病める時もすこや物語 作:足洗
泳ぎが下手で群の同族達から虐められていたシャチ獣人の少女とひょんなことから知り合い、どうしてか彼女の水泳のコーチ役を請け負ってしまった。
コーチ、なんて大袈裟な。
シャチの本能と人型の肉体とのギャップに苦しんでいた彼女に、人間のほんの基礎的な水練と泳法をレクチャーしただけである。
しかし効果は絶大だった。
本来の類稀な肉体の性能に技術が合わさり、同族どころかあらゆる海洋生物獣人の遊泳速度を上回るまでに成長を遂げ、もはや彼女を虐めようなどと考える者も消え失せた。
涙を流して感謝を口にする少女に、俺は曖昧に笑って肩を竦める。
大したことなんて本当にしていないのだ。結局は天性のポテンシャルを発揮する術を彼女が知らなかっただけ。いずれ自力で開花していたに違いない。健常な人間が、歩き方を教わるまでもなく覚えていくように。
海洋生物の獣人に、人間が泳ぎ方を教える……こんな馬鹿馬鹿しい話はない。
本当に、ない。
「それでも」
大きな手が俺の手を取る。
滑らかな質感の掌は白、血色に乏しい訳ではなく、純粋な白。他のあらゆる特徴を加味してもおよそ人間の皮膚の手触りとは違う。
濡れ羽のような黒髪の側頭部には白い目を思わせる独特の模様。そして首筋から肩、背筋はウエットスーツのような黒肌が覆う。背中で黒いヒレが盛り上がっており、尾ていには太く大ぶりな、先端の二股に分かれた尾が生えている。
同族の中では小柄な方だという2m半の体躯を見上げて、つくづく思う。人体とはなんて、矮小なのだろうか、と。
涙を流す少女の人間離れして綺麗な顔に、俺は作り笑いを貼り付けるのも忘れて見入った。
「ありがとう。全部、全部あんたのお陰……」
「関係ないよ。全部、君の努力」
「ふふ、謙遜ばっかり」
「……」
「でも、アタシは、アタシさ、あんたのそういうとこ……違うな。そうじゃない。そうじゃ、なくて」
「?」
白い肌に始めて赤みが差した。
恥ずかしそうに目を伏せて迷い躊躇い、そして一瞬後には決然と少女は俺を見下ろし、言った。
「アタシ、あんたが好き」
「……」
「イジメから助けてくれたからってだけじゃない。不貞腐れてた私を叱ってくれたこと、私の泳ぎを……き、綺麗って言ってくれたこと……なにより私に泳ぐことの楽しさを教えてくれたことが、嬉しかった。嬉しかったんだ。生まれてから、あんなに嬉しかったことない。初めて、こんなに誰かを……好き、って思えた」
ひたむきな目だった。この子はいつだってこんな目をしていた。上達しない泳ぎに悔しさを爆発させて水練を投げ出したかと思えば、次の日には獣人用プールの前でせっせと準備運動している。
あの真剣な眼差しが、今はどうしてか、自分に注がれている。
その事実が。
「ごめん」
「っ…………うん、や、やっぱり獣人とか、無理だよね」
「別に、そういう訳じゃ」
「じゃあ、なんで? なんでそんなに辛そうな顔するの?」
「……君には関係ないことだよ」
「なにそれ」
「俺の個人的な問題だから」
「好きか嫌いかの問題でしょ。嫌いならそう言ってよ。獣人の、よりによって海洋生物なんかに好かれるのは気持ち悪いってはっきり」
「そんなこと思ってない」
「じゃあなんでこっち見てくれないの!?」
肩を掴まれ、無理矢理にそちらを向かされる。
抵抗は無意味だ。筋力で獣人に敵う人間なんていない。
そこには痛ましいほど悲しげな少女の顔がある。縋るような目に、一杯に涙を溜めて。
それらしい言い訳も、誤魔化しも許してはくれない。
だから俺は白状する。情けなくて醜いこの本性を。
「俺は、泳ぎの上手い獣人が憎いんだ」
薄ら笑い。きっとあの日、この子を虐めていた獣人達と同じ顔で俺は笑った。
自分を嗤った。
水泳選手になりたかった。
けれどそういう純粋な夢を抱き続けるには、現代の、異界と繋がった人間界は歪すぎた。
獣人種。
人間を遥かに凌ぐ運動能力、肉体性能を持った者達。あらゆる分野に己の上位互換が存在するという実情は、スポーツから競技性を殺していった。
『いや、人間同士で競い合えよ』
『他の生物と比べなきゃいい』
正論だ。
実際、現代のスポーツ大会、選手権は人間と獣人で部門を分けて開かれるのがほとんどだ。
けれど同時に。
『人間なんてこの程度』
『獣人に比べればドングリの背比べ』
──人間種がスポーツなんて、するだけ無駄だ
