病める時もすこや物語 作:足洗
「や、待ってたよ」
今夜もバーカウンターには先客がいた。
ショートに切り揃えられた金糸の髪が、店内の薄闇の中でさえ煌めいて見える。今こちらからは死角なのだが、その左側頭部は大胆に刈り上げられている。
軟骨から耳たぶまでバチバチに空けられたピアスの鈍い銀が、ともすると凶悪で、どこまでもクールだった。
ファー付のフライトジャケット、ぴたりとした黒のレザーパンツ。装いはどこまでもシンプルで、色合いも言ってしまえば地味なのだろうが。
どれこれもが、とにかくやたらと似合うのだ。
とても、画になるのだ。
「くく、なんだい? じっと見詰められると照れちゃうな」
「いや……すまん」
照れる、なんて言い種のわりにまるで人を食ったような薄笑い。
むしろこちらこそ、気後れしてしまう。
一目でわかるスタイルの良さ、プロポーションの完璧さ。
童顔を誤魔化す為にアイメイクをわざと濃くしている、とは本人の言だが、無思慮を承知で俺にはその必要があるとは思えなかった。
切れ長の目が。粗くカットされた宝石を思わせる赤目が、ひどく綺麗で。
初見なら威圧感さえ覚える。
美人。他者を怖じ気づかせるような麗人。
カウンターに肘をついて彼女はロックグラスの氷を揺らす。
「悩ましい顔だね」
「……そんな顔してたかな」
「してるねぇ」
「はは、こっちを見てもいないのにわかるのか」
「わかるさ。僕にはわかる」
僕、という一人称に得も言われぬ倒錯感を覚えるのはきっと俺に古臭い先入観が根付いているからだ。
飄々とした振る舞いと、笑み。
「よければ聞きたいな。話すだけでもきっと楽になる」
「……でもこれは、ほとんど自業自得だ」
「どうかな。君は真面目だから、そういう言動をする時はあまり信用できないんだよね」
「手厳しいな」
「変わらない君が悪い……ふふ、憎らしいくらい、ね」
時折、彼女の表情がわからなくなる。そこに宿る感情を読み取ることができなくなる。
謎めいた笑み。それが妙に妖しくて、俺は逃げるように視軸を宙に泳がせた。
頬を撫でる彼女の視線が気まずい。
だから俺は努めて軽薄に、笑って言った。これは馬鹿話なのだ。下手を掴んだ馬鹿な男の馬鹿話。
「友達の連帯保証人になった」
「……」
「で、書類にサインした次の日からそいつと連絡が取れない。アパートも引き払ってた。ははっ、は……」
「それでショックを受けてたら今日、早速取り立て屋が君のところに来た」
「! なんで、わかったんだ?」
「シャツのボタンが解れて取れかけてる。胸ぐらを掴まれたのかな? 今夜は特に冷えるのに店に入ってきた時、君はコートを脱いでた。破れたか、汚れたか。それと掌に微かだが擦り剥いた痕がある」
「……」
思わず手を見やって、初めて擦り傷の存在に気が付いた。
俺は自分で思うよりもずっと間抜けな人間だったらしい。
苦笑して、溜め息を吐く。
「すごいな。探偵みたいだ」
「迂闊だね。君らしいといえばらしいけど」
こちらの軽口に彼女は愛想笑いすら返してはくれなかった。ただ無表情にじっとグラスの中の透明な液体に目を落としている。
呆れかえっているのだろう。いい歳をした大人が、子供でも理解できるやってはならないことを犯し、やらかした。
「落ち込んでいるね。信頼を裏切られた。真剣な言葉に騙された。そいつの更生に期待した。そんなところ?」
「いや」
冷ややかに並べられる言葉は、どれもこれも半分は当たっている。
けれど、もう半分は少し違う。もう少しだけ幼稚だった。
「あぁ……つまるところ、俺に頼り甲斐がなかったってのが、悔しい。返済する気があるならどうとでも手伝ってやれた。どうせ俺は独り身だし、親ももう死んでるし。身軽なもんだ。でも、いやだからこそ、かな。信用はされなかったらしいや」
