思い切り走るのがウマ娘の本分。
そんなことは、私も百も承知だった。
だから私も最初は、この『中央校』の城下町みたいな街の近くに無理言って越してもらって、いつかは中央校に行って思い切り走るんだって思っていた。
でも……
現実は、そんなに甘くない。
「……中央は諦めなさい」
お父さんは、無情に私にアドバイスしていた。
「あそこは、才能の原石同士がしのぎを削り、その輝きを厳選するための場所だ。……お前じゃ、どう足掻いても引き立て役になる」
結構な喧嘩をしながらも、最終的にそれに従ってしまったのは、言いくるめられた、っていうのもあるけど、気付いてもいたからだろう。
自分に資格はないってこと。
自分には無理だってこと。
きっとお父さんの言うとおりになるんだろうな……ってことに。
結局、レースとは無縁の学校に通っている。
いや、本当に。トレセン系列ですらない、本当に普通の学校。
レースの世界からあぶれるウマ娘が珍しくない昨今じゃ、そういったウマ娘もまた珍しくない。ただ普通の人間からしたら、そういった存在は疎ましく感じられるみたいで、実際体育なんかでは結構疎まれている(頼られることもあるけど)。
だから、身体を動かす時は手を抜くのが常になってしまった。
……昨日みたいに、何かを本気で追う時は別だけども。
「……」
……これが運命なんだろうなーと自分に言い聞かせ、諦める一方で。
レース場で、思いのままに走る自分も時々想像する。
産まれのことなんて選べないわけだから、嘆いたってたらればでしかないけど。
もしいい街に産まれていたなら。もし才能に恵まれていれば。もっと違う世界が見えていたのかな……などと。
「……はは」
いつも通りの帰り道――
しかし、そこまで至った考えを、雑に振り払っていた。
「ないない」
そんなことを夢見て、かの『芦毛の怪物』の走り方を真似たこともある。
っていうか、全力疾走にはあぁいう走り方をよくする。
普通のウマ娘よりも、更に前のめりな――ほぼ転んでるみたいな走り方。
……実際、何度か転んだこともある。
でもそれだけ。
ただそれだけなんだ。
あの『怪物』ほど――実際、速いわけでもない。
私に能力なんてない。才能なんてない。
……特別なんかじゃ。
……ない。
「……はぁ」
ため息が口から漏れる。
夕暮れに染まり始めている空は、何も変わらない。
嘲笑うようにも見えるそれに、なんだか少し腹立たしくなってしまった。
そんな、いつもの帰り道。
「――?」
刹那だった。
チープなクラクションの音が、耳をノックしていた。
よく耳を欹てていなければ、聞き逃してしまうほど安っぽい音。気づけたのは『私』だからだろう。……でもそちらを見てみても、そこには車なんていない。
代わりに。
「……」
少し視線を落とした地面に。
それがいた。
……真っ赤なボディをした。
ただのおもちゃにしては大きめの……ラジコンが、いた。
「……なにこれ」
私が膝に手を突き、そのフロントガラスを覗き込むように見下ろした時。
「あっ」
ラジコンは、突然どこかへと走り始めた。
もちろん見たことのないラジコンだ。それを追う筋合いなんて私にはないんだけど……
生き物の性だろうか、なぜだかそれを追わないといけないような気がしてしまった。
何故だかそれが。
私を導いているように見えてしまった。
「……」
まだ、完全に陽が落ちるまでには時間がある。
それまで、追えるだけ追ってみよう、と駆け足で追い始めるけれど。
結果として、ラジコンはそう遠くまでは行かなかった。
それは、近所の公園の入り口付近で、止まる。
