前例のない話ではあった。
非公式とは言え。
一度始まったレースが、一旦は止まり、再開するなど。
誰もが、挑戦者であるサファイアミザールが白旗を上げ、試合は無かったことになるのか、と思っていたものの。
彼女らは――二、三、何事かを話した末に、再び、走り始めていた。
熱狂が戻る。
熱気が湧き上がる。
再開されたレースは、依然として。シンボリルドルフが先頭だったものの――
「――……」
タマモクロスは、何かが違うことを感じた。
先ほどまで、重々しさすら感じる足取りで。いかにも苦しい展開を強いられていた彼女だったというのに。
――距離が。
お互いの距離が、開かない。
いや、それどころか――
「……少しずつ、縮まってる……?」
「――!」
マックイーンが、信じられないものを見るように呟くと同時。タマモクロスは気が付いた。
それは――ミザールの走り。
その走法が、先ほどまでと、明らかに違う。
低く、前へと体勢を取り、少しでも速度を出そうと試みるもの。
見る者が見れば、危険極まりなく感じられるその走り方に――
彼女は――いや。彼女らは。見覚えがあった。
「……よく似ているな」
その第一人者。
最も良く知る彼女は、ぼそりと言っていた。
「私の走りに」
オグリキャップ、だった。
レースは中盤を過ぎようとしている。
数えて四度目のコーナーを終え、直線を終え――差し掛かるのは、五度目のコーナー。
本来なら、曲がるための体勢を整えなければならないその箇所に来てまで――
「――!?」
ミザールは、減速しない。
ルドルフですらも、やや速度を落とし始めている状況で。
彼女は、先の体勢のまま、一切減速せずに、突っ込んでいく。
「な、何してんねん!」
それを見たタマモクロスは、思わず身を乗り出して言う。
「あかんやろそれは! そのまま行ったら……!!」
曲がり切れない。
いや、曲がり切れたとしても、大きく膨らむコースを進むことになる。
どちらにせよ、取り返しのつかない差が生まれることになりかねず。
それがそのまま、レースの結果に繋がってしまう可能性もある。
もちろん、ミザールもそれを自覚している。
自覚していないはずがない。走る当人だからこそ、それがどれだけリスクのある行為なのかを、よく理解している。
だが――彼女には、もはやそれ以外の選択肢などない。
自身が勝つためには、勝利を掴むためには――そうする以外に、方策はなかった。
地力で負けている自分が。
少しでも差を縮めるなら。そこにしか、チャンスはなかった。
「――ッ」
だから彼女は。
決死の思いで、コーナーに入る。
コーナーだから減速。
曲がるから安全に。
そんな
やってられるかよ、と――
曲がれ。
曲がれ。
曲がれ――その一心で。
力任せに、コーナーを、進行する――
内側に入り過ぎたせいで、あわやラチと接触となり。
身体を傾け過ぎたせいで、あわや地面と接触、となったが。
結果として――それは起こらず。
彼女は、危なっかしいながらも、ほとんど減速することなく、コーナーを曲がり切る。
「――!」
そのような挙動はさすがに予想外だったか、ルドルフは驚愕に目を見開く。
だが一瞬で気を取り直すと、次の直線を駆ける。
なおも離れようとするその背中を――ミザールは、息も絶え絶えながら、睨みつけ、諦めなかった。
――負けない。
負けられない。
何がどうだろうが、学園がどうなろうが、知ったことじゃない。
負けたくない。
負けるわけにはいかない。
栄誉も名誉も栄光も威光も何も関係がない。
何も得られなかろうが。
何を得られようが。
やはり、ただ。
ただ、ただ――
『自分の好きなことでは』。
『誰にも負けたくない』。
「――ぉ」
だから。
だから、力を貸せ。
彼女は、そう考えた。
「――ぉぉ、」
怪物の再来。
自分はかつてそう呼ばれた。
今でもそう呼ばれているかはわからないが。
もし、『そこ』にいるのなら。
もし、まだその名を背負っているのなら。
力を――貸せ。
「ぉ、ぉ、ぉ、ぉ、」
いや。
そんな生易しいものではない。
これは、そんな綺麗な物じゃない。
貸せ? 冗談ではない。
なぜ自分が、そんなに謙る必要がある。
お前が力を貸せるなら。
力を与えられる立場にあるのなら――
傲慢に見下してんじゃねぇ。
見下ろしてんじゃねぇ。
ほくそ笑んでんじゃねぇ。
力を。
私に、力を――
「――」
力を、
寄こせ――!!
