その部屋で、私は電話をかけている。
きっと忙しいのだろう、電話はなかなか繋がらない。
ただ、かといって諦めるのは、これから起こることのためには、決していいことじゃない。
だから、根気よく、根強く、電話が繋がる時を待って、
「――あ」
ぶつ、という特徴的な音と共に、繋がったことを感じる。
「も……もしもし。あ……うん。えへへ。久しぶり」
そうして、出てくれた相手に。
私は、話す。
「……お父さん」
「号外! 号外ー!!」
街では号外の新聞紙が配られ。
飛ぶように売れていく。
世間の関心はそこに集中し。
トレセン学園もまた、過去に例を見ないほどの注目を浴びていた。
正門前は、もう、怒号を上げる人々はいない。
いつもの、日常の風景に戻っている。
それでも生徒たちは、学園から出ることは叶わず。
代わりに、世間の状況を、その新聞紙で知ることになっていた。
「いやー、とんでもないことになったね」
とあるウマ娘は、言う。
「会長とサファイアミザールの一騎打ちか……」
「ねえねえ、どっちが勝つと思う?」
「何言ってんの。会長に決まってるでしょ。ってか勝ってもらわないと、この学園が危ないんだからさ」
「でもあの子の走り、見たことある? 結構凄かったよ」
「え、まさか会長が負けると思ってんの? 負けるわけないじゃん――」
誰もの、思い思いの推測。その渦の中心。
生徒会長――シンボリルドルフはと言うと、それにも関わらず、いつもの生徒会の業務に精を出していた。
生徒会室にて――
その様子を見た副会長、エアグルーヴは、どこか怪訝そうに声を掛ける。
「会長、」
「ん?」
「いいのですか?」
「何がだ?」
「いえ……大一番が控えているというのに」
「うむ。だが業務は業務だ。疎かにするわけにはいかない」
「しかし……会長が一線から身を引いて、もう一年になります。いくら会長でもブランクが――」
「うん?」
それまで書類に目を落としていたルドルフだが、それを聞いて顔を上げる。その淀みない視線に射抜かれたように、エアグルーヴは、身体を強張らせていた。
「私が負けると?」
「い……いえ。そういうわけでは」
「……ははは」
一旦は威圧的に問いかけたルドルフだったが。すぐに軽快に笑うと、その視線は、柔らかなものになっていた。
「冗談だよ、そんなに固くなるな。心配してくれてありがとう。君はいつも細かいところまで目が届くな」
「……いえ」
母のように。
その瞳には、慈愛の暖かさが灯る。
「しかし、今言ったことも本当だ。大一番が控えているからと、業務を疎かには出来ん。大丈夫だよ、しっかり準備はしておく」
同時に。
その奥には、並々ならぬ決意の光が揺らめいていた。
「……決して、失態はしない」
学園を代表するものとして。
不退転の意志が、そこに宿っていた。
「レースの開催は明後日になります」
理事長室にて、秋川やよいは、駿川たづなからの報告を聞いていた。
「競技場を貸し切っての開催となります。形式としては模擬レースですので、一般の観覧客も訪れますが……」
「観覧料でも取るか!」
「ご冗談を」
たづなが、どこか優雅な素振りで笑う中で、秋川は言う。
「しかし、ルドルフも大きくなったものだな! 私にほぼ無断で、あんな啖呵を切るとは!」
「あらあら、一番楽しそうだったのは理事長ではないですか」
「ち、ちょっとテンションが上がっただけだぞ! 生徒でありながら、あんな行動を取るのだからな!」
そうは言うものの、彼女の浮足立っている様子は隠し切れていなかった。例の会見から、何日か経過してなお、感情のやり場に困っているようだった。
「……勝てると思いますか?」
たづなは、どこか心配そうに尋ねる。
秋川やよいは、それに即答することを一瞬躊躇う。
だがもう一瞬で、いつもの扇子を開くと、不敵な笑みを浮かべて答えていた。
「当然!! 勝つに決まっている! 我が校の誇りある『皇帝』だぞ? そう簡単に負けてもらっても困る!」
母のように。
堂々と、優しく、抱擁するように。
