病める時もすこや物語   作:足洗

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性別転換者の社会生活状況(某企業の事例)

 

 

 出社早々に課長から呼び出しを受ける。

 こういう場合、吉報を予感する人間はあまりいないだろう。仕事の手を止められるのも面白くない。

 オフィスフロアの奥の奥。面談場所には平素使用されない資料室を指定された。

 一層怪訝に思いつつ、心なしか古びた感のあるその扉をノックする。中から入れと声がしたので特に躊躇なく押し開ける。

 そこには課長と、見知らぬ女性が待っていた。

 

 色素の薄いショートヘア。

 美人だ。目鼻唇、どのパーツにも華がある。仏頂面でさえなければ第一印象はもっと見映えしたろう。

 妙に真新しいパンツスーツ姿。

 そうして女は、何故か俺を睨む。いや、睨んだかと思えばすぐに目を逸らし、ちらちらと盗み見るようにしてこちらの様子を覗うのだ。

 

 こちらの困惑など想定済みとばかり課長は慣れた調子で説明を始めた。

 性別転換手続と転性者サポート人事について。

 どちらも聞き覚えはあったし、就業規則を閲覧すればいつでもその内容を確認もできたろう。だがやはり、それは決して身近なものではなかった。正直に言えば、それらは一様に関心の外にあった。

 三枚ほどの複写用紙の書類を手渡され、被補助者欄に記載された名前を読み上げる段になってようやく、俺は目の前の女性の正体を知る。

 つい一週間前まで隣席で悪態吐きながら残業を共にした同僚。

 そいつは同期の、“男性”社員だった。

 

 アクワイアド・トランス・セクシャル──ATSは今や普遍的な現代病だ。

 広範で多大なストレスを受け続けた人体は急激にホルモンバランスを変調させ、脳機能を改変し身体を改造……ある種の反転を起こす。

 虫の変態に近いようだと、偉ぶった学者が嘯いた。

 原理は今もって不明。

 しかし事実数千人に一人の割合でそれは発症する。

 極めて大きな数字だ。つまるところ、全国を見渡せば万を超える罹患者が存在するという、立派な難病である。

 決して他人事ではないのだと、朧気に戒めていたつもりだったが。

 

「なんだよ」

「いや……」

 

 苛立ちも露に同期の男は──彼だった彼女は俺を睨み付けた。

 性別転換を強いられた人間には様々な公的補助が下りる。

 ATSサポート制度は、国家から民間企業に課された義務というか、近年では比較的ありふれた福利厚生の一環であった。

 転性社員の雇用を守り、給与をはじめとした待遇の保障と肉体的精神的負担軽減に企業側は配慮・尽力する。

 その栄えある橋渡し役に選ばれたのは、何故か俺だった。

 サポート制度自体はあくまでも企業から一般社員に向けた努力義務に過ぎない。一時など、ATS罹患者の雇用に際して支給される助成金目当てに、不正な起業や反社会勢力由来のダミー会社が雨後の筍のように乱立したそうだ。

 閑話休題。

 役職も持たない平社員の己などより、ノウハウのある人事か総務辺りが請け負うのが本来なら妥当ではあるまいか。そう思わぬでもなかったが。

 

「……そんなに嫌なら断れよ。別にこんなことで恨んだりしねぇから」

 

 その外見に似つかわしい鈴を鳴らすような声でぶっきらぼうに吐き捨てる。

 女性らしい細い指が、自らの二の腕を袖の上から掴んでいる。布地が皺になってしまうほど強く握る。とても強く。

 それは、心中で忙しく揺れ動く何かを紛らわせる為だろうか。どうやら無意識の行動。

 別にそんな姿を目の当たりにしたから、という訳ではない。

 御託を幾らか並べたが、返答は既に決めていた。

 

「……了解しました。申請書は今ここで? それとも自分が直接総務に持参しますか?」

 

 課長にその他の必要事項を確認する俺の横顔に、そいつの視線がちくちくと刺さるのがわかる。

 決断材料としては、不貞腐れた奴の物言いがなんだか癪に障ったというのが少し。

 なによりどうだ、この、捨てられた仔犬のような顔。これを厄介事の種だからと迷いなく放り捨ててしまえるような賢明な人間に……俺はなれそうもない。

 

 

 資料室に持ち込んだノートPCに向き合い業務を再開する。倉庫感覚で備品が放り込まれていたここには予備のデスクや椅子は勿論、文具もコピー機も余るほど取り揃えられている。仕事をするのに不自由はなかった。

 対面に据えたデスクで同僚が同じように画面に向かっている。けれどその手は先刻から止まったままだ。

 ぼんやりとディスプレイのライトが瞳に反射する。

 こいつ、こんなに目大きかったのか。

 そんなこちらの愚昧な感慨など知る由もないだろう同僚は、出し抜けに。

 

「悪かったよ」

「ん?」

 

 溢れ出たのは謝罪であった。

 しかしその意図は、解らなくもない。

 

「でもこんなこと……誰に頼めるよ。お前しかいなかったんだよ」

 

 (こな)れない上着の肩が落ちる。

 ひどく消沈して奴は下を向いた。

 前髪がはらりと垂れて、目元を覆う。ほんの一週間前に見た時より髪も少し伸びているか。虫の変態とはよく言ったものだ。それほどに急激な変わり様。

 だからといって、いずこかの御高名な学者先生を感心する気にはならない。

 その憂き目に遭っている誰かを現に目の前にしては、とてものこと。

 

 頼れるもの。例えば何だろうか。誰に相談できるだろうか、こんな異常事態を。

 家族か? 恋人か? それとも友人か。

 己が身のつもりで考える……そして考えたところで、それは所詮他人事の範疇を脱するものではない。

 驚きや戸惑いや、恐怖に、どうにか折り合いをつけて奴は今日ここに来た。よくもまあ出勤する気になれたものだ。

 半ば以上本気で感心して、俺は軽口を叩く。

 

「社畜が極まってるな」

「……るっせぇ、バーカ」

 

 奴は、乾いた声で少し笑った。

 いい歳の社会人にあるまじき幼稚な悪態である。

 それを受けて、笑声で誤魔化し表面を取り繕いながら────俺は内心で愕然とする。

 ああ本当に、目の前にいるこの女は紛れもなく奴なんだと。同期入社の、腐れ縁の、あいつなんだと。

 その時ようやく、ひどく緩慢に理解させられた。

 

 終日、会話は少なかった。

 休憩時間や昼食の間も、事務的な遣り取り以外に奴の声をほとんど聞かなかった。

 ……声を出すのを嫌がっている、何故かそんな印象を持った。

 

 定時。

 残務は特にない。というより、休憩時間に再度俺一人を呼び付けた課長から「今後暫くは残業をするな」とわざわざ命令を受けている。

 与えられた余暇の使い途は、まあ言わずもがな。サポーターの役割は建前上は転性者の早期復調を手助けすることである……が、該当者が今後使い物になるのか、ならないのか、見切りを付ける監視役という側面もある。確実にある。会社には人員を遊ばせておく余裕などない。それはどこの企業も同じだろう。

