病める時もすこや物語   作:足洗

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正しさの権化、悪の穢れ

 

 

 吐瀉物に塗れたその女を部屋に上げて介抱したのは、なによりもその体が扉に(もた)れかかり入室を阻んでいた為だが。

 苦しげに呻く様を見かねたというのが本音ではある。

 黒いものが混じった明るい金髪。

 耳の軟骨や耳たぶにびっしりと生えたピアス。

 チューブトップにスカジャン。

 使い古して擦り切れたジーンズ。

 臭い立つ酒気と饐えた汚物。

 悪夢的だった。

 一も二もなく通報すべきだったな。

 

 彼女の目が覚めた時、通報されるのは自分かもしれない。

 それもいいだろう。

 意識のない女性を部屋に連れ込んだ。端から見ればそれが事実。

 それで正しい。

 警察、救急への通報を怠った己の落度だ。

 女の口許を拭い、汚れた衣服を脱がせ適当な部屋着をお仕着せる。

 ベッドに横たえて、さらなる嘔吐に備えて桶や水を用意する。

 

 まったく無意味な善行だった。

 自己満足すら得られない。

 それでもやる。

 それが正しいと思う。

 居間で毛布に包まって目を閉じる。

 深夜とあって洗濯は控えた。

 朝一番やるべきことに汚物塗れの衣服の洗濯という項目が追加され、俺は普段以上の疲労感を伴って眠りに落ちた。

 

 翌朝。

 洗濯機を回し軽く身支度してから朝食を作る。

 二人分を用意すべきか思案して、とりあえず先に闖入者を起こすことにする。

 ベッドには昨夜とは打って変わって暢気な寝顔がある。

 他人の寝床で安眠を貪る女を文字通り叩いて起こす。

 

「んえ!? なに、ここどこ……あんた誰ぇ?」

 

 寝惚け眼に事の次第を説明する。

 ぼんやりと数秒、無言の間。女はにへらと笑い、首を傾げて。

 

「……お持ち帰り?」

 

 どうやら理解した様子はない。

 

「頭痛い……」

 

 女は床の上で揺らぎ傾ぐ。

 漏れ出る苦悶すら酒臭い。

 ふと外光の下で見れば体には生傷が多かった。

 泥酔して転倒したか。またそういった機会に事欠かないのだろうか。

 朝食の要不要を尋ねる。

 

「食欲ない」

 

 ならしょうがない。

 一人分の食卓に着く。

 女はふらふらと居間に入り床に座る。

 未だ夢現の様相。

 そうしてまた、へらへらと笑う。

 

「お兄さんが助けてくれたんだぁ。ありがとー。優しいねぇ」

 

 善行を働いた自負は微かにある。

 しかし純然の善意ではない。

 あのまま吐瀉物で窒息されては流石に不憫で、それよりなにより迷惑でしかない。

 やむを得ぬ仕儀です、と配慮も謙遜もない応えをする。

 

「しぎー? お兄さんむつかしい言葉使うねぇ。にへへ、あーしバカだからわかんにゃいや」

 

 無邪気な笑顔だった。

 そして少し、足りない類いの。

 

 どうしてあんなところで倒れていたのか、(もた)げた疑問が口をつく。

 尋ねるべきではない、と思い至ったのは彼女が薄ら笑いを浮かべた時だ。

 

「んっとねー。ホテル行こうってなってー、あーしが吐いたらねーカレがキレてねー。殴られてー、頭ぐらんぐらんしてー。あとはぁ覚えてない!」

 

 頬の青痣の原因はよくわかった。

 冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルに包んで女に差し出す。

 

「おーあんがと。んははーきんもちー」

 

 泥酔の挙句彼氏に殴られ、彷徨い歩いた翌朝とは思えぬほど彼女はあっけらかんとしていた。

 見たところ二十代前半かそこら。

 自分とそう大差はない。

 

「一発で許してくれんのなんてめっずらしいよ。前は鼻折れるまでボコされたしさー」

 

 若い人間の奔放な人生観に新鮮な感慨を覚えた。

 それに構わず朝食に手を付ける。

 匙で掬ったコンソメスープを口に運ぶ。

 トーストにバターを塗りながら、本日消化すべき事項を頭に浮かべる。

 イレギュラーはあったが彼女は良くも悪くも動じず現状を受け入れている。どうやら些事に終わりそうだ。

 彼女の傷も、事情も、余人が深入りすべきことではない。

 その時、ふと視線を感じた。

 物欲しげな目で彼女がこちらを見詰めてくる。

 

