あぁ、この人は結局。
何も見てはいないのだな、と私は確信する。
『おーい、どうした?』
……私は、強くなんかない。
私は、とても弱い。
何もなかったら。本当の意味で、何も持っていなかったら。
きっと私は、これから、腐ったまま生きていただろう。
いや――生きてすら、いなかったろう。
外からの刺激に、反射的に反応するだけの人形でしかなかったろう。
あるいは――そんな人形にすらも、なれなかったろう。
『もしもーし? このタイミングで死んだか? おーい』
でも、そうはならなかった。
私は……
知らず知らずのうちに。
色んな、大切なものを、受け取っていたから。
色んな、大事なものが、出来ていたから……
「……あなたは」
言う。
私は、言う。
「私を、選んだの?」
言葉を受け、男は一瞬黙る。
その意味が分からなかったわけではない。返事に窮したわけでもない。
ただ、発言の角度や、そのやり方に、少し面食らっただけだった。
「……選んだ、と言ってほしいのか?」
淡白に、彼は答える。
「実際……誰でもよかったよ。お前みたいに、単純で、扱いやすいやつなら、誰でもな」
残酷に、彼は応じる。
「お前でなくちゃいけない必然はなかった。お前でなければならない必要もなかった。お前が何故ここにいるのか。その理由は一つだけだ」
冷酷に、彼は、言う。
「お前が、
それを聞いて。
私は、自分の中の何かが、熱を失ったのを感じた。
『……わかった』
再び、しばし黙りこくったミザールは、彼に答えていた。
『まぁともかく、レースは出るよ。出てあげる。勝ちは確約出来ないけどね』
「そうか。話が早くて助かる」
にやり、と彼は笑う。
必勝法など、何もない。
だが、奇跡が起きないことも無い。
彼女は平凡だが、素質はある。
相手は非凡だが、ブランクがある。
何か間違いがあれば――もしかしたら、と。
「じゃ、当日までしっかりメニューをこなしとけ。レースに向けての最終調整だ」
だから、彼は言う。
「精々練習に励んでくれ。俺のために、俺たちの未来のためにな」
言う。
「明日になったら、身体の状態を――」
『……何か、勘違いしてない?』
――が。
その時、聞こえた声は。
氷のように、冷たく、温度が無かった。
それに呼応するように。
彼の脳裏に、何かが浮かぶ。
お昼ごろに。
私は、似たような環境で、話していた。
「……私、やっぱり馬鹿だよ」
お父さんに。
私は、秘めていた思いを吐露していた。
「お父さんの言うこと、ちゃんと聞いてればよかった。そうすれば、こんなことにならなかったのに」
自虐するように、自嘲するように、つらつらと、語っていた。
「本当に……馬鹿だよね」
『……』
お父さんは、それを聞いて。
しばらく、黙っていたけれど。
『……ミザール』
やがて、言ってくれたのだ。……
『お前はどうして、そこに転入した? ……決して誰かのため、じゃないだろう。
お前はいつだってそうだった。誰かのことを考えていても……やはり最後には、自分が来ていた。自分が楽しいことが、とても、とても、大事だった。
きっとお前もわかってるはずだ。自分がどうしたいか。自分がどうなりたいか。だから……俺から言うことは、特別ない。今の状況を客観的に見て……迷うのなら。自分がやりたいと思うことを、精一杯やりなさい。
気が済むまで……自由に、生きなさい。
誰かの為ではなく――
自分のために』
それは、夢というよりも、フラッシュバックに近かった。
「……例の手術、来週実施するらしい」
「うまくいけば、お前はまた走れるように……」
「……ん? なんだって?」
『……私が走るのは、私が、走りたいと思うからだよ』
電話口で、彼女は言う。
先ほどまでの熱も、暖かさもなく。
無情なまでに――
言った。
それは、フラッシュバックだった。
「……例の手術、来週実施するらしい」
「……ん? なんだって?」
「……」
『私は、私のために走る』
『あなたのためには、』
『走らない』
『……じゃあね』
ぶつ、と通話が切れる。
彼はしばらく、携帯電話を耳に当てたまま、そこに立ち尽くしていた。
それが、なんだというのか。
何にしても、彼女はレースに出走する。
そう宣言されたことの、何が問題なのか。
何も問題はない。
何一つ問題はない。
あとは彼女が勝つことを、願えばいい。上手くいくことを信じればいい。
何もすることはない。ただ待つだけでいい。
それなのに。
そのはずなのに――
あぁ、俺は、
この感情を、よく知っている。
「来週実施するらしい」
「なんだって?」
「……」
「もう、」
「走りたくない」
やがて男は。
携帯電話を、あらん限りの力で、壁に、叩きつけていた。
「うっひゃあ~、とんでもあらへん人やなぁ」
レースの当日。
会場の最後部。タマモクロスは、真っ先に声を上げていた。