「……」
「悲しいっていうか虚しいっていうか、いややっぱ悔しいな! ははっ」
「……恨んでないのか。君を裏切った奴を」
「そりゃ多少腹は立つさ。でもまあ、助けようと思ったのは俺の勝手だ。向こうがどう思うかは関係ない」
「……」
「さて、どうするかな。上手い返済計画立てなきゃなー」
「……幾らだい」
「え?」
「額面は幾らだ、って聞いてる」
反問を、咄嗟にできなかった。それを許さない固い沈黙で、彼女は俺の返答を待ち受けていたから。
俺はやや躊躇しながらも金額を白状し、ついでに金融会社の社名と今日要求された利息額まで口走ってしまっていた。
半分は笑い話のつもりで。
彼女は、一切笑わなかったが。
氷の割れる音がいやに鋭く、耳に障る。
沈黙に耐えられなくなった俺が話題を変えようとした時、彼女はもうスツールを立っていた。
「悪いけど今夜はここで失礼するよ。チェックを、彼の分も」
「要らねぇよ。いつも通り自分の飲んだ分は自分で払う」
それは暗黙の了解というほどのものでもないが、彼女と俺との通例だ。
今更、男性が女性に酒代を奢る是非を云々しているのではない。ただ。
良い酒を飲みながら、良い店で、気の良い友人と交わす他愛ない時間が、俺は好きなのだ。
雑事は要らない。潔癖と言われてもいい。
無駄に気を回すのも気を遣われるのも嫌だ。とにかく嫌なのだ。
……ガキか、俺は。
「借金背負ってるくせに見栄張ってどうするんだい」
「見栄じゃない。あんたに集るのが嫌でしょうがないだけだ……あんたは、俺にとっては、特別だから」
「────どう、特別なんだい?」
「だ、大事な……友達、だ」
「…………」
店主はカウンターの脇に控えて黙って俺達を見守っている。
ほんの数秒、彫像のように停止していた彼女は、音もなく息を吐いた。
呆れ、諦め、そして……。
「お先に……本当に君は、世話の焼ける男だな」
ドアベルが鳴った。彼女はドアの向こうに消えたらしい。
俺は何故か恐くて、それこそ叱られた子供のようにカウンターの卓面を見詰めたまま。
結局、彼女の背中を見送ることもできなかった。
ただ……擦れ違う瞬間に見た、彼女の笑みが、何故か恐くて。
恐くて、仕方なかった。
呼び付けられたのはシティーホテルの一室。
債権者を名乗るその人物の指示に従い、俺はスイートルームの扉の前に立っている。
普通の状況とはとても言えなかった。相手は明らかに違法な金融機関、闇金と呼ばれる連中。逃げればただでは済まないし、かと言って弁護士を頼って法的に違法金利の借財を無効にできたとしても、ヤクザを後ろ盾にする取り立て屋の追及を逃れることはできないだろう。むしろ怒らせた分だけ酷烈になる。
対話が必要だった。半分はヤケクソだが。
チャイムを鳴らす。
程なく、扉が開いて。
「時間通りだね」
「……あ? え、なんで」
「入りなよ」
軽妙に言って、金糸の後ろ髪が部屋の中へ入っていく。
甘い香りがした。コスメか、シャンプーか、それはわからない。
広い室内に踏み入る。
彼女は既に一人掛けのソファーに座って己を待ち受けている。
「どういう……」
「とりあえず座りなよ」
あの飄々とした笑みが己を見上げる。仕方もなく、ガラステーブルを挟んで彼女の向かいに俺は腰を下ろした。
彼女は、傍らのブリーフケースから書類を一枚取り出して、テーブルへ滑らせた。
自然、文面に目を落として……俺は口を開けた。最高に間の抜けた顔を晒していたに違いない。
事実、彼女は笑っている。愉しそうに。
「君が負った借金、利息含めて僕が支払うことになった」
「し、支払うって、いや、待て、そんな」