「スープ……おいしそうだなぁって」

 

 了解して小鍋から彼女の分の器に注ぎ入れる。

 湯気の立つ水面を何故かぼんやりと見下ろして、そっと口を付けた。

 

「……おいしい。なんでだろ。優しい味がする」

 

 野菜やウインナーをただ顆粒コンソメで煮ただけの、料理とも言えぬ品だが。

 彼女は深々と吐息をこぼす。

 そんな姿が妙に印象的だった。

 そして、目から涙が落ちた。

 

「あれぇ?」

 

 頓狂な声で当人こそ戸惑って。

 止めどなく溢れてくるそれを彼女は手で乱暴に拭った。

 

「あはは、なんでぇ? ごめん。ちがくてね。おいしくて。あったかくて、なんか、ごめん、すぐ止めるから、だから怒んないで。ごめん」

 

 擦った目元が途端に赤く腫れる。

 痛みもあろうに。それでも、女の涙は止まらなかった。

 

「……ごめん」

 

 なおも謝罪を繰り返す

 涙を流すことが、そんなにも罪深いことなのだろうか。

 顔に手をやったことでするりと袖口が落ち、その手首が露になった。

 赤々と新鮮な切傷が掌の付け根から手首の内側を縦に走っている。

 

「あは、はは、はっ……あー、うあー、うわーーーー」

 

 程なく、女は子供のように泣きべそを掻き始めた

 

 

 

 あれから数日。

 今日も今日とて家事雑事を一日費やして済ませる。

 五日ないし六日間仕事にかまけただけでも家内には面倒事が氾濫する。そういうものだと理解はしている。

 しかし、こういう面倒には流石に馴染みが薄い。

 

「おっかえりー」

 

 あの夜から女は部屋に居座っていた。

 ベッドは流石に取り返したが部屋の隅に毛布を敷き、まるで猫のようにそこを塒と変えて。

 格別何かするでもなく、時折出掛けてまた戻ってくる

 そしてまた、その薄ら笑いを浮かべる。足りない、なげやりな。

 

「家賃滞納しててさー。今月追い出されるんだー。バイト見付けたら出てくからさ。ちょっとの間だけ、ね?おねがーい」

 

 合掌して甘え声。

 

「ご飯もちょっとだけ助けてくれるとぉ……なんちって」

 

 さらに虫の良い要求を付け加える。

 なかなかに図々しい。

 では、バイトが見付かるまで。そう言うと彼女は目を丸くした。

 

「……マジ?」

 

 何故か願い出た側こそ訝しんでいる。

 部屋に人を一人置く程度なら特に不都合はない。

 無論、無断で他人を部屋に上げるような真似をするなら問答無用で叩き出す。

 約束できるか尋ねると、彼女はひどく戸惑いながら頷いた。

 

「う、うん……ほはー、お兄さんホントに優しいんだねぇ。ちょっとヤバいくらい」

 

 近年ヤバいの用法は多様化の一途だ。

 俺には今一つ意味を判じかねたが、まあおそらく変人と同義なのだろう。

 自分の感性が正常からややずれている事には気付いている。

 ただ、満足に理解できているとは言えない。

 改善の兆しもない。

 俺の物事の判断基準は、正しいか否か、それだけだ。

 彼女は泥酔して体調を崩し緊急の介抱が必要だった。

 彼女は現在路頭に迷い、身を寄せる当てがない。

 いずれも手助けは可能だ。

 だからそうする。

 今までもそうしてきた。

 

「……んー」

 

 彼女は不明瞭な音を喉から発する。

 不満なのか不可解なのか、不審なのか、それとも不気味なのか。

 いいさ。

 嫌悪が勝れば出ていけばいい。それには慣れている。

 俺は異常者だ

 この異常性は必ずしも人を救わない。

 ただ正しい事が最良である事はむしろ稀だ。

 複雑怪奇な心なるものに忖度する人間社会では特に。

 それを承知で自己を変えられないのだから、なお一層に悪質だ。

 

「どうして優しくしてくれるの?」

 

