病める時もすこや物語 作:足洗
書籍の処分を終えた帰り。
午後からの雨足は強まる一方で、ジーンズの裾もスニーカーも半端に濡れてやや不快だ。
鼻腔に詰まるような湿気を吸いながら帰路を行く。
その時、雨音を貫いて乾いた音が耳を打った。
繁華街が猥雑に人で溢れる時刻。
ホテル前で男女が揉めている。女性の方が男性の頬を張ったのだ。
残念ながら、よくある光景である。
だのにそれは強く目を引いた。
その白銀は。
今時染髪や脱色なんて珍しくもないが。
その髪は真実、銀色に輝いていた。
抜けるように白い肌もやや日本人離れした目鼻立ちも。
ホットパンツから晒け出された白く長い脚線美。
寒そうだなと、愚昧な感想を抱いた。
「放して」
「今更なんだよ」
問答に格別特殊な事情はないように思えた。
少女は拒み、男はその下心を裏切られた。
無視すべきだろう。
自分は殊更良識を尊ぶような人間ではないのだし……良識?
それは、なかなか、笑える。
他人事を決め込む通行人の中から踏み出し男女の間に割り込んだ。
両者の驚きも一瞬、まず男が目に見えて憤慨した。
「正義マンかよ」
こちらを評するに実に妥当なスラングで少し可笑しくなる。
部外者である点をまず詫びて、極力丁寧に言葉を選び説得を始めた。
幸い、彼はすぐ根負けしてくれた。
面倒を心底嫌っただけなのだろうが。
肩を一度、拳で強く殴られる。
それで我慢してやるということなのだろう。
「сука」
男が聞き慣れない言葉を少女に吐き掛ける。
語気の荒々しさからいって罵声だろう。
頑健な拳を受けて相応に痛む自身の肩を擦る。
白く、彫りの深い顔だった。
彼も外国人なのだと、今更に思い至った。
ふと、己のこの散漫し切った注意力に苦笑する。
一秒後、ようやく放置したままの少女の存在を思い出した。
不味い。
気が抜けている。
彼女の高級そうなシルクのシャツは濡れて本来の品質をすっかり損ねていた。
冷えるな。
気温よりこの雨が。冷たい雨がいけない。
少女は怒ったような顔で俺を見ていた。
大きな瞳だ。
孔雀の羽めいて豊かな銀の睫毛が瞬く。
さあどうする正義マン
何かやってみせろ
そんな気配。
きっとナンパをされるのもそれを横から助け、もとい邪魔されることにも、彼女は馴れきっているのだろう。
つまらない一イベント。
そう、退屈しきった目。
申し訳なく思う。
俺は差しもせず手に持ったまま忘れていた傘を広げ、少女に差し出した。
いや押し付けた
そうして少し思案。
ダスヴィダーニャ
「!」
この拙い発音でも伝わったらしい。
言葉選びだけは終始正解を引いた。
少女を横切り、雨の道に戻る。
自己満足にもならない。
日常に過った些末な逸脱。
それで終わり。
終わるべきだ。
何故なら己はもう責任を放棄する人間だ。
何かに関わるべきじゃない。
そんな無責任は負えない。
「待ってよ」
少女は結局自宅アパートまで付いて来てしまった。
積極的に彼女を撒かなかった俺にも非がある。
傘を差して立ち尽くす彼女が俺に向き合う。
「寒いから早く入れてよ」
確かに。
寒そうだという第一印象をその当人に追認されてしまえば仕様がない。
俺は真白い少女を自室に上げた。
積まれた段ボールを避けて居間へ。
こちらが渡したタオルで少女が髪を拭う。
室内灯の白光の下で見る濡れた銀髪がひどく眩い。
シャワーとトイレの場所、予備のタオルの収納場所。着替えは男物のスウェットくらいしかない。
それらを一通り説明してから踵を返す。
「どこ行くの」