 現実問題だ。しかし、だから組織の思惑を全て吞み込めるかと言えば、そんなことは無理だ。俺にはできない。

 賢明にはなれないと、俺は今朝方不遜にも自戒したばかりなのだから。

 ああ胸糞の悪い。

 言われなくてもやるべきことはやってやる。やるべきことは、わかっている……つもりだ。

 

 

 

「……飯?」

「ああ」

 

 帰り際、奴を食事に誘った。

 こう表現すると今ばかりは酷い違和感を覚えずにいられない。同僚の女性社員を口説く不届き者になった気分。

 そんな発想に至る己が、なにやら無性に厭わしい。

 

「……いいけど」

 

 僅かに躊躇してから、奴は頷く。

 俯き加減になると形の良いその旋毛ばかりに目が行く。

 体格はもとより、背も随分と縮んでいる。骨格というやつはこんなにも簡単に変形して大丈夫なものなのか。なんというか、生体的に。

 無学の徒なりの要らぬ心配を抱えながら、退勤処理を行い会社を出る。

 会社帰りに男二人、夕飯を求めて定食屋や居酒屋へ繰り出すなんてのはしょっちゅうだった。茶飯事の、日常だった。

 それがなんだか遠い。距離以外の全てにおいて。

 今は、自分の肩口辺りに位置関係だけ下方に移動したその顔を見やった。

 面影は、確かにある。

 顔容だけではない。椅子の座り方、ペンの持ち方、それこそその歩き方や、前髪を乱暴に掻き上げる仕草、どれもこれも確かにあの男そのものだった。というか他人の細かな癖なんぞを俺も存外に覚えているものだ。

 時間が経つほどにただ実感だけは増していく。

 

 

 

 元々顔の良い男だった。軽薄だが明るく、喧しいが闊達で、まあ概ね気の置けない友人と呼んで差し支えない。

 少なくとも俺はそう思っている。

 今日こうして俺を名指ししてくれたことから、この男の方も多少はそう思っているのだろう。

 選択肢が他になかった……という可能性もあるが。

 考えねばならない。今後の生活、仕事、役所的なものを含め万事に亘って手続も膨大だろう。

 なにより、人間関係。いや関係性か。

 変わるだろう。変わらないと、思いたい。それが人情である。

 けれどそれは叶わぬ希望だろうと、擦れた己などは思うのだ。

 

「……」

 

 己自身にしてからが、今は伴う女のその歩幅の小ささに戸惑っている。

 些細な変化だ、と言って退けてやれない。友人の有様にいちいち周章狼狽する。俺は卑小な人間だった。

 卑小なりの自己嫌悪に見切りをつける。

 今気を遣るべきなのはこの同僚だ。日も暮れ始め、煌々と明るい店灯りや電飾、街頭ビジョン。光に晒される女の横顔は影を纏ってむしろ暗い。

 俺は努めて明るい声を発した。

 

「嗚呼ラーメンが食いたい! ぎとぎとで臭いやつがいい! ほら、お前が通い詰めてたあの店、あそこの豚骨が恋しいなぁ! なぁ!?」

「お、おう」

 

 似合わない。気色が悪い。自覚はあるとも。

 歩道を行き交う通行人の冷ややかな視線と凍てついた無関心が我が身を苛む。

 だからその整った面相一杯に怪訝を浮かべて引くことはない。必要十分の報いは受けた。心が軋むだろうが。

 

「うん、ラーメン、行こう」

 

 急に穏やかな面持ちになって、奴はそう繰り返した。

 気を取り直し、俺達は駅前に向かう。通りを一本入れば馴染みの店はすぐだ。

 

 カウンター席に並んで座る。随所が薄汚れた店内、己ら同様会社帰りのサラリーマンや現場作業員風の男所帯の中にちょこんと納まる小柄なその姿は、やはり浮いていた。

 何度となく通った場所であるのに、同僚はなにやら居心地が悪そうだった。

 運ばれてきたラーメンを口にする。

 味が落ちた、なんてことはない筈だ。味気ないと感じるのは間違いなく己の舌に問題があるのだ。

 

「……うぷ」

 

 ふと隣を見やる。

 半分ほども麺を残して奴の箸が止まっていた。

 調子の良い時など替え玉を三杯平らげていたような男が。

 俺は、奴の器を引っ手繰ってがむしゃらに中身を掻き込んだ。麺もスープも総浚いして、手を合わせる。

 

「悪い……」

 

 バツの悪い顔から漏れた詫び言。

 それに聞こえないふりをして席を立つ。

 

「つまりお前と来れば、半杯得する」

「……」

 

 この虚勢は無様だろうか。

 これは何に対する負け惜しみなのか。

 俺にもよくわからない。

 ただ、奴が俺の冗句に笑おうとして失敗し、奇妙に強張った顔をしたのが、少し堪えた。

 

 未練がましく性懲りもなく、俺は奴を飲みに誘う。

 

「順序逆じゃね?」

 

 締めを先に済ませてしまったぞ、といった意味だろう。妙に律儀なことを抜かす。

 惚けたような女の綺麗な顔に、あの愛嬌に塗れた男の影を重ね見た。

 

「……そんなに気ぃ遣わなくてもいいよ」

「勘違いだな。俺は単に飲みたいだけだよ」

「そっか」

 

 じゃあ仕方ねぇな……そう言って友人は笑った。

 

 

 無理矢理な感は否めない。俺が露骨に引き留めに掛かっているのだと奴もわかっているだろう。

 性転者となり、手続も碌々終わらぬ復帰初日なのだ。心身に無理を強いるべきではない。

 わかっている。

 そうだとしても、やはり、こいつを独りあっさりと帰してしまうのが躊躇われた。どうしてか、俺は俺自身の不安を拭えずに酒を呷った。

 俺に釣られてか、奴も飲んだ。痛飲である。

 アルコールは順当に互いの口を軽くした。

 居酒屋の個室で奴は真っ直ぐ挙手して叫んだ。

 

「自分、彼女に捨てられました!」

「キャバ嬢の子か」

「ちっげぇよカフェのバリスタの!」

「あぁ……」

 

 顔の良さと口の回転力で女性関係に不自由しないこの不埒者の彼女が果たして何時の何人目なのか、もはやわからないが。

 

「ぶっちゃけ、結婚まで考えてたんだけどなー」

「ほー」

「こんなんなっちゃったって報告した瞬間いともあっさり切られました! あっはははははは!」

 

 身形(なり)だけは可愛らしい女の馬鹿笑い。席を立った小柄が高らかに、天を衝かんばかりに、空っぽに笑い声だけが肥大する。

 俺も笑った。その空隙を埋めるように。

 無駄な足掻きでも、そうせずにはいられなかった。

 

 

 当然の結果ではある。

 いかにも迷惑そうな店員に見送られながら店を出た。

 千鳥足どころか軟体動物のように安定しない奴は、案の定アスファルトに蹲る。

 せめて道の端に寄せようと腕を引っ張る。するとそれが刺激したのか、奴は夕飯から酒肴まで胃の中身の大半をその場に吐いた。

 

「うぶぁ、げあ、おぇ、あぁ~もったいねぇ~」

「こらこら寝るな。汚れる」

 

 肩を貸そうにも完全に脱力した体には取っ掛かりというものがない。

 仕様もないので、背中と両膝の裏に腕を入れて抱え上げる。お姫様抱っこなんて言ったら怒るだろうか。

 ひたすら無意味な思慮を働かせる己は間抜けで、完全に酔いきれないこの脳髄が恨めしかった。

 