 薄ら笑いを消して女は首を傾げた。

 痛いところを突く。

 自分自身にしてから解らないのに。

 ただ正しいと思うから、そんな曖昧で胡乱な回答は躊躇われた。

 だから素直に解らないと言った。

 彼女は納得したともしていないとも言えぬ目で己を見詰めた。

 

「……」

 

 

 

 夜中。

 違和感で目が覚める。

 布団の中で蠢くもの。

 一瞬全身に緊張が走り、次いで同居人の存在を思い出す。

 布団を剥ぐと果たしてそこに彼女はいた。

 スウェットのズボンを下ろし、今は下着に手を掛けている。

 

「ありゃ、もう起きちゃった」

 

 悪びれた様子もなくにへらと笑み。

 

「待って、今きもちぃことしてあげるから」

 

 

 

 

 ────お前それくらいしか取り柄ねぇもんな

 

 そう言ったのは今カレだっけ。

 前の前のカレだっけ。

 それともアプリでマッチして定期だったおじさん?

 覚えてない。

 人の顔とか覚えるのすごく苦手。

 忘れたこと怒られるとめちゃヘコむ。

 えっちしてる時だけは必要とされてるって思える。

 きもちぃの好きだし。

 なにより楽だし。

 

 誰かに優しくされると、ちょっと困る。

 何も返せないから。

 ありがとうって言うだけ。

 自分が優しい人の近くにいていい理由探しをしなくちゃいけない。

 辛いし、疲れる。

 自分がイヤになる。

 私役立たずなんだって思い出す。

 だからこうする。

 手や口や胸やアソコで私を必要なものだって思ってもらう。

 男の人相手なら大抵これ。

 

 みんな喜んでくれた。

 

「私うまいんだって」

 

 きもいぃことは好きだし。

 きもちくなってくれたらもっと嬉しい。

 

「一緒にきもちくなろ」

 

 今日の優しい人はお堅そうだけどヤバい。

 家に置いてくれるしご飯も作ってくれる。

 おいしくて、あったかいやつ

 あったかくて、涙が出るくらい、優しい味の。

 だからがんばりたくなる。

 恩返ししなきゃって────どん、って。

 肩を強く押された。

 優しい人は私をどかしてベッドから離れてく。

 ……あー。

 そういうのダメな人なんだー。

 私はぼんやり後悔。

 しまったなー。やっちゃった。嫌われたかな。

 辛いな……。

 ごめんて。

 見捨てられちゃうな。

 寂しいな。

 自分の都合ばっか頭の中でぐるぐる回転。

 彼はすぐ戻ってきた。

 手には、なんでかバケツ?

 ちゃぽんて水の音が。

 バケツの水を思いっきりぶっかけられた。

 冷たいより、重い。

 分厚い毛布を何重にも被ったみたいな。

 遅れて冷える。

 体に貼り付いたシャツが気持ち悪い。

 ぽたぽた髪から水滴が落ちる。

 私は脳ミソが停止してただ彼を見上げた。真剣な顔を。

 

「作法無き淫行はただの害毒。猛省せよ!」

 

 むつかしい言葉で彼は私を叱り飛ばした。

 ずぶ濡れのままボーゼン。

 だってしょうがない。こんなの流石に初めてだ。

 セックスを拒否られたことはあるし、暇潰しに殴られるなんてしょっちゅうだけど。

 水ぶっかけてお説教されるなんて初体験だ。

 全部吹っ飛んだ。

 どうしよーとか悲しいとか追い出されるのかなとかしょーもない不安。

 寒いなーに塗り潰される。

 

 彼はまた部屋を出て、すぐ戻ってきた。

 タオルと着替えを持って。

 

「体が冷えきる前に風呂に入りなさい。何か温かいものを用意する」

 

 私は言われるまま沸かし直したお風呂に入った。

 ほかほかになって居間に戻る。

 テーブルにうどんが二杯置いてある。

 

「お腹に入る分だけ食べるといい」

 

 なんとなく声が優しかった。

 小さく切られたお揚げさんがかわいい。やわめの麺が好き。

 お酒も飲んでないのに夜食って、なんか新鮮。

 真夜中、静かな部屋で男の人とただごはん食べてる。

 変なの。

 

「自分は」

 

 彼を見る。

 無表情だけどなんだか、すごく悲しそうに見えた。

 

「こういう異常者です。不正なこと不道徳なことに過剰に、病的に反発します。立派な病気です」

 