公園内には誰もいない。片隅のブランコが風に煽られ、キイキイと、錆びた音を寂しげに響かせるだけ。
「……」
どこか不気味な情景の中。目の前のラジコンカーは動かない。
何かを待っているように見えるけれど、何をすればいいかわからず――立ち尽くしていると。
『サファイアミザール』
どこからか、男の声が聞こえてきていた。
「……!?」
驚いて周囲を見回してみても、そこには誰もいない。
『ウマ娘でありながら 諸般の事情で ██中学校に通う中学生』
「え、ちょ……」
音の出所がラジコンカーであることはすぐにわかった。
浅いノイズ交じりの、不気味な音声。
『現在は家計を助けるため 学校から許可を得た上で██スーパーにバイトとして勤め つい先日には万引き犯の確保にまで手を貸した……』
「な、なに? 誰……」
怖い。普通に怖い。
知られていないはずの個人情報まで、的確に把握されている事実に、驚きを隠せない。
目の前に何か、得体の知れないモノを目の当たりにした気がして……一歩後ずさった時。
『――俺はラジコン 通りすがりの気さくなお兄さんさ ……』
空気を和らげるためか、気取った声色でそれは言っていた。
辺りに広がる不穏な空気に、もやもやと微妙な空気が漂う。
言ったのは自分じゃないのに、なんだか恥ずかしくなってしまうような感覚――あぁそうだ。
知っている。この雰囲気。この感じ――
――滑った。
紛うことなきそれだった。
『――おいっ!! なんか言えよ!!』
……しばしの沈黙ののち、ラジコンが急速に旋回を始める。凄まじく器用でコミカルな動き。私でなくとも、見逃すことはないだろうな。
「……えーっと」
『おぉ まぁ安心しろよ 喋ったのはラジコンじゃねー トランシーバー的なアレだ』
「……はぁ」
別に聞いてないんだけど、そんなことは……やばい。思考が追いつかない。急になんだ、この展開。なんで私、公園の前にまで来て、ラジコンと会話してんだ……?
「えと……そのラジコンさんが、私に何の用ですか?」
とりあえず、としゃがみこんで、訊ねてみることにする。別にこのまま逃げ去ってしまってもいいんだけど。置いていくにはなんだかカワイソウな気がしてしまって……
『おいおい 色々抜けてねーか聞くべきことが あと妙に声が優しいのも仕様?』
「いや……ラジコンに頼らないと話せないカワイソウな人なのかなって」
『おいこらとっちめるぞ!! これもこれで事情があんだよ! 察しろバカ!』
うわ、バカって言った。感じ悪いな。こっちは気まぐれで付き合ってあげてるのに……
『しかしまぁなんだ もったいないな 色々と』
「もったいない? 何が?」
『はは。おいおい、ここに来てしらばっくれるつもりかよ』
「いや、言ってる意味が――」
『あんないい脚を持ってんのに 学園入るの諦めてんのかって』
ぞくり、と悪寒がした。
隠しているはずの秘密を、何者かに言い当てられた感覚。
言葉を失い、思考も停止する。次に何を紡げばいいかわからなくて、しゃがんだまま、身動き一つ出来なくなる。
『地上波で流れたろ 走ったとこ』
そんな私の様子を察してか、あるいは何らかの方法で確認してか。彼は続けていた。
『見事な追跡劇だったな 電動自転車のフルスロットルに追いつけるとは恐れ入った 加速も度胸も申し分ない……『コース取り』は雑だったけどな』
「……」
ごくり、と固唾を飲んでいた。あぁ――あの時か。確かに今日、同級生の話題に選ばれていたような気がするけれど。映ったのなんて一瞬だったって話だった。
クラスメイトも半信半疑って感じで……私が何度か語ることで、ようやく信じられたくらいだったはずだ。
……まさか、その一瞬だけで?