「……軽いな」

 

 腕の中の同僚は華奢で、己一人の腕力で事足りるほど頼りなく。

 一瞬、少女のようだと思った。思ってから、猛烈な罪悪感に胸が悪くなった。アルコールの所為だ。体はしっかり酔っているのだと言い訳する。

 気分は悪いのに、吐き気は一向に訪れない。

 喉奥の不快感はずっとそこに滞って凝る。

 自販機で水を買い、縁石に腰掛けて項垂れる女に差し出す。受け取って、奴は手からボトルを落とした。

 握力まで吐いて失くしてしまったのか。

 キャップを開けて飲み口を出すと、奴は口でそれを出迎えて水を啜った。給水器のノズルを舐める小動物のようだった。

 

「歩けるか」

「…………」

 

 返事はない。もとより期待していない。

 腕を肩に掛け、大きなバックパックの要領で女を背負う。

 タクシーを待つにしても、もう少しマシな場所に移動したかった。 

 吐瀉物と酒の臭気に混じって、嗅ぎ慣れない匂いがした。甘い。甘味ではなく、観念的な甘さだ。自分自身に嗅ぐ男臭さとはほぼ対極にある香り。

 それが奴の体臭なのだと気付いて、また少し居た堪れなくなる。

 

「……オレ、こんなに変わっちゃったよ」

 

 ぽつりと、奴は呟いた。

 それがあまりにも途方に暮れたような声だったから、俺は何故か反骨心でも燃やすように。

 

「変わらねぇよ」

「どこがよ……お前におんぶされるくらい縮んでんじゃん」

「お前負ぶって帰んのはこれで二度目だ」

「はあ? 嘘つけ」

「新入社員の歓迎会。一次会で酔い潰れてたろうが」

「え、マジ? そだったっけ。覚えてね~」

「吐いたお前置いて上司も同期連中もそそくさ二次会に消えたから、俺が仕方なくタクシー乗り場まで背負って行った。クソが」

「く、ははっ、ひっでぇ。新入社員放置とか」

「ああひでぇよ。流石弊社だよ。あの会社クソだ、クソ」

「それなー」

 

 暫く調子を外した笑い声が背中で響く。

 笑い疲れた奴は、体全体で俺にしな垂れた。

 

「オレ、結構おっぱいでかくね?」

「落とすぞ」

「んだよー。サービスしてやってんのに……こんくらいしか返せねぇから」

「返す? それで恩返しのつもりか? 戯けめ。恩着せるとしたらこれからだよ」

 

 膨大なる手続と処理と打ち合わせと会議と挨拶回り説明回り、営業と流通のごった煮部署である我が課は弊社初のATS罹患者受け入れのモデルケースとして今後は社内社外に細々と目配せしながら動かねばならない。

 面倒で、億劫で、死ぬほど忙しくなる。

 

()()()()……?」

 

 その一言を、奴は妙に厳かな響きで口にした。

 それがなんだか可笑しかったので、死刑宣告の心地で応えてやる。

 

「そう、俺らの苦労はこれからだ」

「…………」

 

 悪態も同調も反発も、リアクションらしいものが聞き取れず俺は肩透かしを食らう。

 まさか眠ったのか。いい気なものだ。

 かと思えば、首に回った両腕に力が篭るのを感じた。奴はしっかりと、己の背中にしがみ付いた。

 ああ、この方がいい。運びやすい。

 落とさずに済む。

 喧しい繁華街を抜けて、同僚を背負って安寧な路地の闇を歩く。ひどく懐かしかった。

 懐かしさは、俺の中の不安を少し和らげた。

 奴も。

 どうかこいつにとっても、そうであってくれたら。

 そうであってくれたなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スマホのアラームにびくりとする。

 重い。怠い。

 今朝はやたらと寝起きが悪い。

 寝床からテーブルにほっぽってあるスマホに手を伸ばして、伸ばして、伸ばしても、指先はなかなか目当ての物に届かなかった。

 こんな遠くに置いたっけ。

 まるで腕が短くなったみたいに。

 

「んんー……」

 

 布団から這い出して、やっとうるさい機械を手にする。

 手に余る。掴むというより画面の端を摘まんで電源を切った。

 なんでこんなでかいんだ。

 なんだ。

 うつ伏せになった時、新しい違和感に気付く。

 これは、そう異物感だ。胸板がぶ厚い。膨れてる。

 流石に眠気も飛んだ。腫瘍とか、癌とか、ぶっ飛んだ不安感が脳を叩き起こす。

 布団を出て、シャツを脱ぎながらオレは洗面所に立った。

 体の様子を確かめる為に。

 鏡の前に、立って────

 

「…………へ?」

 

 声が漏れる。間抜けな呻き。自分の喉から出た音なのに、それはやや甲高くて耳馴染みしなくて、気持ち悪い。

 見知らぬ“女”が浮腫んだ顔でこっちを見てる。

 鏡の中にオレがいない。

 

 

 

「A……T、S、と」

 

 スマホのブラウザを起ち上げて検索に単語を入れる。

 とりあえず一番上に来た厚生労働省のページをタップ。

 ATSについての概略、罹患した後の対応、相談・連絡先、支援や給付、資金の貸付、そういうのがどっさり。

 何を、調べたかったんだっけ。

 どうすれば。

 そう、オレはどうしたらいいのか。

 半裸のままマットレスに座って小一時間、ただ小さな画面を見詰めてスクロールしてタップしてを繰り返している。

 自分で思うより自分が戸惑ってることにやっと気付いた。

 

「あー、とりあえず会社に」

 

 なんて言おう。

 朝起きたら女になってました、で通じるのかな。

 多分通じるだろう。ATSは珍しいが世間に知れ渡ってる病気だ。

 病気……。

 

「これ、治るのかな」

 

 独り言に答えてくれる人はいない。そりゃいない。誰も。

 答えられる奴なんて、いない。世界中どこ探したって。

 ATSは治せない。治療法も特効薬も、自然治癒したなんて話もない。不治の病ってやつだった。

 また鏡の前に立つ。

 小柄な女がいる。ブリーチを繰り返して淡くなった髪色はそのまま、生え際が黒いプリン頭。項に触れるくらい伸びたらしい毛先に違和感。

 胸は結構あるし形も良い。

 手足は細い。ウエストはくびれてる。

 腰と尻のボリュームでスウェットのズボンはぱつぱつだ。

 正直、体だけなら超好み。合コンの面子にいたら他の奴と競り合ってでも獲りに行くレベル。

 可愛い女の子、の自分。

 今の自分。

 これからの、自分。

 

「これから……」

 

 オレのこれから。

 将来とか、そういうの。

 どうなるんだ。どうしたら、いいんだろ。

 同じ文言を繰り返す。脳内は堂々巡りで何一つまとまらない。

 スマホのメッセアプリを起ち上げて、並んだトークの一覧を見下ろす。誰に?

