病める時もすこや物語 作:足洗
「死ぬのは、別に恐くないんだ。あんたのお陰でさ。だって死んでもあんたが俺を覚えていてくれるだろ?」
酒が入った所為だろう。柄にもないことを言っている自覚はある。
現にテーブルの向かいからこちらを見る赤い瞳は、戸惑うように揺れていた。
精緻な西洋人形みたいな白い顔に、人外の尖った両耳という取り合わせは非現実的で、現実など問題にならぬほどに綺麗だった。
ハイエルフが皆そうなのか。
それとも彼女が特別なのか。
「俺が恐いのは、心残りなのは……あんたを残して逝くことだ。それを考えると、ひどく恐い。自分でも訳がわからないくらいに恐いんだ」
惰弱の吐露を彼女はどう思ったろう。
彼女の指が包んだロックグラスの氷が鳴る。
赤い視線はずっとこちらを刺していた。
俺は無性に恥ずかしくなる。
「ごめん。変なこと言った」
「うん」
誤魔化しに酒瓶を掴んで己のグラスに注いだ。見当を誤って少し溢れた。
あからさまな狼狽を見られて、また含羞が強まった。
普段なら返す刀で皮肉の一つも返ってくるのに今夜に限ってそれがない。
不死の森人たる彼女は、いつだって外見不相応なその老獪さで俺をからかってきた。
初めて出会った時から、祖父の通夜に参列した二十年前のあの日から何一つ変わらず。
だのに、どうしたのだろう。
「定命の、未熟な只人風情が。ふふ、生意気を言うようになったね」
「もうとっくに酒だって飲める歳なんだ。生意気の一つくらい言わせろよ」
「……そうだね。もう立派な大人だ」
「なんだよ。そこで退くなよ。調子狂うだろ」
「けど事実そうじゃないか。ガキがいつの間にか年食っちゃってさ。ふふ、ははは」
金糸の髪を掻き上げて、天井を見上げながら女は呵々大笑する。
いつもの調子が戻ってきた。こちらを幼子扱いして小馬鹿にする。
俺は密かに、胸の内で安堵した。
「……早いね、人間は。本当に……早すぎるよ」
酒の不覚を晒したあの夜以来、頻繁に彼女の家に招かれては夕食を振る舞われるようになった。
とはいえ彼女の手料理を食べる機会は過去に幾度もあったし、家族同然の付き合いを数十年……先祖代々を勘定に入れれば百年単位で続けてきた訳で、彼女は異種族といえどもはや親族のようなものだった。
「今日も来るだろう?」
「ああ、こっちとしてはありがたいけど。いいの? こう毎日毎日厄介になって」
「偉そうに抜かすな。ろくに自炊なんてできないくせして」
「これでも前よりか上達してんだぜ」
「上達~? ついこの前もシチューを焦がしたじゃないか。長年かけていい具合に熟れていた鍋を駄目にされてそれはそれは迷惑したもんさ」
「十歳の頃の話だろ!」
「ほんの十何年か前だろ」
「お婆め……」
「もういっぺん言ってみな。舌引っこ抜いてやる」
「すんません」
「……ふふ、変わりゃしないよ。お前さんは、なーんにも」
それがあんまり嬉しそうな声だったから、喉元まで溜めた憎まれ口も忘れてしまう。
「変わらないよ。きっと、きっと、ね……」
夜風にそよいで煌めく金髪を手櫛で乱暴に流す。まるで何かを誤魔化すような所作だった。
食事を共にする時間が増えていった。
外食しようとするのを彼女がひどく咎めるのだ。金が勿体無い、とか。私の手料理じゃ不満か、とか。
「私とじゃ……老い耄れなんかと一緒じゃ、嫌かい」
時折、そんな卑屈を口にされた。
そういう冗談を言う人ではあったから、最初こそ軽口混じりに流していたのだが。
週に三度が五、六と増えるまでにさして時間はかからず、今は毎日、毎食を用意して彼女は待っている。
友人に誘われて飲みに行こうものなら、なんと彼女はその足で俺を迎えに来るのだ。
「今日は、家で食べる日だろう?」
仲間達の好奇の視線を背中に浴びながら、店先でぽつりと佇む美しいヒトは美貌を悲しそうに翳らせて、翳りの深い笑顔で俺を見詰める。
それが、どうしようもなく胸をざわつかせた。
食事だけではない。
彼女の屋敷に寝泊まりするのは子供の頃からの習慣のようなものだったが、近頃は俺が一人暮らしのアパートに帰るのを彼女はひどく嫌がった。いや、日によっては明確に、禁じた。
「この屋敷は嫌かい? それとも……私のことが煩わしくなったかい?」
