サイレンの音が、辺りに響き始める。
カペラちゃんは。
問題を一人で抱え込みがちなところがあった。昔から。
軽めの問題から、重大な問題まで。終ぞ明らかにならなかったものも、多少なりともあるだろう。
問題が明るみに出るたびに思ったものだ。相談してくれればよかったのにと。手伝うことが出来たのにと。
彼女は人前で気丈に振舞うことを得意とする一方で――
個人的に何かを頼むことを、極度に遠慮する子だった。
……例えば、北部校で、夏休みが終わる直前。
わざわざ私の家に遊びに来て、こんなことを言っていた。
「――いやー、やべーわー、宿題終わってねーわー!!」
あからさまに、わかりやすく、聞こえるように、言っていた。
「やべーわー!! マジやべーわ!! このままじゃ先生に怒られちゃうわー!! いやー!! まずいわー!! ……」
……それに私は。
「そうなんだー」
淡白に答えていた。
「……」
「……」
ミンミンとセミの大合唱が会話の間隙を埋め、このまま『完』の字がせりあがってきてもおかしくない空気。
「――いやそこは手伝うよって言えよ!! 親友が困ってんだぞ!!」
しばらくして。
カペラちゃんは、大絶叫をかます。
「えー? ごめーん。私バカだからワカンナーイ。言ってくれなきゃわかんないよー」
それに私は、悪魔的な笑顔を浮かべて。
「言ってみ? カペラちゃん」
言うのだ――借り作れる! と。
「私に、どうしてほしいか」
「……っ」
すると彼女は。
いかにも恥ずかし気に、悔し気に。こう言っていた。
「――くれ」
「ん?」
「――だあぁぁ、もぉ!!」
何かに襲われたみたいな、更なる絶叫をかましてから。
「……助けて、くれ」
絞り出したように。
言っていたのである。
「あたしの宿題。手伝ってくれっ」
「――うんっ」
それに私は気を良くして。
「いいよっ」
満面の笑みと共に、彼女を助けるのだ。……
私は、トレーナーさんの乗ってきた黒塗りのワゴン車で。
シリウスさんとナカヤマさんは、グレーのワゴン車で。それぞれ、学園に戻ってきていた。
「――おつかれ。報酬だ」
「ウス」
各々、各々のやり取りをする。
「また何かあったら頼む」
「ヘイ、ダディ、コンド、カエル。バベキュースル。イッショニ」
「おー、そりゃ素敵なアイデアだ。空けとくよ」
あの大きな男の人は、それを最後に、その場から歩き去り。
トレーナーさんは、しばし沈黙する。
「……明日は休みにする」
それから、言っていた。
「気持ちの整理が付いたら連絡しろ。説教もそれからだ」
「……」
「じゃあな」
私の返事を待たないまま。
彼は車に乗り、そこから立ち去る。
あとに残されたのは、私と、シリウスさんたちだけ。
そちらに近付くことも出来ず――私は、立ち尽くしていた。
足に。
足枷でもつけられた、みたいに。
「――ナカヤマ」
目の前を、灰のワゴン車が通り過ぎる。
そのすぐ後に、シリウスさんの声が聞こえた。
「悪い。先帰っててくれ」
「……あぁ」
ナカヤマさんは、多くを語らなかった。
「あんま遅くなんなよ」
「おう」
足音が遠ざかり。
彼女が立ち去ったことを感じる。
また別の足音が近付いて。
私の隣で止まった。
……彼女は。
シリウスさんは。何も言わない。
「……」
「……」
二人、何を語るでもなく。
頭上に煌めく星々を、見つめる。
「……お前は」
どれだけ時間が経ったかわからない。
やがてシリウスさんは……口を開いていた。
「
「……あの」
絞り出した自分の声は。
まるで老人のように、小さかった。
「全てのウマ娘が幸福であるように……っていう」
「あぁ、そうだ。……百点満点」
シリウスさんがそこで浮かべた笑みは、どこか自虐的だった。
「それをあいつと話したのは……もう何年も前になる。甘ったるい理想論だな、と思ったし……正直今でもそう思ってる」
そして、言う。