退室しようとする家主を流石に少女も怪訝に思ったようだ。
夕飯の買い出しに行く、と告げる。
その方が彼女も身支度し易かろう。
必要な物を尋ねると彼女は恥じらうでもなく。
「ゴム」
一瞬面食らったが。
得心する。
笑い事ではない。
行きずりで男の部屋に上がったならそれの有無は重要だろう。
それが身の安全の、最後の守りなのだから。
馴れと揶揄すればそれまでだが。
彼女は覚悟してここにいる。
他に必要そうな雑貨を幾らか確認して雨の夜道に出た。
傘を叩く雨が、自分をせせら笑っているような気がした。
良識。
善行。
罪滅ぼし。
いや罪悪感の誤魔化し。
そうすれば何か許された心地になれる。
だからそうする。
俺は、卑小な人間だった。
こうして部屋に連れ込まれるのも初めてって訳じゃない。
大抵の男は、というかほぼ全員がヤリ目なんだけど。
シャワーだけ浴びてとっとと出て行こうかとも考えた。
でも。
家に戻るのだけは絶対に嫌だった。
「……」
お湯の温かさに安堵の息が漏れる。
思った以上に体は冷えきっていた。
体も心もなにもかも、冷えきっていた。
うっかりすると自分の生い立ちを振り返って自己憐憫に浸ろうとする。
そういう自分が堪らなく嫌だった。
そういう自分を形成した家も家族も。
どうせ逃げられない。
自嘲で唇が歪む。
逃げる為に努力したのか。
今を変える為の何かを。
無駄だ無駄だと言い訳して駄々を捏ねて街を彷徨うだけ。
私が本当に嫌いなのは私だった。
体を拭き、籠に放り込んだ濡れ鼠なシャツを見下ろして、仕方なく野暮ったいスウェットの上だけ着込む。
男物の身丈。
洗い晒しで柔軟剤の匂いに生活感がある。
脱衣所を出てすぐ、私は違和感に気付いた。
異様に片付いた部屋。衣服に感じた生活感が、この空間には感じられないのだ。
居間に小さなテーブルが一つきり。
書棚はあるが本は一冊も納められていなかった。
あのお人好しっぽい風貌に油断した。
今更、警戒心がもたげてくる。
善人面の正体が実は真性の変態野郎だったなんてパターンもある。
隣の部屋は寝室だろうか。
怖い物見たさ。そんな心理も多少。
私はあの男が異常者か確かめたくなった。
……今にして思うと何故わざわざそんなことを。
引戸を開いた先にあったのは、無数の変態グッズでもおぞましい犯罪の証拠でもなくて。
小さな焼香台と二つの遺影だった。
「……」
仏式はあまり馴染みがない。
母は日本人だが父が強行して土葬された。
墓碑に祈る度そんな父の横暴に対する怒りが再燃するのが嫌だった。
遺影はそれぞれ男性と女性。
彼の父母だろう。
そして二つの骨壺に寄り添って小瓶が一つ。
肉球の描かれた妙にポップなデザイン。
「飼っていた猫です」
背後からの声に息を呑んだ。
居間で買い物袋から取り出した雑貨を床に並べながら彼は静かに語った
「先月です。老衰でした」
悲愴でもなく沈痛でもない。
ただただ疲れ切った声だった。
「小さい頃から一緒だったから……かなり堪えました」
何故か自嘲して笑う。
枯木か揺れるような笑い。
心がざわつく。
共感か同情か。
鏡を見ればきっと同じような顔を拝める。
私と同じ。
は、同じなものか。
彼は普通の家で育ち普通の家族と普通の人生を歩んだ。勿論それは、私の想像に過ぎないが。
私とは違う。
何もせず抗わない。
逃げるだけの私とは違う。
彼はきちんと普通に、真っ当に家族を供養してる。
悲しいけれど尊いことだ。
家族を嫌い母の墓参もまともできない私とは違う。
「鍵を置いて行きます」