 

「……まだ寝てるか」

 

 何故かそいつを思い浮かべてすぐ頭から選択肢を消し、少し迷ってから、結局は近々にある名前を叩く。今カノに。深刻そうな雰囲気は引かれるなーとか打算して、ちょっと軽めのノリの文面で送る。

 わかってる。

 内心焦りまくり、まだ自覚が薄いだけで、感情が混乱で上塗りされて固まってるだけで。

 理解したら終わる。たぶん溢れ出す。暴れ出す。

 だから慰めて欲しかった。心配して欲しかった。

 会って、顔を見て、安心したかった。

 返事はなかなか返って来ない。

 既読が付いた。でもまだ来ない。

 来ない。

 

「……」

 

 その内観念して、会社の上司の電話番号に直接掛けた。

 最初、課長はオレが誰なのかわからず、再三聞き返してきた。やはり声の音域が随分上がってるらしい。

 事情を説明すると、電話口で驚きと低い唸り声が響く。

 流石に察した。きっと心底面倒なんだろうな、と。事務的な手続やらオレが抱えてる案件の処理やら。

 迷惑そうなのが声だけで伝わってくる。勿論、上司は定型文みたいな心配の言葉を幾らか寄越したが。

 とりあえず一週間様子を見ようという話になった。それは会社からの配慮とかではなく、そういう規則なのだ。

 有給休暇ではなく、ATSに罹患した際の特別休暇。

 仕事の心配がひとまず電話一本で片付いてしまうと、オレは途端に手持ち無沙汰になった。

 彼女からの返信はまだない。

 

「……」

 

 部屋の中で一人ぽつねんと壁を見詰めた。今日目が覚めてから何度目かも忘れた茫然自失。

 ただ少し、感情ってやつが蘇ってきて、最初に感じたのは心細さだった。削られた小枝みたいな脆さ、不安定さ。折れそうになる。

 自分が自分でなくなったような。

 誰かに。

 彼女から、返信はない。

 誰かと話をしたい。一人では、そろそろ無理だ。限界だ。

 誰と?

 またこれ。わからなくなる。

 誰を頼れる。こんな状態で。

 

「あいつ、仕事中だよな」

 

 オレは、何故か言い訳みたいにまたしても同僚を候補から除外した。

 迷った挙句、実家に連絡することにした。半年、いやもっとかな。正月すら帰省しなかった罪悪感を多少覚えながら、固定電話に掛ける。

 母は専業主婦で、父は定年間際の会社員。この時間なら母は家にいる筈だ。

 期待通りすぐに母の声が電話口から聞こえてきた。

 たったそれだけのことで、オレは少し安心していた。オレどんだけ不安になってんだよ、って苦笑。

 

「母さん、オレ」

『……あの、どなた、ですか』

 

 その反応は予想できた。課長との不毛な遣り取りが無駄にならずに済んだ。

 

「違うんだよ。ホントにオレ。声変わってるからあれだけど」

『詐欺なら、やめてもらえますか。迷惑です……』

「いやホントなんだって!」

 

 オレは名前や住所や電話番号、実家周りの様子や学生時代のエピソードを必死に並べた。

 必死になって自分が自分だと証明する。家族に。オレを、産んだ人に。

 ひたすら疑わしげだった母の声が戸惑い、徐々にこっちの事情を呑み込み始める。

 

『嘘、本当に……?』

「だから言ってるだろ。オレだよ。オレ、実はその……ATSになったんだ」

『…………』

「母さん? どうし────」

 

 気の抜けた音色が響く。それは通話終了の効果音だった。

 電話を、切られたのだ。

 

「……え? あれ?」

 

 再度実家の番号をタップする。呼び出し音が鳴り、そしてすぐに切れた。

 そう設定したのか、()()()なのかわからないが。

 オレはどうも、母親に着信を拒否されたらしかった。

 

 

 喉が渇いてた。からからに。

 キッチンに行ってコップで水道水を飲む。

 冷たいものが体の中心を降りていく。体の中もそうだが、手足が冷えていた。寒い、気がする。

 午前中、マンションの住民の大半も出勤したか登校したか寝ているか。ひたすら静かな部屋の中、自分の呼吸だけがやけにうるさい。

 その時、テーブルのスマホが鳴った。

 オレは急いでスマホに飛び付き画面を見る。電話は父親からだ。

 

「もしもし」

『……お前、なのか?』

「ああ、そう、そうだよオレ、オレだよ。さっき母さんに」

『こっちに連絡が来てな。お前本当に、その、体は……』

 

 家族から真っ当に心配されているというただそれだけの事実に、本気で涙が出そうになった。

 

「うん……すっげぇ変わっちゃったけど、体調は悪くないよ」

『そうか……』

「朝起きて気付いたらこうでさ。マジびびった。会社は休みくれるって、とりあえず一週間。そんなに余裕ないけど、オレ一旦そっち帰っていいかな? やっぱ、一人だといろいろ……」

『すまんがしばらくは一人で頑張ってくれんか』

 

 吐き掛けた弱音を無理矢理口の中に押し戻された。文字通り、喉が詰まる。

 オレが滞ってしまった声をどうにかしようとする間にも、父は続けた。

 

『母さんも随分動揺しててな。今は、少し、そっとしといてやってくれ。母さんにも、なんだ、近所付き合いとかあるだろ。私の方もやっと定年だし。ATS関係はまだいろいろデリケートだ。知ってるか? 転性補助金をもらった所為で退職金の額が変わったなんて事例がある』

「……いや、でも……オレ」

『暫くは休職するのも手だぞ。生活費は振り込んでやるから』

「と、父さん」

『あぁ、すまん。これから会議だ。母さんのことは心配しなくていい。お前は養生しなさい。また連絡する』

「待っ」

 

 慌ただしく通話は切れた。父が、それ以上の遣り取りを嫌ったのは差し迫った会議だけが理由じゃない。向き合うのを、拒まれたんだ。

 そんな気がしてならない。被害妄想だ。ネガ入って、参ってるだけ。そうさ。忙しいだけ。母さんも今は驚いてるだけで、その内きっと。

 きっと。

 

「…………あ」

 

 通知が来てた。

 彼女からだ。

 内容も確認せずにアプリを起ち上げる。

 トーク画面に伸びる吹き出し。一番下に、ほんの短く。

 

『ごめん無理』

 

 たった二言で、全部終わってた。

 

 

 ふと気付くと日が暮れてた。無闇に暗い部屋でマットレスに寝転がって天井を見てる。

 ATSは現代病。でも、だからって誰も彼もが周囲に受け入れられてるかっていうと、そんなことはない、らしい。

 ATSが原因の一家離散や婚約解消なんてざらで、人目を気にして退職し住む場所さえ移らざるを得なくなったなんて体験談もネットで幾らでも拾えた。

 ネット検索、サジェストワードの上位は『ATS 症状』、『ATS いつから』、そして『ATS 自殺』。

 この国ならありがちだ。別に、不思議じゃない。ああ無理もないな、って今なら思える。

 

「…………」

 

 友達はわりと多い方だと思う。自惚れじゃなく。

 現状を伝えれば、面白がって様子を見に来るアホなら何人かすぐに見付かるが……悪ノリに乗ってやれる気分じゃなかった。

 ただ、今はもうなにもかも。

 家族でさえこんなもんなんだ。

 

「近所の目ってなんだよ……オレ、犯罪者かよ……クソッ」

 