「まるで重賞のレース会場やん。向こうのとこまでぎっちりやで」
「まぁ曲がりなりにも、『皇帝』が一年ぶりに走るのですからね。当然ではありますわ」
それに応じるのは、隣に立つメジロマックイーン。
「あ~、こんだけ人がいりゃ、軽食なんかも飛ぶように売れそうだなぁ」
それにゴールドシップが続き。
「お祭りではないですからね……」
チヨノオーが苦笑いし。
「焼きそば山盛りで頼む」
「いやだからお祭りやないっちゅうねん!」
オグリキャップの声に、タマモクロスがツッコんだ。
「はぁ、なんや自分ら、緊張感ってもんがないんか? 学園の運命が掛かってんねんやぞ? それでなくとも、ミザールが前代未聞の勝負に臨むんやで」
「一番緊張感なかった人が何言いますの」
「あ、あの時はこう、テンション上がっとっただけや! 昨日なんて、自分のことみたいになかなか寝付けんくてな……!?」
「ピクニックかよ」
「――あ。見てください!」
刹那。
チヨノオーが、会場内を指差す。
一同が目を向けた――と同時。
会場内を揺るがすほどの、大歓声が上がる。
その歓声は――応援と罵倒の入り混じる、不可思議なものだった。
そう。コース上に。
シンボリルドルフと、サファイアミザール。両名が、姿を現していた。
怒号に似た声援の奔流に包まれる競技場の中。
男は、姿を現す。
競技場を見渡せる、タマモクロスたちとはまた別の方角の、最後方にて。
『かつて』自分の担当だったウマ娘が、姿を現したのを見る。
「――! ね、ねぇ……」
ふと背後に振り返ったウマ娘が、彼の姿を認める。
すると、隣の別のウマ娘にそれを知らせ、そのウマ娘も彼の姿を認めた。
波紋が広がるように。
その周辺にいた観客たちが、次々と彼を確認する。
「……」
男は――サファイアミザールの、担当であった彼は。
冷たい視線に晒されながらも。逃げずに、競技場を見つめる。
観客たちは、程なくして前へと向き直ったものの。
ひそひそと、恨み言を零す者もいた。
だが、彼は気にしない。
気にかけない。
それよりも、と。自身の命運を分ける勝負を。
見届けることに、注力する。
聞いたことない種類の歓声だな、というのが、真っ先に感じたことだった。
これまで二度、大きな舞台に立ったけれど。
それらの時に感じたどれとも、その歓声の性質は違っていた。
歓喜、応援、興奮。
罵声、雑言、中傷。
全く異なる二種類の声が入り混じり、空気は混沌そのもの。
悪役ってこんな複雑な気持ちなんだなー……と。
なんだか、他人事みたいに感じる。
「皆、元気で何よりだな」
その中で――
彼女は、話し掛けてくる。
シンボリルドルフさんは、私に言う。
可憐さと勇猛さとを併せ持った、軍服みたいな勝負服。
その存在感に圧倒されつつも、応じる。
「……日本人は、世界きってのお祭り好きですから」
「騒げればなんでもいい、というわけだ」
「そこまで言ってませんけどね」
「はは。手厳しい」
軽く笑ったルドルフさんは……
私に、右の手を差し出す。
「……ここまで色々あったが。いい勝負にしよう」
「……」
私はそれを見つめて。
一瞬は、取りかけたけれど。
「……、」
結局は、
取らなかった。
「ごめんなさい」
手を取らずに……
彼女の脇を、通り過ぎる。
「その手は、取れません」
通り過ぎて……
ゲートへと、向かう。
彼女がどんな顔をしているかはわからない。怒っているかもしれないし、哀しんでいるかもしれない。
それでも、私は、そうすることは出来なかった。
……そんな権利は。
私にはない、と思った。
「……承知した」
何にしても。
彼女の声は、穏やかだった。
それ以上は――何も言わない。
二人、ゲートに収まり、『その時』を待つ。
……緊張していない、というと嘘になる。
でもなんだか、嘘みたいに落ち着いているのも、また事実だった。
「……」
レース場に来てまで、出走の直前にまで来て、夢のように、ふわりとした心地。
このままどこまで、行ってしまえそうな気持ち。
勝っても、地獄なのに。
負けても、地獄なのに。
なんでこんなに、ふわふわしてるんだろう。
なんでこんなに……整理が、つかないんだろう。
それとも私は、ここに来てまだ、理解出来ていないのだろうか。
今から何をしようとしているのか。
今から何に直面するのか。
今から、な、なにが――
起ころうと、しているのかが。
『さぁ! 学園の今後を占う大一番が、今始まろうとしています!! ――……』
……それでも。
時は過ぎ。訪れる。
浮かれ切った実況の中。
私は……スタートポーズを取る。
困惑も当惑も。
気にせず。静寂が辺りを満たし――
それが、しばし居座った時。
「――」
まるでそれを。追い払うかのように。
――ゲートは、
開いていた。
「――っ!!」
そして。
私たちは、ゲートの先へ、駆け出した。