『で まぁそれを見た俺はびっくり仰天したわけでな 色々調べさせてもらって……今ここにいるってわけ』
「いや重要な説明省いてますよね……完全な答えになってないですけど」
『まーまーそこは信用してほしいってやつでな? 別に取って食おうってんじゃないから くれぐれも警戒しないで欲しいっていうか』
「……自分の見た目わかって言ってます?」
とにかく。
とにかくヤベー人だっていうのはよくわかった。っていうか客観的に見て私も大概ヤベー。
この人がどういう目的なのかは分かんないけど……なんかろくでもなさそうだし。深くは関わらないのが吉だ。
「帰ります」
そう思って立ち上がる。逃げるように踵を返した私の背中に、
『おーおー いいのか帰っちまって』
彼は言っていた。
『――トレセン学園に入学出来る 千載一遇のチャンスなのに?』
……ぴたり、と。
足が止まった。
『振り返らないでいいから聞け お前には光るものがある』
それを聞いて、振り返らないんじゃない。
硬直して、振り返ることが出来ない。
『適切な指導の下で鍛えれば 十分世間に通じるものになるだろう』
直視なんてしていない。誰が話しているかもわからない。
それなのに。
『だが磨かなければ刃は錆びる 爪は褪せる 自分がそれを振るうに値するかもわからないまま 終わりたくないだろ?』
その言葉に、聞き入ってしまう。
『お前がもしそう思うなら指導してやる 学園で真っ当に生活できるようにしてやるよ もちろん報酬も何もいらない 嫌だったら切ってくれて構わない』
その声に。
耳を、傾けてしまう――
『――乗るかい 反るかい』
「……」
とうとう。
私は、何も言わなかった。
何も言わないまま、背を向けたまま。その場から、ゆっくり、歩き去っていた。
いやさ。
私だって、天から降りてきた蜘蛛の糸があるなら、真っ先に掴むだろうと思う。
それが自分の見果てぬ夢を叶えてくれるというのなら、なおさら。
ただ、本能という自分の中の最後の砦が、私の後ろ髪を引っ張って離さなかった。
乗ってはいけない。言うとおりにしてはいけない――そう警告している。
っていうか。
本能に聞かずともわかる。どう考えてもヤバいものだって。
だって色々おかしい。尤もらしい説明してたけど、あんなテレビの一瞬であそこまで詳細に分析出来てたまるか。
何かある。
絶対に裏がある。
関わってはいけない――そう思う。
「……」
そういう気持ち悪い経験をしたうえで、ぐるぐる当て所ない考えを巡らせた結果だろうか。
休日だというのに、やたら早く起きた上に、寝覚めは最悪だった。
目を擦りながら、一階へと降りていく。
「……はよー」
「! ミザール!」
居間に入ると、お父さんが血相を変えて近寄ってきていた。
ちなみに、まだあの出来事は話していない。が、昨日はちょっと帰りが遅くなっちゃったからな。詰められるのかな――なんて、ぼんやり考える。
「なに?」
「なんだこれは!」
で、そのままぼんやりと返事をすると。お父さんは、その手に……
信じがたいものを手にしていた。
「……!?」
それを見て、私の頭を朦朧とさせていた眠気も吹き飛ぶ。……それは。
――トレセン学園中央校の、説明会用と思しきパンフレットだった。
それも一枚じゃない。
まるでバブル期の成金が見せつける札束みたいに、何枚も何枚も何枚も――!
「……な」
「今朝郵便受けに、ぎちぎちに突っ込まれてた。ちなみにまだあるぞ」
「は、はぁ!?」
――あの人だ。
絶対ラジコンの人だ!! あの出来事の後、このタイミング!! その人以外に考えられない!!