 目が熱い。自然と涙が出た。

 泣くなんて久しぶりだ。

 自分でも驚くくらいどんどん溢れてくる。

 止まらない。

 涙には鎮静効果があるんじゃなかったっけ。あいつがそんな蘊蓄垂れてた気がする。

 嘘じゃん。

 全然止まらない。頭ん中どんどんぐちゃぐちゃになってく。

 

「くそぉ……」

 

 悪態もへろへろで、自分の声が嫌になる。

 嫌だ。なにもかも、嫌だ。

 なんでこんな、オレがこんな思いしなきゃいけないんだ。

 なぁ、そうだろ。オレ、悪くないだろ。お前もそう思うだろ。

 スマホに表示した連絡先を、オレはタップしようかしまいか迷って、迷って、迷って迷って結局、電源を切った。

 

 もし。

 もしお前にまで、拒まれたら。

 

 それがただただ怖かった。

 自分でも訳わかんないくらい、怖かった。

 怖いと思う分だけ、強く、あいつの顔が浮かんだ。

 ああ、友達が多いっていうのは取り消す。まともな友達なんてお前くらいだった。

 こんな、意味不明な状態でも、頭ぐっちゃぐちゃな時でも。

 最初に会いたいって思う相手は、家族でも、恋人でもなく。

 

 会社の同期のお前。

 

「……はは、真っ先に浮かぶのがなんでお前なんだよ」

 

 脳内の男が「知るか」って呆れ顔になる。

 それがおかしくて、自分がいよいよおかしくて、オレはちょっと笑った。

 泣いて笑い疲れて、そのまま眠った。

 夢は見なかった。

 

 

 翌日、会社から連絡があった。

 転性者サポート人事。当事者のオレにはその補助者を指名する権利があるそうだ。

 誰かを選ぶ権利が実際のところ自分にはまったく、これっぽっちも、()()んだって散々思い知らされた後なのに。

 

「……じゃあ、あの……あいつに……はい、同じ部署の……そいつです。その人に、お願いします」

 

 躊躇はあった。けど選択肢はなかった。

 オレにはもうあいつしかいなかった。

 

 一週間ぶりの会社。間違いなくホームグラウンドなのに、社員の目から隠れてオフィスを横切り、そそくさと指定された資料室に逃げ込んだ。

 課長と共にあいつの出社を待つ。その間、上司からは珍獣でも見るような目で体中を眺め舐め回された。こっちが気付いてないとでも思ってるのか、どうでもいいのかは知らないが。

 男の視線の露骨さってやつをオレは生まれて初めて体感した。

 ああ、確かにこれきついわ。きしょい。女の苦労、確実に嘗めてた。

 こんなのに今後も耐えていく人生なんだって、その実感に目の前が薄暗くなる。

 ノックの音で現実に戻る。

 課長の返事に、そいつは躊躇なく入ってきた。

 いつも通りの、変わらない、いつもの黒系のスーツ姿。

 ……あれ、でもこいつこんなにがっしりしてたっけ。思った以上に開いた体格差。見上げるほどの位置にある男の顔にオレがまず感じたのは、懐かしさだった。

 たった一週間くらいでなんだよ。

 なんで、こんな。

 それが無性に悔しくて、オレは男を睨んだ。

 途端に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔しやがって。文句あんのかよ。

 奴は書類を見て、オレを見て、また書類を見た。

 気付いた。驚いてやんの。

 しめしめと思う気持ち。それと同じくらい、居た堪れない心地。羞恥。不安。

 それから大きく、恐怖。

 どう思ったろう。何を、感じたろう。

 拒絶の言葉を聞きたくない。こいつの口からだけは、やっぱり、嫌だ。

 だから。

 

「そんなに嫌なら……」

 

 だから予防線。

 別にどうでもいいってポーズ。気にしない。覚悟、とか大袈裟なものじゃなく。どうでもいい。何も変わらない。揺るがない。

 オレは平気だ。だから。

 どうせ。

 お前は、お前も、オレを────拒んでいい。

 

「……了解しました」

 

 はっとして見上げた男は、こっちを見てなんだかしたり顔。

 優しい顔で笑ってやがる。

 やっぱり悔しい。

 腹が立つ。

 ムカつくくらい……安心してる自分が、嫌になる。

 

 

 資料室に二人きり。会話はあまりなかったが、不快には感じなかった。

 仕事なんて手につかない。ただ、ようやく人心地ついて、正常な呼吸を思い出したような気分だ。

 こいつに会った、それだけで。

 安堵の次に湧いたのは、痛いくらいの罪悪感だった。

 オレの、こんな面倒事に突き合わせる羽目になった。きっと後悔する。今も、もしかしたら今も……内心じゃ……本音は。

 口から零れた謝罪の言葉に、あいつは少しだけ驚いて。

 また優しい顔付きで。

 

「実際よく会社に来たな。偉いよ、お前……お互い、社畜が極まってるな」

「…………るっせぇ」

 

 何気ない軽口なのに。ただの、いつもの、駄弁りでしかないのに。

 なんでこんな、あったかいんだろ。ひどく、胸に来る。

 オレはすぐにも泣きそうになるのを必死に堪えた。涙腺がやたら脆いのはやっぱり体が女だからなのか。

 当然、仕事なんてまったく手につかなかった。

 ただ、ただ、その言葉が。本当は滅茶苦茶気を遣って思い悩んで選びに選んで出したってわかるから。

 あいつがオレをちょっとでも想ってくれてるんだって、わかるから。

 

「バーカ」

 

 それが堪らなくて、どうしようもなく、嬉しかった。

 

 

 会社帰り、あいつに誘われて行き付けのラーメン屋に行った。

 週五で通い詰めたほど好物だったのにほとんど食べ切れなくて、地味に落ち込む。

 居酒屋に繰り出して、この体は胃袋は勿論、アルコールの許容量まで大幅に目減りしてるんだと胃の中身を残らず吐いてから気付いた。

 軽々と抱き上げられた時、もう()()んだって心底思い知った。

 変わってしまったものばかり目に付く。もう元には戻らない現実に抗うことなどできないんだと理解して、力が抜ける。

 なにもかも変わった。いや、これから変わっていくんだ。

 今まで許された全部、今まで獲得した全部。

 家族も恋人も、友人も。

 お前も、どうせ変わるんだろう。

 オレを背負って夜道を歩く男に、オレは諦観を覚え、捨てきれない希望を夢見た。

 

「俺らの苦労はこれからだ」

 

 それは。

 男の口にする“これから”は。

 オレとの。

 こんな風になっちまった、オレと?