 丼の中を見下ろして彼は言った。

 

「この癇癪で昔から多くの人を不幸にしてきました。両親、友人、職場の同僚、恋人にも愛想尽かされました」

「お兄さん彼女いたんだ。意外」

「ふふ」

 

 あ、笑った。

 笑うと結構かわいいな。

 なんで笑ったのかわかんないけど。

 寂しそうな笑い方。

 寂しい。

 そっかこの人も私と同じ。

 寂しい。

 一人は、寂しいんだ。

 

「……冷たかったでしょう」

「うん、でもお風呂入ったから大丈夫」

「貴女はだらしのない人だ」

「にへへ、ごめんね」

「だから俺はまた今日のようなことを貴女に仕出かすかもしれない。だから、貴女はここにいない方がいい」

「それ出てけってこと?」

「いや」

「……いてもいいってこと?」

「……はい」

「じゃあ、よろしくおなしゃす」

 

 正座をしてお辞儀する。

 彼はテーブルから離れて、私より綺麗なお辞儀をした。

 変なの。

 二人して向かい合ってぺこぺこ。

 変だしウケる。

 楽しい。

 嬉しい。

 追い出されなかったことよりあったかいお風呂やうどんより。

 この人と寂しさを、何かをわかり合えたことが、私はなんだか堪らなく嬉しかった。

 

 一緒にごはんを食べた。

 一緒に映画を見た。

 掃除して洗濯して料理は、少し失敗した。

 飲み過ぎてべろべろになるとちょっと叱られる。

 あの人は叱りながら水をくれるし、吐いたら背中を擦ってくれる。

 バイト探しはしたりしなかったり。

 セックスはしない。

 何故かしなくても平気だった。

 暇潰しに手首も切らなくなった。

 不思議と毎日、生きてられた。

 

 セックス

 肌

 汗

 唾液

 匂い

 喘ぎ声

 罵声

 拳

 痛み

 悪意の笑い声

 罪悪感

 血の赤と錆の味

 

 この人といるとそういう全部が遠い。

 別世界だった。

 怖いくらい。

 正しいことにとりつかれてるって彼は言った。

 それは私には眩しい。

 私にはできなかった。

 する努力も脳ミソもなかった。

 だから酒飲んでヤって忘れる。

 それが一番、楽だから。

 

 でも。

 普通は大変で普通を続けていくのはもっと大変で。

 働いて知らない人に怒られて怒って謝って。

 生きてくって辛い苦しいイヤなことばっかり。

 でも。

 楽じゃない普通、苦しいばっかの普通が、私はちょっと好きになってた。

 自分を病気だって言う人が、それでも頑張って手に入れた普通は、なんだか愛しく思えた。

 

 私、この人が好きなんだ。

 

 生きづらそうで自分のことちょっと諦めてるところが。

 厳しいこと言うけど本当に厳しいことは全部自分でやっちゃうのが。

 一人で生きられるのに、一人はイヤなとこが。

 一緒にいたいって思った。

 一緒にいてあげなきゃって思えた。

 初めて誰かの為に何かしたいって強く思った。

 

 今更私が、何してあげられるの。

 こんな汚い私が。

 

 

 初めての相手は父親だった。

 ママが連れ込んだ彼氏を新しいパパって呼べるかなんて知らないし、わからない。

 わかったことは、男は小6相手でもしっかり勃つしヤりたがるってこと。

 私の父親像はそれ一つきり。

 私がこの世界の“正しい”を理解できなくなったのもその頃かも。

 それからは坂を転がるみたいに落ちた。

 

 私の体を染めるものが何なのか、彼と知り合って、一緒に過ごして、わかった。

 “悪”

 私は、ねばねばした臭くて熱い泥みたいな悪で汚れきってる。

 人から浴びせらて、自分から振り撒いたこともある。

 彼のとりつかれた“正しい”の真逆の世界に私はいる。

 手首の傷。最初は横に切ってた。

 縦に入れた時は救急車を呼ばれた。

 

 この人の傍にいたい。

 この人の傍にはいられない。

 正しいことに一生懸命苦しむこの人が好き。

 正しいことから逃げて、今も心のどこかは悪に戻りたがってる自分がイヤ。

 嫌い。大嫌い。

 あの時、死んでればよかった。

 死ななくて、この人に会えてよかった。

 触れ合わないこの距離が愛しい。

 触れられないことが、こんなにも悲しい。

 

 理由。私がこの人の横にいてもいい理由。

 正しくなる? 普通をする?

