自己紹介をする。
喉元にせり上がってくる疑問、好奇心、恐れ。それらを全て飲み込んで、そっと台所に向かった。
「……何も、お尋ねにならないのですね」
少女の声音は安堵を含んでいた。
そして感心したように澄んだ瞳で俺を見上げる。
とんだ誤解だ。
受け止める器量がないと白状しただけのことを。
冷蔵庫の食材を見渡して献立を考える。
特売、見切り品、足の早い物から消費しなければ。
調理の最中、背中に視線を感じた。
「……」
卓袱台に料理と皿を並べる。
少女は大人しく己の作業を見守っている。
粗末な家庭料理は珍しいのか。
それは少し僻みが過ぎるか。
視線はひどく純粋だった。
口に合わないかもしれませんが、そう言い訳がましく前置き箸を勧める。
少女はいかにも躾の成った面相でこちらの社交辞令を受け取った。
両手を合わせる。
その時、唐突に俺は気付く。
誰かと食卓を囲むなどいつぶりだろう。
それも今日会ったばかりの、名前だけしか知らぬ相手と。
「いただきます」
鈴鳴りの声で。
彼女もまた食前の礼法を、やはり俺など及びもつかぬ丁寧な所作で済ませて箸を持ち上げる。
不躾を承知で、思わず横目にその様を見守ってしまう。
彼女は肉じゃがの人参を一欠け箸先で摘み、口に運んだ。
「……美味しい」
静かな声が狭い居間に殊更響く。
お世辞でも言われれば嬉しいものだ。
心中でそんな皮肉を弄んだ。
そして次の瞬間────俺は絶句した。
目前の光景に。
対面の少女に。
彼女は、泣いていた。
滔々と白い頬に涙が流れ、落ちて。
卓袱台に小さな雫の溜まりを作る。
そんなにも酷い味だったか、などと大呆けを宣う度胸は俺にはなかった。
彼女の涙の意味はわからない。
悲しいのか。
苦しいのか。
それとも、彼女も何かを。
思い出したのだろうか。
感情を理不尽に揺さぶる何か。
自己を構成する病巣とも言えるそれ。
思い出を。
「……昔」
ぽつりと、それは吐息を溢すように自然な独白だった。
「小さい頃、よくお母さんが作ってくれました、肉じゃが」
意外だった。およそ彼女の印象には見合わないエピソードだ。
あるいは、俺は最初から勘違いしていただけなのか。
お嬢様だの令嬢だのと、彼女に勝手な属性を付与し妄想を
そうだとすればそれは心の底より恥ずべきことだ。
けれどやはりどうして、彼女は懐かしそうに食卓を見下ろす。
「もうずっと忘れていました。忘れたくなんて、なかったのに」
自嘲すら浮かべて。
「……ありがとう、ございます。ありがとう……」
感謝を繰り返す。
幾度も、幾度も。
俺は何も言えなかった。
彼女の感謝に報いる言葉を持たなかった。
想像を巡らせることは躊躇われた。彼女に何があったのか。
知ればきっと後戻りできなくなる。
俺には何もない。
俺はただ彼女に今夜の
一組しかない布団を彼女に押し付けて居間で毛布に包まり眠る。
そうして夢を見た。
あの日の夢だ。
また、あの時の記憶だ。
ベランダから仰ぐ真冬の黒い空と吹き込む雨風。
痛みすら伴う飢餓感。
座り込んだ床も背中を預けたガラス窓も全部が氷のように冷たい。
冷えていく体。
消えていく感覚。
熱を欲した。
命を繋ぐ為に。
だから俺は。
腕の中の小さな妹を必死に抱き締めた。
死なない為に。
その熱を貪った。
まさか思いもしなかった。
驚くべきか呆れるべきか、彼女との同居生活は今なお続いている。
少女には行く当てがないという。
しかしだからと言って男の一人住まいに居候する彼女はやはり世間知らずで。
それを犬猫でも飼うように受け入れる己は不遜で不届きだ。
「今日は隣町のスーパーで豚ロースが特売だそうです。私ちょっと行ってきますね!」
大分、馴染んでいる。
緩んでいるとも言えるが。
彼女は、何かしらから逃げてここにいる。
そんなもの知らぬとばかり振る舞うのは危険ではないのか。
仔細を知らぬ以上何に気を配ればよいかもわからない