 お前は、一緒にいてくれるのか。

 男の背中に知らず知らず、強く、必死にしがみ付く。放したくない。

 離れたく、ない。

 お前となら“これから”も悪くない。

 お前となら…………違う。

 酔って蕩けた頭でオレは予感する。

 それに身を委ねてしまえば最後。きっと後戻りできない、感情を。

 

 ────ああ、もうお前じゃなきゃ

 

 

 

 

 

 

 

 住めば都の故事を知る。

 当初こそ、イレギュラーな事態に際して緊急措置的にオフィスから遠ざけられた感を否めなかったが、三日もすれば通い慣れ、一週間後には既にその代わり映えのなさに飽きて、一ヶ月経つ頃には実家のような居心地の良さすら覚えた。

 俺と奴、専用の個室のようなものだ。

 人目がないのをこれ幸いとばかり私物やら食い物やら電化製品やら持ち込んで、快適な居住環境を構築している。

 

「うわ、まぁた数値ミスってんじゃねぇかこれ。三課の……出たよ。またこいつだ。たしか前も同じようなやらかしあったぞ」

「うん、近頃課内全体で不備が多いな。流石に一度向こうの主任か課長に再教育を依頼すべきかもしれん」

「んじゃあオレが依頼のメール出しとくからお前はマニュアルの改訂よろ」

「ざけんな殺すぞ」

「こっわ。ははははは!」

 

 呵呵大笑する女の様に、俺は自分でも不思議なほど安堵を覚える。

 少しずつ奴は復調していた。肉体が変わり、身辺のあらゆるものに変更を強いられ、本来の職場からこの狭い部屋に押し込められて。

 どう言い繕ったところでやはり、これは不遇だ。理不尽だ。

 この同僚がそのような憂き目を見なければならない理由などない。ない筈だと、他人の己が未だ腹底に含むところ大なのだ。

 (いわん)や、当事者たる奴にとってこれがどれほど過酷なことか。

 結局、想像することしかできない。

 それでもこうして、奴はここに来る。出社し、仕事をこなし、己と馬鹿話をして笑えるまでになった。

 見上げたものだと素直に思う。

 己のサポート程度が物の役に立ったかどうかはわからんが、結果として奴が持ち直してくれるなら、それでいい。

 それで十分。

 

「ところでさ」

「ん?」

 

 デスクを回り込んで奴が己の隣に立つ。

 肩に手を置き、俺のノートPCを勝手に操作してブラウザを起ち上げた。

 

「昼飯、どうするよ。前行った駅前のカフェは結構悪くなかったけど、お前には量がなー」

「あそこは女性客がメイン層なんだろう。別に下町の定食屋みたいなボリューム期待してねぇよ」

「味はよかっただろ。普段こういうとこ来ねぇから新鮮でいいってお前喜んでたじゃん」

「まあそこは否定しない」

「オレのお陰だな? 野郎二人じゃ入りづらかった店もこれからは選択肢に入るし、感謝しろよー。にひひ」

 

 女性化した容姿をポジティブに解釈し、活用している。そのこと自体は喜ばしいのだが。

 

「見て見て! 駅中の飲食街、この創作和食の店。最近オープンしたとこでさ。気になってたんだー」

「……」

 

 身を乗り出して画面に指を這わせる。

 自然、奴はこちらの背中に密着する。いつぞや背負った時と同じ柔らかな感触と、あの時にも増して甘い、艶やかな香り。

 

「……化粧、してるのか」

「ん、変かな」

「いや、そんなことはない」

「そっか……よかった」

 

 素直にそう言ってはにかむ。そんななんというか、ただ、他意はないが、ひどく、ひどく可憐な横顔を目の当たりにしては、軽口の一つも叩けやしない。

 ここのところ、ボディータッチが増えた。いや男体であった頃から気安く肩に手を回したり小突き合ったり、小学生のような幼稚な遣り取りはあった。

 距離感が変わった。パーソナルスペースとか呼ばれるものが、曖昧になっていく。

 あるいはそれと承知して揶揄っているなら、こいつは声に出して動揺する己の無様を指摘し、あからさまに笑うだろう。

 けれど奴はそうしない。まるで気付かぬ素振りで、身体的接触を繰り返す。肩や腕を撫でる掴むは序の口で、手を握って腕を抱き寄せ、そのまま暫く仕事の話を続けるなどということも珍しくなくなった。

 不安の表れかとも思った。揺らぐ身の置き所、先行きの見えない今後の処遇、不安を覚えぬ道理がない。この行為によってそれらを僅かでも払拭できるというなら、己が耐えればいいだけのこと。

 ……耐える。

 耐えねばならないことなのだと俺は感じている。

 苦痛なのではない。そうでないことが不味いのだ。

 口では鬱陶しい暑苦しいと嫌がるふりを、いや近頃はそれすらなくなり、されるがままに心中で優越や喜びを感じてはいまいか。

 無邪気に自身を求めてくれる、女となった、なってしまった友人に。

 俺は。

 俺は何を、考えた。

 あろうことか、唾棄すべきそんな思考を許してはいまいか。

 罪悪感が針となって心臓に刺さっている。痛みは慢性化し、そろそろ麻痺し始めている。

 危ういと、理解して、しかし。

 

「…………」

「二人なら、どこでも行けるな」

 

 溜息のように淡く、その言葉はじわりと沁みた。

 ただの食事の誘いだ。他意はない。意味深長に感じるのは己の認知が歪んでいるのだ。

 俺は必死に自分自身へそう言い聞かせた。

 だが。

 このままでは駄目だとも思う。

 いずれは奴も、俺も、平常な社会に復帰せねばならない。

 この揺り籠のような部屋を出る時が来る。当然のことだ。

 曖昧で心地よい、この関係を終えて。

 いずれ、いずれはと。

 俺は今少し、この時間を惜しんだ。その罪深さを知りながら知らぬふりで耳を塞ぎ口を噤んだ。

 もう少し、もう少しだけ。

 この距離、この間近で、こいつの笑顔を見ていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 こいつの背中、好きだ。

 肩の頼もしさ、腕の逞しさ、掌の大きさ。

 以前はオレにもあったもの。いや、まあ前々から体格では負けてたんだけど。

 男にしては背が低いのがコンプレックスだった。瘦せ型で、骨が細いのも、筋力で劣るのも。

 それは男としてのプライドだったんだろう。今にして、今更そう自己分析する。

 今は。

 もうそんな全部が、薄い。

 薄れてく。男としての、とか。男らしさ、とか。

 どんどん消えてく。考えなくなっていく。

 それは、オレが得たこの安心感の所為でもあるのだろう。

 焦り、不安、孤独感、恐怖、居ても立ってもいられなくなるような、心のざわつきが。

 こいつと居るとないもののように思えてしまう。考えなくてよくなる。

 まあいっかって、諦め……違うな。

 これが、いい。

 その大きな手で、太い腕で、厚い胸板でオレなんて簡単に抱き潰してしまえるんだと想像する度に。

 心臓が高鳴った。何かよくわからない熱いもので体が満ちて、息が上がる。

 熱いものは溢れてくる。

 溢れて、下着を汚した。

 会社の男女兼用トイレで下着の染みを見付けた時、オレは何かの終わりを悟った。男だったオレの終わり。女としてのオレがオレを浸食する。

 どうしてだ。

 オレは便器に腰掛けたまま項垂れて顔を覆う。

 どうして。

 気持ち悪いだろ。男が男に、こんな。だってオレは同性愛者じゃない。ジェンダーレスだの多様性だのLGBTだの知るか。個人としてのオレは、本来のオレはそれを嫌悪する人間だった。少なくとも自分が男性を恋愛対象として見るなんてありえなかった。

 あいつは友達なのに。

 なんで嫌じゃないんだ。

 なんで、こんなに、嬉しいんだ。

 

