病める時もすこや物語 作:足洗
獣医の見立てでは、彼女は二十歳を優に超えているそうだ。
傷んだ黒い長毛。ずんぐりと大きく丸い体。終始緩慢にしか動かない耳。
眠りと覚醒の狭間にある細目は万物に対して無関心だ。
頭上で頻りに交わされる自身の病状についてのあれこれなど、猫には知ったことではない。
それは至極、当たり前のことなのだが。
動物病院からの帰路。
キャリーバッグの中に押し込められても彼女は不満の鳴き声一つ上げない。
年齢相応の達観の境地に在るのか、そんな体力を使うのすら惜しいのか。
両方なのだろう。
老いた黒猫は賢明だった。
あの日、大雨の中、終の場所にわざわざゴミ集積所を選ぶ程度に。
彼女の悲壮な、高潔な覚悟に水を差してまで部屋に彼女を連れ帰った己は紛れもないエゴイストだ。
半年にも満たない猫と人との共同生活は始まりから終わりまでとても穏やかだった。
彼女は男の狭い一人住まいに文句も言わず、与えられた寝床やトイレを大事に使い、エサの味も好き嫌いせず、家内の平穏構築に協力を惜しまなかった。
なんとも、猫らしからぬ。
あるいはどんな猫より猫らしく……それはひどく、静かな最期。
────獣医の宣告通り、余命は十日ほどだった
棺と呼ぶには可愛らしい小さな箱にドライアイスとタオルを敷いて彼女の体を横たえた。
本当にただ眠っているようにしか見えない。エサの時間が来ればのっそり起き出してきそうだ。
けれど、喪われたのだという実感がある。
人生への疲労感と孤独感の慰めに彼女を自宅に迎えたという負い目が。
その情けない自覚が真実だからこそ。
胸を抉り、空虚の穴が空く。
彼女は己の救いだった。
大切な、大切な。
夜、棺の傍で毛布に包まって眠る。
時折その黒毛を梳いてやる。
硬直した肉と骨、冷たい肌。
自然と涙が流れていた。
そんな有様を晒しても、彼女はもう鬱陶しそうに寄り添ってきてはくれない。
「お前さえ生きててくれたら他には何も要らないのに」
未練がましく泣き言が口をつく。
自分自身があまりに情けなくて横になる。
夜がとても長かった。
浅い眠りから身を起こす。
カーテンを透過する白んだ朝日を睨んでからぼんやりと傍らの棺に目を向ける。
火葬の予約は午前中しか空きがなかった。とっとと身支度をしなければ。
それで。
そこに。
彼女の姿はなかった。
空の棺と僅かに抜け落ちた黒毛を残すばかりで、黒猫の姿はない。
暫時、機能しなくなった頭でただ朝日を眺めた。
部屋中を隈なく探し回ったが彼女は見付からなかった。
誤診、空き巣、己の夢遊病等考えを巡らせてみても得られる解がどこにもいない。
ただひたすら喪失感が増すだけだった。
愛猫が消失するなどという非現実的な出来事に遭おうが、日常は巡る。
男の独り泣きなど一切顧慮しない。
当たり前だ。
生活を営まなければ。
ただ、生きることも儘ならない。
職場で得た疲労を両肩に乗せて重い足で踏み締める帰路。
それに気付く。路地や建物の陰、薄闇の中から不意に視線を感じるようになった。
誰かに見られるそわそわと落ち着かない感覚が、気配がずっと背中を追い掛けてきているような気がする。
自意識過剰、自律神経の失調。
それが被害妄想であることを己は疑わなかった。
疲れているから。
無能な己は同居人をきちんと弔い送ることすらできなかったから。
罪悪感。
幻覚や妄想に逃避したがる自分自身の不安定。
惰弱。
恥ずかしく思った。
彼女がいた頃は掃除を欠かさなかった部屋も随分荒れ放題に放置している。
ソファーに身を沈ませながら、隅に安置したままの空っぽの棺を見た。
ごめんな……譫言のように謝罪が溢れた。
朝、無遠慮な暁が温い薄闇を体から引き剥がそうとする。
抗う術もなく起き上がると掛けられていた毛布が床に滑り落ちた。