「……心配するな、たづな。きっとやり遂げるさ。どんな結末があろうと……
その、力強い断言に。
たづなもまた、元気づけられたように、頷いていた。
寮の部屋の窓枠に頬杖をついて、私は、もうすっかり夜の闇に沈んだ学園を見つめている。
特別、何か目的がこうしているわけじゃない。例の勝負が決まってからというもの、こんな風に意味もなく外を見つめることがすっかり日課になっていた。
あの時のように、精神が不安定とは思わない。身体的に消耗しているとも思わない。
優しい先輩たちの尽力のお陰で、私は持ち直し、とうとう、勝負の日を明後日に控えるまでになった。
調整がうまくいってるかはわからない。
体調が持つのかもわからない。
ただ、頭の中の想いは準備が出来ていて、今更逃げ出すという発想もなかった。
「……」
……『皇帝』と競う。
その事実は、不安と期待の同居する、不思議な感覚を湧き上がらせる。
なんというか。
本当に、凄いことになってるなぁ、と。ぼんやりと考える。
最初、私は自分に資格がないと思っていて。
どこにでもある、名も無き学校で、走ることとは無縁の人生を歩んでいた。
これからも、きっと名も無きウマ娘として、歴史にも、誰の記憶にも残らずに消えていくのだろう。ずっとそう思っていた。
……なのに。どういう運命のいたずらか。
色んなレースに出て。色んな人に出会って。
学園に入って。
……あのラジコンに出会って。
そして今や。
あの『皇帝』と走ろうってんだもの。
「……人生山あり谷あり」
ってレベルじゃないな。現実は小説より……なんちゃらか。
簡単な勝負にはならないだろう。勝つなんて、到底不可能だろう。
でも……負けてしまっても。それで、ここを追い出されることになっても。
それで、今後、クソみたいな人生を歩んでいかなくてはならなくなる、としても……
「……ここのことは、ずっと忘れないで生きたいな」
ここであった、いろんな出来事。
楽しい思い出。哀しい思い出。
レースのこと。
優しくて……ちょっぴり変な先輩のこと。
全部、全部。
忘れないで、やって、いきたいな……
「……」
……そんな風に。
物思いに耽る。
微風に木々の揺れる音がして。
部屋の前を、誰かが通り過ぎる音がした。
「……!」
その時だった。
携帯電話が、いつかのように、鳴動していたのは。
振り返ると、机に置いたそれが、鳴動と共に少しずつ動いているのが分かる。
しばしそれを見守っていたけれど、なおも止まないところを確認して。
それの元に歩み寄り。
画面を見た。
「……」
――思わず、固唾を呑む。
そこには、ゴシック体の簡素な文字。
――非通知設定。
それが、何なのか。誰からのものなのか。
分かり切っていたけれど。いや、分かり切っているからこそ。
私は。
「――もしもし」
それに、応じていた。
『おー、バカウマ。数年ぶりだな』
通話口からの声は。
相変わらず軽く、馴れ馴れしかった。
『……数年も経ってないから』
「あ? 別にいいだろ。数年も数日も大して変わらねーよ」
『いやさすがに変わるから……』
最初、男はつっけんどんに対応されると思っていた。
あるいは、心がすっかり折れ、ろくに話せもしないだろうと思っていた。
決して普通の会話は成り立たないだろう、とタカを括っていた。
だがその大方の予想に反して、彼女は――サファイアミザールは、最後に会話した数日前と、何ら変わらない調子で話していた。
彼は、彼女を特別視したことはない。
ありふれた、ごく普通のウマ娘と認識している。
だからこその、その推測だったわけだが。
意外と、精神力はあるんだな――と、少々、感心する。
「それで、どうだ? トレーニングは順調か?」
『やって『あげてる』よ。一応ね。全然連絡なかったから、死んだかと思ってた』
「お、意趣返しか? なんだ元気そうじゃねーか。案外精神は強いんだな」
彼は口にする。思ったままのことを。
「さすがは俺の見込んだウマ娘だ……なんつってな」
『彼女』からしたら。
ややピントのズレた言葉を。