 同性に欲情するこの体が恨めしい。

 自己嫌悪は次々に湧いてくるのに、あるべき嫌悪感は一向に欠片も現れない。

 ただ、罪悪感が針みたいに心臓を突いた。

 オレは、友達に、なんてことを。

 オレを見捨てず、手を差し伸べてくれたんだ。

 オレとこれから一緒に頑張るって言ってくれたんだ。

 そんな人に。

 

 オレは。

 オレは。

 

 なんて、自己嫌悪という名の自己陶酔。

 頭の中で、独白で、一人の空間で、幾らでも自己嫌悪を弄べる。

 そんなに嫌なら、苦しいなら、後ろめたいなら。

 どうしてあいつに触れようとする。

 肩や腕を抱き寄せ、体を擦り付けて匂いを移すみたいな真似をする。

 あいつが戸惑って、恥ずかしがって、それでも嫌がらず受け入れてくれることを見透かして、気持ちよくなってる。

 自分の“女”に、あいつの“男”が反応してくれることが、嬉しい。

 喜んでる。

 オレは、とんだ変態野郎だった。

 

 罪悪感。

 罪悪感。

 罪悪感を、押し流す感情。覆してしまう。

 

 好き、が…………違う。

 

 違うだろう。こんなのただの、肉欲だろうが。

 ただ女の体の快楽を知ったからだ。

 オレのこの不純さは、酷すぎる。いくらなんでも醜すぎる。

 腹が痛い。下してる訳でもないのに。吐き気も少し。

 この罪悪感が体を蝕んでるのか。

 わからない。

 わかることは一つだ。

 

 この一ヶ月であいつはどれだけ尽くしてくれた?

 表に出られないオレの為に、オレの仕事の大半を肩代わりして、事務や人事なんかの連絡も橋渡しをしてくれた。

 恋人、家族にさえ見放されて途方に暮れていたオレを、たった一人守ってくれた。

 ただ、同期の、友達として。

 嬉しい。

 泣きたくなるくらい、救われた。

 それが切ないほど……悲しかった。

 

 ただ、純粋な友達としてオレを見てくれるお前が。

 

 憎らしくて。

 ああ、やっぱり────好きだ。

 好き。

 好きなんだ。

 ごめん。

 ごめんな。

 汚くて、自分勝手で、ごめん。

 

 好きになって、ごめん…………そう思うんなら。

 

 洗面台、鏡に映った卑しい女にオレは向き合う。

 このままじゃダメだろ。

 オレの体はすっかり変わって、身の回りのたくさんの物事も変わっていくけれど、それでも生きていかなければいけない。成人した社会人がいつまでもめそめそ泣き言吐いて、おんぶに抱っこしてもらってちゃダメだろうが。

 ちゃんとしないと。

 あいつがしてくれたことに感謝する気持ちがあるなら。ない訳ないけど、それを自覚できるって言うなら。

 ちゃんとしなきゃ。

 

 あいつは出勤できるだけで十分だとか立派だとかオレを甘やかすが、この一ヶ月渉外関係の業務から逃げ回っているオレがそんな評価を貰っていい筈がない。勿論、ATS受け入れ実績のない会社側が転性社員の使い方に慎重になっているというのも事実だ。

 でも、流石にそろそろ潮時ってやつだった。

 オレはトイレを出て、営業部のフロアに足を向ける。

 デスクを移ったといっても同じ部署の社員と一切顔を合わせないなんてことはないし、そもそも不可能だ。それも出社や退勤時に挨拶する程度だが。

 だからこそ自分から踏み出す必要がある。

 デスクを戻して、また以前と同等の仕事を任せて欲しいってオレ自身が上司に談判しないといけない。

 同僚達に事情を説明し、また以前のように同じ会社の仲間として受け入れてもらわなければいけない。

 真っ当な社会人として、大人として、組織に属する人間として。

 普通の、やるべきこと。

 それは男とか女とか関係ない筈だ。

 社内で引きこもりなんて、笑えない。

 いつまでも、あいつを縛りたくない。

 あいつに依存してちゃダメだ……まあそれは、もう手遅れかもしれないけど。

 自嘲の笑みに笑窪が歪むのを感じながら、廊下の向こうにオフィスの扉を見止める。

 あと三歩、二歩。

 一歩、取っ手に触れて。

 

 ────戻ってきてください

 

 女性の声だった。スモークガラスの向こうで、語気を荒げている。

 それに答える真面目くさった低い声は、聞き間違うことはない。あいつだ。オレがトイレに篭ってる間にこっちに来てたのか。

 

「落ち着けば戻れる。もう少し、様子を見て……」

「そう言ってもう一ヶ月ですよ!? サポートって言ったって、どうして先輩が犠牲にならなきゃいけないんですか!? 業務が重なってノルマだって全然……あの人の所為で」

 

 犠牲。

 その一言に息が止まった。

 その、事実に。

 

「サポート人事の検査期間もそろそろ終わる。あいつも最近じゃ大分回復してきてるし」

 

 そう。転性社員に対する業務縮小措置の目安は一ヶ月。企業によっては多少増減するが、この会社でオレに許された猶予はもうない。

 課長からはとっくに、進退を決めるよう下知されてる。

 それを先延ばしにして、考えないようにしてきたのはオレだ。あいつの時間、二人だけの仕事部屋、オレを見てくれる男の視線。

 それを独占する仄暗い喜び。

 

「あの人、絶対先輩に気があるんですよ」

 

 オレ達より一年遅れて入社した後輩の女性社員は、まるで狙いすましたかのように言った。

 オレの下心、醜い魂胆を真っ直ぐ見透かしていた。

 

「だからゴネて、いつまでも資料室に引き籠ってるんです。先輩を、引き留めておく為に」

「そんなことは」

「気持ち悪いでしょ? 男のくせに、男に色目使って……! 気付いてますか。香水の匂い。先輩にわざと付けてるんですよ、それ。マーキングするみたいに、ATSのくせに!」

「あのな」

 

 オレは耳を塞いでその場を離れた。

 あいつがその後なにを言うのか、何を思っていたか、知るのが怖かった。知りたくなかった。

 オレは卑怯者だった。

 あの女性社員が言った通りの、気持ち悪い転性者。元男で、かといって女にもなりきれてない。半端で、どっちつかずで、都合のいい奴。

 全部事実だ。

 全部、言い訳の余地もない本当のオレ。

 オレの望み。

 気分が悪い。

 腹が痛む。

 吐きそうだ。

 体調の悪さは今に始まったことじゃないけど、なにかトドメを食らったみたいだ。

 オレはトイレに駆け込んだ。

 嘔吐も下痢もない。でも何か、何かが、身の内から溢れてくる。悪寒と、自己嫌悪と、途方もない悲しさ。

 そして。

 

「え」

 

 どろりとして下着を濡らすもの。それはあいつに触れた時に味わう切なくて甘い熱とはまるで違う。

 トイレでズボンと下着を下した。

 オレは一人、個室の中で悲鳴を押し殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で憤慨する彼女を見下ろして、俺は考える。どう宥めたものか。

 彼女の入社当初教育担当を務めた縁もあってか、彼女は俺を頼ってくれたし普段からよく世間話を振ってもくれた。それを懐かれていると感じるのも、今時はセクハラに当たるのだろうか。