昨夜は確か、着の身着のままソファーでそのまま寝入って。
それから……息を呑む。
実に芳しい気息を鼻の奥に吸い込む。
リビングのテーブルには盆が置かれ、その上には和食の膳が設えられていた。
誰が。
いつ。
部屋を見渡す。
誰もいない。
けれど、気配はある。
誰かがそこにいたという気配が残留している。
寝起きの頭は事実確認を行うより先にまず目前の料理を心配した。
湯気が立つ合わせ出汁の味噌汁、良い焼き加減の鯖、しっかり蒸らしを終えた白米、胡瓜の浅漬けも手製だろう。
……冷めてしまっては勿体ないな。
どこの誰が作ったものかもわからない。安全を確認する術もない。だのに己は然程の躊躇もなく膳に箸を付け、綺麗に平らげてしまった。
無警戒にも程がある。
けれど、その膳は今まで食べたどんな料理よりも美味しかった。
まるで己の舌の好みに合わせて誂えたような味付けと調理。
思い遣り、そんなものを錯覚してしまうくらい。
涙が出るくらい。
日に日に部屋が綺麗になっていく。
無精していた洗濯が、掃除が帰った頃には全て片付いていて、代わりにテーブルには夕食が用意されている。
見えぬ誰かがこの部屋には存在するのだと承知する。
理解はしかねるが不条理は呑んで仕舞う。
己にとって重要なのはそんなことではない。
「お前なのか……?」
応えはない。
不可視の同居人が待つ部屋。それを不気味だとは思わなかった。
恐怖は微塵も感じなかった。
帰りを待つ誰か、それが彼女かもしれないという都合のいい解釈。
それだけで希望を感じた。
生きる意味を感じた。
孤独や寂寥が和らぐのを感じた。
「……ただいま」
玄関から部屋へ向け声を掛ける。
見えない彼女に。
彼女の気配に。
用意された夕食、畳まれた部屋着、アイロン掛けされたYシャツ。
世話焼きな彼女に頭が下がる。
そこに今夜は異物が一つ。
テーブルにメモ用紙が一枚置かれている
紙面には女性らしい綺麗な筆致で。
『もう少し、待って』
ほんの一節そう記されていた。
意味はよくわからないが己にできることは結局一つだ
「ここで待つよ。この部屋で」
なぉん
低い粘りのある鳴き声がどこかで聞こえた。
あの頃も滅多に鳴くことのなかった彼女の声。
忘れる筈がない。
室内を反響したようにも、遠く外から漏れ聞こえてきたようにも思えるが。
とにかくそれが彼女の返答なんだと己は信じることにした。
いつか、会えるかもしれない。
それだけで十分だ。
十分すぎる。
「先輩、最近明るくなりましたね」
会社の後輩が無邪気に言った。
三つ下の若い女性社員は悪気のない笑顔で「ずっと沈んでたみたいだから」と。
勤務態度に現れていたらしい。
ペットロスと呼んでいいものか。
自覚はなかったが。
後輩は気遣わしげな顔で己の肩に触れた。
「景気付けに今度飲みに行きましょうよ」
後輩からのせっかくの誘いなのだから本来二つ返事で了承すべきなのだが。
即答はしかねた。
自宅で待つ、待っている筈の彼女を慮ると。
「先輩、もしかして猫飼ってるんですか?」
出し抜けに問われて虚を衝かれる。
何故と問い返すまでもなく、後輩は己のスーツの肩口から猫毛を摘まみ上げていた。
それは黒く、長い。
その日は殊の外残務処理に手間取った。
日付を跨ぐ寸前に社屋を出る。
「慰労会はお預けですね」と肩を落とす後輩に曖昧な笑みを返す。
機会を先送りにできて安堵を覚える自分は陰険だろうか。
しかしそれも結局は残業に時間を取られていれば世話はない。
彼女はもうすっかり待ち惚けだろう。
逸る足で帰路を走った。
玄関扉を開く。
廊下の暗闇が己を出迎えた。
一人住まいに相応しい灯の消えた室内は見慣れたもの。
けれど今日は少し、どうも違う。
暗さに貴賤もなかろうに。薄いか濃いかの程度はあっても。
