「あ、あぶねぇ……!!」
急ブレーキをかけた男が、信じられないものを見た、とばかりに絶叫する。
助手席に座っていた別の男性も、九死に一生を得たように、呆然と呼吸を繰り返す。
「なんだ今の、人だったよな……!」
「で、でもどうしてこんなとこで……」
二人、困惑しながら話すも、状況は待ってはくれない。
どがん、と、天井に何かが降り立った音がした。
「な、なんだ!?」
後部を見ると、横の山林から、多くの人々が降り立つのが見えた。
いや……しかも、それは人ではない。耳と尻尾を悠然と揺らしており――
ある者は、見向きもせずに走り去り。
またある者は、あっかんべーをし、走り去っていた。
「な、なぁ! もしかしてこれ……!!」
「あぁ、間違いない……!」
助手席の男性が呼びかける中、運転席の男性は携帯電話を取り出す。震える手で打つのは、三つの数字。
誰もが一度は目にする――『110』の数字。
「――ブラックレースだ!」
程なく男性は。
携帯電話を耳に押し当て、言っていた。
峠道は、急峻な上り坂。
並大抵の体力じゃ、すぐにばててしまう。
ただでさえ、辛い坂道だというのに。
「――!」
その先からは。
時たま、車が降りてくる。
それは時に普通乗用車であり。
それは時に、大型トラックである。
トラックに身を掠めてしまい――
そのまま転倒し、脱落する者もいる。
しかも――
レースは、これで終わりじゃない。
「!」
左側――壁に掛けられた、五個の梯子。
それを認め、あたしは乱雑に上がっていく。
その真下にも、別の者たちが続くが――
……梯子は、完全には固定されていない。
「っ……!」
梯子が傾き始め――
上れる状態ではなくなる。
それでも私は、上へ、上へと進み。
――上り切った。
「きゃああぁぁっ!?」
壁の縁に手を掛けたと同時に、梯子が倒れる。
がしゃん、という無情な物音と、絶叫が響く。
それを背に、壁をよじ登ったあたしは――
最後の山林を、上っていく。
最後の最後、スタミナの尽き果てた参加者を食らう、魔の道。
それでも、あたしにとってはもう慣れたもので、背後に他のものを置き去りに、悠然と走っていく。
走る。
走る。
ただただ、走り続けて。
「――っ!」
山林を抜け。
更にしばらく、舗装された道を行けば――
「――!」
パン、と。
再びの空砲が、私を迎えていた。
『終了ー!!』
浮かれた実況が聞こえ。
パラパラと歓声と拍手が上がる。
『優勝、『フード』!! 本日もまた、その圧倒的な強さを見せつけましたぁ!!』
「……」
祝福と、歓喜の声。
本当なら、それは優勝者だけの特権で。
心の底から、喜ぶべきもの。
「おーう、フード。ナイスラン」
サングラスのおっさんからも。
労われるし。
「ほれ、今日の賞金だ。またよろしくな」
「……」
……普通じゃ、考えられない。
お金だって、もらえるのに……
「…………」
……とにかく。
あたしは、そこから歩き出す。
「おし、今日のレースは終了! もうすぐポリも来るだろ! テメーら、さっさと撤収するぞ! ……」
沸き立つ声を背に。
あの空地へと向かう。
特別、何かを告げることなく、黒塗りの車の後部座席に乗ると。
何も言わず、車は発進する。
「……」
峠道を下っていくと。
何台ものパトカーとすれ違う。
途中、ガードレールに背を預け。
見知らぬ誰かに手当てをされているウマ娘もいた。
「……」
その子と。
ガラス越しに、目が合った気がした。
無茶なレースに参加し、無茶な走り方をしてしまった結果として、峠道から滑落する、という痛々しい結末を迎えてしまったそのウマ娘は、それでも傷だらけの身体を鞭打って、元の道へと這い上がってきていた。
それまでに、相当の時間が過ぎていた。先ほどまでの周囲の騒がしさも、既にそこにはない。予想はしていたが――見るからに明らかに、レースは終了し、関係者もまた、姿を消していた。
静寂。
耳に痛いほどの夜更けの静寂が、ただただ、そこにあるばかりである。
「……」
虚しさ、悲しみ。苦しみ。痛み――あらゆる負の感情で、心の中がどす黒い感情に染まっていく中でも。
彼女は折れない。あるいは――折れ尽くしたために、諦めない。ともあれと、命はあったのだから。今回のレースの改善点、そのために取るべきトレーニング、次の開催までに生活を繋ぐ方法――そんな諸々を考えながら、峠道を下ろうとした。
その時だった。
「……?」
一台のワゴン車が、道を上ってくる。何事かと、手を翳しながら見ていると、その車は彼女のすぐ近くに停まった。
後部座席のドアが開き、何者かが降りてくる。
「……よう」
「……!」
その顔に、その人物に、彼女は見覚えがあった。すらりとした体型に、長い栗色の髪。赤みがかった瞳――そして、人間にはあり得ない、頭頂部の耳と尻尾。
「……シリウス、シンボリ……?」
「なんだ。知ってるんだな」
呆然と言う彼女に、シリウスシンボリはどこか超然と返す。同時に、その背後。別のもう一人がまた、車内から降車する。
彼女と同じくらい長い髪に、灰色のニット帽。トートバッグ。その姿にもまた、見覚えがあった。
「……な。何をしに……」
シリウスの背後――ナカヤマフェスタが周囲を警戒するように見回す中、名も無きウマ娘は、シリウスに問いかける。
