「――!」
そんな私を、彼女は待ってはくれない。
徐に、踵を返し。
あの改造車の元へと、歩き出す――
「――ま、」
とにかく、ともかく、と。
引き止めなくては、と。
声と共に。手を伸ばそうとした。
「――困りますねぇ~、お嬢さん」
……その時だった。
丁寧語ながらも。
ゾッとするくらい、わかりやすい悪意に染まり切った。
吐き気を催すような声が、聞こえたのは。
「うちの『商品』を誑かしてもらっちゃあ」
「……」
……現れていたのは。
オールバックの黒髪に、サングラスをかけた大男だった。
着崩されたアロハシャツに、ベージュ色のジーパン。
それを見ただけで。
恐ろしいほどの悪寒が、全身を駆け抜ける。
「――っ」
……やばい。
この人は、やばい。
本能的に、察する。
この人には。
絶対、関わっちゃ、いけない――!!
「あ……え」
「なんすか。うちのお嬢が欲しいんすか。いやでも困るなぁー、交渉は代理人を通してもらわんと。うちはそういうのやってないんで」
「い……や。あ、の……」
やばい。
やばい、やばい、やばい。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。逃げなきゃ!
逃げなきゃ――
いけないのに……!!
「んー? それともーあれですか。うちの商品になるのを希望ですか。むしろ」
どうしよう。
動けない。
「いや、よく見ると上玉じゃないですかお嬢さん。そうですねぇ。ここは騙されたと思って」
身体が。
動かない――!!
「お話だけでも――」
「――ひ」
……と。
男の、悪意ある手が。
こちらに、伸びてきた。
「――おい」
……刹那だった。
また別の、威圧的な――でも。
安心感を覚える声が、飛んできていたのは。
「……最低限の
「……!」
男の手が、止まる。
その顔が、私の背後へと向き――私もまた、弾かれたように、振り返る。
すると、そこには。
「――シ」
あの、長い、暗めの茶髪。
「シリウスさん……」
彼女は――彼女らは、何も言わない。
私は、ナカヤマさんに腕を引かれ、男から距離を取らされ。
シリウスさんが、代わりに、私の前に出ていた。
「……おぉ」
男は――馬鹿にするように、鼻で笑う。その何気ない動作ひとつにすら、悪意を汲み取れた。
「これはこれは。偉大なる『ボランティア』サマじゃねーか。……こんなとこまで来るなんて、ご苦労なこったな」
「は。お前こそ出走直前までナンパだなんて、節操がねぇな。それとも、そのサングラスのせいで、狙っていい獲物と良くねぇ獲物の区別もつかなくなったか」
「おいおい、今日はえらく饒舌に喋るじゃねーか。……今置かれてる状況が分かってんのか」
シリウスさんは、負けじと男に対抗するけれど。彼は特に響いていなさそうに見える。それどころか……なおも悪意十二分に言うと、それを合図としたように、周りにガラの悪そうな男たちが集まってきていた。
そのどれもが……金属バットやら、角材やらの、物騒なものを持参している。
……なぜそんなものを持っているのか。なんて、問いかけるまでもない……
「……っ」
やばい。
身の危険を感じて……私は、縮こまるしか出来ない。
それを察してか、ナカヤマさんは、私を庇うようにしてくれる。
「こう見えて俺はなぁ。結構お前のこと気に入ってんだよ」
男は、続ける。
「レースでもぶいぶい言わせてたんだろ? いいじゃねーか。是非ともうちで、その力を見せつけてほしいもんなんだがなぁ。どうだ? とりあえず契約金は……」
「……ナカヤマ」
そのさなかで。
シリウスさんは、ひそひそと話す。
「私が注意を引く。その間に逃げろ」
「あぁ」
「――! ちょ、それは――っ!」
駄目、と言いかけたけど、ナカヤマさんに口を塞がれたことで、叶わなかった。抵抗するけれど……その力の前には、意味をなさない。
「心配すんな」
すると、まるで落ち着かせるみたいに。
シリウスさんは、言うのだ。
「こんなのにやられたりしねぇよ。……また明日、学園でな」
「……シリウスさん……」
「――おい、状況わかってんのか」
そんな自信満々な声を、嘲笑うかのように。
また別の声は、背後から。
「――よそ見してんじゃねぇ!!」
振り返った時。
そこにいたスキンヘッドの男が。
手にしていた金属バットを、こちらに振りかぶっていた。
「――!」
飽くまで冷静に。
シリウスさんが、私たちの前に出る。
目にもとまらぬ速さで。
それを受け止め、捻りあげる。
「っあ!?」
呻きを上げる男からバットを取り上げたシリウスさんは、それで男を峰打ちする。
背後に倒れた男は、痛みに縮こまり――
「行け!!」
「きゃっ!?」
その声を合図に。
ナカヤマさんは、私の腕を引き、そこから駆け出そうとする。
「――おいおい、釣れねーじゃねぇかぁ!」
「!」
が。
別の男が、私たちの前に立ちはだかる――!