買い物のような些細な外出もなるべく同道するようにはしている。
彼女は、殊の外それを喜んだ。
言ってしまえば日常の雑用を、何故か
茜空の下、買い物袋を提げて二人、歩く。
住宅街にはどこかの家ではしゃぐ子供の声が響いていた。
「ふふ」
隣で彼女が不意に笑う。
そちらを見やれば彼女の笑みもまた己の方を向いていた。
「ごめんなさい」
くすくすと上品に上機嫌に美しい顏が色付く。
茜より淡く。
「私、今、なんだかすごく幸せなんです」
また儚げに微笑。
幸せ、そう繰り返しながらどうしてか、彼女は儚く。
あの日、あの楓の木の下で出会った時と同じく。
諦めている。
その瞳は終点を見詰めている。いつ何時も。
「この半月、本当に夢のようでした……」
吹けば飛び、消え去るから。
現実ではないから。
終わりは。
目前に既に立っていた。
スーツ姿の男達。
「父の部下です」
彼らの対応は事務的で動作は素早く無駄がなく機械染みていた。
「わかっています」
職務を全うする彼らに彼女もまた端的に応えた。
買い物袋をこちらに預けて、振り向いた茜色の微笑がまるで煌めくように。
綺麗で。
あまりにも綺麗で。
俺は。
彼女の銀細工のような手を握っていた。
その脆く華奢な手触りに、怯む。
彼女は少しだけ驚き、ほんの一瞬だけ切なげに曇ったその眼差しが毅然を取り繕う。
それが痛ましい。
同時に、確信めいたものを覚えてしまう。
彼女の本質は。
彼女の願いは。
あんな荒ら屋の貧しい日常にあったのだと。
おそらくは彼らとても勤め人なのだろう。男達が詰め寄ってくる。
己は彼らに余計な仕事を増やしているのだからそれを阻止するのは当然の……。
……?
「何をするのです!?」
頭上から降ってくる激しい声に俺は我に返った。
腕を捻られたかと思えば後ろ手に両の親指を結束バンドで固定されていた。
追い払うでも殴り倒すでもなく拘束されたことも不思議だが。
俺はなにより少女の鬼気に驚いていた。
彼女のあんな顔も、声も、初めて見聞きした。
そういう愚昧な感慨が湧く。
黒塗りの高級車に彼女が乗せられ、無味乾燥なワゴン車に俺は積み込まれた。
行く先はわからない。
彼女にとってこれは帰路と呼べるのか。
なによりも、少女の痛みを堪えるようなあの顔ばかりが浮かぶ。
己自身の処遇にはあまり興味が湧かなかった。
路上に放置され刻一刻傷んでいく卵の行く末の方が余程重要だろう。
口の中に広がる血の味に懐かしさを覚えた。
遅れてくる鈍い痛みには飽いていた。
スパー用の指抜きグローブを嵌めた大柄な男が無感動に俺を見下ろしている。
指骨を損傷させまいとするその配慮と状況の凶暴さが不釣り合いで、間抜けだった。
背後の男が椅子ごと倒れていた俺を起こしてその場に抑え付ける。
拳が。
降ってくる。
狭い部屋だ。
正方形の空間に照明と回る換気扇の陰。
明り取りの小さな磨り硝子の窓。
夜だと思うが自信はない。
あれは窓を模しただけの穴かもしれない。
ここはどこなのか今はいつなのか。
俺はいつにいるのか。
俺は今もあそこにいるのか。
痛み。
父がまた俺を殴る。
加減を知らない父の拳は傷付いていた。
ゴミだらけの部屋の薄汚れたフローリングに頬を付けて降ってくる痛みに耐える。
暗い世界。
閉じた闇。
痛み、と共に少しの安堵。
俺がこの痛みを感じている時だけは妹は痛みから遠ざかっていられる。
部屋の隅で震えている小さな姿が視界の端を過った。
よかった。
肩が熱いな。
今も右腕は肩から上に上がらない。
前髪を捲ればそこに醜い傷痕が残っている。根性焼きや切り傷だらけの体では銭湯にも行き辛い。
傷に価値はなかった。
俺が痛みに耐え続けた理由は既にない。
真冬のベランダに追い出されて半日。
いつの間にか、俺の腕の中で妹は事切れていた。
救急車を呼んだのは父ではなく隣の団地から俺達を見付けた住人だった。
妹は低体温症ではなく餓死だった。
何故お前は生きている?
