「――正直お前の場合は、そう難しく考えることはない」
レース前の控室にて。
西崎は、ガーネットカペラに言っていた。
「確かに今回のレース、どいつもこいつも無視できない猛者ばっかりだが……それは奴さんにとっても同じだ。かの『皇帝』でもなけりゃ、嫌でも意識して、勝手に垂れてくれる」
彼はにやりと笑うが。
その笑みは、いつもよりも、あくどいものに見えた。
「お前はその時まで、しっかり脚を温存しろ。そして全体の調子が崩れ始めた瞬間を狙って……きっちり刈り取るんだ」
「シンプルイズベストってやつだな」
「そういうこった」
「おし」
その作戦に、カペラも異議はなかった。彼の言葉に、力強く同意する。それに、西崎も満足そうに頷いた。
「……お前の最大の武器は、その底抜けのスタミナと加速力だ。タイミングさえ見誤らなけりゃ、十分に勝機はある」
「クラシック級に一着をもぎ取られたアイツらの顔。拝んでみてーもんだぜ」
「ある意味、お前も
冗談っぽく笑う西崎に、カペラもまた、悪そうに口元を吊り上げていた。
「――ん」
そんな控室に――
控えめなノックが響く。
「どうぞ」
「……失礼します」
それは、西崎には聞き覚えのない声。
そして、見えた姿も、見覚えのないもの。
だが、カペラには――見覚えが、あった。
それは、最後のブラックレースの後。
真っ白な病室にて。
包帯に覆われた、痛々しい顔で。
自分を、親の仇のように見つめていた――
茶髪。
「――お前」
その、名も無きウマ娘は。
すっかり五体満足となっていたが、どこか様子がおかしい。
その手には、茶色の紙袋を抱えて。
もじもじと、縮こまっている。
「……あー」
それを見て。
西崎は、後頭部を掻いていた。
「じゃ、俺は外にいるから。何かあったら伝えてくれ」
「あ……お、おう」
それから、そう言い残すと。
控室から、立ち去る。
あとに残された二人は――
「……」
「……」
気まずい空気の元。
抑え込まれたように、黙り込む。
壁越しに、客席の熱狂が、低音となって響く中。
「……何しに来たんだよ」
カペラは、冷たい声で言った。
「なんだ。まさか、あたしに嫉妬してヤりにでもきたのか? その袋の中、やべーもんが入ってんじゃねーだろうな」
「……」
「つーか最近どうなんだよ。真っ当に生きてんのか? あ? まさか他県回ってブラックレースに出てんじゃねーだろうな。だとしたらいよいよ救いようがねーぞ」
「……」
「それとも日雇いバイトか? いや、別にバカにしてるわけじゃねーぞ。あたしら、力だけはすげぇからな。それだって立派な……」
「……」
「……」
「……」
「……なんか言えよ」
「……今日は」
少女の声は。
消え入りそうなそれだった。
『あの日』に聞いた、攻撃的なそれとは全く違う。
よく耳を澄まさなければ、聞き逃してしまう類の、それ。
「……頼みがあって、来たんだ」
「頼み? なんだ? 負けてくれってか?」
「ち、違う! いや、そ、その……」
「……?」
声を張り上げたかと思えば、更に黙り込む。彼女は俯き、袋を抱え込み、あまりに要領を得ない話に――
カペラは、若干ながら、苛立ち始めた。
「……なんだよ。言いたいことあんならさっさと言えよ」
それに押されるように、彼女に言う。
「もうそろそろターフに行かなきゃいけねぇんだよ。悪いけど、お前の決心がつくまで待ってもいられねぇぞ」
「……」
「……なんなんだよもう」
なおも黙りこくる彼女に――
カペラは、怒りをも通り越し。
呆れを抱き始めた。
「……っ」
その時。
少女は、紙袋を、がさがさと漁る。
その動きを注視したカペラに。
彼女は、そこから取り出したそれを、差し出していた。
「……お前」
それを見たカペラは。
目を見開く。
彼女が両手で差し出していた、それは――
フードの部分が、乱雑に切り取られ、縫い合わされた。
真っ赤なパーカーだった。
「……」
見覚えのある、どころではない。
見慣れた、見飽きたほどに、見つめた。
かつて、自分がトレードマークにしていた――
薄汚れた上着。
「……頼む」
少女は。
それを差し出し、視線を下げたまま、言う。
「頼む。今日のレース……」
言った。
「これ着て……走ってほしいんだ」
「……はぁ?」
そんな頼みに――
カペラは、素っ頓狂に声を上げる。
それから、胸の中に。
ふつふつと、熱い何かがこみあげてくる。
「……ふざけんなよ」
彼女の声は。
鋭く、尖っていた。
「寝ぼけたこと言ってんじゃねぇよ。あたしはもう――」
まるで、少女を突き刺すように。
カペラは、威圧的に言うが。
「――わかってる!!」
少女は。
それに負けない程の大声で、応じていた。
「……わかってる。わかってるんだ。もう、お前は……『フード』じゃない」
思わず、声を引っ込めたカペラに。
少女は、続ける。
「あいつはもう、どこにもいない。あんたはカペラで……あの日、確かに死んじまった。もう、ブラックレースを賑わせた背中は……どこを探しても、ない」
震え始めた声で。
言う。
「……でも。でもよ……」
視線を上げないまま。
言う――
「あたしにとって……あたしたちにとって。あんたは今でも……『フード』なんだよ」
カペラは。
それを、黙って聞く。
「あたしが、あたしらが。愚直に、真っ直ぐに、泥臭く、『真っ当に』目指した! あたしらの憧れで、あたしらの『希望』なんだよ!!」
「……」
そこで、顔を上げた彼女の顔は。
既に。涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「……わかってる。こんなこと、簡単なことじゃないって、わかってる」
それでも。
彼女は、続ける。
「でも……でもさ。最後の我儘だって思って……聞いてくれよ」
求めるように。
「あたしらでも……まだやり直せるんだって、思わせてくれよ」
願うように。
「あたしらでも、そこに行けるんだって、思わせてくれよ」
祈るように――
言った。
「――ッ、あたしらみたいな『クソ』でもっ、夢見ていいんだって!! 信じさせてくれよっ!!」
「……」
カペラは。
しばし、何も言わなかった。
客席の熱狂が、彼女らには遠のいて思え。
世界に、二人しかいないような錯覚すら抱いた。
「……、」
果たして。
「……貸せ」
カペラは、言う。
「へ……」
「貸せよ、それ」
「……」
少女が、服を差し出したまま、一歩を踏み込むと。
カペラは、やや乱暴にそれを受け取る。
「……はっ」
畳まれたそれを開いて。
彼女は、自虐するように笑っていた。
「マジでフード切り離しただけじゃねぇかよ。砂埃とかもついたまんまだし。クリーニングにくらい出せっての」
「……」
「……」
俯く少女を。
カペラは――一転。
優しい微笑みで、見て。
「――」
そして。
その服に――袖を通していた。
「……!」
少女は。
その光景に、目を見開く。
服を着たカペラは――
「……いいぜ」
言っていた。
「『峠のレッドフード』。『ブラックレースの申し子』――
これで――『走り納め』だ!!」
少女は。
名も無きウマ娘は。
観客席の上の席から、『彼女』の雄姿を見ていた。
「……」
終盤になって――
一気に追い上げ、先団に入った『彼女』。
それを見て。
かつての屈辱を。
悔しさを。
感情を。
記憶を。
思い出し――
「――ばれ」
自然。
声を、張り上げていた。
「――がんばれッ!! カペラァァァッ!!」