病める時もすこや物語 作:足洗
急遽、出張が決まった。
とはいえ命令は前日の退勤間際。
ろくな準備もないまま新幹線に飛び乗り自社の県外工場へ向かった。
比較的遠出の憂鬱は少なく、むしろ現在抱えている案件を同僚に丸投げせねばならない罪悪感の方が大きい。
溜息を吐いてから、反射的に同行者の様子を窺った。
己の直属の上司たる女性、課長のその綺麗な横顔は車窓の景色に向いている。
凜然、それを体現した人だった。
きりりとした柳眉、冴えた目鼻立ち、首は細く長く、ハンサムショートの黒髪がひどく似合う。
ジャケットとタイトなパンツ姿は見馴れても見飽きるということがない。
……我ながらセクハラ染みてきた思考に歯止めを掛ける。
兎角、自分の上司は眉目秀麗の才媛だった。
大学時代からその印象は何一つ変わらない。
出張の名目は、新たに導入される大型製造機器の稼働テスト。
営業部としては取扱製品の仕様の遵守状況や変更の可否、監査のような動きも必要だろう。
課の意思決定に携わる彼女が今回の出張に同行するのは当然かもしれない。
しかしそれはそれ。己が如き平社員ではこの案件は手に余ると彼女に思われたのだとしたら、その悲嘆は
「んん? あぁそうか。この場合そう受け取られてしまうんだな……」
こちらの気落ちした空気を察したのか、彼女は何やら得心したように二度三度頷く。
「誤解しないでくれ。君の能力に不足はないよ。機器の仮運用には役職持ちが一人は立ち会うのが規則でね。そして私はそれに
彼女のその軽妙な冗句に救われた心地になる。
外見と身に纏う気配の怜悧さとは裏腹な茶目っ気がこの人の魅力だった。
「冗句ではないんだが」
両肩を竦めて吐息。
洋画俳優染みたバタ臭い仕草でさえ彼女なら画になる。
昔から並んで歩くのにもいちいち気後れしたものだ。
「それはまた無駄なことを。私は何度、君とのデートをふいにされたんだい?」
彼女は肘掛けに頬杖をついて子供のように不満顔を作った。
大学時代からよく彼女に連れ回されて街を彷徨い歩いたものだ。
懐古するほど遠い過去でもあるまいが。
「……私はいつだってあの頃を懐かしんでるよ」
それは。
先程までとは異なる温度の声、質感の言葉だった。
勘違いでないならそれはどこか、淋しげに。
こちらを非難するような。
「なんてね」
一体どんな経緯で彼女のような人と己などが知り合ったのか、正直今一つ覚えていないが、疎遠になった理由はわかりやすい。
自分が他の娘と付き合うことになったからだ。告白され、断るのも可哀想だと承諾した。
まったく不誠実な話だ。
その娘に対しては勿論、彼女に配慮を強いたことも。
結局、彼女の卒業まで開いてしまった距離が縮まることはなかった
就職し、何のかの仕事に打ち込み一端の稼ぎを得られるようになり。
大学から交際を続けたその娘との結婚についてそろそろ考えようか、などと腹積もりしていた矢先のこと。
突然別れ話を切り出された。
随分前から他に好きな人がいた、長らく言い出せずごめんなさい、と
つまるところ浮気の告白であった。
その娘から見て俺は、結婚相手としては不適であるらしい。
裏切られただの捨てられただの被害者面はできない。
ただただ自分が相手を失望させていたのだという事実と、それに長い間気付けもしなかった無思慮っぷりが情けなく惨めで。
柄にもなく鬱いだものだ。
仕事が手に付かず私生活も随分と荒れた。
そんな時だ、彼女と再会したのは。
この人は、あの頃から変わらずずっと軽妙で美しいままで。
大学生が行くような安いチェーンの居酒屋で、先輩は俺の重い口を開かせ愚痴とも泣言ともわからない譫言に根気よく耳を傾けてくれた。
そうして機を見てか、彼女が切り出した。
「実はうちで新部署が立ち上がったんだが面子が揃わないんだ。君さえよければ、私のところへ来ないか?」
それが例え同情や憐憫で発された提案でも構わない。