だが、やはり感じる。
闇の深さ。
そして覚えがある。
固くてちくちくとしたこの気配。
彼女が拗ねて玄関で待ち受けている時の空気だ。
エサの催促をするでもなく、トイレの処理を待っているのでもなく。
自分の帰宅が遅いことを、視線で、仕草で、時によっては前足で踏みつけて詰る。
彼女は饒舌ではないが雄弁な猫だった。
今もそれは変わらないらしい。
それが、申し訳ないが、ひどく嬉しい。
框に膝をつく。
彼女はいつもそこに前足を乗せるから。
「遅くなって、ごめんな。夕飯、作ってくれてたか?」
口にしてから苦笑する。
猫にエサの無心をされるならいざ知らず、今己は猫が拵えた夕食を無下にしたことを低頭詫びているのだ。
奇怪な状況、奇妙な心境、それらが合わさって無闇矢鱈に可笑しい。
いつも通り己は待った。
当然、彼女が擦り寄ってくるのを。
撫で擦って黒毛を梳かして許しを乞おうとした。
いつもそうした。
久しぶりにそうしてやりたかった。
果たして右膝に。
────ひたり、と。
白く細い硝子細工のように精緻な指が五つ。
薄いスラックスの上からそっと肌を撫でた。
労るように、あるいは仔猫が母猫の乳房を揉みこねるように。
気付くと尻餅をついていた。
玄関に座り込んだまま暗闇を見詰める。
陰が、いる。
闇に浮かび上がる濃密な黒の陰影。
それの大部分は黒毛、獣の被毛ではなく髪の毛なのだと気付く。
頭髪だ。
頭があり首があり肩があり腕胴足。
白い肌。
夜の新雪のように光る白。
長い黒髪の、全裸の女。
四つん這いで、まるで猫のように、彼女のように己を見ていた。
「先輩、彼女できたんでしょ」
会議資料の作成に目処が立った午後、椅子のキャスターを滑らせてずずいと顔を寄せてくる。
若い後輩はその好奇心と下衆の勘繰りを欠片も隠しはしなかった。
曖昧な笑みで返答を濁すが。
それを照れ隠しとでも受け取ったか、彼女は他の先輩上司も味方につけこちらを大いに囃した。
祝われているのか、揶揄かわれているのか。まあ少なくとも駄弁の種くらいにはなったろう。
そうして話題の鮮度が尽きるまで自分は同僚達の満足するような反応や情報を提供することはなかった。
格別隠し立てしている訳じゃない。
自身に垣間見える女性の影の正体を影に追われる己自身が誰より理解できないでいるという。
至極間の抜けた話
この目で見てもなお信じ難い。
あれは本当に、現実だったのか。
「仲がいいのはなによりなんですけど……」
影、陰と見紛う黒の髪。
黒を纏った獣、のようなモノの。
彼女。
不意に、首筋にひやりとした感触が走った。
後輩の細指が頸動脈の辺りに触れたのだ。
そこには……あぁ。
きっと虫刺され状の何かで赤々と鬱血しているのだろう。
シャツを捲ればそのような痕が無数にある。
そこかしこに。
刻まれている。
彼女の、悪戯だ。
他愛もない惚気だと笑い飛ばせたなら気分もいくらか晴れたろう。
けれど彼女は。
化外物であって獣ではないのだ。
帰路、足取りは重い。
自宅へ帰ることがどうしてか躊躇われる。
そこに待つ筈の愛猫の出迎えに少し、怯みを覚えていた。
自宅マンションの扉の前に立ってなお躊躇の念は消えず。
しかし流石に往生際が悪い。
決するほどの意志もなく鍵を開けドアノブを捻った。
玄関の照明は点いていた。
消し忘れたのではない。彼女が点けておいてくれたのだろう。
框には果たして、大きな黒毛の塊が丸まっていた。
胸に湧いたのは喜びと……卑しい安堵。
彼女がそこにいる。
生きた姿でそこにいる。
その事実にただ喜びを噛み締めるだけでいい。
……それだけでよかった筈だ。
黒猫は穏やかな目でこちらを見上げ、一度大きく伸びをした。
それこそ全身が伸び上がり、膨れ。
形が変わる。