「……ミザール。お前昨日、なんか悩んでる感じだっただろ。何かトラブルにでも――」
「――ごめん、ちょっと行ってくる」
「!? お、おい!」
着替えた後で下に降りてきたのは幸いだった。私はお父さんの引き止める声を振り切り、外へと飛び出す。
無心で走った先、辿り着くのは、昨日のあの公園。相変わらずそこには人はいない。あのやたら目立つラジコンも、見当たらなかったけれど――
『おー 予想通りだな』
背後。
昨日聞いたはずのあの声は、やたら私をバカにしているように響いた。
「……」
ゆっくりと振り返る。
ちょっと下げた視線の先。
そこには、あの真っ赤なボディのラジコンカーが鎮座している……
『どうだ? 俺からのプレゼント いいだろ? あの分だと説明会も行ってないだろうし いい思い出になるはずだ』
「…………」
……私は。
ろくに返事もせず。ラジコンカーに近寄り。
『お前の中の萎んだ情熱を取り戻してやろうと思ってな これで俺の本気具合も――』
……で。
悠長に話すラジコンを捉え、その扉を開けようと試みる。
『ちょ――ちょちょちょちょちょ!? 何してんの!? え待って!? こじ開けようとしてない!? 中!!』
「いやぁーこの小うるさい声も分解したら止んでくれるかなって」
『ステイステイステイステイ!! は 話を! まずは話をしよう! な!!』
「っさいな!! 話も糞もないでしょ!! あんなテロまがいなことやって!!」
見えてんのか見えてないのか、どっちにしろこれで逃がさない。ラジコンカーのフロントガラスを睨みつけ、私は怒鳴りつけてやった。
「本当に勧誘したい人のやることじゃないでしょ!! ありえない!! 私を惑わすだけならいいけど、お父さんまで巻き込まないで!!」
『なんだよ パパに話してないのか?』
「話してるわけないじゃん!! 一番理解してくれない人なんだから!! あとパパとか言わないで気色悪い!!」
『なぜ理解してないと思うんだ』
「そんなの――」
『その分じゃ まともに話し合いもしてないだろ』
……痛いところを突かれた。私は、思わず押し黙ってしまう。
『お前らみたいな若いもんの悪いとこだな なんでもかんでも自分の世界の中で完結させて あれはこうだこれはこうだと諦める 本当はあと一歩進んだ先に 掘り進んだ壁の先に まだ見ぬ世界が広がっているかもしれないというのにな』
「……知った口利かないで」
『『利くさ』 お前みたいな奴は何人も見てきた 井の中の蛙って知ってるだろ わかるよ 傷つきたくないから 恥をかきたくないから その一歩を躊躇い 掘り進むのを止め 自分の世界の限界を勝手気ままに決めつける ああ それもいいだろう』
……私は。
答えられなかった。
『だが諦めた夢はどうなる? 押し殺した理想はどうなる お前の中で 世界の中で 陽の光を浴びずに種のまま終わる未来のことを考えたことがあるか? お前のせいで お前が勇気を出さないせいで 可能性は萎んでしまう 知ってるか? 可能性ってのは視野狭窄なんだ 自分に向かってくる者にしか 振り向いてはくれないんだぜ』
「……そのための導き手を自分がやろうっての? 何様?」
『別に何様でもいいが お前の信じる神様はどうなんだ? お前に今まで 少しでも優しくしてくれたか?』
私は。
私は。
答えられなかった。
『…… ただまぁ さすがに俺も あれ以上の熱意の示し方が分からんからな いいだろう ここでお前が断るなら 俺も潔く手を引こう だが忘れるな こんなチャンスは二度とない 千載、萬載として一隅もそれ以下もない よく考えるんだ ここでお前の未来が決まる』
「……」
『乗るかい 反るかい』
「…………」
……あぁ。
悪魔に絆される人間って、きっとこんな気分なんだろう。
明らかに見るからに、それはラジコンカーのリモコンを弄りながらほくそ笑んでいて、してやったりなんて考えているはず。でもそれも……彼の言葉に従えば、私がそう決めつけて、先へ進むのを躊躇っているだけか。
怖がっているだけか。
……あぁ、そうだよ。
怖いよ。先へ進むのは。
何もわからない未来へ行くのは。何もわからないままで走ろうとするのは。走らなければ。行かなければ。傷つかないで済む。何も知らないで済む。何もかも、始まることすらもないから終わる悲しみすらも経験しないで済む。でもそれって……