出し抜けに彼は言った。
「どうぞ好きにしてください。マットレスは押し入れです。布団も嫌でなければ」
「ま、待って」
思わずそのまま立ち去ろうとする背中を呼び止めた。
意味がわからない。
いや聞いたままの意味以外にないのだろう。
彼は、今日会ったばかりの小娘に部屋を明け渡して自分は出て行こうというのだ。
「い……一緒にいてよ」
我ながらあざとい。
なにより非合理だ。
私は雨宿りと安全で自由な避難場所を得られるチャンスを捨てようとしてる。
「その……家族を放って行く気?」
小さな焼香台を見やって、写真の中で穏やかに微笑む二人の顔が胸に痛い。
知らん顔で居座るのは無理そう。
私もまだまだ面の皮が脆い。
彼は暫し逡巡して、結局立ち退きは断念した。
なんで私が説得してるんだか。
レトルトのカレーと即席サラダ。
食事の間、彼は猫の話をしてくれた。
器用な子で自分で扉を開閉してよく外出してはご飯時に帰宅するのだとか。
お腹を触っても怒らないとか。
他愛のない話。
少し笑った。
仄温かな気持ちになれた。
こんなの、いつぶりだろう
こんな、穏やかな時間。
そうしていたら夜も更けてきてそろそろ就寝という時刻、彼は当然のように私にマットレスと布団をあてがって、自分は早々に毛布に包まり横になってしまった。
一緒に寝よう、なんて誘う隙もない。
私はどうやら下心のない男性との会話が下手くそだ。
諦めて床に着く。
敷居を隔てて横たわる彼の後頭部を眺める。
「……ご両親は、どうして」
殊更注意深く、私はそっと問い掛けた。
聞くべきじゃないかもしれない。
赤の他人がずけずけと。
けれど聞くべき事だとも、思う。
故人を偲ぶという事は生きた人が憶えていなければ意味がない。
私は、善人の仮面を被った聖人のようなこの人の生身の部分を知りたかった。
エゴだ。
そう今更の自己嫌悪。
やっぱりあまりにも不躾すぎる。
咄嗟に言い訳を探したが手遅れだった。
「事故です」
それは色も温度も抜け落ちた声だった。
「旅行先で、二人が乗った車がスリップして海に……」
それ以上を彼は語らず、静かにおやすみなさいと囁いた。
私は、自分が馬鹿な小娘なんだと猛烈に再認識した。
慰めの言葉も、慰みを与えてもあげられない。
お悔やみを……。
それだけ口にするのがやっとだった。
彼は小さくありがとうと言った。
あれから居座り続けて一週間。
私の面の皮は順調に育ってる。
私物を置き今日など彼に手伝わせて自分用のマットレスを運び込んだ。
流石に困り顔の彼に罪悪感を覚えそうになりながら頭を振る。
「お代ならいつでも払ってあげるけど?」
猫撫で声で耳許に囁く。
胸を持ち上げて、彼の足を擦って微笑む。
耳を赤くする彼に、私は安心した。
家具や私物が異様に少ない部屋。
整理された書類。
そしてその、なげやりなほどの優しさ。
彼が何をしようとしていたのか。
私みたいな馬鹿な小娘でもわかる。
彼は……人生を終わらせる気なんだって。
「食器買おうよ。お揃いのやつ。めおとちゃわん?っていうの。可愛いのがいいな」
食器どころか生活雑貨も殆ど処分されてた。
彼の痕跡は、今はもうスーツケース一つに収まるのだろう。
焼香台の白い壺と小瓶以外。
納骨はいつだろうか。
多分それが済んだら彼は。
彼は。
私は自分自身理解できないほどの強烈な使命感に衝き動かされていた。
ダメだ。
そんなこと絶対に許してはいけない。
これは恋愛とは違うと思う。
私はただ彼のその、闇色の優しさが悲しかった。
俺は彼女の気遣わしげな焦りを感じていた。