彼女の言動は日に日に同情を誘うような卑屈さで染まっていった。
らしくない。
明らかに異常だ。
けれど……それを指摘する勇気が、俺にはなかった。
彼女の言葉に、声音に、視線の中に、それを感じ取っていたから。
怖れ、不安を。
「旅行でも、行こうか」
「へぇ、どっか行きたいとこでもあんの? 婆ちゃん達とは南国だったっけ」
「まあ別にどこでもいいさ。ただ、思えばお前さんと遠出したことなんて、今まで一度もなかったからね。その次の年と次の次の年には、お前さんの祖父母もすぐに逝っちまった……人間には旅をする機会すら、そう何度もないじゃないか」
だからできるだけ多く、思い出を残す為に。
「今日も、食べに来るだろう?」
断りの文句なんて浮かばない。拒絶の気配を一欠片でも覚られたら、彼女はきっと泣いてしまう。一滴の涙も見せず、その美貌の下で泣くのだ。
ざわざわと胸の奥に波が立つ。真冬の海のように底の見えない深みで、悲しい波濤。
彼女の手料理は美味しかった。
特に肉料理が絶品なのだ。
ワインで煮込まれ、驚くほど柔らかいレバー肉を口に運ぶ。
あえなく口内で溶けていくそれを胃の腑に落とす。
その自分の様子を、彼女は片時も目を離さず、優しい笑みを浮かべて見ている。
「美味いか」
「うん、よく煮えてる」
「そっか……それはなにより」
まるで母親のように。
物心つく前に両親は事故でこの世を去り、俺は祖父母と、彼女に育てられた。
けれど、俺は彼女を母親とは呼べなかった。呼びたくなかった。
彼女に対する憧れを、親愛や敬愛とは思いたくなかった。
あるいは、彼女に拒まれることも承知で、俺はこの愛情を秘匿する。
時に叫び出しそうになる衝動を堪えながら。
いつか来る別れに怯えながら。
……この人も、そうなのだろうか。
きっと同じ恐怖を共に抱いて、素知らぬ顔で向かい合っている。
この人の笑顔が優しいほど、この人の笑顔に安らぐほど。
俺は悲しくなった。胸の内の波濤は止まない。
それでも現実社会というやつは、一個人の真面目腐った苦悩になど頓着しない。
出張命令が下った。特別な意味や意図など何もない、どこの職場でもよく行われる人事交流とか技術交換とかそういった名目の、一時的な出向である。
期間も短い。ほんの一月程度だ。
何の問題もない。ない筈だ。
だのに俺は既にして、半ば諦めている。何故か、無理だろうな、と。
ぼんやりとそんなことを思っている。
帰宅して(無論アパートの自室にではない)、待ちわびていた様子の彼女に出張の旨を伝えた。我ながら恐る恐るに、まるで非行を親に告白する子供の心地で。
そして、案の定。いや予想を大きく上回って彼女は──豹変した。
「ダメだ。ダメだダメだダメだ! そんなこと、許せる訳ないだろ!?」
「仕事なんだ。仕方ないだろ」
「仕方ない? 仕方ないだって? 一ヶ月も、一ヶ月もだぞ」
「たった一ヶ月……」
「一ヶ月だぞッ!!」
鼓膜に過負荷を覚えた。痛み、耳鳴りも。
時間感覚などはハイエルフの方が遥かに悠長である筈なのに。
一ヶ月。繰り返すほど他愛ない。眼前の女の剣幕が可笑しく思えてしまう。
しかし、それはどうも彼女にとって何を置いても重要視すべき最重要事であるらしい。
それは、人間の短命さに対する悲嘆……。
「ようやく馴染み始めたんだ。一ヶ月なんて間が空いては、今までの苦労が全て無になる……」
「?」
両手で顔を覆って俯きながら、彼女は宣う。意味は不明。
「どういう意味だよ。馴染む、って。何が」
「幸いだった。お前さんと私の血が血縁でないどころか異種であるにも関わらず適合したのは、本当に、神の采配だった」
「は?」
「あとは蓄積と同化なんだ。混じり溶けて根付き、変態する。あと少し、あと少しで」
鑪(たたら)を踏んで揺らぐ彼女に手を伸ばそうとする。肩に触れ、支えになろうと。
でないと、いってしまう。
そんな風に思った。焦燥が。
彼女は、いってはならぬところへ踏み入ろうとしているのだと。
そう、禁忌。そういう恐ろしいモノに。彼女は。
彼女が。
「同じに、なれるよ」
突如、視界が塞がる。
それは白い手だった。彼女の白魚のようにしなやかな腕から伸びた、象牙細工のように精緻な掌が。
目の前にある。顔を覆って、額から撫で下りて、それはゆっくりと目蓋を閉じさせた。
