病める時もすこや物語 作:足洗
小説家として大成した女先輩と挫折して社会人をやる主人公。
時折彼女に呼び出されてはひたすら小説の設定やら創作論やらを聞かされて、それを執筆欲の慰めと劣等感の自傷にする日々。
いい加減そんな不毛な行為に踏ん切りを付け、真っ当な社会人になる決意の為、ある夜とうとう彼は先輩に別れを告げた。
先輩は言葉を失くし────すぐに笑みを浮かべた。
銀縁の眼鏡の奥で普段は眠たげな目が爛々と見開かれ、新たな小説の筋書きを語りだす。
とある男女の淡い恋物語。
大学の先輩後輩。
小説家を目指して互いに作品を読み合い、批評し合い切磋琢磨し、
愚直で懸命すぎる男に女は呆れと……どうしようもない愛しさを覚えた。
女は彼の書く文章が、世界が、人物が、そこに込められた想いが好きだった。
しかし公募に出そうがネットに載せようが彼の作品は鳴かず飛ばず。
対して女は賞に送れば大賞を獲り公開すれば無数に読者が群がる。
才能の差は歴然で、比べることすら躊躇われた。
男はそれでも食らい付いた
才能、技量、知識、語彙の限り全てを懸けて彼女に挑み、そうして────
真っ向から。
彼は自分の無才と絶対の天才の存在を認めた。
敗北を。
自分の無価値を。
彼は、筆を折った。
彼は凡夫に似合いの人生を送る準備を始めた。
会社に勤め営業マンとして客先にひたすら頭を下げて懇願を繰り返す仕事に没頭した。
小説を書くよりもずっとそれは結果は伴った。それは彼にとってなんの慰めにもなりはしなかったが。
男はそれでいいと笑う。
空っぽの、からからに渇いた顔で笑う。
女はそんな彼を見て失望を抱いた。
惰弱だのなんだのと彼の努力の不足を詰った。
もっと、もっとできる筈だと。
何故そこで諦める。
何故書くのを止める。
意味がわからない。
わかりたくない。
ふざけるな。
どうして。
ねぇ。
……ねぇ。
いつしか先輩は語るのではなく彼に詰め寄っていた。
わかりきった答えのある問いをそれでも繰り返す。
何故。
何故だと。
私の前から消えるのか。
私を置いて真人間になろうってそう考えてるのか。
ふざけるな。
先輩の言は支離滅裂で話の筋も文脈もあったものではなかったが。
ただその願いは瞭然一つ。
彼女は、落伍したその男を、その男の紡ぐ物語を、ただ、ただ────
彼女の口から紡がれる物語が、己と目の前の女の
それを聞かされ続けたら、そのまま自分は彼女の本の中に取り込まれてしまうのではないか。
そんな突拍子もない恐怖に男は支配された。
尊敬する先輩。
憧れだった女性。
彼女が、自分に抱く執着の根深さ。
その全てが、恐ろしい。
男は女の部屋から出ようとした。
玄関はすぐそこ。
扉を開いて走り出そう。
その先には日常が待っている。
夢も希望もない現実なるものが。
それでいいじゃないか。
自分には何も、何も書き残すことなんてできなかった。
もういい。
もう、許してくれ。
ゆ る さ な い
女の声がする。
長い黒髪の分け目から覗く深く深すぎる黒瞳が。
「君がいたから私は書いた。君が、褒めて、喜んでくれるから。なのに今更捨てるのか。あんなに楽しかったのに。あんなに、あんなに、君との時間が……私にとってどんなに……どんなにかっ……!!」
泣き顔の先輩はまるで、迷い歩く童女のようで、男の足は框に縫い留められた。
「許さない」
女は男の首にしな垂れ絡み付き、口付けてから首を締めた。
頸動脈の辺りを的確に。
すとんと絞め落とされた彼を抱え女先輩は微笑む。
「さあ、君に聞かせたいプロットがまだまだある。これから毎日、付き合ってくれるよね?」
先に落伍などさせない。
君は私と物語に堕ちるのだ。
女は幸せそうに笑った。