 垢抜けた美人の面相に浮かぶのは生憎苛立ちばかり。

 部署中の視線を一身に浴びて、そんなもの知らぬと彼女は叫ぶ。

 

「────ATSのくせに!」

 

 奴が社内で腫物のように扱われていることを知っている。

 課長や、さらにその上の役員の方々からも、奴の今後について頻繁に審問を受けるようになった。明言はしないが、辞職を勧める向きもある。

 それでも俺は上役連中を平身低頭説き伏せた。奴には時間が必要なのだと。

 あいつが自分の意志と決断によって退職するというならそれでもいい。追い詰められ、投げ出すようにして会社を去るなどあんまりだろう。

 いや、それはお為ごかしだ。俺はただ、あいつが俺の前から消えてしまうことが我慢ならなかっただけだ。

 そうだ。善意などではない。

 俺はただの私心私欲であいつを引き留めて、繋ぎ止めて、傍に置いた。

 

「あいつが転性者でも、元男でも、構わない……関係がない」

 

 後輩が目を見開く。信じられないものを見る目。

 驚愕と失望。

 無理もない。身勝手で、我欲によって誰かを縛る人間など、軽蔑されて然るべきなのだ。

 それでも。

 

「俺にとっては大事な人なんだ。傍に居てくれなきゃ、困るんだよ」

 

 失語して、後輩の娘はその場に立ち尽くしていた。

 俺は踵を返して部署を後にした。背中に集まる好奇の目に苦笑する。

 気持ちが悪いのはどっちだ。

 俺こそ、後ろ指を差されて当然ではないか。

 俺を頼り、藁にも縋る思いで手を取ってくれた友人に、俺が抱くものは“これ”だった。

 ただ身勝手で、ひたすらに汚らわしい想い。

 

 ────すまん

 

 ここには居ないあいつに向けて、面と向かえない卑怯者の俺は心中に謝罪を浮かべる。

 俺はこんなに邪な男だったんだな。

 

 資料室の扉を開く。

 デスクに、奴の姿はなかった。

 奴がトイレに立ったのは見たが、まさか今の今までずっと戻っていないのか。気配のしない室内の様子に何故か確信めいたものを覚える。

 その時、不意に。

 ポケットでスマホが震動した。

 電源を入れると、メッセージアプリの通知である。

 トーク画面を見て、今度は俺が失語症に陥った。

 

『会社辞めるわ』

『突然でごめん』

『さよなら』

 

 俺は資料室を飛び出した。

 

 奴の自宅の住所は知っている。

 会社に自身と奴が早退する旨を連絡し、俺は手ぶらでそこに向かった。

 マンションの三階。いつだったか、連休に酒や摘まみを買い込んで連日ここで宅飲みに管を巻いたこともある。

 インターホンを押す。

 懐かしささえ感じる扉が、ゆっくりと向こうから開いた。

 そこにいたのは果たして、奴だった。

 茫然と己を見上げて立ち尽くしている。酷く、倦み疲れたような顔で。

 奴は何故か、男物のワイシャツを着ていた。男物の背広を羽織り、よれよれのネクタイを巻くでもなくただ首に掛けていた。それは一様に、当然のようにサイズが合わず、着ているというよりただ体に垂れ下がっているようだった。

 そして下には、何も穿いていなかった。穿いていたであろうスラックスは廊下の只中でぐちゃりと落ちている。

 白い太腿が眩しい。眩しいなどと感じるのは、躊躇と罪悪感が視線を拒む所為だ。

 しかし、すぐに俺の目はそこに釘付けになった。

 白くきめ細かな太腿に、あまりにも鮮烈に垂れ落ちていく、赤。赤い緒。

 それは。

 

「生理、来たんだ」

 

 全てが抜け落ちた声。色も温度も何一つ含まぬ空っぽの声で、奴は言った。

 

「オレ、もう、ホントに……は、はは、は……」

 

 くるりとこちらに背を向けて奴は部屋の奥へ歩いていく。ゆらゆら幽鬼が朧に揺らめくように。

 俺は部屋に踏み込んだ。その背を追う。追わずにはいられなかった。

 ふと、廊下に入り、開きっぱなしの扉の奥が見えた。ユニットバスの湯舟にどうどうと水が張られて、今やすっかり浴槽から溢れ出している。

 居間に踏み入る。

 カーペットの中心に佇んで、奴はそれを拾い上げた。

 何の変哲もない、カッターナイフだった。

 

「なんで、なんでオレなんだ」

 

 刃を見詰めて奴は問うた。俺にではなく、かと言って誰に対してでもない。

 強いて言うなら、神だか、仏だか。そういう無責任な絶対者に。

 運命を問うて、この今の自分の有様を問うて。

 

「オレがなにしたってんだよ。なぁ」

「……」

「オレがぁ!!」

 

 肩を震わせ、不格好な背広の背中が曲がる。俯き、カッターを握った両手を、まるで祈るように額に押し当てる。

 ひたすら押し殺した苦悶が、室内に虚しく響く。

 

「もう、疲れたよ……こんな自分も……お前を、真っ直ぐ見れない、汚い自分も……」

「……」

「オレ……お前が好きだ」

「……ああ」

「だから、一緒にいられない」

 

 袖を乱暴に捲り、細い手首を晒してカッターの刃を当てた。

 少し引くと、白い肌からまた血の玉が滲む。

 俺はそっと奴に歩み寄った。

 引き切られていく肉を見下ろしながら、最後の一閃を引こうとするその手を握る。

 

「なら一緒に逝くか」

 

 呆とした目が俺を見る。

 俺は微笑んで奴を見る。

 

「一緒にいられないなら、せめて一緒に死んでやるくらいしか俺にはできない」

「なん、で……なんでそこまで……どうしてだよ……そんなこと、言ってくれんだよ……」

「さあなぁ。俺も、お前がいてくれなきゃ困るから……お前のことが、好き()()()から」

「へ、ぁ……」

 

 涙が流れ落ちる。悲しみでも、まして喜びでもなく、痛んで流される涙。

 罪深さに恐れ戦いて流されるそれが、あまりにも憐れで。

 俺はそっとその小さな体を抱き寄せた。腕の中にすっぽりと収まり、下手すればあっさり壊れてしまう儚い感触が、切ない。

 愛しい。

 悲しい。

 救われて欲しい。

 俺に救えるのかと、歯噛みし迷う。

 しかしもう放してはやれない。

 もう、とっくに俺はお前なしでは駄目なのだ。

 

「どうする。どうしたい?」

「…………」

 

 奴は少し迷って、唇を震わせながら、そっとそれを俺のものに重ねた。触れ合い、求め合い、すぐに貪り合う。

 肉と液体の交ざりあう音が暫く続いて、再び離れて見つめ合う。

 

「女に……お前の女にしてくれ。男だった頃のこと……忘れさせてよ」

 

 それは奴にとっての心の自殺だった。そして俺には、その命をくれたのだ。

 だから壊す。

 壊さなければならない。徹底的に。

 こいつに理解させる。

 もうお前は俺のものなのだと。

 

 

 

 

 

 その日、俺達の関係は破壊された。友人、同僚、仲間、清廉で純粋で綺麗だった絆は、熱く粘り、重く焼け付く泥のような何かに変質した。

 それが何なのかは、まだわからない。

 これが愛なのか、俺達はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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