その競技場の一周は、1000m。
起伏は多少あるが、緩やかで、ほぼ平坦と言っても差し支えない。
素直で走りやすく、言ってしまえば初心者向け――だからこそ、各々のウマ娘の実力が、如実に反映されるコースでもある。
小細工の通用しづらい、純粋な能力勝負のコースでもある。
まだ二年目も迎えていないサファイアミザールと、引退はしたものの、その絶対的な強さで世間をにぎわせた『皇帝』。
順当にいけば、そのコースが、どちらに分があるか。それは、火を見るよりも明らかだった。
そして――序盤のレース運びは、その大方の予想通りだった。
『は――速い、速い!! シンボリルドルフ、速い!!』
彼女が勇退を選んだのは、もう一年も前のこと。
模擬レースやちょっとした特訓に精を出すことはあっても、正式な出走バとして、公式なレースに出ることはそれまでなかった。
久々の出走を受け、『皇帝』の名に恥じぬ活躍を誰もが期待しつつも、多少なりともブランクはあるだろう、と不安を抱いてもいた。
結果として――
そのような不安を、彼女は、真っ向から打ち砕いていた。
その華麗な走りに、実況にも自然、熱が入る。
『一年ぶりの出走だというのに、そのブランクを全く感じさせない走り!! これが皇帝、これが伝説!! その実力は全く衰えていません!!』
そんな彼女より、背後。
『しかし挑戦者、サファイアミザールも負けてはいません!! 距離はありますが、果敢にその背中に食いついています!!』
四バ身ほどの距離から、彼女は食らいつく。
圧倒的な実力差を見せつけられながらも、諦めずに、それに追い縋る。
メジロマックイーンの瞳は、不安げに淀んでいた。
たらり、と冷汗が頬を伝う。
分かっていたことであっても、いざ現実を目の当たりにすると、その衝撃に、口を閉じざるを得なかった。
駄目だ、と。
早々に、諦めの感情が湧き上がる。
元々お互い、そもそものキャリアが違う。踏んできた場数も違う。背負う思いの多さだって。だがそれを踏まえても、それを加味しても、その実力には、あまりにも開きがあった。
「……まぁ、想像通りの展開やな」
タマモクロスもまた、深刻そうに言っていた。
「
「えぇ……しかもコースも、小細工の利かない素直な構造。このままでは、差は開いていくばかりでしょう」
「つっても、手を抜きゃそれこそ大差をつけられる」
「……難しい勝負だな」
「や、やっぱり、駄目なんですかね……」
せめて他のウマ娘がいれば――とマックイーンは思わずにはいられない。他のウマ娘がいれば、その存在を利用することで、まだ何かやりようがあったかもしれない。
だが今回は一騎打ち。逃げ場のない一対一。『地力』で負けている以上、それを覆すには、『地力』で上回るしかない。
どうにかして。
相手を上回る力を、発揮するしかない。
もちろん。
彼女らとしては、シンボリルドルフが圧倒している状況は、喜ばしいことではある。
そもそも彼女が負けてしまったなら、学園が更なる危機に晒されるのだから。
しかし――同時に。サファイアミザールの心情も理解出来るからこそ、手放しで喜ぶことも出来なかった。
神妙に。真剣に――深刻に。
それを見守っていた。
……あー、やっばい。
やっぱ凄すぎる、この人。
『皇帝』の背中を追いながら、他人事みたいに考えていた。
わかっていたことだったけど。
わかりきっていたことだったけれど。
いざ目の前にしてみると、絶望感は半端じゃない。
いくら足を動かしても。
いくら前に進んでも。
その背中は、全く近くならない。
……むしろ。
そうするほどに、遠くなっているようにすら感じる。
最初のコーナーは既に通り過ぎてしまった。
挽回するチャンスがあるとしたら、コーナーくらいしかないっていうのに。
……無駄がない。
芸術的ですらある。
荒々しいながらも。
徹頭徹尾美しい。
失速も減速もせず。
むしろ、更に加速しているようにすら見える。
……これが『皇帝』。
……これが『伝説』。
これが――シンボリルドルフ。
――凄い。
凄いなぁ。
もうなんか、それ以上の無駄な言葉も、感想もいらない。
どれだけ鍛錬を積めば、どれだけ研鑽すれば、ここまでの境地に至れるのか。
きっと、並々ならぬ努力があったのだろう。
きっと、想像を絶する覚悟があったのだろう。
きっと、それらを説き伏せて、抱き留めてなお余りあるほどの――意志が、あったのだろう。
想いが――
あぁ――見える。目の前に感じる。彼女の背中に、追い縋るものが。
