病める時もすこや物語 作:足洗
父親は凡そ人間のクズだった。
働きもせず酒を浴び、賭博に入れ込み方々で借金を拵え、女遊びにまた金を浪費した。
足りない分は母の少ない賃金を掠め取っていく。
泥酔したあの男に蹴られ殴られる母。
止めに入った俺を同じように奴は殴り倒した。
そんな男は、肝臓癌であっさりと死んだ。
莫大な債務だけが保証人の母の手元に投げ遺された。
当然、自己破産する以外に道はなく、手続きを終えた母子の元には殆ど何も残りはしなかった。
その上闇金からの借金はしっかりと残存し、一月毎に代わる代わる取り立て人が自宅に怒鳴り込んでくる。
そうした艱難に落とされながらも母は、俺の養育の為に昼も夜もなく働き続けた。
俺を大学に入れたいのだと。
結果だけ言えば母の夢は叶わなかった。
俺が気を遣ったというのもあるが、俺自身の夢は進学せずとも叶うものだったからだ。
教員免許を取得して俺は小学校教師になった。
母は泣いて喜んでくれた。
俺も少し、泣いた。
実習を終え赴任先の学校で早速低学年の担任を務めることになった。
忙しないが充実した一年を過ごした。
そうして新学期を迎えてすぐの頃────母が倒れた。
末期の胃癌だった。
──あと一年程度と考えてください
淡々とした医師の宣告を俺は呆として聞いた。
入院の準備や緩和ケアの内容。
考えることは多い。
私的に感情を弄ぶ余裕はない。
なにより問題なのは、費用だ。
未だに執拗に返済を催促にくる取立人。
弁護士に相談して警察にも助けを求めたが、債権者達の暴力的な追及が止むことは決してなかった。
金が足りない。
金が、必要だった。
「せーんせっ」
日暮の教室で児童の描いた絵を掲示していた時。
背後から声がした。
やや舌足らずで甘い。
弾むようなのは機嫌が良いからなのか。
いや、この娘は自分に話し掛ける時はいつもこうだ。
後ろ手を組んでこちらを見上げる大きな両瞳。
黒髪を結う輪ゴムで煌めいたのはビーズか。流石に宝石ということはないだろう。
彼女は俺が赴任当初研修で受け持ったクラスの児童だ。
将来を約束された西洋人形のような綺麗な顔立ち。
俺の何が気に入ったのか、よく話し掛けてくれるしクラスの内情や人間関係について色々と教えてもくれた。
ある意味彼女こそが俺の指導教官だ。
「……大丈夫? なんか元気ないね」
我知らず浮かべた笑みが強張った。
聡い子だ。背中に冷汗が一滴流れ落ちる。
それを隠して言い訳する。
個人的な事情で児童を不安がらせる訳にはいかない。
しっかりしろ。
俺は、先生なんだぞ。
「ホント?無理してない……? 相談ならいつでも乗ったげるからね」
苦笑する。
そのませた物言いと、子供に気を遣わせている不甲斐ない自分に。
ありがとう、そう言うと彼女は吐息して笑う。
ひどく、妖しく。
暮れの茜がそう見せるのか。
不意に彼女が腰元に抱き付く。
前々からスキンシップの多い子だった。
先輩教諭からも贔屓しないよう度々注意を受けている。
児童から親しみを持ってもらえることは素直に嬉しかったが。
俺はやんわりとその細い両肩を引き離す。
シャツ越しにもわかる華奢で脆い手触り、吸い付くような瑞々しさ、高い体温。
「お母さん、よくなるといいね」
何気ない風の囁きが、その瞬間俺の心身を停止させた。
何故。
言葉は出ず、ただ間の抜けた呻きが口から漏れた。
凡そ教師の態度ではなかった。
少女は軽やかなステップで後ろに退がり、笑顔でこちらを顧みる。
やはり妖しく。