そんな諦観が周りに、人間社会に、確実に蔓延しているのを肌で感じた。
プロ選手がSNSに心境の吐露を投稿し、世間がそれをお気持ち表明だ負け惜しみだ言い訳だと叩いてこき下ろすのを見る度、暗澹とした心持ちになる。
一緒に切磋琢磨してきた同級生が、先輩が、後輩が、急に現実という言葉を使うようになって水泳に見向きもしなくなり、夢の世界には自分一人が取り残されていく。
世界が悪いんじゃない。
獣人が悪いんじゃない。
きっと、俺の性根が腐ってる。俺はずっと不平不満を腹に溜めて不貞腐れてるガキでしかない。
わかってる。
わかってるんだ。
わかってる、けど。
どうして純粋に夢を見られないんだ。
あの日から彼女とは会っていない。
最初の目的、彼女の泳ぎを上達させることには随分早い段階で成功していた。
それでも彼女と一緒にプール通いを続けたのは、楽しかったからだ。
海洋生物としては致命的な欠点に、それこそ死ぬほど悩んで悩み抜いていた女の子が、泳ぎが楽しい。泳ぐのが好き。そう言えるようになった。
それが、嬉しかったからだ。
そして、心底羨んだ。
ほんの基礎練習を一段積むだけで桁外れに能力を向上させていくあの生物が。
泳ぐ為に生まれてきた彼女の美しい肉体が。
無邪気にはしゃぐ愛らしさが、水面から俺を見上げる輝くようなあの笑顔が。
どうしようもなく妬ましかった。
泳ぐことが楽しい。
それだけで、よかった筈なのに。
家に着いた頃には完全に日が暮れていた。
ここのところは学校からの帰路、彼女と鉢合わせないよう遠回りするので帰宅時間が遅くなりがちなのだ。
これこそ無駄な努力だとつくづくに思う。子供染みた意地だった。本当に馬鹿らしい。
「……ただいま」
「おかえり。遅かったわね。待っててくれたのにあの子もう帰っちゃったわよ」
「え?」
「獣人の、シャチの子。でもあんたあんな綺麗な子と親しかったんだ。なかなかやるじゃない」
「来てたの?」
「うん、あんたの部屋勝手に上げちゃったけど、別にいいでしょ」
いい筈ないだろ。
怒りの文句が口から出かかって、結局消える。言ったところでこの母が聞く耳など持つ筈がないし、彼女からの交流を一方的に避けて拒んでいる後ろめたさもあった。
「アルバム引っ張り出してきてね、あんたの昔の写真とか見せてあげたらすっごい喜んでたわよ」
「最悪だよあんた」
「あぁでも、なんかね、水泳選手になるのが夢だったのよーって教えてあげたら……すごく落ち込んでたわ。なにか気に障ったのかしら。悪いけど、明日謝っておいてくれる?」
「…………」
放課後、川沿いの土手を歩いていた。
遠回りのコースのネタも尽きて、今はただ意味もなく道を往復するだけ。正真正銘時間の無駄だ。
「……」
彼女が虐められていたのもここだった。
水辺に追いやられ、同族達の嘲笑と野次に晒されながら、それに反抗することもせず、そのまま川に突き落とされていた。
ただ諦めて。
人生の全てに悲愴を気取って。
今の自分と同じように。
だからそれが見ていられなくなった。
彼女を助けた理由すら、利己心でしかなかったのだ。
でも……それでも。
楽しかったな。
「…………あ」
「……」
ぼんやりしていた所為で気付くのが遅れた。
踵を返して逃げるにも間を逸してる。
目の前に立ちはだかる黒く、大きく、しなやかな肢体。
シャチ獣人、彼女は本当に……本当に、流線形の綺麗な、綺麗な形をしている。
「……あの、俺」
「……」
「え」
彼女は無言のまま俺に近寄り、無言で腕を掴んだ。
引っ張られ、引き摺られ、土手を下る。
「ちょっ、放せよ」
「……」
無言。頑として意志疎通を拒絶される。
抵抗は、やはり意味がない。
子供と大人、いやきっとそれ以上の差を彼女の掌から感じる。
恐怖すら。
彼女は真っ直ぐ歩いていく。手荷物を引き摺るようにして俺を引き連れて。
水辺へ。
川の方へ。
そして。
「ぐあ!?」
俺は川面に放り投げられた。
水面を突き破って川の中へ。思ったより冷えた水温、そこそこの透明度、そして塩辛さに驚く。海が近い所為だ。ここらはまだ汽水域なのだろう。
そして、予想外の川の深さに動揺する。足が付かないとは思わなかった。というか、川の中央、深みに届くほどの距離を投げられたことにも衝撃を覚える。
流れがある分プールとは勝手が違ったが、どうにか姿勢制御して水面を目指し────大きな黒い影に視界を覆われていた。
(っ!?)