 働いてお金を稼いで自立してこの人からもらわなくてもいいように。

 無理

 無理

 無理こわい。

 私には無理。

 私バカだから、頭悪くて何にもできないの。

 体売る? お水だって続かなかったのに。

 でも、離れるのはイヤ。

 捨てられるのはイヤ。

 この人にだけは、イヤ。

 

 生まれつきのクズなんだ。

 人に恵んでもらってなんとか生きてるだけの。

 あの人に、すり寄るだけのゴミ。

 でも。

 あの人も、寂しいって感じてくれたから。

 たったそれだけを言い訳にして。

 たったそれだけが嬉しくて。

 部屋の隅で体育座りしてぼんやり。涙だけだらだら流れてくる

 彼が仕事に行ったら私はただの置物だ。

 

 ……出てこうかな。

 また他の彼氏か彼女か作って、ヤって飲んでヤってお酒で全部忘れる。

 あの人のことも、この部屋の時間も。

 苦しい、眩しい、好き。

 普通をありがとう。

 叱ってくれて嬉しかった。

 いてもいいって言ってくれて、幸せだった。

 ……無理。

 一緒がいい。離れたくない。

 一緒が。

 でも私は近付けない。

 正しいが、怖い。

 

 私じゃ……そっちに行けない、なら。

 

「……ああ、そっか」

 

 なら。

 彼に。

 降りて来てもらえばいいんだ。

 

 私はスマホを取り出してブロック設定をオフにした。

 通知がぽこぽこ。

 丁度よく着信。

 これは今カレだっけ?

 こいつの名前なんだったっけ。

 まあいいや。

 

「もしー」

 

 耳に刺さるでかい声。

 前は男らしいとか思ったのに、今はただうるさい。

 けどその方がいい。

 イラついた感じが声だけで伝わってくる。

 連絡返さなかったのを根に持ってる。

 

「それよか、久しぶりに会わね?」

 

 

 

 

 

 俺の半生は常にこの病と共にある。

 

 同級生の万引きを咎め、公にした。

 近所付き合いもあった隣家の高校生の娘の援助交際を通報した。

 教員の給食費横領を告発した。

 母の浮気を父に告げた。

 父の職場での不正を会社に報せた。

 法に抵触するあらゆる行為、倫理や規範に反するあらゆる行為。

 不正を俺は弾劾し続けた。

 

 正しいこと。

 法律、倫理。

 それらに拠ってしか俺は立脚できない。

 自我を確立できない。

 ただ普通に在るということができない。

 精神が揺らぐ。不安が波を立てる。肌が粟立つ。思考が千々に氾濫し、暴走する。

 この病理にも名前はあるのだろう。

 幾つか医療機関を受診し、服薬と催眠療法を試したが寛解することはなかった。

 

 俺の行為が生んだのは同数かそれ以上の不幸だけだ。

 貧困家庭で慢性的に空腹を抱えていた彼が盗んだのは小さなチョコレート菓子だった。

 憔悴した母親と学校から去って行った彼のその後を俺は知らない。

 夫婦喧嘩の絶えない家を抜け出して逢瀬を重ねていたあの娘。

 援助交際の発覚は当然、家庭崩壊の最後の止めになった。

 

 教員は横領した金銭を全て末期ガンの母親の治療費に当てていた。

 息子の逮捕という事実が彼の母の病状を加速させたのは言うまでもない。

 死に目に会えたかどうか、それすら俺は知らない。

 

 家庭を顧みない父に母はいつも泣いていた。

 その慰めを母は家の外に求めた。

 肉体関係はただの一度きりなのだと母は必死に訴えた。

 

 父が今の仕事にどれほど情熱を燃やしてきたか、書斎に籠って持ち帰った仕事に向かうその背中を見れば明らかだ。

 だからこそ焦りもあったのだろう。

 同期から一歩でも抜きん出る為の不正な工作。

 法や健全な企業倫理に背く。

 だから報せた。

 正しく在らねば。

 父の情熱すら嘘になる。

 

 懲戒解雇。

 父は公私の全てを失った。

 