何にもならない。
何一つ成せない。
何者でもないまま終わるってことだ――つまり。
きっと何もかも中途半端なままで――
……いい人生だった、なんて言えないまま終わる、ってことだ。
スケールの大きすぎる話かもしれない。
ちょっと考え過ぎ、なんて言われるのかもしれない。
でも、それでも。それでも、そんな寂しい終わりを想像して。
私は確かに、
目の前に存在する、得体の知れない誰かさんの存在よりも、遥かに恐ろしい寒気を覚えた。
ぞくり、とした。
……
…………
………………
……
……わかった。
「……わかった」
『お』
「ただ、ひとつ頼ませてほしい」
『おぉ なんだ 言ってみろ 漫画本か? 食事か? それとも人に言えないお店か?』
「やっぱり私にとって、一番近しい人に嘘はつきたくない」
軽口に付き合う余裕も暇もなく。私は彼に告げた。
「……お父さんを、一緒に説得して」
「……で」
居間のテーブルにて。対面に座るお父さんは、険しい顔つきをしていた。……当たり前の話だった。
「ここまで連れて来たって?」
「……うん」
私の返事を受けて、お父さんは目頭を押さえる。気持ちは、痛いくらい分かった。うん……そうだよね。
娘が。いきなり家を飛び出していった娘が。碌な説明もなくこんな、得体の知れないラジコン引き連れて戻ってきたら、そりゃ呆れるよね……
「……えーっと。色々言いたいことはあるけどな」
それでもお父さんは、私に言う。
「率直に言う。諦めなさい」
「……一応、理由聞いてもいい?」
「そりゃあそうだろう。そんな顔も名前もわからない人に指導されるって、怖くないのかお前は?」
いや、まぁ。うん。
それは、怖いけどさ……
「で……でも、ちゃんと指導してくれるって」
「それにどういう証左がある。実績を見せられたわけでもないし、公認バッジを見せられたわけでもないんだろう? 何か無理な指導でもされて、身体を壊したらどうするんだ」
「だ、大丈夫だよ! 身体の不調くらい自分で――」
「熱に三日も気付かなかったうえに最後にはぶっ倒れたことがあるのにか?」
「う」
そ、そんな何年も昔のこと持ち出さないでよ。確かにそんなことあったけどさぁ。
「あ、あの時とは違うから! 大丈夫だよ! 動けないって思ったらちゃんと休むし! 指導の前に身体の確認もするし!」
「身体の無理は気付いてからじゃあ遅いんだぞ。気付く前に対応しないと」
「わかってるよ! だから気付ける努力はするって……!!」
「それが信用ならないと言ってるんだ! お前まで無理して普通の生活もままならなくなったらどうする気なんだ!」
「だから、そうならないって……!!」
あぁもう、駄目だ。
平行線だ。
この人はやっぱり、私に譲る気はない。
もとより、私に学園への入学なんて、許す気はないんだろう。きっと……
……
そう。
許すわけがない。
この人が、ここまで私を心配してくれている理由。その源泉を。……私は良く、知っているから。
「……とにかく駄目だ。専属のトレーナーならまだしもな、そんなよくわからんトレーナー気取りの人じゃあ……」
「……お願い」
「……ん?」
……でも。
でも――と。私は、頭を下げた。
ここに来て、ここまできて、こうまでして――正論振り翳されてはいそうですか、なんて引き下がれない!
「お願いします!! お父さん!! 私に、私にチャンスをください!!」
だから。
必死に、決死に、訴えかける。
「お父さんには感謝してるし、尊敬もしてる。お父さんの言うとおりにすればいいってことも、本当はよくわかってる!! でも、でも……!!」
でも。
それでも、私は……
「私……走りたい……」
私は。
走りたいんだ。
「私、もっと、走りたいよ……!!」
ちゃんと。
もっと。
いい舞台で。最高の場所で。
走りたいんだ。
「――……」
……凄いウマ娘になれるとは思ってない。
オグリキャップさんみたいに……『お母さんみたいに』。栄誉あるウマ娘になれるとも思わない。
でも、それだけが全てじゃない。それだけが全部じゃないんだ。
舞台に立てるだけでいい。
思い切り、走れるだけでいい。
それ以上は……望まない。望まないから。
だから。
だから――
「お願いします」
――お願いします。
「お願いしますっ!!」
どうか。
私を、あっちの世界に、行かせて――!