お前は妹の熱を、命を啜ったからだ。
父はその後間もなく死んだ。
アルコール中毒による呼吸器不全だったそうだ。
呆気ないほどあっさりと。
酩酊しながら訳もわからず大した苦しみもなく何も、何一つ自覚せぬまま。
本当は。
俺が殺す筈だったのに。
残ったのは燃え滓の憎悪と消えない罪悪感だけ。
自分が生きていることが堪らなく厭わしい。
けれど、この体は妹の熱に生かされた。
俺の体にはあの子の残滓が宿っている。
死ぬ訳にはいかない。
自死を選ぶことはつまり二度あの子を殺すということだ。
それだけはできない。
結局、進むことも止まることも終わることも。
死んだように生き続けた。
ただ毎日を肉体の維持と生活の運営の為に過ごした。
それは何の価値もない日々だった。
何も生まず守らず育まない。
義務感だけで生きてきた。
罪悪感に背を押されながら。
仕事をし飯を食い糞を垂れ眠りまた朝に目覚める。
空洞のような人生。
だからせめて。
彼女には、幸福な人生を歩んで欲しい。
大それた、身の程知らずの望みだった。
赤の他人に動機を仮託し、己にはない人生の意味を恵んでもらおうという。
最悪だ。
真性の醜悪だ。
そしてなにより邪悪なのは、俺は彼女に。
重ねている。
夢見ている。
代用した。妹を。
妹にしてあげたかったことを。
施したかった慈しみを。
愛情を。
それを、あの娘に、差し出した。
行き場を失ったこの感情の捌け口にされた彼女は被害者である。
けれど、彼女はそれに価値を見出だしてくれた。
彼女もまた失ったものの代わりを欲していた、ような気がする。
俺がそれになれるなどとは思うまい。
代わりを、新しい何かを彼女が見付けるまでの。
繋ぎでいい。
半歩の足掛かりにでもなれればそれで。
──こんな奴が本当にお嬢様の駆け落ち相手なのか?