 数々の不幸。

 嘆き悲しみ喪失を見てもなお。

 それでもなお俺は、この妄執を傲岸に他者に振るっている。

 今も。

 俺はいつしか一人になった。

 友人もいない。

 父母も今はどうしているだろう。

 当然だ。

 正しいだけなのだから。

 幸福を目指した行為ではなかった。

 ただ法と独善的正義に基づく私刑。俺一人を満たす為のだけの犠牲。

 

 一人になるのは当然と悟ったようなふりをして、いざ孤独の中で俺が噛み締めたのは。

 ……あぁだから彼女を。

 行きずりの泥酔者を助ける言い訳を正しさに求めた。

 自分の病巣を、遥かに救いようのないエゴと泣き言を腹の内に隠して彼女を傍に置いた。

 醜悪だ。

 俺は。

 不幸を振り撒いて誰かの幸福と平穏を破壊しておきながら。

 俺は────

 

 

 職場からの帰り。

 夜道でふと立ち止まる。

 また思考が錯綜した。服薬を増やすべきだろう。

 ポケットでスマホが震動する。

 着信だった。画面には彼女の名。

 この時刻に珍しい。

 普段なら部屋で大人しくスマホゲーか晩酌をしている頃だ。

 家に、誰かが待っている。

 俺はその事実に、卑屈な安堵を自覚する。

 通話をタップした。

 

「助けて」

 

 苦悶がスピーカーから響いた。

 切れ切れの声が告げたのはアパートとその部屋番だった。

 検索し住所を割り出す。

 警察に通報すべきだ。

 

 ──走る。

 

 略取か暴行か。

 実害は今まさに出ている。

 

 ──走る。

 

 お前は何を求めた。

 

 ──走る。

 

 正しさを履行しろ。

 市民の通報義務を果たせ。

 

 ──走る。

 

 私刑は犯罪行為だ。

 頭蓋の中。

 響き渡る声が遠い。

 俺はただ、走った。

 

 木製の古臭いドアを開く。施錠はされていなかった。

 煙草の臭いと饐えた生臭さ。

 酒瓶や空缶が多い。

 大股二歩で越えられる台所。

 その向こうに居間。

 畳敷きに薄い万年床。

 照明が妙に白い。奇妙に白化した室内で唯一。

 赤。

 彼女は、鼻と口から血を流して天井を見ていた。

 仰向けの女に跨がった男が不思議そうにこちらを見た。

 

 俺は男の髪を掴み、彼女の上から引き剥がす。

 男が呻き声と何かを口にしかけたような気がする。

 親指で目を潰した。悲鳴が上がった。

 今度は俺が男に馬乗りになって、拳を振り下ろした。

 鼻頭を捉えた。

 血が驚くほどの勢いで吹き出した。

 拳を振り下ろした。

 拳を振り下ろした。

 頬か顎か額か、きっとどこかには当たったろう。

 

 俺は我を忘れてなどいなかったし身体の感覚は正常だ。

 拳には明確に痛みがある。

 血の赤は鮮やか。

 この部屋の臭気は酷い。

 男の泣き声がする。

 それでも俺はやめなかった。

 私刑。

 俺は身の内に湧いて出るこの感情の名を知っている。

 俺はこの憎悪を以て、一個の人間を破壊しようとしている

 殺人。

 正しくない。

 あぁ俺も。

 ちゃんと人間なんだ。

 

 噛み締めた歯が軋み、砕けた音色を口内に聞く。

 

「通報、してください」

 

 まるで自分のものではない。これは他人のような声だった。

 

「暴行、傷害の現行犯です。警察の指示に従って被害届を提出してください」

 

 男の上から離れる。

 意識はあるようだが声が届いているかはわからない。

 通話画面を開く。

 今、犯罪者が一人生まれたと報せねば。

 

「お、にいさん…」

 

 息を飲んで振り返る。

 そうだ、彼女が。

 駆け寄って身を起こすと彼女は俺の首に縋り付いた。

 怖かったのか痛かったのか。

 尋ねるべきことも労るべきこともすぐには浮かばない。

 俺こそ惑乱している。

 情けなく、安堵が。

 

「やったねぇ」

 