「――ぅ、ぉ、ぁぁぁあぁあああああああッ!!」
そして、最大限の力を振り絞って。
彼女は――咆哮に似た声を、上げていた。
のちに語るところによると。
シンボリルドルフは、その時、確かに、彼女の背後に見たという。
「――……」
あの。
『芦毛の怪物』の姿を。
シンボリルドルフは――
一度だけ、オグリキャップに、惜敗を喫したことがある。
それは有り触れた模擬レースの一環であり、公式なレースではなかったのだが。
あまりに白熱した試合だったために、今でもウマ娘たちの語り草となっている。
また再戦しよう。
次は負けない。
二人はそう約束したものの。
結局、それよりも早くにルドルフが身を引いてしまったため、その約束が果たされることはなかった。
「――、」
ルドルフは、彼女の姿を見て。
その、遠き日の記憶を想起する。
ぞくりと、全身総毛立つ感覚に。
「――ははは」
思わず、笑いを零していた。
これは、まるで。
これでは、まるで――
まるで、
あの時の再現ではないか、と。
「――ははははははッ!!」
哄笑し。
彼女はさらに、力強く走り出す。
いいだろう、と。
受けて立つ、と。
漲る闘志を受け――
自身もまた、闘志をむき出しにしていた。
最終コーナーに差し掛かるも。
二人の走りは、ほとんど先ほどと変わらない。
ミザールは変わらず、フルスロットルでコーナーに入り。
無茶苦茶な体捌きで、ほぼ無理矢理に、コーナーを曲がり切ろうとする。
勝負はいよいよ最終直線、というところ。
ミザールが、コーナーの終端、強く足を踏み込んだ時。
――ばちん、と。
何か、硬質な音が響いた。
音と共に、それは弾け飛び、宙を舞い。
客席の塀に、物騒な音を伴って衝突していた。
「――きゃあっ!?」
「な、なに……!?」
そこに控えていたウマ娘たちは、悲鳴を上げて何事かを確認するが。視線の先――塀の先の、すぐそこに、音の正体は合った。
「ねぇ、あれ!!」
別のウマ娘もまた、それに気付き、思わず指差す。
「
そう。
サファイアミザールの蹄鉄が、そこに転がっていたのだ。
無理な負荷によるものか、薄汚れ、変形すらしてしまったそれが。
自分の靴裏から失われたことを、ミザールは肌で感じていた。
蹄鉄は、ウマ娘たちがより走りやすくするために装着するものではあるが――その高い脚力から生まれる負荷から、シューズを保護するためのものでもある。
それが片時でも外れたならどうなるか。考えずとも、すぐにわかる。
「――っ、っ……!!」
明らかに走りの感覚が変わり。
シューズが、急速に損耗していくのを感じる。
それでも。それでも。彼女は止まらない。
止まるわけにはいかない。止まれるはずもなかった。
『皇帝』の背中は――もはや、すぐそこ。
距離にして、2バ身もない――
もう少し、あと少し頑張れば、届く距離――
「――っ!!」
だから、もっと低く。
だから、もっと前へ。
負けたくない――その一心で。
少しでも先へ。
半歩でも前へ。
もっと。
もっと。
速く――!!
「こりゃ……たまげたな」
ゴールドシップは、思わず声を漏らす。
「あんなもん……ほぼ転んでるようなもんじゃねーか」
「……私でも、あそこまでの姿勢にはなれないな」
「まずいですよ!! もしあれで、本当に転んだりしたら……!!」
それにオグリキャップが続き。チヨノオーが慌てるが。
止められる人はいない。止められるはずもない。
自分の身の危険を顧みず。他人の心配も関係なく。
走ることだけに注力する。それはある意味最もウマ娘然としてはいた。
だがそれでも――
「……」
タマモクロスもまた――深刻な表情を隠さない。
わかっとるんか、と、届くはずのない問いかけを飛ばす。
もしも本当に。
いや、例え天地がひっくり返り、この世のあらゆるものがしっちゃかめっちゃかになったとしても。
有り得ない話だが。
万が一にでも。
億が一にでも。
兆が一にでも。
京が一にでも。
勝つようなことがあったら。
勝ってしまったなら。
わかっとるんか、と。
この学園が――
なくなってまうかもしれんねんぞ、と。
「……、」
だが。
そんなのは関係ないのだろうな、と自答する。
寮で勝負の話が出た時。彼女が見せた反応から、だいたいの想像は付いていた。
彼女に――そんなのは関係がない。
彼女に――そんなことは、知ったことではない。
勝ちたい。
負けたくない。
ただ、純粋な欲求だけで走り続ける――獣のようなウマ娘。
獣。
目の前で走る彼女は、もはや、勝負に取り付かれた、獣であった。
「――ったく」
だから。
タマモクロスは、吐き捨てるように、言っていた。
「こんの……
何も聞こえない。
何も届かない。
もはやこの戦場に、存在は私たちだけだった。
走る。
走る。
ひた走る――その背中目がけて。
その背中を
一心に、貪欲に、愚直なまでに――駆け続ける。
「――、――」
最終直線。
レースはクライマックスなのに。
蹄鉄の外れた靴底はべろべろになってるのがわかるし。
脚だって、ほとんど感覚が無くなってる。
感覚が無くなってる中で――
感覚で、走ってる。
本能のままに。
その力のままに。
全てに、身を任せている。
「――まだ、だ――!!」
まだだ。
まだいける、と私は言い聞かせる。
ゴールラインはすぐそこ。時間が無い。全てを出し切るんだ。全身と全霊を叩きつけるんだ。
あともう少し、あと数メートル。
あとほんの少しなんだ。だから、だから、だから――!!
行け。
行け。
「あ――」
行け――
「あぁぁ――」
行くんだ――!!
「あぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
もう少し、あと少し、ほんの、少し――!!
「と、」
届け。
「ど、」
届け。
「けぇぇぇぇぇぇええええええ!!!」
届け――!!