秋川やよいが、執務机に座りながら大窓の外を見つめていると、控えめなノックの音が理事長室内に響いていた。
どうぞ、と返す彼女の声は、どこか気だるげだ。それに何かを察したのか、扉の外からの『失礼します』、という声も、心なしか遠慮しているように聞こえた。
駿川たづなが、理事長室に入室する。
秋川は、いつもと異なり、それに背を向けており、目を向けるそぶりも見せない。
たづなは、声なき威圧に気圧されながらも――
持参した書類の束を抱え直した。
「……理事長。仰せつかった資料です」
「そこに置いといてくれ」
「……」
何事かを思案しているのか。
それとも、単に機嫌が悪いのか。
測り兼ねたが、それでも、何も言わないまま、というわけにもいかず――
「……あの、」
執務机に資料を置いたたづなは、恐る恐る、問いかけていた。
「どう……お思いですか? 今回の件……」
「……感想か?」
「なんでも」
「そんなもん、一言で済む」
キィ、と椅子が軋みを上げる。秋川は、斜めの方向から振り向く、という、いつもとはまるで異なる挙動で、たづなに目を向けていた。
その瞳には――
彼女らしからぬ、憤怒の炎が燃えている。
「――
短くも重い一言を告げ、彼女はようやく正面へ向き直る。
外見はうら若き乙女、言動も時折、本当にこの人が理事長でいいのかと疑いたくなるものが飛び出すが――
それでも。今回のような振る舞いを見ていると。やはりこの方は、トップを負う覚悟を持つ者なのだな、と実感せざるを得ない。
「そもそも、なんだあの稚拙なやり方は。あんなもんで、本当に学園が倒れると思っているのか」
「ですが……こちらが、本来なら不要な『攻撃』を受けているのは確かです」
たづなが応じると、秋川は嘲るように鼻を鳴らした。
「まるで誘蛾灯に集る蛾だな。そうでなければゴキブリだ」
「実際……時間を掛ければ、『受けきる』ことは出来るでしょう」
「しかし、時間が長引けば長引くほど、『生徒』へのリスクも高まる」
「……でしたら、目的は」
たづなの言葉に、秋川は頷いた。
「私の退陣、だろうな」
そう言って。
机上に置かれた資料を手に取る。
何枚かめくった後、彼女の動きは止まり。
その眉が、不愉快そうに顰められていた。
「……やはりか」
「えぇ。見立て通り、『十年前』の」
「ただでさえ年明けで忙しい時にこの男は……」
「むしろ、それを狙ったのかもしれませんね」
「だとしたら、」
秋川は、手にしていた資料を荒めに机上に戻す。纏った威圧的な空気は、簡単には鎮まらず。
「奴は、我々を無礼ている」
「……どうします? 声明を出しますか?」
「……炎に自ら飛び込む虫はいるが、我々は生憎と虫じゃあない」
それでも、彼女の頭の中は、飽くまで冷静に、落ち着き払っていた。
怒りに燃えながらも。
踏み出すタイミングを、慎重に、見極めていた。
「もう少しほとぼりが冷めたら……だな」
「それまで静観、ですか」
「以外にはあるまい」
炎に水を掛けようとしたのに、その水が油である可能性もある。
下手に手を出し、突然に炎が吹き上がり、火傷を負うこともある。
ならば、ある程度収まるまでは静観を決め込んだ方がいい、と彼女は考えた。
生徒にはその間、肩身の狭いを思いをさせてしまうが――
致し方ないことだと。胸の痛みを覚えながらも。納得するしかなかった。
「――ん」
そんな風に、二人が話す室内――
新たなノックの音が、来客を告げる。
どうぞ、と秋川が告げると――
失礼します、と、威厳溢れる声と共に、ノックの主が入室する。
「……」
その姿を見て、秋川は、いつものように笑わなかった。
予感のようなものを感じ――
ほんの一瞬、睨みつけるように視線を投げてしまっていた。
――シンボリルドルフだった。
「……」
彼女が、その睨みに気付いたかどうかは定かではない。
ただ、その事実を無かったことにするかのように、秋川の表情は、一瞬にして、明るい笑顔へと変わっていた。
「――おぉ!! シンボリルドルフではないか!! 一体何用でここまで来たのだ!?」
「……理事長」
そう――
ルドルフが、彼女の本懐を汲んだかどうかは、定かではない。