気付いたのかもしれない。
俺の魂胆。
俺が、人生という道のりの落伍者なのだと。
言い訳は幾らでも並べられる。
それらは一様に己の行為を正当化させる材料とはなり得なかった。
生を放棄する者に与えられる免罪符など存在しない。
どんな理由もそれを赦しはしない。
やむを得ぬ。
無理もない。
そう枕詞を飾ろうが。
自害とは、責任放棄なのだ
天涯孤独でも真っ当に生きている人はいる。
自分のこれが自己憐憫であることも、理解していた。
だが。
冷たくなってすっかり固まった老猫の死骸を抱いたあの時、俺の中で何かが崩れ落ちた。
自己を立脚する支柱が。
胸の穴からぼろぼろと塵屑になって溢れ出した。
父母の事故死は遠い国の出来事のようだった。
実感は未だに湧かない。
時折、足許に猫の気配を錯覚する。
何故。
何故こうなった。
俺はそう駄々を捏ねるだけのガキだった。
人助けも所詮自分を虐める口実だ。
それを行う間だけは俺はまだ生きている。
意味がある気がする。
「今日はねー、ブリヌイが食べたい」
白銀の雪原めいて煌めく。
街並の中、先を歩く少女の眩しい笑顔がこちらを振り返る。
目の当たりにする度、眼球の奥が強かに痛むほど。
俺の手を引く細い指が。
体温が。
苦しい。
街の喧騒の只中で。
不意に、独りを思い出す。
これからも。
喪った実感さえ稀薄で。
実家に帰れば今も母がいて父がいる。
そんな気がする。
あぁ猫のおやつの買い置き、まだあったかな。買って帰らないと。たまには実家に顔を出さないと、母さんが寂しがるんだ。父さんが電話口で愚痴る。わかったよ。
今、いくから。
「お兄さん、こっち見て」
銀色の長い睫毛。
宝石のような碧い瞳が俺を見ていた。
両手が頬を包む。
少し冷たい。
また冷えてしまっている。
「うん、だから帰ろ。私達の家に」
今、俺を現世に留める唯一。
彼女の献身に、俺は何を以て報いればいいのだろう。
「一緒に」
肩を寄せ合う。
体温を分け合う。
あの雨の日よりずっと体は冷えきっていた。
「一緒にいてくれればいい」
けれど心は、少しだけ温かかった。
ありがとうと呟く。
彼女は綿雪のように柔らかく微笑んだ。
穏やかな日々は確実に胸の虚を慰めた。
食事が当番制になり本日は彼女の番。
買い出しから彼女が帰るまで家事を幾つか片付けようとした時。
インターホンが鳴った。
忘れ物だろうかと誰何もせず扉を開く。
そこに立っていたのは白銀の少女ではなく、上等なスーツを纏った男だった。外国人。彫りの深い顔立ちと鎧のような筋骨がそれを主張している。
分厚い胸板から鋼のような声が発せられる。
「あの娘の前から失せろ」
私は私を取り囲む男達を睨み上げる。
それで怯むような奴はいない。
小娘のワガママ。
上司の娘の世話係に任命された彼らに憐れみと侮蔑を思う。
「今更なに? 娘がニ、三ヶ月帰らないだけで慌てるような奴じゃないでしょ。それともようやく人間らしい情を思い出したわけ?」
我ながらどす黒く毒が胸奥から溢れ出た。
父親に対する揺るぎない憎悪が。
そんな反抗的な私に対する彼らの要求はシンプルに一つ。
彼から離れろ、と。
「……男遊びは私の勝手でしょ」
売女に遊ばれる憐れな一般人。
彼は、その方がいい。
彼には……そう思って欲しくはないけど。
生意気な小娘の言に、けれど彼らは辟易するでもなく困ったように肩を竦めた。
いつもと違う反応を訝しむ。
世話係の一人がタブレット端末を私に見せた。
画面に表示されていたのは新聞記事と何かの報告書をまとめたものだった。
