コハクダブルスターは、机と簡易的な布団以外には何もない、簡素な部屋の隅で蹲っていた。
自身の両耳に、両手を添えて。
かたかたと、小刻みに震えている。
一度、自分は気を失い。
気が付いた時には、この部屋にいた。
何故ここにいるのか。気絶している間、何が起きたのか。
誰にも聞いていないし、聞ける相手もいなかったものの。
推測くらいは――彼女の中でも、ついていた。
「……」
だからこそ、震える。
だからこそ、恐怖する。
だからこそ――後悔する。
やってしまったと。
『また』、やってしまったのだと。
目の前にあった、大切な繫がりを。
また。
滅茶苦茶にしてしまったのだ、と。
思い出す。
思い出してしまう。
どうしても。『あの時』のことを。
思い出したくもない、
痛ましい、過去を。……
「――あの子かね、『例の子』は」
低く、尊大な声の向かう先に、その少女はいた。
広い和風の一室にて。長めの芦毛を携えたその少女は、不安そうな面持ちで、周囲を見回している。
「えぇ。あれで『三代目』ですね」
それを確認したように、また別の声が応じる。
「『彼女』の到来から……何年待ったのかも、もうわからんな。わしも歳だ。もうこれ以上は持つかもわからん……この代で、何としても栄誉を築き上げなくては」
「ご安心ください。今度のトレーナーの腕は確かです。何より俺の弟ですから。いざとなれば、言葉と力で言うことも聞かせられる」
「それは心強い。……期待しようじゃないか」
尊大な声の男性――
厳格な和装の男は。
傍らに、それまで応じていた、スーツ姿の男性を携え――
少女の元へ、歩み寄る。
彼女が、今にも泣きそうな目を向けると。
和装の男性は、にこりと笑っていた。
そう、表情こそ、笑っていたが――
瞳の奥は、明らかに、笑っていなかった。
「……やぁ。お気に召したかな。『新しい』『おうち』は」
「……ぁ」
「それともまだ慣れないかな。なぁに、心配いらない。すぐに慣れるさ……」
「……お」
「うん? どうした?」
それを感じ取ったのか。
少女は、男の優しい言葉遣いにも関わらず。
怯え切ったまま。
蛇に睨まれた蛙のごとく。
震える声で、言う。
「おとうさんは……どこ……? おかあさんは……?」
「……必ず会えるさ」
するとそれに。
男は、言うのだ。
「きっと、いつかね……」
まるで。
舌なめずりする、蛇のように。
「――一体どうなっている!!」
書斎にて、男は怒り心頭とばかりに怒鳴り散らしていた。
「なんだこの成績は!! お前ともあろうものが、つきっきりで『トレーニング』してこの程度か!?」
「……申し訳ありません。これでも手を尽くしてはいるのですが……」
「言い訳は聞き飽きた!! 次だ!! 次の定期監査で、必ず結果を出せ!! それで無理なら強度を高めよ!! このままでは『特異点』の再来など夢のまた夢だ!!」
「……ですが。彼女の華奢な身体では、これ以上の強度は……」
「あぁ!?」
「……わかりました」
罵倒された男性――
短い黒髪に、眼鏡をかけた彼は、書斎から退室する。
ため息を吐くと、その足元――
傍に。
芦毛が揺れていた。
「……はは。ごめん。聞いてたかい?」
「……うぅん。だいじょうぶ……」
眼鏡の男性は、彼女に微笑むと、手を差し出す。
少女は、彼には心を許しているようで。
その手を、そっと取っていた。
「おこられてた……?」
「あぁ……まぁ。あはは。困っちゃうよね。僕らもこんなに頑張ってるのに。結果が出ないのは仕方がないじゃないか。ねぇ?」
「……ごめんなさい。こはくが、だめなせいで……」
「そんなことないよ。君は頑張ってる。とっても、とっても頑張ってる……」
肩を落とす少女の頭を。
男は撫で、口元を緩めた。
「大丈夫。きっと大丈夫だ」
そして、安心させるように、言う。
「大丈夫。……大丈夫……」
それからというもの。
和装の男性は、それまで訪れていなかったはずのトレーニングの場面へ、たびたび訪れては、『指導』という名の口出しをし始めた。
「――!! ――……!!」
出来が悪ければ罵倒し。
疲労してはぼやき。
時には、暴力にまで及ぶ。
その極限の生活は、徐々に少女の心を蝕んでいき。
それまで心を開いていた、眼鏡の男性の言動にすらも、怯えるようになり始めていた。
「――ですから、ウマ娘の指導は、一律でどうにかなるものではないのです!」
耐え兼ねた彼は。
和装の男性へ、直談判する。
「これまでの生活で、私は感じています。彼女はいわゆる『サヴァン』に近いものです。度重なる『配合』が、そういった『リスク』を彼女に負わせたのでしょう。ですからトレーニングも、相応の強度と頻度、そして内容のものにするべきです! そうすれば彼女の才能は……!!」
「それで……なんだ。どうにもならなかったら責任が取れるか。私にまた何年も待てと言うのか!?」
「盛者必衰です親父殿!! 永遠に栄え続けられる一家などこの世にありません!! これは運命なのです! 神の見定めた我らの引き際――いえ、もうそのような地点など、とうに通り過ぎています!! 我々の我儘に、あんな小さな女の子を付き合わせるわけにはいきません!!」
「女の子? オンナノコ? はっ、共に生きる中で情を抱いたか。道理で今まで、にっちもさっちも行かずに燻っていたわけだな」
必死の訴えにも関わらず。
和装の男性は、頑なだった。
「あれは道具だ」
「は……?」
「我らの栄誉の為の道具にすぎん。道具に情など持つでないわ!! そのような戯言を抜かす暇があるなら、さっさと次の計画でも策定しろ!」
「親父殿!!」
「それが出来ないのなら……ここから、『出ていって』もらっても、構わんのだがな?」
「っ……」
……眼鏡の男性は。
唇を噛み締める。
呼吸を整え。
踵を返したのは――
「……失礼します」
彼の言葉を。
受け入れたから、ではなかった。
彼の言葉を――いいだろう、と。
肯定したからだ。
「……コハク」
だから。
彼は、今日もまた、夜遅くまで眠れずにいる彼女に、声を掛ける。
びくり、と震え、見つめる彼女に。
彼は、胸を締め付けられるような感覚がした。
「……行くぞ」
そんな彼女に手を差し伸べ。
彼は、呼び掛ける。
「……え……?」
「行くぞ。着いてこい。今から……お出かけだ」
「お、おでかけ……?」
「そうだ」
優しく、暖かく。
出来る限り、柔らかく、微笑んで。
「……行こう、ここじゃないどこかへ」
言った。
「誰も、俺たちのことを知らない、どこかへ」