凄まじい力が自分を包み、押さえ付けている。手足を掻こうが身を捩ろうがびくともしない。
水底に縫い止められている。仰向けに見上げた先、川面に差す西日を背にして彼女がいる。俺を見下ろしている。
水の中で揺蕩う髪とヒレ。眼差しの静けさがむしろ焦燥を掻き立てる。
息が。
どうして。
息が苦しい。
なんでこんなこと。
持たない。
そして、彼女は迫ってくる。
その整った顔、唇が、自分のそれにかぶりつく。
獲物の肉に貪りつく獣の所作で。
そこにいるのは海洋生物界最強の、捕食者だった。
「んぶっ!?!?」
唇を割って這入りこんできた舌の、その人外の厚みと長さに戸惑う。それは感触と味を調べるように口腔を舐ぶり尽くした。
同時に息を吹き込まれる。死に物狂いで欲した酸素を与えられている。
命が灯火なら、今その火勢を強めることも、吹き消すことも、彼女の自由だった。
与えられる空気を必死に吸う。
絡み付いてくる舌の暴虐のような快感を甘受する。
それしかできない。それしか、許されない。
水の中で、彼女の世界では、それが絶対。今この瞬間、彼女は絶対だった。
「はぁっ! はぁっ! ぶ、はっ、はあはあはあはあはあはあっ!!」
陸に上がり、体は躍起になって酸素の不足分の取り立てを始める。
ぼんやりと霞む視界。大の字で空を見るともなしに見る。茜色が群青に浸蝕され、程なく夜が来る。
そして、夜よりも黒い肢体がそっと自分に馬乗りになる。
彼女は、キスをした。何度も何度も、触れ合うように軽く、かと思えばねっとりと重く、舌と舌がふやけて溶けて一つになってしまいそうな。
あまりにも深い口付け。
呼吸がまた、許されなくなる。
「ひゅっ、はっ、はっ、かひゅっ」
「……わかった?」
「はっ、はあはあ、はっ、っ……」
「これが獣人」
意味がわからなかった。
意味を咀嚼する機能が死んでいた。
ただ彼女の目を見ている。滲む視界、暮れなずむ世界の中で、芯まで澄んだ黒い瞳を。
「人間なんてすぐに殺せる。キスだけで殺しちゃえる。水の中で、アタシに貪られながら死ぬの。恐いでしょ?」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「化物だよ。怪物だよ。獣人と人間は違う。違うもの。だから……比べる必要なんてない。意味ない」
意味。
その涙の意味。
俺の顔を濡らす暖かなもの。切ない雫は。
「アタシを恨んでいい。怒っていい。失望して、見限ってよ。獣人なんてホントはただのケダモノで。羨む価値なんて、これっぽっちもないんだから!」
「……」
「だから……夢、捨てないでよ」
「……あぁ」
「ごめん、ごめんなさい……あんたが好き、大好き……あんたと過ごす水の中の時間が好き……楽しそうに泳ぐあんたが、大好き。大好きなの……」
好き、そう繰り返しながら彼女は泣く。最強の、人間を遥かに超えた能力を持った、優れた生物の筈の彼女が。
彼女のキスは、優しかった。