それでもルドルフは、それを見抜いていると思われても仕方がないほど、深刻な声色で、彼女に言っていた。
「……何か我々に、出来ることはありますか」
「……」
刹那――
そのにこやかな笑みに、翳りが生じたことを、ルドルフは見逃さなかった。
「……あると言ったら、どうするのだ!?」
「我々は学生ではありますが」
だから、彼女は言う。
「だからといって、何もしなくていいとは思っていません。私に出来ることがあるのなら、粉骨砕身、尽くす所存です」
秋川は、それを黙って聞く。
「嵐は待っていれば去りますが。去るまでは待ち続けなくてはなりません。早く追いやることが出来るのなら、それに越したことはない」
秋川は、それを黙って聞く。
「生徒の将来の為にも――そのためのあらゆることを尽くす覚悟が、私にはあります」
秋川は。
それを、黙って聞く。
「ですから理事長。遠慮なく我々を「あぁー、ルドルフ」
秋川は。
それを、黙って聞いていたが。
やや乱暴に言葉を遮ると、ちょいちょい、と手招きしていた。
「ちょっと来るといい」
「……なんでしょう」
耳打ちしなければならないような、重要な用事か。
それとも、何か冗談でもかますつもりなのか。
有り得そうな可能性を脳裏に描きながら、ルドルフは近づき――
机の前に到達した。
その時だった。
「――っ!?」
ぐい、っと。
襟首を掴まれ、引き寄せられる。
気付けば、自分は秋川と目と鼻の先で顔を合わせており。
彼女のその瞳と。
確かな決意の揺れる瞳に。
間近で、晒されることとなっていた。
「――余計なことはするな」
次いで、告げられた言葉は。
普段の彼女からは想像も付かないほど、低く、重かった。
「いいか。これは我々『大人』の仕事だ。『子供』は首を突っ込まずに、目の前のことに励んでいろ。いつ日常が戻ってきてもいいように」
「――し」
想定外の出来事に動揺するも、一瞬。
ルドルフもルドルフで――平静を取り戻し、それに対応する。
「……承服しかねます。理事長の言うことには一理ありますが、このような危機に、何も手を出さずに黙っていられるほど、我々も利口ではありません」
「
「私はその覚悟を持っているつもりです」
「私が納得しない。……いいか。とにかくじっとしていろ。私たちに任せておけ。心配せずとも、何も悪いことにはならない」
「理事長――」
「それともなんだ」
それでもなお。
それでもなお食い下がるルドルフに、秋川は、声の圧を強めていた。
「私たちが、信用出来ないとでも?」
「……」
思わず、固唾を呑むルドルフ。秋川は、何事もものともしない。何も見ていないように。何でもないものを見るように。お互い、ただ刻々と、時間がほんの少し過ぎ。
徐に。
秋川は、手を離していた。
「――そういうわけだ! 学園諸君は、しっかり青春を謳歌したまえ!」
「……理事長」
「青春を、」
ルドルフの精神もまた、強靭だった。
諦め切れない、とばかりに、食い下がろうとする彼女に――
「謳歌したまえ?」
秋川は、見た目相応の少女のような、可憐な挙動で小首を傾げるが。
ルドルフには、それがひどく不気味で、恐ろしいもののように思われた。
普段では見られない、底知れない威圧に抑え込まれ――
さしもの彼女も、観念する。
「……わかりました」
「うむ!」
とうとう、諦めが着いたように。そう言い、ルドルフは頭を下げた。
「では……失礼します」
「うむ! また進捗があたら連絡しよう!」
彼女は――理事長室を後にする。
娘のように接してきた彼女に、こんなふうな当たり方をするのは、秋川とて不本意ではあったが。
こうでもしないと諦めてくれないからな――と、息を吐く。
安心しろ、と。
意地でも、君たちの日常を取り戻してみせる――と。いつもより小さく見える背中に、誓いを建てていた。
――しかし――
実のところ。
「……」
今回ばかりは、一枚上手を行っていたのは――
ルドルフの方であり。
「……」
理事長室から出て、少し歩いたところで。
彼女の携帯電話が鳴る。
「……エアグルーヴ」
『会長。会場を抑えられました』
「……、」
頼れる副会長からの言葉を聞き、しかしルドルフは思わず吹き出す。