記事の顔写真を見た瞬間。
私は呼吸を忘れた。
血が抜け落ちたように。
地面が消え去ったみたいに。
眩む。
それは、水産業をシノギにするうちと地元漁協との諍い。
そしてそれに巻き込まれた一般人二人を、事故死として処理したという記録だった。
走る。
家に向かって。
私が逃げ出したあの空洞のような場所ではなく、私と彼の二人の家に。
何もなくなった部屋を少しずつ温かいもので満たしていった。
彼が少し笑ってくれるだけで幸せが胸に溢れた。
私に穏やかな日常を。
優しい時間の価値を思い出させてくれた。
私達の家に。
彼は────いなかった。
土足の轍。
争った形跡。
追い付いて来た男達に私は問う。
「あの人は」
彼らは答えずただ私に帰宅を命じた。
帰れだと。
私の家はここなのに。
こいつらは何を言ってるんだ。
再び問う。
彼らは答えない。
私は包丁を取り出した。
こんなちんけな刃で今更狼狽える連中ではない。
だから。
私は刃先を自分の首筋に五ミリほど埋めた。
初めて彼らに緊張が走った。
私は問う。
「あの人はどこ」
血が首を伝い、鎖骨を満たし、胸に垂れて流れた。
このまま掻き切ってもよかった。
本気でそうしようかと考えた。
彼がいないなら私がいる意味はなく、そして私がいないなら彼はきっと望むところへ逝ってしまうだろう。
これは驕りではなくただの事実。
彼の私への同情が彼を躊躇させる。彼を現世に留める。
それが私がひた隠しにしている、仄暗い喜びだった。
俺は何処にいるのだろう。
他人事のように自身の在処を考える。
コンクリートの床。
照明の消えた天井は見えない。
埃と黴の蔓延する冷えた空気。倉庫か工場か。
椅子に縛り付けられたまま幾度か殴られ、カッターで手足や口内を切られた。
拷問というより脅迫だ。
ここに運び込まれて以来、俺は何も問われてなどいない。
そもそも聞き出せるような価値が己の中に無いのだ。
ならば何故生きている。
価値はないのに。
何故生きている。
何の為に、生きている。
いや何故。
死なない?
もう未練も何も、父母も愛猫も先立ったのに……未練
あの娘。
あの娘は無事だろうか。
気掛かりはそれだけだった。
口中に満ちる鉄錆の味も全身の打撲傷も些事だ。
彼女の無事が約束されればそれで。
それで、終わりでいい。
鉄扉の軋む音。
靴音が駆け寄ってくる。
冷たいものが頬を包んだ。
殴られ腫れ上った皮膚にそれは心地好い。やはり彼女の手は冷たいな。
白銀の彼女は闇の中でも輝いて見えた。
「お兄さん」
無事だった。
あぁよかった。
いや首に傷が。
早く手当てしないと。
譫言が幾らも漏れ出る。
彼女の唇が震え、美貌が歪む。
「貴方の両親を私の父が殺しました」
彼女が何を言ったのかすぐには理解できなかった。
静寂が耳に痛い。
全身の痛みよりもあるいは鋭く。
耳を、脳を貫通する。
言葉の針がゆっくりと俺に理解という痛みを強要する。
「父はマフィアです。水産物の密輸入で利益を得ています。あの日●県の漁港近くで揉め事が起きた」
彼女は淡々と浮世離れした事を語る。
「乱闘があって構成員の一人が道路に飛び出しました。車を運転していた貴方のお父さんはそれを回避しようとして、ブレーキが間に合わず、お母さんを乗せたまま海に落下しました」
──ハンドル操作を誤った単独事故です
現場検証を終えた捜査官の端的な回答を思い出す。
事故。
なるほど、確かにそれは事故だ。
「私の、父の仕事でした」