子供とは思えない顔付き。
花のように立ち昇るそれは、色香。
何を、馬鹿な。
そのような発想に至った自身を俺は嫌悪した。
「うちお金持ちなんだ。先生のことも助けてあげられるよ」
幼稚で無邪気な言葉を聞き、ふ、と安堵を覚える。
どこで聞き知ったのかはわからないが彼女なりに俺を心配してくれているのだ。
情けないと思う。
同時に、この思慮深い教え子を誇らしく思う。
虚勢に見えないよう留意して言った。先生は大丈夫だよ、と。
それを聞いた彼女は、無表情になる。灯を落としたかのように。
「気が変わったら早めに言ってね」
──時間が残ってる内に
それはあくまで気遣わしげな言葉である筈なのに、けれど宿るものは極めて酷薄だった。
何故、そんなこと。
時間と金。
俺が今喉から手が出るほど欲しているものをこの少女は知っている。
見透かしている。
「さようなら先生。また……」
吐息のように静かな語尾に粘るような熱を感じたのは俺の錯覚なのか。
扉を潜り廊下の向こうに去っていく。
黒髪でまた煌と飾りが光った。
俺は教室に捨て置かれ、脳内では同じ言葉が繰り返し巡る。
金。
母の時間を買う金。
家計はぎりぎりで、なけなしの貯蓄と切り詰めて掻き集めた少額を使ってしまえば、もう首が回らなくなった。
借金はできない。
まともな金融機関のブラックリストには既に母の名前がある。
父親の負債を自己破産で凌いだ弊害だ。
まともでない所ですら当てにはできない。
せめて。
利息だけでも支払い、執拗な取立人を一時でも黙らせたかった。
もう何処を切ったところで払えるものはなかった。
母の入院治療費を除ければ食費すら碌々残らない。
どうする。
学校給食でなんとか五日間を凌いでいる自身が惨めだった。
給食……その発想に、俺は手で顔を覆う。
いやそれは。
それは駄目だ。
そんなことしてはならない。
もしバレたら。
いやしかしそれでも。
利息分だけなら。
ぐらぐらと心で何かが揺らぎ、俺は必死に頭を振った。
夜。
職員室。
手当ての出ない残業をこなす。
校内の見回りと戸締りを任されている。
今日はもう誰もいない。
誰の目もない。
一人だった。
職員室に据えられた金庫。管理は極めて杜撰だ。
暗証番号も職員にほぼ共有。
鍵の場所も教わった。
そこには現在、全学年の今月分の給食費が納められている。
パソコンを叩く手が、止まった。
「…………」
一度だけ。
この一度きりだ。
今月を乗り切れば来月には幾つかの保障が下りて各種費用を賄える。
俺は正当化と懺悔を心中に繰り返し。
震える手で金庫を開く。
茶封筒から札だけを抜き取り少し迷って、財布の中に詰め込む。
金庫を閉じ職員室の照明を落とし玄関を閉める。
異様な興奮と罪悪感が視界を狭め耳を塞いだ。
帰路の記憶はない。
後日。
給食費の紛失は、校長の判断で内々に処理された。
表沙汰になれば警察と父兄を交えた大騒動になる。
比較的少額で、補填が容易であったことも幸いした。
結果、俺の窃盗は発覚しなかった。
俺は人知れず犯罪者になった。
児童に教鞭を執り褒めて叱る教師の面の下に、厳然の罪をひた隠して。
裁きはない。
だから許しも、ない。
ない、と。
高を括っていた訳じゃない。
罪を逃れることを期待していなかったと言えば嘘になる。
母の為と言い訳して。
母の病気、己の境遇、貧困を免罪符にして。
そう。
そんな卑劣極まる男にも漏れなく裁きは下された。
面前に掲げられたスマホに映し出されているのは。