地獄に差し伸べられた彼女の掌に、俺は餓鬼の如く必死に縋った。
そうまさしく必死に。
縋った掌を押し戴く心地で俺は働いた。
新設された部署の始動に際してやることが山積していたのはむしろ幸いだ。
俺を推挙してくれた彼女に恥など掻かせられぬと、奪うようにあらゆる仕事を吸収し完遂していった。
「おいおい、そう根を詰めすぎないでくれ。君が私の期待を裏切ったことなんて……ほんの、一度きりなんだから」
齷齪と働き蟻よろしく分相応の職務に精励する俺とはやはり違う。
彼女は、設立たったの一年で課長の役職を得て現場責任者の地位に在った。
無論、出世頭といえど限度がある。そのポスト自体は遥か以前から内定されていたのだろうが。
いずれにせよ変わらない。
俺の彼女に対するこの、敬愛の念は
「ふふ、擽ったいな……でも、うん、嬉しい。嬉しいな」
忙しないが心穏やかな時間が過ぎていった。
理想的な上司にして私事の理解者という、輪廻を六巡しても得られるかどうか知れない人と俺は出会い再会を果たせた。
一体誰に感謝すべきか。
無論、隣席の彼女に重ね重ね繰り返すだけだ。
「大袈裟だなぁ。ふむ……感謝か」
不意に、彼女は俺の耳許に囁く。
「形で寄越せと言ったら、どうしてくれる?」
息を呑んで、意味を問い返そうとした時車内アナウンスが目的地への到着を予告した。
「さて、折角の遠出だ。仕事はさっさと片付けて何か美味しいもの食べよ」
晴れやかにそう言って動き出した上司にそれ以上を尋ねる気は起きず。
我々は順当に出張業務に忙殺された。
そうして無事、任を消化し宿泊先へ赴く段になって。
問題は発覚した。
「まずった。ホテル取るの忘れてた」
妙に愛嬌のある顔で、惚けた調子でぽつりと彼女は言った。
同僚達がこの様を見ればさぞ驚くことだろう。
それほど平素の彼女からは考えられない様相なのだ。
自分には馴染みがあった。
彼女は完璧に近い能力を持つが決して完璧主義者ではない。
うっかりもするし悪戯も多い。
出張を下知された当初に、宿泊先の予約は部下の俺を差し置いて何故か彼女が請け負ったのだが。
「野宿?」
捻り出した選択肢が極端なところも実に彼女らしい。
「んー、ラブホテルなら空いてるかな」
スマホを操作しながら不穏なことを宣う。
それに慌てふためく己の様を少女のように笑うのだ。
もう学生ではないのだから……。
そう呆れる己に彼女は、とても淡い微笑を返した。
「学生じゃない、か……そうだね、もう違う」
地方都市の繁華街近く。
車通りは相応で呟きは容易く風と騒音が浚った。
「お、部屋見付かったよ」
スマホを掲げて無邪気に笑み。
「さあ行くよー」
すたすたと軽やかに先を行く彼女を俺は追い掛けた。
あの頃からずっとこの構図は変わらない。
変わらず、快かった。
行楽シーズンにはまだ早い。
だのに、画面をいくらスクロールしようとページに続々並ぶ満室の文字を、俺は呆と見下ろすより外なかった。
「往生際が悪いよ。明日も朝一で会議なんだ。この近辺で宿を取らないと時間的に間に合わない」
悪くもなろう。
ビジネスホテルのカウンターで足掻く己と待つ彼女。
取れたのはシングルルームただ一部屋だけだったのだ。
小一時間もすれば日付が変わる。
社会人としては、とく就寝して明日に備えるべきだ。
だが自分は今一人掛けの椅子に座ったまま微動だにできない。
バスルームから響くシャワーの音がこの空間を異質なものに変えている。
あるいは音よ止まるなと無意味な懇願を何処かに祈った。
祈りは通じず、扉を開いて現れるバスローブ姿の、彼女。
彼女が濡れ髪をタオルで拭う。
赤みの差した頬。湯気立つ体を覆うのはその薄い布切れ一枚きり。
ベッドに腰掛け、そのままごろんと寝転がる。
「固いし狭い!ザ・ビジホって感じだ」
それを選んだのは貴女だ。
「そうだね……まったくそうだ」
その笑みは、彼女には珍しい。