子供の頃、眠れない夜、子守唄と共に彼女はそうしてくれた。そのおまじないがあれば不思議なほど安らかに眠れるのだ。
あの頃と同じ。同じくらい安らかに、しかし呪いめいて容赦なく。
俺は眠りに落とされた。
屋敷の奥の部屋には決して入ってはいけない。それが約束だった。彼女は好奇心旺盛な子供を根気よく真剣に説得して固い約束の指切りを交わした。
あの必死さの意味を俺は今夜ようやく理解した。
無数の薬品、用途不明の器具、解読不能の書物。ここは魔術の工房。ハイエルフ千年の叡智の集積地。
けれど今、その深淵のような空間に満ちているのは芳香だった。食欲を誘う肉料理の匂いだ。
石壁に囲まれた地下室で、椅子に縛り付けられた俺の前に尖った耳をした西洋人形が佇んでいる。
現にその笑みは人形めいて無機質に見えた。
装っている。内心の混濁を能面の下に押し込めて、彼女は。
「なんで」
「もう、耐えられないから」
疑問には回答が寄越された。
意味は、少しだけ理解できる。
そう感じる。きっと、同じ想いを抱いているから。
「千年、生きてきた。千年、見送り続けた。それが摂理だ。私は死なず、親しんだ彼や彼女は定めた命を費やして死ぬ。分かりきってる。否も応もない。泣こうが喚こうが変わらない。受け入れたさ。悟ったふりをして、自然の理だと識者を気取った。私はエルフだ。永劫のハイエルフだ。そうでなくてどうする。悠久の時の流れこそ我らが生涯……ふふ、あはははは」
両足に手が置かれる。それは次第に握力を強め、腿を掴み、皮膚に爪を立てた。
猛禽が鉤爪で獲物を捕らえる様に似ていた。
「無理だよ。もう、無理なんだ。無理だったんだよ。私には、とうの昔に限界だった。単に遅かっただけ。途方もなく遅かったんだ、私の理解は。私はとんだ馬鹿者で、人の死がどれほど悲しいことなのかこれっぽっちもわからないままこの歳まで来てしまった。別れが、大事な人が去っていった後に取り残される孤独の時間が、こんなに、こんなにも惨い。惨たらしく私を苛む。その予感に、気が狂いそうになる。そして、お前は、もうすっかり大人になったね」
「……」
熱にうかされたように滔々とした語り口が、突然に柔らかに口ずさむ。
母の顔で、エルフは微笑み、そして涙を流した。
「お前は! お前だけは嫌だぁッ!! 逝かせない! 逝かせない! 逝かせないいいい!!」
「ぁ……」
「もう嫌だ……もう無理だ……お前が、お前が死ぬ、いずれ、すぐにも、あっさり逝ってしまうって、理解した時から私には……これしか、術は浮かばなかった」
匂いが強まっていた。煮詰まっているのだろう。鍋の中で、肉が。
脂が溶けて、酒と香辛料と野菜とが渾然一体となって、それは至極の美味を生む。
彼女の手料理はいつだって美味かった。
いつだって。
いつだって。
「時間だけはたっぷりとあったし、私という研究材料も揃っていた。この国では、そう、人魚の伝説があったね。流石にあそこまで単純には行かないが、それでもあの逸話は私に示唆を与えてくれた」
「は、ぁ、あ、はぁ、はぁ……」
「肝だけではダメだ。肉だけではダメだ。血も臓物も骨も一部位毎に分けて摂取しなければならない。少しずつ馴染ませていくんだ。もう随分馴染んだと思う」
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
胸の奥底がざわめく。
波濤が立つ。
早鐘を打つ心臓とは別の場所で、俺はその悲しさを持て余す。
まさか、まさかまさかまさかまさかまさかまさか。
鍋で甘く煮え立つ肉の芳香。
ワインは赤く、紅く、あかく。
「お腹、空いたろう」
「──」
「たくさん、お食べ」
俺を見下ろすあかい目は、相も変わらず優しい形で。
恐ろしさなんて微塵も感じない。
ただ、泣きたくなるくらい悲しい。
堪らなく悲しかった。そうすることでしか逃れられなかった彼女が。
彼女にそれをさせた自分自身の不甲斐なさが。
「ああ、食べる。食べるよ」
「……」
「最後まで、残さず食べるから。だから」
そんな悲しそうな顔で笑わないでくれ。
「……あぁっ、あ、う、ぁ、ああああああああっ」
「……」
彼女は俺に縋りつき、泣いた。
だから千年分の悲しみが尽きるまで俺は彼女と生きようと思う。