 囁きが耳孔を擽った。

 その言の意味がわからない。

 女は上機嫌にくすくすと笑う。

 彼女は嬉しげに、無邪気に、一層笑った。

 好物を食べる時。好きな漫画を読む時。酩酊して微睡む時。

 日常の中で見せる牧歌的で他愛ない時間。そこに垣間見た穏やかな微笑が。

 ただそれだけで孤独を忘れられた。

 

「これで、一緒だね」

 

 血と洟で汚れた声で夢見るように。

 

「おにいさんも一緒。私と同じ」

 

 初めて見て感じるこれは。

 ……あぁこれが、そうなのだ。

 正しさを求める癖に。

 俺はこれを知らなかった。

 今まで一度もこれを知らずに、理解もせずに正義なるものを玩んできた。

 お笑いだ。

 血塗れの女が口付ける。

 歓喜と祝福の印を記して。

 これが“悪”。

 俺は悪を為した。

 そして彼女は為さしめた。

 

「大好き」

 

 血の味がする。

 悪の味はあまりにもおぞましく、そしてひどく甘美だった。

 

 

 

 

 

 

 

 事情聴取を終えて警察署を後にする。

 留置場で一晩を明かしたが、それは勾留ではなく俺の適当な宿泊場所にあちらが難儀したゆえのやむを得ぬ措置だった。

 実質的無罪放免処分を獲得した俺の心中は極めて暗い。少なくとも手放しに自由の身を喜ぶことなどできない。

 

 

 あのアパートに警察が来て、俺は即刻拘束された。

 傷害事件である。

 通報者がその犯人たる己であると知った捜査官の怪訝な顔。

 血塗れの家主が救急隊員に付き添われ、自分の足で救急車に乗る姿を見送った。

 そして彼女は。

 ずっと俺の手を握っていた。

 婦人警官が声を掛けても、彼女は薄ら笑いを浮かべるばかりで返事もしなかったが、俺が説得すると彼女は素直に従った。

 被害届は出されなかった。

 鼻と頬を骨折させられた彼が病院で警察に一体何を語ったのかは知る由もない。

 ただ彼も、加害者たる資格を持ってはいた。

 事実がどうかはともかく、それが彼の被害者意識を殺いだのか。

 いずれにせよ確かめようはない。

 彼の怯えた目を覚えている。

 俺を、理不尽な怪物を前に、恐怖に歪んだ男の顔を。

 

「お兄さーん!」

 

 交差点の向こうに彼女が立っていた。

 擦り切れたジーンズ、着古したスカジャン。

 鼻頭のガーゼ。

 晴れやかな笑顔。

 その笑顔を、俺は正視できない

 横断可能のベルが鳴り始めても俺はその場を動けなかった。

 軽やかにサンダルの軽い足音、彼女が己の前に立つ

 俺は。

 

「お腹すいたー」

 

 出し抜けに彼女は言った。

 子供のように舌足らずな言い様だった。

 

「スープがいいな、ウインナーと野菜一杯入れたやつ」

 

 ようやく直視できた彼女は、驚くほどに変わりなく。

 あの日部屋に上げた翌朝の幼い面差しで。

 

「帰ろ、家に」

 

 手を取られて歩き出す。

 日常の続きが動き出す。

 何も、何事もなかったように。

 

「警察の人にね、ちゃんと言っといたよ。私強姦されそうになって、お兄さんが助けてくれたーって」

 

 世間話の続きが始まった。

 内容は実に酷いが。

 

「ダイジョブだよ。お兄さんパクられないから。お兄さんはね、正しいことしたんだよ?」

 

 それはまるで。

 褒められるのを期待する子供の顔。

 

「でも“次”はどうなるかな」

 

 そして契約を迫る悪魔の顔。

 

「嬉しかった。お兄さん、私の為にあんな顔してくれるんだって……嬉しかったなぁ……」

 

 俺の手を握り締めて彼女は深く、熱っぽく吐息する。

 風を伴って俺達の傍らを車が走り去る。

 薙ぎ払われた外気に一瞬の無音。

 彼女は。

 

「お兄さん、好き。あーしを捨てないで。そしたらもうあんなことしない。お兄さんは正しいままでいられる。でももし、イヤなら…………あーしと“悪”になろ」

 

 笑顔に涙を滂沱させ両手が俺の手を包む……温かい。

 

「いっぱい汚してあげる……一生、離れないから」

 

 これが彼女の答え。

 残酷な、精一杯の、愛の告白だった。

 

 

 

 

 

 

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