被毛が霧か塵のように消えていき、素肌が。
白い肌が露に。
嫋かな肢体が現れ。
彼女が。
気付けばそこに黒髪の女がいた。
一糸纏わぬ姿で玄関先に座り、自身の手の甲を舐めてから微妙な顔をする。なるほど毛がなくてはいつものように顔は洗えないだろう。
己がそんな彼女の様を直視するか目を逸らすか迷う内に、彼女は立ち上がってこちらに飛び付いていた。
両腕が首に絡む。
柔らかな肉体が己を包む。
頬を擦り付けてくる。
マズルの臭いを付けるように。
全身を使ってこの身に付着した外界の臭気を彼女自身の匂いで上書きしている。
咄嗟に彼女の頭を撫でてから、思い出したように体は凝固する。
こんな状態で泰然としていられる人間もいないだろうが。
この動揺の源が、ただの情欲であれば悩む必要などなかった。
こんなにも姿形は変わったのに。
彼女は彼女なのだ。
彼女は確かに黒猫の“彼女”なのだ。
それを少しも疑うことができないから。
己はこんなにみっともなく惑乱している。
「何か、服を着てくれ」
絞り出した声、言葉を彼女は理解したろう。
書き置きを残せる知能や調理の知識まで備わっているのだから。
だのに彼女はなかなか言うことを聞いてくれない。
そんなもの知らない解らないと。
おかしな話だ。
獣ぶるその態度がひどく白々しい。
絡み合ったまま途方に暮れた。
その時、彼女が突然唸り声を発した
弦楽器の鳴動のように鋭い声音。
それは実に猫らしい、怒りの表明行為だった。
「どうした?」
動揺はすぐさま心配に置き換わる。
背中を擦り髪を梳く。
とにかく様子を確かめようと身を引いた己をしかし、彼女は逃さない。
両腕は驚くほど強く。
その細さからは考えられないほどに強く。
この身を捕らえて。
そうして、彼女は首筋に噛み付いた。
激痛が走る。血の滴りと焼けるような熱さ。
彼女の牙は存分に皮膚を切り裂き、どころか今、食い千切った。
わからない。
わからない。
何故。
混迷した脳内はただ疑問を繰り返す。
特定の感情を起こすだけの余裕もなかった。
彼女は齧り取った皮膚片を血と共に床に吐き捨てて、すぐにまた己の首筋に唇を寄せた。
どうしてか逃げるという発想はなかった。
置いて逃げるなんて、彼女が可哀想だ。
長い舌が傷を舐めている。丹念に。
次の瞬間、痛みが消えた
「!?」
今度こそ身を離して首筋に手を触れる。
指には確かに僅かながら血が付着している。
けれど傷は跡形もない。あれほど深く、容赦なく、確かに牙が。
目前では彼女が、慌てふためく男の無様を穏やかな面持ちで見詰めている。
唇に差した血の紅を舌で舐め取って、微笑んだ。
「ごはん、食べよ」
用意された夕食に箸を伸ばしながらも、食事自体にはまるで集中できない。
テーブルの対面で頬杖をついてこちらを眺める彼女。
目が合うといちいち嬉しそうに微笑む。
子供の様子を見守る母御のようだ。
けれど彼女の今の格好は、母と呼ぶにはいただけない。
彼女はYシャツに袖を通している。たった一枚の薄布だけを。
つい今しがた自分が脱いだシャツを彼女は嬉々として身に帯びるのだ。
何か着ろと言ったのは自分だが。
全裸と大差はない。あるいはより悪く、目に毒だ。
テーブルの下で彼女の足先がこちらの脛や膝を擽る。
時折甘えるように絡み付いて、内腿を撫でる。
「悪戯しない」
「ふふっ」
彼女は楽しげに笑った。
叱られるのが嬉しいのか。
食事を終え、入浴を済ませた。
寝室のマットレスには既に当然のように彼女が居座っている。
彼女の為の寝床は猫用のものも人用のものも用意があるのだが、彼女がそれらを利用することは稀だった。
ごろんと横になって彼女が己を見上げる。
誘い、待ち受けて。
彼女なりの悪戯なのか、それとも。
それを求めて彼女は。
やや乱暴に彼女の頭を撫で回す。