──旦那様はそう思ってるよ
浮遊していた意識がこの慎ましい拷問部屋に帰還した。
男達の愚痴に内心苦笑する。
俺は大切なご令嬢を傷物にしようとした不届き者に昇格したらしい。
そして少なくとも彼女は、俺のように虐げられるだけの境遇ではないのだと。
誰かに想われる。
だからどこかに憎悪が募る。
よく知っている。
俺はそっと口火を切った。
男達は最初それを気に掛けもしなかったが。
娘を奪われた報復に父親が俺を痛め付けるよう命じているなら最良の結末は一つである。
狼藉には死罰が相応だ。
だから……彼女の為に。
甲斐のない生、受け継いだ命をただ腐らせるだけの無為。それを終わらせることのできる唯一最期の機会。
許してくれるだろうか。どうか、どうか許して欲しい。
兄ちゃん、助けたい人がいるんだ。だからお前の命、使わせてくれないか。
この人の為に。
俺。
俺は、自殺をもって贖罪がしたい、と。
そう彼らに要求した。
令嬢の遊び相手でしかない若造の戯言とはいえ流石に彼らも無視できなかったようだ。
怪訝そうな視線が異質な物として俺を見下ろす。
事態の収拾にはこれが最短。短絡だが効果は覿面である。
憎悪は報われる。
邪魔者は排除される。
だから彼女に対する叱責は免除して欲しい、と。
俺の望むところはその一点だけだった。
逡巡が窺えた。
男達は小声で何やら話し合っている。その場で決議できるものでもないらしい。
一旦何かしらの結論が出たようで、男の一人が俺を掴み立ち上がらせた。
絞首台にでも連れて行ってくれるのだろうか。
そう思えば、不思議と心は穏やかだった。
その時。
弾けるように扉が開かれた。
そして怒涛のように大勢が侵入してくる。
瞬く間に二人の拷問係は取り押さえられ、部屋の外へ。
代わりに華奢な足音が駆け寄ってきて己に縋った。
柔い感触。
甘い香り。
慣れない優しい感覚に戸惑う。
「ごめんなさい……!」
くぐもった声と熱いものがじわりと胸に沁みる。
何故か、そこには彼女がいた。
もう二度と見ることはないと思っていた姿が。
「母は妾でした」
その膝を枕に彼女を見上げた。
少女はまるで赤子に寝物語を聞かせるように穏やかに。
憎悪の
「時代錯誤でしょう?」
暗く光のない目が笑みを、笑みのような形に歪む。
「私をお腹に宿したと知った途端、父は私達を捨てました。それだけならまだしも体面の為に母を追い払った。職場や近所に悪評が流され、家には様々に嫌がらせも。母と落胤の存在があの男は疎ましかったのでしょう。そうして画策すれば消えて失くなるだろうと本気で考えたのです。愚かですよね。人間が、現実が突然跡形もなく消え去るなんてありえないのに……ありえないことを思い通りにしたがる、子供です」
胸内で固めた嫌悪感を彼女は唾棄した。
「私が物心つく前に母は倒れました。それまでさんざ受けた嫌がらせやデマで心労が祟ったのか……いいえ、私の為に、私の所為です。乳飲み子の私を抱えて骨身を削るように昼も夜もなく母は働いていた。壊れてしまったのです。私が……重荷になって、母を壊してしまった……」
悲愛。
白面には
それらが流れ落ちたその末に、残ったものは。
澄んだ黒。
井戸穴のような底知れぬ闇だった。
「母の死後、施設に遣いが来ました。あの男は病室から私を喚んだ。患って気が弱ったのでしょう。男系の血筋で、妾が生んだ唯一の娘ですから。慰めてくれるとでも思ったのかしら。病床で、あの男何と言ったと思います?」
この、瞬間の沈黙は返答を期待してのものではない。
耳を切るような無音の中に破裂寸前に熱された鉄釜を幻視した。
「『今まですまなかった。私達は今日から家族だ』、と。臆面も、そう悪意すらなく、本気で言ったんです」
触れ合った少女の手には怖気が走っていた。
「私には、あれが同じ人間に見えなくなった」
ひどく倦んだ顔で少女は溜息を落とす。
「憎しみも凍りました。あんな男の所為で人生を滅茶苦茶にされた母が憐れで、情けなくて……そして、今の今まで惰性のように生きてきました。だから」
頬を指先が撫でる。