「……」
……長めの沈黙の末。
お父さんは、深めのため息を吐く。
「……でもな……」
「……っ」
……足りないのか。
これでもまだ、届かないのか。
もっと、もっと、私の熱意を、捧げないと駄目なのか。
でも、他にどうすればいい。私が言えること、渡せること、捧げられること……今ので全部だぞ。全部全部本心、嘘偽りない本当のことだ。
それで駄目、許してもらえない、っていうなら、それなら、私、私は……
他に、どうすればいいんだ。
「……、……」
ぐるぐると回る思考で溺れそうになる。
沈黙は状況を悪くするだけだ。
なんでもいい。どうでもいい。とにかくなんでも、乱暴にでも、言葉を吐き出そうとして――
『――あなたが気にしているのは 学費ですか?』
顔を上げた。――刹那だった。
ラジコンさんが、声を上げたのは。
「……うん?」
『トレセン学園は国立学校です 一般的な私立学校と比べると学費は低いですが まぁ結構な額がかかるのは確かですね』
「ま、まぁ。気にしているところではあるが」
『――ではその額 私が代わりに出しましょう』
果たして、彼の提示した案に。
思わず私たちは、息を呑む。
『それでいかがでしょうか 娘さんの転入学 考えていただけないでしょうか』
「そ……それは、本当にそうしてくれるのなら、吝かではないけれども」
私も、それはそれでありがたい話ではあった。ただ、困惑半分、喜び半分……だった。だって、だって……
「しかし……どうしてそこまで?」
そう。
私にも、わからなかった。彼は……どうしてそこまでしてくれるんだろう。
私に光るものがある、とは言えど。中央校の学費って、確か数千万とかかかるんじゃなかったか。
ポケットマネーでどうにか出来る額とは思えない。なんで、どうして――そこまで……
『それだけ娘さんに期待しているからです では理由になりませんか?』
困惑する私たちをよそに、ラジコンさんは続ける。
『娘さんの能力は飽くまで凡庸だ ですが光るものはある そしてどのような宝石も 手入れを欠けば色褪せていくように 今からでも鍛えなくては腐ってしまうかもしれない
他のトレーナーを頼ってもいいですが 彼らではこのような条件は出せないでしょう まぁ私が直接姿を見せられない という条件はありますが 相応の結果は約束いたします お身体に関しても――ご心配なく しっかり管理しますよ
担当の体調管理も トレーナーの立派な仕事ですからね』
「……」
お父さんは、呆気にとられたようだった。お金――進学の上で、避けては通れず、そして人によっては最も無視出来ない要因。
それをこうもあっさり解決されて、他にどう反論すべきかと迷っているようにも見える。
葛藤と迷いを見て取れた。
実の娘を託すべきなのか。託さないべきなのか。
行かせるべきなのか。行かせないべきなのか。
……『彼女』と同じ道を。
歩ませるべきなのか。そうでないのか――
「……」
声無き苦悩の時間は、私たちには永遠のようにも感じられた。
瞳が揺れ、泳ぎ、動揺を体現する。
圧し潰されそうな沈黙――
「……、」
果たしてお父さんは、深めの息を吐いていた。
決心、あるいは諦め、あるいは呆れ。何にしても、怒りの発露には思えないその行動の後――
「――わかった」
「……!」
続けられた言葉に。
私は、目を見開いていた。
「……もうとやかく言わない。但し、無理は決してしないこと。いいな?」
「……っ」
うず、と胸の奥底から、熱い何かがこみあげてくるのを感じる。
それに身体を震わせ、発散するように、膝に握りこぶしを作る。
ただそれは、それでも抑え切ることが出来ず、だんだんと目頭が熱くなってきて。
やがて涙を形作り、外へと溢れ出る――前に。改めて私は、お父さんと目を合わせた。
「――ありがとう、ございますっ!!」
そして。
力強く、お父さんの言葉に、返事をした。