――追ってくる。
コハクは、そう感じていた。
どれだけ逃げても。どれだけ走っても。
あの人たちは……どこまでも追ってくる、と。
これまでは違ったのに。
誰も追ってこなかったのに。
逃げて、逃げて、逃がされて、逃がされて。
追ってくる人なんて……誰も、いなかったのに、と。
どうして。
どうして自由にしてくれないのか、と、彼女は思った。
もう迷惑を掛けたくない。
もう誰も傷つけたくない。
そう思って、そういう配慮で、自分は、みんなから距離を置こうとしているのに。
距離を縮めてはだめなのに。
突き放さないといけないのに。
そうしてずっと、ずっと、やってきたのに。
どうして。――どうして、と。
「……はっ、はぁ、はぁ……」
ぶっ通しで走り続けたせいで、彼女の息は、もうすっかり上がってしまっていた。
それまでの速さも、すばしっこさもない。
疲れた、と、その動きは、やがて徒歩にまで変わる。
辺りはすっかり暗くなり。
人っ子一人、見当たらない。
あれだけいた追跡者も、振り切ったのか、見当たらず。
文字通りに――今、自分一人だけとなる。
「……」
そうなった時。
彼女は、果たして自分は、どこへ向かうべきなのか、と考え始めていた。
自由になる。それはいい。
好きな場所へ行く。それがいい。
それなのに、そうだというのに、肝心の自分の心は、どこへ行きたいのかを教えてはくれない。
どこへ行けばいいのかもわからないし、どこへ行けるのかもわからない。
自由になったはずなのに。
自由を手にしたはずなのに。
何故だか、苦しくて、辛くて、悲しくて――
寂しい。
「……」
ぐちゃぐちゃと。
難しい事柄が、混沌と頭の中で回る中。
やがて彼女の目に、『それ』が映る。
「……」
それは。
ある建造物。
長大な壁を持つ、あまりに巨大に過ぎるせいで、その全貌が一目では把握しきれない、巨大な、建築。
それを見た彼女は。
惹かれるように、そちらへと、歩いていた。
その施設の中へは、簡単には入れない。柵のようなもので囲われ、入り口のようなものも見当たらず、それに沿って歩いていくばかりでしかなかったが――
やがて。
無骨な門が、目の前に現れていた。
「……」
当然ながら、その門は閉ざされており、その先へと到達することを、無言で拒んでいる。
その威圧に圧倒されながらも、彼女は門に手を掛ける。
がしゃがしゃと前後に揺らし、その気になれば壊して中に入れそうだ、などと物騒なことを考え始めた。
その刹那。
「――中に入りたいの?」
「――っ!!」
突如声を掛けられ、彼女は勢いよく振り返る。
後ずさり、門を背中にぶつけるが。
それ以上は、特段の動きはなく。コハクの目が、自然、上へと向く。
「……」
そこに。
人が立っていた。
ウェーブのかかった黒髪に、夜だというのに日傘を差したその人物は、月明かりの下、妖艶な微笑みを浮かべている。
その手は、徐に自身のポケットを弄り――
「……お待ちなさい」
言葉と共に。
何かを差し出していた。
それは、個包装された飴玉であり、表面には『禁断の! 納豆×サイダー味!』と書かれている。
コハクは恐れることもなく、それを開き、口の中で転がし始めた。
さなかで――
女性は、門の前にしゃがみ込む。
そこで、何やらがしゃがしゃと作業をしたかと思うと。
「――さ、入りなさい」
門は――あっけなく、開かれていた。
軋みを上げた門を、コハクダブルスターは、恐る恐る、潜り抜ける。
広大な敷地――ひっそりと静まり返ったその場所で。
周りを見回しながらも、向かう先は――
『外』からでも見えた、最も大きな施設。
間近で見ても、まだその全貌も、用途もわからない――巨大建築物。
その施設もまた、物言わぬ扉によって、侵入が拒まれていたが。
「……」
先の女性が、扉で何か作業したかと思うと。
「……どうぞ」
あっさりと、開いていた。
導かれるまま。
案内されるまま。
コハクダブルスターは、歩き続ける。
彼女は――
もちろん、『ここ』に来たことはない。
こんな巨大な設備を、利用したことなどない。
それでもなぜか、胸は昂り、鼓動は早まり。
その早まりに従うまま、見知らぬ設備の中を歩いて、歩いて、歩き続けて――
やがて。
それが、目の前に、広がっていた。
「――……」
新緑の芝が、隅々まで生えた。
テレビの画面でしか見たことのなかった――
幾度も、憧れ、訪れることを願った――
あの場所。
――競技場、だった。
「……」
心が休まる。
想いが落ち着く。
ラチの近くにまで歩いていって。
吹く風に身を委ねる。
目を閉じると。
まるで、家に戻ってきたような。
帰るべき場所に帰ってきたような。
見果てた親の腕に抱かれたような。
安堵で、胸がいっぱいになる。
テレビの奥に観た音が。
響いていないはずの歓声が。
声援が。
今、実際にそこで響いているかのように。
頭の中で、反響し出した。
「……」
思い描く。
ここを走っている自分を。
思い連ねる。
ここで、頑張っている自分を。
顔も知らない誰かと。
名前もわからぬ誰かと。
そのどちらもが、分かり切っている親友と。
走っている光景を。
思って――
「…………」
暗闇の中。
誰もいない世界の中で。
どうしようもなく。
走り出したくなる衝動に、駆られ始めた。
「――!」
その時。
そんな暗闇を、眩しい光が切り裂く。
競技場に設置された巨大なライトが。
突如として、一斉に点灯したのだ。
「……」
それに驚くのも――束の間。
どたどたと、騒がしい音は、背後から。
勢いよく振り向いた――先に。
「――コハクちゃん!」
「よーやく追い付いたで……!!」
「もう逃がしませんわよ……!!」
「……」
何人ものウマ娘が。
現れていた。
誰もが、これまで逃げてきた中で、会い、見て、声を掛けられ――
追ってきた。
執念深い、追跡者たち。
「…………」
コハクダブルスターは。
それまで、恐怖を覚えており。
それに駆られるまま、逃げ続けていた。
しかし不思議と、今、この場所で目の当たりにした彼女らには。
そのような恐怖は、湧き上がらず。
「……」
代わりに。
というように。
「……っ」
その口元を。
楽しそうに、吊り上げると。
「――やってみな」
彼女らに。
背を向けていた。
「――そう思うなら――捕まえてみなっ!!」
それから。
挑発的に呼びかけると――
走り出す。
広大な――その場所を。
東京競技場の中を。
一目散に、走り始める。……
「……」
顔を見合わせた、ミザールたち追手は。
しばし、その場に立ち尽くす。
それが何を意味するのか。何を意図してのことか。いまいち、測り兼ねているようにも見えたが。
「――はは」
楽しそうに、笑っていたのは。
トウカイテイオーだった。
「いいじゃん。いいじゃん! そういうことなら、追ってあげるよ!」
次いで、そう言い。
走り出したコハクダブルスターの背を、追い始める。
「……せやな」
それに。
「仕方ありませんわね……」
他のメンバーも。
「おし! 生意気言ったこと、後悔させてやるぜっ!」
次々と――呼応していた。
それぞれ持ち寄った道具や武器の数々を、その場に投げ捨て――
『待てぇーッ!!』
一斉に。
彼女を追って、駆け出していた。