まるで何かを誤魔化すような間合。
「そんなに嫌かい……? 流石の私でもそう露骨に拒まれるとショックだな」
これも彼女にしては珍しい愚問だ。
嫌ならここにはいないし、こうまで狼狽してもいない。
俺はどうもこの人を神聖視する嫌いがある。
それが個の人格否定になりかねないことも理解している。
それでもこの、敬愛の念は止まない
俺はこの人に救われたしこの人の助けになりたいと思う。
だから間違っても、汚したくない。
汚したくない……そんな拗らせた発想が記憶野を刺激したのか。
思い出した。
彼女と初めて言葉を交わしたのは、あの雨の日。
大学校舎で。
玄関で雨模様の空を惚と見上げていた彼女の姿が、あまりに幻想的で、あまりにも綺麗で。
持っていた傘を押し付けた。
こんな土砂降りに出たら、彼女が汚れてしまうと本気で思ったから。
俺は現実逃避に、そんな思い出話をした
返事はなかった。
訝って彼女の方を窺う。
彼女はその濡れた瞳で俺を見ていた。
笑っているような泣いているような。
ひどく切ない顔で。
「……なんだ、覚えてたじゃないか」
立ち上がった彼女がこちらに来る。
ただでさえ狭いビジネスホテルの一室、たかだか半歩の距離は刹那ゼロに。
ふわり、安物のシャンプーが香る。
肌の熱と
唇の柔らかさが煩雑な思考とかいうものを全て消し飛ばした。
「ずっと…」
そっと、触れ合うだけのキスを終えた彼女が零す。
「こうしたかった。こうなりたかった」
今度は深く、それは捕食行為に似ていた。
果たしてどちらがどちらを。
それはわからない。
彼女から求め、俺はそれに応じたがいつしか俺こそ求め貪りついた。
「もっと」
ベッドに倒れ込む。
たおやかな両腕が己の首に絡んだ。
箍はとうに壊れていた。
彼女も俺も。
「壊して、刻んでくれ。君で私を……もう君なしじゃいられない体に」
どこに触れても指が喜ぶ。
芸術品のような肢体に隠せぬ淫靡。
股座を自らの指で掻き回して、彼女は欲した。
俺を。
俺の怒張を。
粘るような視線で誘う。
「これが君なんだな……やっと……あぁどうして、もっと早く、私は君を……!」
破瓜の痛みを彼女は物ともしなかった。
そんなもの押し流す波濤に、快楽に、歓喜して。
「もう放さない……誰にも渡さない……君は私のだ。これは私のなんだ! だから、ひぅ、だから君も、私、私だけに、注いでくれ……君の、い、ひ、イっ……!」
思考は獣以下。
ベッドの上。
裸身の男女が互いの体液で汚し合う。
「好きだ、どうしようもなく…放さないでくれ。もっと強く……抱き締めて……」
愚鈍な理性というやつが帰還する頃には罪悪感も三巡目。
自分の節操が紙屑に等しい強度なのだと認識を新たにしている。
「パワハラセクハラのダブル役満はむしろ私の方なんだがね」
ベッドの上で胡座を掻いた全裸の女が暢気に水を飲んでいる。
「最近人の出入りも激しいし、今君に辞められると心底困るな」
彼女の言の世知辛さに苦笑する。丁度、事務の娘が一人退職してしまったところだ。年代も近く、割合親しく接してくれただけに残念だった。
「…………」
彼女は虚空を眺めて、無表情に惚とするばかり。
深刻ぶるのもいい加減馬鹿らしくなってきた。
「私は真剣だよ」
そうして彼女は伏し目がちにこちらを窺う。
平素の自信家の仮面を脱いだ彼女はあまりに頼りなげで、儚く、卑怯なまでに愛らしい。
俺如きが……その卑屈を今ばかりは曲げて、この美しい人と向き合う。
俺にはその義務がある。
貴女を嫌ったことはない。
貴女が大切でなかった瞬間などない。
結局、答えは一つしかなかった。
翌朝、小鹿のように足腰を震わせる彼女を介助して出社の身支度する。
「いや君、確かに昔から体力のある奴だったがまさかあれほどとは……」
非難するような口振りだがそれはこちらの台詞でもある。
己の首や肩には噛み跡や鬱血が無数に刻まれていた。