開かれた金庫の前で封筒から金を抜き取る己の姿。まさに犯行の動かぬ証拠。
それを犯人たる己に突きつけているのは、彼女だった。
俺を慕ってくれる女子児童が。
悪戯な笑みで。
「ふふ、いけないんだ先生。お金を盗るのは犯罪なんだよ?」
また夕暮れの教室。
俺が一人になる時を見計らって彼女は来た。
動悸がする。
汗と悪寒が体を流れ落ちていく。
震える舌でどうにか口にできたのは間抜けな問い掛けだった。
なぜ
「ずっと見てたから」
答えのようで答えでなく。
少女は妖しく、優しい眼差しで俺を見た。
「どうしよっかなー」
思わせぶりに少女は呟く。
微笑は俺を試すような色。
俺は床に膝をついて頭を下げた。
小学生女児に。
大の大人が。
みっともなく情けなく醜悪に。
頼むお願いします言わないでくださいバラさないでください、と。恐れ戦きながら。
でないと。
脳裏に過るのは当然に病床に横たわる母だった。
俺が逮捕されてしまえば母は。
母は。
その時、柔い感触が頭を撫でた。
それは
小さな両手で彼女は俺の顔を持ち上げる
「いいよ」
慈悲の女神のような微笑み。
「先生が私のお願い、聞いてくれるなら」
高貴な女神は、その舌先で俺の唇を舐めた。
俺は跳ねるように後ずさる。
「逆らうの?」
仰け反ろとする俺に少女はぴしゃりと言った。
そのたった一言で、俺は彫像のように固まり、されるがままになった。
ぴちゃぴちゃと教室に響く。
仔猫がミルクを飲むように、少女に唇を、口内を舐ぶられる。
神聖な学舎で教職を頂く自身が、大切な教え子に、なんて。
なんでこんな。
淫靡な音色と感触。
昼間の児童の声が未だ残響する教室で。
その相反と背徳で気が狂いそうだった。
「ぷあ、はあ、はあ」
少女は息を上げ茜のように頬を上気させていた。
この場で今すぐ自ら首を掻き切って死にたかった。
「ダメだよ、そんなの」
少女はこちらに縋り、胸板に顔を埋める。
甘ったるい香がした。
それは子供と、女の匂いだった。
「ねぇ、私先生の部屋に行きたい」
彼女の、その言葉の意図するところはもはや勘違いの余地もない。
それは。
それだけは。
「まだわかんないかな」
先程より強く両手が頬を挟む。
「先生はね。もう私のものなんだよ?」
独り住まいのアパート。
隣県にある母子二人暮らしだった実家は既に引き払う準備に入っている。
安さだけが利点のこのワンルームに、今。
いてはならない者がいる。
教え子はベッドに腰掛けて片膝を抱えた。丈の短いスカートが捲れ、下着が垣間見える。
いや、見せ付けているのだ。こちらを見上げる挑発的な視線がそう言っている。
俺は腰を上げキッチンへ。
「先生、こっち来て」
場繋ぎというか、逃避の為に飲み物を用意することも彼女は許さなかった。
自身の隣をぽんぽんと叩く。
俺は唯々諾々少女の指図に従う。
並んで座れば殊更にわかる。
小さい。
彼女の背丈は俺の肩口ほどしかない。
「寝転んで」
躊躇いながら上体を横たえる。
室内照明の白光が煌々と俺の醜態を曝し上げる。
それを遮って、影が差す。
少女が覆い被さった。
成人女性ではありえないその軽さがまた心をざわつかせた。
子供。
今自分の腹の上にいるのは子供だ。
そっと口付けが降ってくる。
小鳥のように幾度か啄み。
すぐに深く、舌が歯列をなぞり開口を催促する。
従う。
脳が死んでいく。
考え抗うという行為。
それを放棄して責任を放棄して己を放棄して。
俺は何をしているんだ。
俺は、何をさせているんだ。
大切な教え子に。
こんな幼い子供に!
