一ヶ月。
それが、URA側から提示された期間。
それまでに具体的な方策が示せなければ、URAの職員を派遣し、『強制執行』を行うとのこと。
案外長い――と、一瞬だけ思ったけれど、現状、あの子を助けられる方法は、精神的なケアを通じての『人格統合』――形成された別人格を、主人格と統合するくらいしかない。
そんな、字面だけでも難しそうなことが……
ほんの一ヶ月やそこらで、出来るんだろうか。
「……」
……グラウンドでは、相変わらず、生徒たちが走っている。
元気に、真剣に。でも楽しそうに走るその姿が、なんだか憎たらしく見える。
その光景が、遠い昔の記憶と重なって。
胸を、きりきりと締め付け始めた。
「おす」
その時。
聞き覚えのある声が、頭上から降ってきていた。
「元気そう……ではないか。さすがに」
「……シービーさん」
目を向けると、凛々しい瞳と目が合う。
彼女は、私の反応を見届けると、徐に、隣へと腰を下ろしていた。
……それからしばし。何も言わずに。
私と同じように、前を見つめる。
「……話は聞いたよ」
やがて。
薄ガラスを撫でるみたいな声で、言った。
「とんでもないことになっちゃった、みたいだね」
「……えぇ。本当に」
そのほんの少しの気配りが、私には妙に心地よく感じられた。自虐に近い感情で、口端が緩く上がるのを感じながら、私も応じる。
「つい先月くらいまでは、なんとかなるでしょってノリで走ってたのに。……はは。さすがにこんなの、気合いと根性だけじゃどうにもならないや……」
「そこは大人の役目だね。私たち子供じゃ……信じて待つしか出来ない」
シービーさんも、私と同じような感覚を抱いているのだろうか。その言葉の端々に、歯痒さのようなものが感じられた。
「……コハクちゃん、いい子なように見えるんだけどな」
「いい子っていうか……まぁ、変ですけど、悪い子じゃなかったです」
そう。
悪い子じゃない。誰かを傷つけることなんて……想像すら出来ないような、不思議で……自由な子。
「蝶を追いかけるのが好きで。何度も何度もドブに嵌まっても、懲りずにいっつも追いかけるんです。なんでかはわかんないですけど。あの惹かれ方は、普通には見えなかったな」
「ウララちゃんみたいだね。あの子は、単純に蝶が好きだから追いかけてるみたいだけど」
「どうなんでしょうね。コハクちゃんも……単に好きだから追いかけてるのかな」
でも、なんだかそれとは違う気がする。
その時のあの子の表情。少しだけ見たことがあったけれど。
単なる楽しさだけで走っているようには、見えなかった。
「ふふっ、全盛期のコハクちゃん伝説。是非とも実際に見てみたいね」
「どうなんでしょう……さすがに
「大丈夫大丈夫、レースにかまけて、そもそも授業出ない子とかもいるし」
「……一応学校ですよねここ」
シービーさん、私の言葉にけらけら笑っている。他人事みたいに言ってるけど、もしかしてあなたのことじゃなかろうな……
「はぁーあ」
とか思う傍らで。
シービーさんは、伸びをしていた。
「……なーんで、こんな頭の痛いことを考えなくちゃいけないんだろうね」
それから、空を見上げて。
そんなことを言い出す。
「ただ気の赴くままに走るのが、私たちの本分。名誉や栄誉なんて二の次。難しいことなんて何もなしにさ。走って、走って、ただ走ればいいのに……なんでそんな単純なことが許されないんだろ」
「……シービーさん」
「答えは一つ」
シービーさんは、短く言うと。その場に立ち上がっていた。
均整の取れた身体が、後光のように太陽を背負う。
「ニンゲンの、あくなき欲望のせいですっ」
浮かべられた笑みは。
痛々しいまでに、輝かしかった。
「名誉。栄誉。栄光。名声――そんな形のないもののために、自分勝手に振り回されて、危険だったら排除されて、平和になりましたねめでたしめでたし……ってさ。ホンットクソみたい。
で、それで何になる? 平和になっておしまい? じゃ、その子の意志は? 願いは? 未来は? ……全部土の中に埋め立てして、蓋して無かったことにするんですか。はは――バカも休み休み言えっての」
その口からは。
普段の彼女からは想像も付かないほど、強い言葉が連なっていく。
「私たちは――道具じゃない」
唾を吐きかけるみたいに。
空へと、言葉を投げかける。
「確かにここで……生きてる」
「……」
「はぁーあ」
見上げたその表情は。
もはや、見えないけれど。
「……誉れなんて。無ければよかったのに」
あまりに壮大な、その願いは。
どこか、空虚な響きで空に溶けていく。
それを上書きするみたいに。
グラウンドから、威勢のいい声が響き始めた。
「……私は」
そんな彼女に。
私は、言う。
「……私は、そうは思いません」
「……ほぉ?」
「だって」
彼女の気持ちはわかるけど。
その、あまりに大局的な物の見方は、素晴らしいと思うけれど。
でも。
そればっかりが、答えじゃない、とも思った。
「そういう、目指すものがあるからこそ……私たちは、頑張れる。勝利や敗北を味わって、時に嬉しがって、哀しがって、感情の奔流に惑わされながら、投げ出しちゃいたいって泣いたりもしながら……それでも、そうして、強く、成長できるって、思うんです。
……それより。何より」
そう。
それに、それよりも。何よりも――
「……『それ』があったからこそ」
それが。
あったからこそ。
「素敵な皆と……出会えたんですから」
私は、ここに来られて。
みんなと、出会えたんだから。
始まりの地で。
掛け替えのない親友と、出会えたのだから。
……コハクちゃんと。
出会えたのだから。
悲しいこと、苦しいことばかりじゃ――ないと。
私は、思う。
「……」
「……」
目を丸くして、こちらを見下ろしているシービーさんから、私は、目を逸らしていた。
「……ご、ごめんなさい。私みたいなちんちくりんが、知ったような口利いて……」
「あぁ……いやいや。全然、そういう意味じゃないよ」
慌てて言うと、シービーさんは、達観した笑みを浮かべていた。
「はは。こりゃ一本取られたな」
「まぁ……綺麗事、って言われたら、それまでですけどね」
「んーん。綺麗事も、時には大切さ。それを願い続ける気持ちが、事態を切り開くこともある」
それから、そう返すと。
座り直し。私に、寄り添ってくれた。
「……考え続けよう」
言葉は。
優しく、柔らかな色を伴っていた。
「どうにもならなくても。……後悔しないように」
「……はい」
それは、黒く淀み始めていた私の心を。
光芒のように、暖かく、抱擁してくれていた。