彼女が背中に、背負っているものが。
その想いの大きさが、私の目にも、しっかりと、見える。
目の前を、共に走る。
その背中を、押している。
何十もの、何百もの、何千もの――想いの形が。
意志の姿が。
生徒たちの、姿が――……
「……」
対して私はどうだろう。
タマちゃん先輩たちが、助けてくれた。言ってくれた。味方だと。敵じゃないと。これからも、自分を助けてくれると。
でもそれは、レースとは関係ない場所であって……こうして勝負が始まってしまえば、自分は一人。
声援が無ければ。
応援もない。
いわば、私は、何十もの、何百もの、何千ものウマ娘たちと。
戦っているんだ。今。
一人で。
たった――独りで――……
「……あぁ」
……あぁ。
ようやくわかった。
これまで、浮遊感があった理由が。
ふわふわと、現実味を覚えていなかった理由が。
『皇帝』との勝負。『伝説』との一騎打ち――それが、他のウマ娘との対決と、何が違うのか。
私は、理解出来ていなかったんだ。
彼女と戦うのが、どういうことか。
彼女に挑むのが、どういうことか。
彼女を下そうというのが、どういうことか。
今。……ようやく、分かった気がする。
……それって。
「…………」
ものすごく
本当に、終わってることで。
「………………」
あるいは時間の無駄で。
命の浪費で。
「……………………」
こんなの。
すぐに、終わらせるべき、なんだろうけど――
「……、」
でもそれって。
それって……
『――っと!? あ、あれ……!?』
刹那。
実況は、困惑の声を上げていた。
「……!」
それと同時に、シンボリルドルフもまた、
その場に立ち止まり、背後へと振り返る。
上がっていた息を整えながら。
どこか侮蔑的な目で、
会場もまた――どよめきに似たざわめきに包まれ。
『と――』
それを代弁するように、実況が響いた。
『
そう。
サファイアミザールが、突然、その場に停止していたのだ。
まだレースは、1000mにも到達していない。想定外の事態に――誰もが口々に、その理由を好き勝手に推察する中。
「……」
シンボリルドルフは。
眉を吊り上げながら、彼女の方へと歩み寄っていた。
「……どういうつもりだ。貴様」
そこに、以前までの優しさも、柔らかさもない。
「まさかここまで来て、勝負を放棄する気か」
仇敵を目の当たりにしたかのような、威圧的な声に。
「見損なったぞ。君はそこまで――」
「会長さん」
果たして、ミザールは。
「――っ」
それに。
頭を下げて、それに応じていた。
「ごめんなさい」
その声は。
しかし、悲しげでも。
悔しそうでも、なかった。
「……私、さっきまで、全然気持ちの整理がついてませんでした」
かといって、怒りに染まっているわけでも、苛立たしげなわけでもない。
「なんかこう……浮足立ってて。今から自分が、何をするのか。あなたに挑むのが、どういうことなのか、理解出来てませんでした」
その声は。色が無く、無感情であり――
「……でも」
そのまま、つらつらと、心情を、語っていたが。
それでも。
「でも……わかりました。ようやく、あなたに挑むというのが、どういうことか」
やがて。
徐々に、色を帯び始める。
「『皇帝』に……『市民』は勝てない。『皇帝』に従う『市民』たちは、その威光にひれ伏して、許しを請うだけ。それだけ、失うものがあるから……」
言葉を聞くシンボリルドルフも。
それを、感じていた。
「……でも、『私』は違う」
色づいていく。
言葉が、色づいていく。
「『奴隷』は。『市民』よりも格下の『奴隷』は。『皇帝』を、打ち倒せるんです」
ゆっくりと。
それに応じるように、彼女も、顔を上げていた。
「だって、」
その顔は。
「――失うものがないから」
「――……」
それは、それは、楽しそうに。
歪んでいた。
綻んでいた、ではない。
「……覚悟してください、
そして、彼女は。
改めて、その場でスタートポーズを取る。
「今、」
普通のそれよりも。深く、低く――取って。
「――
そして。
冷徹なまでに――そう、宣言していた。
「……」
受け取ったシンボリルドルフは。
不敵に笑う。
再び、彼女に背を向け。
「いいだろう、」
そして。
言った。
「――しっかり、着いてこい!」
――『皇帝』が、再び走り出す。
それを感じたミザールは。
「――位置について」
ぼそりと。
「よーい……」
零すように、言っていた。
「――どん」
果たして。
彼女もまた――そこから。
再度、走り始めていた。