「でも当時……まだ洟垂れだった私は、嫌がらせのつもりでこう訊いたのさ。……『じゃあ『皇帝』サマには、全てのウマ娘が不幸に見えてんだな』ってな」
その視線が、こちらへと、向けられた。
「……そしたらあいつ。どうしたと思う」
答えに窮したのを察したのだろうか。
私が、無言を返すと、彼女は、言った。
「笑ってたよ。手を叩いてな」
「……笑った」
「あぁ。『その発想はなかった』ってな。至極面白そうに笑って……元に戻ったら。締めとばかりにこう言ったんだ。
――『そうだと言ったらどうする』、ってな」
「……」
私は。
答えられなかった。
「……考えてみりゃ当然だ」
彼女は。
言う。
「誰かを幸福にしたい。誰かを救いたい。そういう発想は、事実としてそいつが不幸であるか、未確定の未来を確定させるためにだけ出てくるもんだ。実際……この世界の幸福は等量だ。誰かが幸福になるためには、別の誰かが不幸にならなきゃいけない。そういう
そのルールを覆したいんだろう。真の意味で、誰もが幸福であるように。不幸に一生を終えないように。誰も彼もを……救いたいんだろう」
「……」
……そんな話を。
随分前に、あの人から聞いたような、気がする。
『哀しいかな……いつの世も、天秤の双方が救われる都合のいい選択など我々の手中には無い』
『何かを得るためには何かを犠牲にしなければならず、何かが幸福になるためには、』
『何かが……不幸にならなくては、ならない』
「……でもな」
シリウスさんは、続ける。
「そんなことはほぼ不可能だ。あいつの掌はとてつもなく大きい。この世のウマ娘のほとんどを受け止められているかもしれないが……それでも取りこぼしは出てくる。
偉大な『皇帝』サマの掌に受け止められず、落ちこぼれる者も絶対に出てくる。だから私は……
その『取りこぼし』を、受け止めてやってるのさ。『皇帝』サマは、上を見上げるのに必死だからな」
シリウスさんは、自分の掌を見つめた。
「それで衝突したことも、何度もあった。でも私は後悔していない。正直これが……健全な状態だとすら思ってる。あいつの理想は途方もなくて、甘ったるいが……その陰で支えるのも、まぁ、悪くはねぇかってな。勘違いされやすいんだけどな――
別に私は、あいつの理想を悪く思っちゃいねぇよ。誰もが幸福になれる世界。そんな世界が来ればどれだけいいことか。ただ……ちょっと難しいんじゃねぇかってだけの話だ」
「……シリウスさん」
「でも」
思わず、彼女の名を零すも。そこで、彼女の声は、翳りを帯びた。
「……それでも、取りこぼしは出る」
カペラちゃんの姿が。
そこで、過ぎる。
「私の掌にも、あいつの掌にも、限度はある。二人で結託して、受け止めようとしたところで……全部を取りこぼさない、なんてことは無理だ。あいつの掌も。私の掌もすり抜けた奴は……どこにも引っかからず、誰にも受け止められず、ただただ、落ちて、落ちて、落ちていく。
そしてやがて……辿り着く。それはこの世のどん底。この世の闇の、深みの深みの、更に奥深く。誰も彼もが、近寄ることすら躊躇うほどの、一寸先も見えない暗闇の果て、その果ての果て」
シリウスさんの目が。
暗闇の中、私を捉えていた。
「……『あいつ』がいるのは、そういう場所だ」
「……」
「いいか、」
諭すように。
彼女は言う。
「お前があいつを救おうとするのは自由だ。私も止める気はない……だがそれをやり続けることがどういうことか……ゆめゆめ忘れるな。その友情は『美しい』が……天秤は常に誤っちゃいけない」
言う。
「命は……一度きりなんだからな」
「……」
「……、じゃあな」
言って。
彼女も、とうとう、そこから立ち去る。
「…………」
私は。
すぐには立ち去れなくて。
徐に、空を見上げていた。
星々は、相変わらず、爛々と、輝いている。……
……いつもより。
遠くに感じられた。