「……先生は、私のこと嫌い?」
違う。
違うからこそ。
少女は舌先で俺の目尻を舐めた。
上体を起こした少女、その舌と唇が、朱を差したように赤く染まっている。
俺は知らず知らず血涙を垂れ流していたようだ。
「でもダメ。放してなんてあげない」
なんでだ。
なんで俺なんだ。
「同類だから?」
疑問形で小首を傾げる。
状況に不釣合な愛らしい仕草が、少し可笑しい。
少女も笑う。
ひどく空虚に。
「私の父親もね、クズなの」
瞳に虚が生まれる。
照明を背にした少女の綺麗な顔はこの世のものではないみたいに。
おそろしい。
「反社っていうやつ。人を傷付けて騙して脅してお金を巻き上げてる。お母さんはうんざりしたんだろうね。組の若い人と一緒にどっか行っちゃった。生きてるかは知らない。殺されたかも、あの親父に」
伽藍のような声だった。
それは空洞に響き渡る無機質な軋みだ。
「娘にまで見捨てられるのは嫌なんだってさ。いっちょ前に、普通の父親みたいに泣き言。ざけんな」
額を胸板に預けて、少女はそこに暗い呪詛を吐いた。
「先生はすごいよ。クズの父親を持って、それでも学校の先生やってて、クラスの皆に大人気。本当に子供のこと好きなんだ。ちゃんとした、大人なんだって……そんな先生が、羨ましかった……」
震え、濡れる、今度は内にあらゆるものが満ち溢れた声。
シャツを濡らす雫。涙。
熱い吐息。
洟を啜る音に胸が締め付けられる。
「全部、全部親の所為にしてる私とは違う。それが羨ましくて、妬ましくて、憧れた。私は絶対そんな風になれない」
そんな。
そんなことわからない。
諦めるには君は若すぎるだろう。
「そうだね……あの親父が死んでくれれば」
欠片の情もなく少女は冷たく呟く。
父親というものに何もかも、愛想も希望も尽き果てて。
俺もそうだ。そうだった。
あれが死んだからこそ進めた。進むことができた。
しかし未だに、あれの遺した因果は俺達母子を祟っている。
俺は負けたのだ。
その因果に。
抗えず罪を犯した。
あれほど尊んだ学校で。
所詮は俺もクズの子供だった。
「よかった」
何が。
何が良いものか!
「だって先生も私と同じだった。父親に呪われてた」
その笑みは、なんて惨い。
空虚の面に闇が詰め込まれ、それが子供の顔貌の形をしている。
人形めいた美しさが人間離れしていて、ただひたすらに恐ろしい。
「先生、先生、お母さんの為だもんね。お金が必要だったんだよね。自分の親の為にみんなのお父さんお母さんが苦労して働いて稼いだお金を盗んだ」
並べられる事実が。
俺の罪状の列挙が。
胸を抉る。喉奥から汚らしい悲鳴が漏れる。
「可愛いなぁ先生。健気だなぁ先生」
慈愛と淫欲の同居した魔性の笑みが鼻先に迫った。
「でも、許してあげない」
腹の上に身を起こして少女は自分のシャツを脱ぎ捨てた。
女児用にしては大人びた下着が、これから為される所業の最後の一線を象徴していた。
やめてくれ。
お願いだ。
服の下に手が滑り込む。
胸を擦り、乳首を弄くる。
「先生も私とおんなじ。呪われた子。一緒に堕ちよ」
吐息が鼻先に掛かる。
下腹がひどく、ぬめる。
「お母さんのこと、安心して。助けてあげる。でも、もし、先生がそれでも逃げようとするなら……」
顔面を両手で固定して、少女は囁く。
最後通牒だった。
「先生殺して私も死ぬから」
逃げ場は封じられた。
完全に、完璧に。
彼岸にすら。
彼女は俺の両手に二つ、命を乗せた。
母と自身の。
重い。
あまりに重い、枷を。