「よかったね。サラリーマンの生涯年収でも厳しい額だったし、下手すると人一人消して賄うところだった。性質の悪いところを頼ったもんだよ、君の元知人くんは」
「どうやって」
「……僕は君とは違うからね。君みたいな、無償の善意で他人を助ける人間が多からずいるように、底無しの悪意で他人から搾取する人間が世の中にはたくさんいる。君の目の前にも。僕、こう見えて結構お金持ちなんだ」
「……何が目的だ?」
気の良い週末の酒の友は、察しの悪い男の焦りに微笑みで応える。
「君。君の身も心も全部、これで買い取りたい」
「はあ??」
「……想像すら、できなかった?」
何故か淋しげに彼女は俺を見上げる。伏し目がちに、今まで纏っていた自信全てを失って。
俺はといえば二の句を失う。
人間一人を金で買うことがどうだの、これがそれに見合う額であるかどうかだの、そんなことではなく。
彼女が、俺を買ってまで求めるということが。
「これは……正しくない。金で人を売り買いするとか」
「人身売買はよくあるけどなぁ、この国でも。風俗も、あれ要は一定時間体とサービスを売り買いしてる訳だし」
「そういうことじゃない!」
「そういう話なんだよ。じゃあ、付いて来て」
彼女はソファーを立った。そうして足取りも軽く広間を出て行ってしまう。
俺も立ち上がり後を追った。
納得できない。感情の好悪は、この際関わりない。
奥の部屋に踏み込んだ。そこは。
ベッドルームだった。
彼女は、カットソーを脱いでいた。下着はなく、そこには白い乳房と桜色の粒がある。
俺は刹那、その美しさに目を奪われ、たっぷり三秒後泡を食った。
「おま」
「中に入って、ドア閉めて」
「いや、俺が出る」
踵を返した俺は、即座に後ろ襟を掴まれ床に引き倒された。
油断していたこともあるが、凄まじい力だった。腕力、ではない。
意志の力。
怒りだ。
彼女は燃えるような瞳で俺を見下ろしていた。
「この期に及んで逃げる気かい」
「ちが、返済はする。一生かけてやる!」
「要らないよ。金を持って来たって受け取らないから」
「なんで、だ」
「だからさぁ」
馬乗りになった彼女が俺の首を両手で掴み、絞めた。
「がっ、は……!」
「んっ」
「んぐ!?」
気管を圧迫され、反射的に息を吸おうと開いた口に、彼女は自身の口を。
唇を割りこませ、舌を捻じ込んできた。
「んぢゅ、ちゅっ、えあ、ちゅ……」
舌が歯列を舐め、口腔を縦横無尽に探り回り、そうして一番奥で縮こまっていたそれを、俺の舌に絡み付いて舐ぶり回す。
唾液を流し込まれた。そしてその分だけ舌を、溢れた涎を吸い取られた。
溺れる。枯れる。
相反する感覚を同時に、何度も、繰り返しに味わわされた。
「ぷあ、はぁ、はあ、はぁ、はぁ……あはぁ……」
「はぁっ、がっは、ぶっ、ぁ、はぁはぁ、あ゛ぁ……!」
口を犯され続ける間も首は絞められ続けていた。酸欠で視界が白化している。溢れた唾液が気管に入り、咳が余計に呼吸を阻害した。
頭上で彼女が動いている。それだけ、なんとか認識している。
そして視界が回復した時にはもう遅い。
目の前に、それが。
充血した襞と粘ついた液を垂らす口が、目に痛いほどの肉色が。
ぽたぽたと愛液が顔に垂れる。
下りてくる。
「ッッ!?」
「ひゃんっ、んん、あはは、あん、やば、鼻、クリ、擦れっ、て、いぃ、んあっ!」
暴れようが藻掻こうが無駄だった。頭と首をがっちりと太腿で挟み込まれている。
溢れ出る液体をただ飲み込んだ。
甘い淫臭の暴力が口腔も鼻腔も肺すら満たし犯し、思考能力を破壊する。
「あ、ぁ、あ、イ、イ、く……!!」
それは本当に唇のように収縮し、俺の唇に熱くキスをした。尿ではない澄んだ液体が顔中を濡らした。
彼女は脱力する。