しょうのない子だと。
彼女は少しだけむずがって、乱れた黒髪を整えることもなく己をマットレスに引き倒した。
灯りを落とし、薄手の毛布を自身と彼女に掛ける。
このまま眠ってしまえばいい。この子と寄り添って眠る、これ以上の安らぎなんてない。
けれど、彼女は許してくれなかった。
すぐに柔い体が擦り寄ってくる。
指先が体をまさぐってくる。
「っ、こら」
あくまで飼い主然として、それを必死に装って声を上げようとする己の滑稽さを、賢しいこの黒猫が見抜いておらぬ筈もない。
彼女はそんな己の唇を舐めあげた。
「ん、ちゅ」
そのまま触れ合おうとする唇から顔を背けた。
お構いなしに彼女は舌を顎に、頬に這わせ、味わった。
一昨日よりも、昨日よりも。
強引に。
日を追う毎に彼女から辛抱だとか手心だとかいう悠長なものが消えていく。
最初から主導権など己にはないのだ。まあそれは、彼女を連れ帰ったあの時からそうなのだが。猫と人のパワーバランスなどそんなものだ。
彼女の手が服の下に滑り込み胸や腹を擦った。
そしてもう一方の手が下腹を過ぎ、ズボンの上からそこに触れた。
はっとして彼女の顔を見る。
薄暗がり、十六夜月めいた瞳孔がじっと己を見据えていた。
激しい熱と執着。
「まぁお」
声すらねっとりとして、甘い。
発情した猫を見たことはなかった。
猫だった頃の彼女はその時期が来る前に逝ってしまったから。
だからこれが初めての。
彼女からの求愛。
観念して認めよう。
彼女は確かに己との交尾を求めていた。
「俺は……」
彼女が自分を好いてくれること。
彼女が望んでくれる、こうして生きて何かを望めることを。
どうして喜べないなんてことがあるだろう。
「でも俺は、お前をそんな風に見たくない……」
見られない、と断言できない己を嫌悪する。
己こそ獣ではないか。
確かに彼女は美しい。
彼女が愛しい。
だが、だからって。
彼女の肩をそっと押しやる。
彼女はその手を取って、あっさりと退けた。
敵いはしない。
絶対的な力の差がある。
彼女と己、おそらくは虎と人以上の差が。
けれど彼女の手付きはいつも柔らかで、優しい。
そうして慈しむようにその頬に己の手をあてがった。
「知ってる」
微笑が蕩ける。
「でも、ダメ」
首筋にまた口付け。
より深く、より強く。
先程彼女が齧り取った部分だ。
彼女はそこへ吸い付き、だけに留まらず噛み付いた。
執拗なまでに。
皮膚を千切られる痛みに比べれば刺激は微々たるもの。
むしろ快感すら伴って……己は閉口する。
鏡で見るまでもなく当分は消えない淫らな痕跡が刻まれたとわかる。
「なん、で」
「嫌な臭いがした。嫌な、女の臭いが」
心当たりはない。
奔放に振る舞えるほどの女性関係など己のような男にある筈がないのだから。
けれど彼女は髪を逆立て、牙を剥いて苛立った。
「……でももう心配ない。もうすぐだから。準備ができる。すぐ連れて行ける」
「?」
「ふふ」
疑問符を浮かべる己に彼女は美しく微笑むばかりで応えてはくれない。
微睡みと惑乱と暴力的な快楽の狭間。
夢を見た。
そこは霧の煙る山奥の叢の奥の奥。
右を見ても左を見ても果ての見えない長大な塀と目前には巨大な門扉。
古めかしい御殿の前に己は立っていた。
そうして地鳴りのような音を立てて門が開く。
石の敷かれた前庭。
手入れの行き届いたそこかしこには猫。
猫、猫、猫、猫────
猫屋敷。
その只中に一人。
白無垢を纏った者が、こちらに背を向けて立っている。
その人物が誰なのか、己は思案するまでもなく知っていた。
ゆっくりと女が振り返る。
綿帽子の下から覗く面相は。
白粉と紅が眩しいほどに鮮やかで。
とても、とても綺麗だった。
彼女は。
彼女は神妙に、厳かに、鳴いた。
────みゃおん