「ちょっとくらい、遊んでけよッ!」
「――ちっ」
「っ!?」
その男もまた――今度は角材と思しき物体で、殴り掛かってくる。ナカヤマさんはそれを受け流し、男の腕を捉えると、自分の方へと引き寄せ、そのまま男の腹部に膝蹴りをかます。
「おごっ!?」
それだけに留まらず、背中に肘打ちしたことで、男はその場に倒れ伏した。
それを見届けた後――彼女は再び私の手を引き、シリウスさんの元へと戻る。
二人――背中を預け合い。
私はというと……その傍で、縮こまるしか出来ない。
「……悪いシリウス。逃げ損ねた」
「いや、いい。どうせこの数じゃ逃げられねぇ」
「ははっ、やっぱウマ娘はこうでなきゃあなぁ」
周囲を囲む男たちは、すぐには手を出してこない。じりじりと、まるで獲物を追い詰めるように、距離を詰めてくる……
「……でも、全力出せるか? 出せねぇよなぁ。そんなことしたら、俺らが『本当に』くたばっちまう」
「……」
ウマ娘と人間の膂力は違う。
当然、その耐久性も。
こちらが全力で対応したなら。
並の人間に――耐えられようはずもない。
「でもなぁ、こいつらもこいつらで、疲労にも恐怖にも痛みにも鈍いんだわ」
「……!」
その言葉を合図にしたように。
倒れていた男たちも、ゆっくりと。しかし平然と。立ち上がる。
その口端からは、だらしなく涎を垂らしていたが。
表情は。苦痛とは無縁の、不気味な笑みで歪んでいる。
ぞくり、と。
背筋をなぞられたような、感覚がして。
「――まぁ、そういうわけだから」
男が。
改めて、とばかりに、言った。
「心置きなく、楽しんでいけや――!!」
その刹那だった。
間近にいた男が、再び、金属バットを振りかぶった――
「――!?」
――その矢先だった。
その男が。一瞬止まり。
「――え?」
宙へと。
紙切れのように――投げ出されていたのは。
「――……」
そう、本当にこう、ぽーん……とばかりに。
その身体は、軽々と、宙を舞い。
「――がっ!? ぐぇっ、ぉご……!!」
潰された蛙か何かみたいに。
地面に叩きつけられて、動かなくなってしまった。
「……」
「……」
「……」
……その場にいた全員が、沈黙する。
誰もが動けない中。
緊迫の輪の中に現れていたのは。
「……へ?」
見たことのない、大男だった。
黒い肌にスキンヘッド、筋骨隆々の体躯を持つ……大男。
たぶん、身長2mはあるだろう。ずんぐりとした影に、言葉を失い、硬直していると。
「――ヘイ」
その人は。おもむろに、背後へと振り返って、呼び掛ける。
「ミツケタ」
「――おぉー、悪いな。うちのバカウマのせいで……いや」
果たして。
その人は、現れていた。
「バカウマ『共』のせいか。この場合は」
「――と」
見慣れた――見飽きたほどに見慣れたその姿に、私は、叫ぶように言った。
「トレーナーさん!?」
「うるせーなーでけぇ声出すなよ。壊れたスピーカーかよオメーは」
「……お前。なんでここに」
「初対面の大人に、お前なんて言うもんじゃねーぞガキ」
シリウスさんは、トレーナーさんを見たことがあるらしい。でも初対面ではあるみたいで、呆れたように言うと、私たちを一瞥した。
……間違いない。夢でもない。
何度も見たトレーナーさんが。確かに今……目の前にいる。
いやでも。
なんで? 本当になんで!?
私、今日夜中に外に出るなんて、一言も……!!