か細い声は無明の空間に虚しく溶ける。
「ごめんなさい」
童女のように頼りなく彼女の両肩は落ちて震えていた。
後ろ手の結束バンドを切られた。
自由になった俺の両手に彼女は何かを握らせた。
ざらついて武骨で重い。
鉄の塊。
しかし一つの機能に集約された形。
それは、拳銃だった。
撃鉄が滑らかに音色を立てて上がる。
グリップを両手で包まれた。彼女の冷たい両手が。
「許さないでください」
引金に指を通され。
「憎んでください」
銃口は彼女の胸に。
鳩尾、心臓の鼓動が鉄器を伝う。
「殺してください。貴方の手で。それで、もし、その後、貴方がやっぱり、もう、もう、今に耐えられないなら、一人じゃ生きてけないなら……私のワガママ、聞いてくれるんなら」
────逝こう、一緒に
微笑み。
白銀の美しい少女。
微笑みに伝う涙は月明かりより綺麗だった。
仇として殺してくれという。
そして、一緒に逝ってくれるという。
俺は何を思う。
もはやわからない。
自分の思考が感情が、心が。
口内を満たす味と同様錆つき薄汚れた己なるもの。
憎いのか。
愛しいのか。
悲しいのか。
虚しいのか。
引金に掛けた指が、震え、震え、震えて。
震える手で、銃を放った。
「……」
床を跳ねる軽い金属音が闇に消える。
彼女は俺を見上げた。
問うて、痛んで、悼んで、廃れた目で。
それでも、なんて綺麗な子だろう。
到底、俺なんかの道連れにしていい訳がない。
俺は、彼女の想いをそっと拒んだ。
「────あぁっ、あああぁあぁあああああ!」
彼女は叫んだ。
望まぬ許しと拒絶を理解して。
縋る少女の背を撫でる。
あぁ、冷える。体も心も。
とても、寒いな。
マンション住まいは流石に初めてだった。
豪奢で広い部屋。
一階層が丸々個人宅なのだという。
まるで別世界だ。
高層から望む都会の景色も現実感はない。
生きた心地はしない。
多分、俺は本当はあの日、あの暗い倉庫で死んだのではないか。
ここに今在るつもりになっているだけで。
一枚硝子の窓に反射する室内にスーツを着た美しい少女が現れた。
「ただいま」
甘く煮え立ち、蕩けるような笑顔だった。
「あぁ疲れたー。お兄さん労ってー撫で撫でしてー」
背中にしな垂れる彼女を抱え、ソファーベッドに横たえる。
猫を撫でるように頭や首に触れると彼女は喜んだ。
「今日は特に面倒だったー。糞馬鹿がヤクのルートに割り込んで来てさ。事務所見付けて潰すの大変だったよー。まあこれで実績積めたし、一歩前進」
起き上がった彼女は己に覆い被さり、耳許にそっと囁く。
「もう少しであの父親も、あいつの組織も、全部台無しにしてやれる」
声色には純粋な喜びだけがあった。
狂気は、なかった。
しかし制止は無意味だ。
俺の言葉に彼女を止める力はない。
俺自身に価値が無いように。
「贖罪じゃない。私の自己満足。お兄さんは……どうか許さないで」
恋情の籠った彼女の吐息が俺の額を染める。
口付け。
柔な感触には確かに愛があった。
俺は。
「お兄さんが悲しむことない……でももし、耐えられないならいつでもいい」
両手が頬を包む。
両瞳が眼球を射止める。
「一緒に逝こう。二人で終わろ」
それを俺は許せない。
それを彼女は知っている。
だから、もうどうにもならない。
俺は死ねず。
彼女は生きる。
俺はここで飼い殺され。
彼女は生きる。
俺の報復を彼女は代行する。
俺の憎悪を彼女は代行する。
筋違いと、埒外と理解して。
やはりそれでも、狂気はなかった。
並び行き決して交わらない愛だけが、あった。