子供をからかうような優しさで。
「貴方が命を懸ける価値なんて一欠片だってないんです。あの男にも……私にも」
涙が頬を濡らす。
彼女の、そして俺の。
落ちてくる雫の熱さが悲しい。
彼女の罪悪感にどうしようもなく共感を覚える。
「聞こえていましたよ? 本当に、馬鹿な人……」
手を伸ばして溢れる涙を拭ってみる。
後から後から溢れてきてそれはまったく止まってくれない。
彼女の手が重なる。
重なる。
──貴女を妹の代わりにしたんです
「え……?」
告白は自然と溢れ落ちた。
母の命を糧にした彼女。
妹の命を継いだ己。
数奇だ。
残酷な縁に、絆に俺は戦く。
そして同時に得心するところもあった。
俺が彼女に惹かれたのは思った以上に必然だった。
俺は俺の過去を彼女に語った。
彼女が聞かせてくれたように。
ほとんど譫言めいた自分語り。
彼女が理解できる言語であったかも怪しい。
彼女が俺の行為を嫌うならそれでいい。
俺に妹の代用品として使われたのだから。
ただそれでも、俺は彼女にこの共感を伝えたかったのだ。
彼女の悲しみに寄り添いたかった。
思い上がりでも。
厚顔無恥でも。
一人ではないと言ってあげたかった。
どのように締め括ったものか。
ただ、幸せに。
貴女は幸せになって欲しいと。
貴女は幸せに、なってよいのだと。
必死にそれだけを伝えようと舌を縺れさせて繰り返した。
彼女は微笑んだ。
その顔はもう儚くはなかった。
桜色の頬、光を潤ませた瞳。
あぁ綺麗だ。
悲哀を忘れてただ純粋に喜びを謳う少女は。
そっと己の額に。
口付け。
それは柔く、暖かく。
慈愛を含んだ唇で。
上下、再び向かい合った少女は華やぐような笑顔で言った。
「私、父を殺します」
────は?
音が消えたのは脳が耳の機能不全を錯覚したからだ。
言葉の意味が咀嚼できないのは言葉を紡いだその唇が依然として慈愛を含んでいたからだ。
また、彼女は俺に口付けた。
「貴方に報いる術、ようやくわかった……あぁやっと見付けた。私と同じ、私の半身、私だけの貴方……私の痛み、理解してくれる人」
思いがけない強さで彼女の両腕は俺を抱き締め。
強く強く。掻き抱き、遂には潰れて合わさってしまうのではないかというほどに。
「貴方の痛みと無念、私、理解できます」
囁きは耳から注がれ脳を侵した。
彼女の声は危ういほど甘い。
薬物めいて脳を蕩かせる。
そうだ彼女にはバレている。
見透かされているのだ。
俺の。
「貴方の憎悪、叶えます。私のと交ぜてしまいましょう。憎い者を討てなかった無念。辛かったでしょう。苦しかったでしょう……妹さんの痛みを、晴らしてあげるの」
恋情を紡ぐように。
復讐の歓喜を祝って。
「一緒に」
彼女の唇が、己のそれに重なる。
重なる。
失くした愛と甦った憎しみが。
絡み合い溶け合い煮え立つ。
熱い。
これは。
あの日あの時欲した熱。
冬の空に誓った殺意。
「憎い敵を殺すんです」
なんて罪深い。
こんなことは決して許されない。
断じて。
こんな。
こんな────幸福は。
永代供養の小さな墓に花を添える。
祝いの花。
そして懺悔の印でもある。
何かと忙しないことを理由に墓参りを疎かにする愚かな兄をどうか許して欲しい、と。
「ふふ、大丈夫。妹さんもきっとわかってくれますわ」
隣に寄り添う彼女はそう言って厳かに手を合わせた。
彼女のお母さんにも今度きちんと挨拶に行こう。
「……それは、お詫びとしてでしょうか。それとも、そういう意味に捉えても……よいのですかしら」
意味深な、そして微かに不安げな瞳に笑みを返す。
懐に忍ばせた小箱を彼女に差し出す機会を俺はずっと見計らっていた。
墓前で求婚というのもある種、風情と言えるのだろうか。
「まあ、焦れったいこと」
彼女は笑った。
朗らかな、幸せそうな顔で。
それが見られることにこの上ない幸福を覚えた。
復讐を遂げ簒奪を終え家督を継いだ彼女はこれから極めて忙しくなるだろう。
その
銀細工のような、今は互いに血で染まったその手と手を取り合う。
あぁ、それは暖かな。
ずっと求めて止まなかった命の熱。