背後から猛然と追い上げてきたコハクダブルスターに、結局は追い付かれなかったものの。
レース終わり――息を整えつつ、振り返ったナリタブライアンの元に。
彼女は――飛び込んできていた。
「――っ」
さすがに、そんな展開は予想外だった。
ブライアンは、その勢いを殺せず。
背後へと――倒れてしまっていた。
背中に走る、控えめな衝撃――
ほどよい硬さの地面との接触に、鈍い痛みを感じながら。
「――えへへーっ! 捕まえたっ」
彼女は、視界の下から現れた。
その姿を見つめた。
「これでわたしの勝ちっ! そうだよねっ。あ、でもレースは負けか。まぁ、いいや! 楽しかったからっ」
「……お前なぁ」
「えへへー! 勝ち勝ちー! わたしの勝ちーっ!」
「いや……そうは言ったがな……」
無邪気にはしゃぐコハクと、呆れた声で返すブライアン。
二人の姿は、和気藹々としたものだったが。
次々とゴール板を通り過ぎては、それを確認した周囲には。
少しばかりの緊張が漂っていた。
『前例』を間近で経験しているがために――
何が起きてもいいように、誰もが、自然、身構える。
「――ブライアン! 平気か!?」
それを証明するかのように。
駆け寄ってきたルドルフは、即座にブライアンへと声を掛ける。
焦燥に駆られた瞳と。
コハクの、透き通った瞳とが、そこでかち合う。
「……あれ」
ルドルフは。
常に厳格な佇まいで、何事にも滅多に動じない。
気の抜けた声など、そうそう聞けるものではないのだが――
それでも彼女は。
面食らったかのように、どこか間抜けな声を漏らしていた。
「……?」
そんな彼女の気持ちもいざ知らず。
コハクは、不思議そうに首を傾げている。
「……だれ?」
「シンボリルドルフ。私たちの……頼れる会長だ」
「しんぼる……え?」
「というか、」
訊き返す彼女に、ブライアンは、上半身を起こしつつ、言う。
「そろそろ降りろ。起きれないだろう」
「ん、ごめんなさい」
ブライアンの苦情に、コハクは素直に従い、彼女の隣へと座り直した。その、異常とはあまりに無縁な様子に、周囲の緊張も、徐々に薄れ始める。
「……君、」
ルドルフは。
その変化に押されるように、口を開いていた。
「もう……大丈夫、なのか?」
「ん? 大丈夫……?」
「いや……ちょっと待ってくれ」
「……??」
彼女は、コハクの元へと歩み寄り、同じように膝をつく。間近でその瞳を観察するが――そこには、自分の姿が映るばかりだ。
大多数のウマ娘と、同じように。
『普通』の瞳があるばかりだ。
――あの。
最初、会った時に覚えた、あの。
深淵を覗き込むかのような、嫌な感じは――
もう、ない。
「……『あの子』は」
それを確認して。
慎重に、ルドルフは訊ねる。
「『あの子』は……どうなった?」
「え? あの子?」
「そう。その……君の、もうひとつの……」
「……とぱーず君のこと?」
「たぶんそれだ。いなくなったのか? もう……」
それは確認だった。彼女は、本人格とはもう一つの、凶暴な人格を有していた。
今、目の前の彼女は、明らかに変わっている。
その人格は――今もまだ、宿っているのか。
それとも、消えてしまったのか。
「どこにも、いないのか?」
「んーん」
その問いかけに。
彼女は、首を横に振って、応じる。
「いるよ、今もまだ」
「……! いるのか!? まだ――」
「うん。わたしの胸の……ここんとこに」
それに、ルドルフは、思わず顔を強張らせて詰め寄るが。コハクは落ち着いて、自分の胸――さらに言えば。
心臓の辺りに、手を当てて、答えていた。
「……今もまだ、いる」
穏やかな瞳で。
慈しむように――言う。
「ずっと……わたしを、見守ってる」
「……」
ルドルフは。
その言葉の意味を、直感的に理解していた。
その優しげな言葉に。
心配はもはやいらないと、確信し。安堵していた。
「……そうか」
「コハクちゃん」
安心しきった声で。
ルドルフが、言うと同時。
歩み寄ってくるのは、栗毛のポニーテール。
「――あ、みざーるちゃん!」
それを確認したコハクは、ぱあ、と表情を明るくすると、とてとてと彼女の元に駆け寄り。
ブライアンへそうしたように、その胸へ飛び込んでいた。
「えへへー! 久しぶり! 元気してた?」
「え、あ……元気してたけど……あれ……?」
「? どうしたの?」
「あ、いや……」
サファイアミザールは、これから説得する、という気概で近付いてきていた。
ルドルフが深刻そうに話すものだから。
気持ちを整え、決心を胸に、近寄ったのだが。
それを、あまりに緩い空気に、無邪気に壊されたものだから。
呆気にとられ、困惑した声しか発せられない。
「えっとその……想像となんか、違ってたというか」
「想像? 変なの! まるでわたしが変みたい! あははー!」
「いや、まぁ、その……えーっと……」
「……」
微笑ましい。
母と娘のようなやり取りに、ルドルフは慈愛の笑みを浮かべ。
周囲もまた、それに当てられたのだろう――漂っていた緊張は、その場からすっかり追い出されていた。
ともあれ。
一件落着か――と、気を取り直す。
「――さぁ、みんな撤収だ!」
そして、一つ拍手をし、思い思いに会話する彼女らに、呼び掛けていた。
「なんかまぁ……事後処理とか色々あるだろうが、ひとまずいい! 一刻も早くここから出るぞ!」
そう。悠長に過ごしていることはない。
なぜなら、自分たちが今いる場所は。
今、立っている場所は。
本来なら、今の時間。立ち入ることすら、許されない場所なのだから。
『……』
すると、その場に居合わせた誰もが、現状を思い出したのだろう。
わ、と慌てふためいて、我先にとそこから退場し始める。
調子がいいな、と苦笑しながらも、彼女もまた、『彼女ら』に目を向ける。
「……我々も出るぞ。警察でも来たら面倒だ」
「むしろ来ないのが不思議だがな。……ほら、行くぞ」
「――うー」
それに従い、ブライアンも、ミザールも歩き出そうとするが。
「……もう動けない……おんぶー」
「お前なぁ……」
「あはは……ごめんなさい。コハクちゃんって、こういう子なので……」
呆れたように言うブライアンに、ミザールは申し訳なさそうに言った。
「今日だけでいいので……付き合ってやってくれませんか?」
「……」
平身低頭に頼む彼女に、ブライアンは、息を吐いていた。
「……ほら」
「ん……ありがとう」
コハクダブルスターは、促されるまま。
彼女の背中に収まる。
「……」
それが、よほど居心地よかったのか。
彼女は――収まるなり。こてん、とすっかり身を預け。
「……、……」
寝息を、立て始めていた。
「……コイツ」
「あの、ほ、本当にごめんなさい……今日だけ、今日だけでいいんで、我儘を聞いてあげてください」
もはや呆れを通り越し、苛立たしげに言うブライアンに、ミザールは、祈るように再三頭を下げた。
「……色々、ありましたから」
「……」
その言葉に。
ブライアンもまた、再三息を吐き。
「……今日だけだぞ」
ぶっきらぼうに言うと。
会場の外へと、ゆっくり、歩き出していた。