確かめてはいないが、おそらく服の下はもっと酷いだろう。
「印だよ。もう君を、奪われないように」
悲しいかな大仰な懸念だと笑おうとして、彼女の無表情にそれを飲み込む。
「君は自分を知らないのさ。そして私のこともまだまだわかっていない」
彼女は部屋に取って返し、自身の鞄からスマホを取り出した。
それは我が社の支給品ではなく彼女の私用であるらしい。
画面がこちらを向き──俺は言葉を失くした。
血色に上気した肌と肌が絡み溶け合い、ぶつかり合う。
匂い立つような光景。
男女が交わっている。
画面の中。
それは俺と彼女。
昨夜の情事が克明に、精細な映像としてそこにあった。
「はぁ、これを使わずに済んでよかった。君が私を受け入れてくれて、よかった」
艶然と微笑む。
俺は動揺を隠せなかった。
無様な己を彼女は抱き寄せ、労しげに頭を撫でる。
驚きは少なくない。この行為は非常識の誹りを免れまい。
けれど。
けれどそれでも俺に、彼女を忌避する心持ちはどうしても湧かなかった。
紛れもない犯罪行為
異常だと、不当だと、抗議するのが正しい反応なのかもしれない
「私は君が思う……想ってくれるような綺麗な女じゃない。君を二度と失いたくない。その為ならどんな汚い手も使う。そういう異常者だ」
否定する言葉をなかなか用意できない。不甲斐ないというより滑稽だ。
しかし、それでも。
それでもいいと思ってしまう。己はすっかり彼女に参っている。
「……いいのかい?」
不安げな眼差しに笑い掛ける。
気の利いた文句の一つも出せればいいのだが生憎の有様だ。
「そういう君が……好きなんだ」
はにかんで彼女は宣った。
「……どうか諦めて欲しい。この卑しく、嫉妬深く、鉛のように重い女に見初められてしまったこと」
ああ、ならば仕方ない。
拒む理由など最初からなかったのだから。
「はいもしもし。やあ貴女か。卒業式以来?よくこの番号がわかったね。おいおい怒鳴らないでくれ。話をしたいんじゃないのか。鳴き声しか吐けないなら切るが」
途端に電話口は鎮まる。
余程に言いたいことがあるらしい。
「なにかな今更。私の方には貴女なんかに、ふふ失礼、そちらに用はないんだけど」
通話口から流れ出るその矢継ぎ早な申告というか抗議文に吐息する。
「ははぁなるほど。言い寄ってきた男性と結婚の約束までして意気揚々彼と別れたはいいが実はその男性は結婚詐欺師で資金として預けていた金を持ち逃げされた、と」
私ははっきりと笑声を堪えなかった。
「いや失礼。ごめんごめんそう怒らないで。災難だったね。同情するよ。世の中にはなんとも悪い人がいるものだ」
怒声がスピーカーを軋ませた。
激怒だ。恐い恐い。
「はっ、私がぁ?知る筈なかろうに。貴女はつまりこう言いたいのかな。その結婚詐欺師は、私が貴女を陥れる為に雇った人間なんだと」
街中でなければ拍手していた。
なんともはや見事な推理だこと。
「見当外れだし心外だな」
なんせ、大正解なんだもの。
「まあ、起きてしまったことは仕方がない。雲隠れした詐欺師を見付け出すのは困難だし、たとえ見付け出せたとしてその人が果たして雇主を知っているかどうか……近頃は足のつかない連絡手段が幾らでもあるからねぇ」
再び電話の向こうが喚き始めた
「用件は以上のようだ。もう切るよ。あぁ最後に一つ」
今にも捲し立てようとする馬鹿に釘を刺す。深々と、一生抜けないよう念入りに。
「この上まだ、
さっさと通話を切り、改札を抜ける。
売店で社に持ち帰る土産を真剣に吟味する彼の横顔に、思わず微笑む
昔の意気地のなかった私をどうか許して欲しい。
もう決して。
「君を手放したりしないから」
この愛しい人を守る為なら私は幾らでも手を汚す。
あらゆる害敵は排除する。
それが必要だというなら誰であろうと──殺してやる。
それが私の覚悟。
君を一度失った愚かな私の、あの日からの誓いなんだよ?