その声は、判決を待つ囚人のように張りつめていた。
「乗れ」
そんな彼女に、シリウスは顎で車を示し、言う。
「は……?」
「乗れっつったんだよ。それともなんだ。身体が痛くて動けないか」
「い……いや。意味が……っ」
シリウスの言葉に、彼女は飽くまで怪訝に、飽くまで警戒を解かずに対応するも。身体はそれを待ちはしない。
よろ、と倒れそうになる体躯を、シリウスが咄嗟に抱き留めていた。
「無理するな」
「……っ」
「ナカヤマ」
「おう」
シリウスはそのまま、彼女をその場に座らせる。呼びかけに、ナカヤマは短く反応し、同じように少女の前に座ると、バッグから何かを取り出した。
それは、包帯をはじめとする、応急処置のための用具だった。
「……ここまでよく頑張った。辛かっただろう」
てきぱきとナカヤマが応急処置をする中、シリウスはそう語り掛けながら、彼女の頭を優しく撫でる。
「もうこんな場所にいなくていい。一緒に行くぞ」
「……っ、ど」
対して、少女は。涙声になりながら、シリウスに応じる。
「どこ……へ……?」
「決まってるだろ」
するとシリウスは、その不敵な笑みを崩さないまま、返した。
「トレセン学園だ」
夜更けも夜更け。漆黒の只中に沈んだトレセン学園――その寮の前に、ワゴン車は停まる。
シリウスとナカヤマは、後部座席から降りる。シリウスは降りるなり、運転席に近付く。
ちょうどその時、運転席の窓が開き、若々しい顔つきの男性が、彼女の方へ目を向けていた。
「……すまねぇなトレーナー。あんたにも用事があるだろうに」
「何。可愛い担当の我儘を聞くのも、
「はん。言いやがる」
答えに、シリウスは鼻で笑うも。そこに険悪な空気はない。お互いに、どこか和やかに笑い合うと。トレーナーである男は、車のシフトレバーを操作した。
「では、また明日」
「あぁ。じゃあな」
走り去るワゴン車を見送り、シリウスとナカヤマは目を合わせ、頷き合う。二人、そうして寮の部屋まで戻ると、ナカヤマは開口一番、大きめのため息を吐いていた。
「……今日は三人、か。
「さぁな。私たちの知るところじゃねぇ」
「私たちと警察の目を掻い潜って逃げるなんて、元気なもんだな」
「たまたま傷が軽かっただけだろ。実際、私たちが回収した奴らは、みんな軽傷以上重傷以下だったしな」
シリウスの返事に、ナカヤマはそれもそうか、と答え、愛用のニット帽を荒めに脱いた。
しばしの沈黙の後。
「……なぁシリウス」
「あぁ」
「あと、どれだけ続ければいいと思う」
「さぁなぁ」
応じるシリウスは、どこか自虐的な笑みを、口元に灯していた。
「あとどれだけ……だろうな」
車は繁華街に停まり、あたしはそこに降り立つ。
運転席の窓が半分だけ開き、不躾に片手が伸びてきた。
何かを求めている手つき。
あたしはその手に、今日の『賞金』の三分の一ほどを渡す。
手は引っ込み――
窓が閉まる。
しばらくすると、車はそこから走り去っていた。
楽し気なざわめきの中に。
あたしは、一人取り残される。
「……」
ここにいたってどうしようもない。
とにかく、住処へ帰ろうと。足を踏み出し掛けた時。
『さぁ! 本日もやってきました! 週刊ウマ娘! このコーナーでは、毎週この私が! 個人的に気になるウマ娘の紹介をさせていただいております!』
大型モニターから。
バカみたいな声が、辺りに響く。
『第██回目の本日は、こちら! そう! 先日、トレセン学園を混乱に陥れた『悪役』でありながら、その泥臭い走りで多くの人々を魅了したウマ娘――』
自然と。
惹かれるみたいに、その画面に目を向ける。
『――サファイアミザールさんです!』
そこに。
『何と言っても凄まじいのはその走り! 能力は平均的ですが、最終盤で見せる圧倒的な加速は、観る者誰をも惹きつけます!』
「……」
食い入るように。
あたしは、それを見つめていた。
画面はそこで、見知らぬ一般人へのインタビュー画面へと変わる。
『――いやぁー、すごいですよね。最初は泥臭いだけって思ってたんですけど、見てるうちにどんどんハマっちゃって』
『ダンスと歌声に課題あり、という声もあるようですが……』
『そこがまたいいんじゃないですか! もー、わかってないなぁ!』
「……」
あたしは……
そこから放たれる光に。
目を細めていた。
『なんか不思議な子ですよね。決して『皇帝』みたいな凄い走りでもないのに。見てると勇気づけられるっていうか……元気が出るっていうか』
『なんか、応援したくなるんですよねぇ』
「……」
……耐えられなくなって。
あたしは、モニターに背を向ける。
あぁ、お前はやっぱ凄いよ。
『あの時』から、何となく思ってたけどさ。
お前は……あたしとは、やっぱり、丸っきり違う。
最近――久々に観た時。
自分ももしかしたら、なんて、考えたけれど。
……やっぱり駄目だ。
あたしには――駄目だ。
だってあたしには。
その光は、もう、眩し過ぎる。
あたしは――
真っ当な生き方なんて、
もう、忘れてしまった。
「――っ!」
だから、あたしは走り出す。
モニターと真逆の、路地の奥へ。
光の作り出す、漆黒の闇の中へ。
一人。
駆け出す。