「こいつらにいじめられたって? あー、大きなケガはなさそうだな」
でも、彼はそんなことお構いなしに、言う。
「ったく、こっちは朝早いんだよ。こんな時間まで付き合わせんなって。……はいはい、どいてくださいねー」
「え、あの、と、トレーナー……?」
「……まぁ、従った方が良さそうだな」
「だな。もうここに留まってる意味はねぇ」
シリウスさんとナカヤマさんは、もう適応したらしい。有無を言わさず連行しようとするトレーナーさんに素直に従っている。私は……私は。
「……」
困惑しっぱなしで。
同時に、後ろ髪引かれて。
立ち止まってしまうけど。
「ミザルさん」
「――え!? あ、はい!」
「イキマショウ」
「は……はい」
……例の、黒人の大男に促され。
そこから。歩き出そうとした。
「――おい、待てよ」
……が。
あの、サングラスの男が。それをみすみす、見逃すはずもない。
その威圧的な声に。
トレーナーさんは……私たちは。立ち止まる。
……恐る恐る、振り返ってみると。
男は、顎を引っ込め、上目遣いで私たちを見ていた。
サングラスの下から覗く妖しい眼光に、硬直してしまうけれど。トレーナーさんは……どうやら、怖気付いていないようだった。
背を向けたまま。
微動だにしない。
「オメー……」
品定めするように。
しばらく見ていた男は。
「――まさか、知る必要のない情報か?」
……てっきり。
因縁をつける発言をするかと思っていた――でも。
違っていた。男は。果たして彼に、聞き慣れない単語を投げかけていた。
「……」
トレーナーさんは、答えないけれど。
「いや、間違いねぇ、完結したら触れるかもねだ!」
男は、どこか嬉しそうに続けていた。
「いやぁー、久しぶりじゃねぇかぁ。気にせずに読んでねの解散以来か? でかくなったなぁ、おい」
「あー……」
そんな彼に。
トレーナーさんは、とうとう振り返って、答えた。
「すんません。どっかでお会いしましたっけ? ははは」
その瞳に。
彼らしくもない、明らかな敵意を宿して。
「『洗浄』でヘマするクソなんざ、いちいち覚えてねーんだわこっちは」
「……言うじゃねぇか」
薄ら笑いで言う男は、こちらとの距離を詰めてくる。困惑に包まれていた場が、一瞬で、再びの緊迫感で張りつめる。
「おい、」
そして、男も。なおも敵意剥き出しで、言う。
「聞くところによると、トレセンでトレーナーやってるそうじゃねぇか」
ぐにぃ、と。その口元が、生々しく歪んだ。
「見たとこ、大事な繋がりもいっぱい出来たみてぇだなぁ……」
その目が。
私たちを、同時に捉えた、気がする――
「……その繋がり。今すぐ、ぐちゃぐちゃにしてやってもいいんだが?」
「……やってみろよ」
それに、全く引かず。
トレーナーさんは、答えていた。
「テメーの方こそ、俺とテメーしか知らねー爆弾の導火線。今でも俺が握ってるってこと。忘れてんじゃねーぞ」
「……」
男は。
眉を顰めながらも、答えない。
「……」
トレーナーさんも。
答えない。
「……」
「……」
二つの視線が、宙でぶつかり、絡み合い。
ピリピリと肌に痛いほどの緊張感を生み出す。
一触即発――
「……」
「……」
重く、苦しい沈黙が。
そうして、しばらく続いて。
「……ちっ」
男は。
忌々し気に、舌を鳴らしていた。
「おい。行くぞ」
「へ? で、でも兄貴」
「いいから行くぞぉ!!」
傍らの男たちに、乱暴に呼びかけると。
私たちの脇を通って、立ち去っていた。
……そして、その背後を。
カペラちゃんも、行く――
「――カ」
一縷の望みをかけて。
「カペラちゃ――」
私は、その背中に手を伸ばし。
「――!」
――弾かれていた。
振り返り、立ち止まった彼女は。
未だに――憤怒の炎を、その瞳に宿していて。
「触んな」
「……」
明確な拒絶の言葉と共に。
私たちの前から……立ち去っていた。
「……」
「……」
「……」
あとに残された、鉛のような沈黙に。
私は、呆然と、佇むしか、出来ない。
「……帰るぞ」
トレーナーさんは。短く言う。
「まさか観たいなんて……言わねーよな」
「……」
私は。
それに、いつものように、噛み付くことも出来なかった。