俺は、意識喪失の寸前に解放された。
立ち上がる気力はなかった。
彼女が俺に口付ける。今度は、ひどく優しい。触れ合うだけの、子供が遊びで交わすような。
何故か、その感触が懐かしい。
「僕と君は、違う……」
「は、ぁ、ぇ……」
「僕は、こういうやり方でしか……僕も、本当は……でも僕は……僕も……」
「あ……」
薄れ、朧に滲む視界の向こうで、彼女の瞳から落ちる雫を見た。
ひどく綺麗な涙を。
「君のように、なれたらよかった……大好きな君のように」
別に初めてって訳じゃない。
他人の失敗や悪事を押し付けられ、その尻拭いに奔走する。代わりに叱責を食らう。周囲から白眼視される。
まあ、本来はいけないことなのだろう。
正しくない。それは、濡れ衣だの冤罪だのが問題というより、それを犯した友人知人の為にならないことだからだ。彼ら彼女らの更生の機会を奪っているから。
罪悪感なんてない。罪から逃れてラッキー……そうすっぱりと割り切れる人間ばかりじゃない。いやむしろそんな人間の方が少ないのではなかろうか。
罪の意識や、過去の記憶が尾を引けば、心が荒む。結果、その時逃れた失敗や悪事よりもっと悪い出来事に出くわしてしまうことだってある。
俺は俺自身の処遇にそれほど関心がない。
幼少期、親と死別してから遠縁の家を転々とタライ回しにされ、養護施設に落ち着くまでに何か自己主張とか自尊心とか情緒とか、そんなようなものを落っことして忘れてしまった感が否めないが。
それはそれ、これはこれだ。
俺は、正しくはないのだろう。歪んでいる、と言えるのかもしれない。
……そうだ。こうやって自戒できるのは。
昔、それを指摘されたことがあるから。
それもかなり痛烈に。
『キミ、すっげぇ気持ち悪いな』
そうそう。
面と向かって、俺の鼻先に指を差して、その子は言った。
あまりにも真正面からバッサリと言われたものだから、俺は、なんだか無性に可笑しくなって。
『……やべぇ、そうかも、ははは!』
『なんで笑うんだよ、ますます気持ち悪い』
『あっははは! うるせぇよ。でもありがとう。教えてくれて』
『……』
友達付き合いと呼べるのかどうか。俺の言動行動をその子がいちいち罵倒したり文句をつけたり。
けれど彼女の言はいちいち尤もだった気がする。
小学六年の春に彼女が転校するまで俺達の奇妙な友人関係は続いた。
『……さよなら』
最後の日、一緒の帰り道で、彼女は泣いていた。
あの子は、今どうしているだろう。
どうして今更。
今更あの子のことを……あぁ、なにを間の抜けたことを。
なんで、どうして。
どうして気付かなかった。
切っ掛けは、なんと逆ナンである。
『お兄さん、今帰り? よかったら一緒にごはん食べようよ。一人だと淋しいんだ』
ナンパの文句としてはかなり陳腐で、面白味に欠ける。同じ文言を俺が女性に投げ掛けたりすれば、良くて無視され、悪ければ警察を呼ばれるだろう。
『急ぐので』
『まあまあまあそう言わないで』
『他を当たってください』
『それじゃあダメなんだよ』
『貴女なら引く手数多でしょう』
『君でないとダメだ』
『そりゃまた……どうして?』
問答など本来するべきでもなかったと今にして思う。
『君が僕の初恋だから』
『は?』
『初恋の人に似てるんだよ。あはは、なかなか乙女でしょ』
悪戯なその笑みに流されて、結局は同道してしまったのだからその後どういった末路を迎えようと全て自己責任でしかない。
けれど、覚悟したぼったくり、自称彼氏の襲来、マルチの勧誘、絵画、壺、違法薬物の押し売り等の被害を受けることは終ぞなく……。
週末の同じ時間、いつものバー、カウンターの隅、同じ銘柄のジン。
俺と彼女は、その日以来ちょっとした飲み仲間になった。