電話口の向こうで、エアグルーヴが怪訝そうに声を漏らした。
『何か?』
「
『切りますよ』
「ははは。すまない。いや、ジョークを言う場面じゃなかったな」
ともあれ、と咳払いをしたルドルフは、理事長の顔を脳裏に思い描く。
――申し訳ありません、と。
「それで、時間は?」
『明日の12時です』
「ふむ。では生徒には事前に伝えておいてくれ。くれぐれも、トレーナーや教諭のみんなには漏らさないよう」
自分はやはり――
利口にはなれない、と。
「彼女らには……そうだな。30、15……いや、5分前になったら伝えよう」
勝手ながら。
動かせてもらう、と――
「――表明するぞ。私たちの『決意』を」
翌日の食堂。
テレビの周りに、数多の生徒が集まるところを、タマモクロスたち――
タマモクロス、メジロマックイーン、ゴールドシップ、オグリキャップ、サクラチヨノオーの五人は、遠めの席から見ていた。
「――ちゅうても、何する気なんや会長は」
タマモクロスは、後頭部で手を組みながら、訝しげに言っていた。
「こんなもんに対抗するなんて、簡単なことやないやろ。テレビ使こてどうにかなるもんなんか?」
「あの方にはあの方なりの考えがあるのでしょう。滅多なことはしないでしょうし、とにかく信頼して見守るしかないですわ」
それもそうだが、とタマモクロスはマックイーンの発言に同意するも、不安にならずにはいられない。それはシンボリルドルフの実力を甘く見ているからではなく、単純にどうにか出来る気がしなかったからだ。
このような事態――若輩者の自分達では。
収拾出来る気がしない、と思ったからだ。
「なー、どうする? テレビに出てきてダジャレ百連発とかし出したら」
「あなたじゃないのですから、そんな奇行しませんわよ」
「ふっ、甘いな。ゴルシちゃんだったら千連発はイケるぜ」
「張り合うところじゃありませんの!」
「オ、オグリさんすごいですね……この状況でもそんなに食べられるんですか……」
「腹が減っては戦は出来ない」
「でも、そんなにご飯盛られてたら、テレビ見えなくないですか?」
「大丈夫。ちゃんと調整する」
調整てなんやねん、とタマモクロスは心の中でツッコミながら、テレビ画面を見つめ続けていたが。
「――あ」
「?」
やがて、声を漏らしていた。
それまでお昼のバラエティーを映していたテレビ画面が――切り替わっていたからだ。
それは、夢というよりも。
フラッシュバックに近かった。
「――と、トレーナー……」
膝に手を突いた彼女は、ぜえぜえと荒く呼吸を繰り返す。
汗は滝のように滴り、足取りも見るからに覚束ない。
とても練習なぞ出来る状態ではない、ということは誰の目にも明らかだった。
「お、お願い、します。休憩を……」
「駄目だ」
わかっている。
わかっているのだ。俺も、彼女が限界であることくらい。
それでも。
それでも、その求めには、応じられなかった。
「もう一周だ。それで判断する」
「でも、そう言って、もう何十周も……」
「口答えするな! お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ!」
「……う」
泣く。
彼女は、泣く。それに、胸を、抉られたような感覚がする。
「いって……きます……」
泣きながら。
彼女は、行く。
それに、首を、絞めつけられたような感覚がする。
思うに、この時には既に、何かがおかしくなっていたのだと思う。
最強であれ。
最速であれ。
最高であれ。
最大であれ。
名誉と栄誉を守りたいがために、人としてやってはいけないことをいくつもやった。
要望を聞かず。
生活を顧みず。
人柄を踏みにじり。
まっ平にして、ただ走るだけの道具を作った。
成長は限界の先にある。
だから限界の、更に先の、先の、先を目指し――
急速で、特大な成長へと繋げようとした。
なんでもやった。そのために。
何もやらなかった。そのために。
一人、また一人と脱落し、屍と化していっても――
何も考えず、感じず、ただただ、指導を続けていた。
そうしなければならなかったんだ。
そうでなければ、そうして、名誉も栄誉も手放すことになれば――
屍になった子たちは
一体、どうなるんだ?