河川敷で落ちかけたことがある。
「――なー、別に大丈夫だって」
急峻な坂の上、歩道から手を支えられながら、あたしは呆れたように言う。
「落ちたってちょっと汚れるだけだからさー、死にゃしないってー」
「だ、駄目!! そんなことしたら、また先生に怒られちゃう!!」
「いや怒られねーって。あたしが足滑らせただけだし……」
友達は……サファイアミザールは、大事のように執拗に、あたしから手を離さなかった。
当時からあたしは、結構受け身とか得意で、実際ここから転げ落ちたところで、大した怪我を負わない自信があった。
よしんば負ったところで、すぐに戻ってこられる確信があった。
だから、正直、その時の彼女とは、こう、温度差がすさまじかった。
「もー離せって。このままだとお前も巻き添えだぞー」
「いい!! それでもいい!! 離さない――」
にもかかわらず。
彼女は、言うのだ。
「絶対に、離さないっ!!」
あぁ、こいつは。
何年経っても。
全然、
変わってない。……
目の前にしたカペラちゃんは、見るからに疲弊していて、見た目もボロボロだった。
あの時見た真っ赤なパーカーも纏っていなくて、黒色が基調の妙ちくりんな柄のシャツを着ている。
一瞬、本当に彼女なのか、疑ってしまったけれど。
「……」
その、暗闇でも映える綺麗な赤髪を。
見間違えるはずもなかった。
「……どしたのカペラちゃん」
私は。
開口一番に笑う。
「イメチェン? あの赤いパーカーはどしたの?」
「うるせえ」
彼女は、威圧的に言うけれど。
私は……引かない。
「ってか服ボロボロだね。ここまで本当に走ってきたんだ。すごすぎ……」
「うるせえ」
「もー、参っちゃうよね。どこもかしこも暴力暴力で。世紀末かよっていう――」
「うるせえっつってんだ!!」
――そして。
彼女の心からの叫びが、響き渡る。
「……」
私は声を引っ込め。
彼女の姿を見つめる。
もうそれだけの体力が戻ったのか。
その瞳は……相変わらず、憤怒に燃えている。
「……そこを退け」
でも。
退くか。
退くかよ――もう。
「……そしたらどうするの」
「このレースを終わらせる。あたしが一番になる。一番を取って、この下らねえレースを終わらせる」
「そしたら、どうするの」
「お前には関係ねえ」
「あるよ」
あぁ、なんか。
彼女の言うとおりだな、って思う。
私って、本当に傲慢だ。
「……昔からの親友だもの。気に掛ける権利はある」
こんな風に。
平然と。知った口を聞くなんて。
「あなたが何考えてるかなんて、わからない。でも、絶対、絶対、よくないこと、考えてるでしょ」
でも、それでもいい。
「自分は闇の中で生きればいいとか……イタいこと考えてんでしょ」
それでも。
それでも、いい――
「……バカじゃないのホント」
私は。
諦めない。
「光だとか闇だとか、そんなのどうでもいいんだよ。そんなの、何も関係ない外野が勝手に決めたことじゃん」
絶対に。
諦めない――
「周りの目なんか気にしなくていい。行こうよ、こっちに。来てよ、こっちに! 私と一緒に、私たちと一緒に、やり直そうよ!」
「……出来ねえよ、そんなこと」
「……どうして」
カペラちゃんは。
言う。
「今更だ……今更、はいそうですかなんて言って行けるはずもねえ。軽々しくほざくな」
言う。
「お前にはわかんねえよ。あたしの気持ちなんか……受け入れるはずがねえ。拒まれるに決まってる。あたしに真っ当に生きることなんて、もう出来ねえんだよ」
「……どうして、そう思うの」
「思うだろうが! だって――」
「見てもいないのに勝手に決めないで!!」
カペラちゃんが、目を見開く。
そう。私は、闇の底というやつを、覗いたけれど。
「良く知りもしないで……決めつけないで」
あなたは。
光の地上を、見たことがあるの?
「みんなそんな薄情じゃない。確かに、ちょっと後ろ暗いとこはあるかもだけど」
……そう。
あるかもだけど。
「な……なんか話通じない先輩とか、スピードしか興味のないスピードバカとか、事あるごとに
あぁもうなんでこんなタイミングでそんなことが芋づる式に這い出てくるんだ!
今はどうでもいい! どうでもいいんだよそんなことは! 今は――
「でも――」
今は。
目の前の、彼女のこと。
「でも……『いい人』なんだよ」
今ここに居る。
私たちの、こと――
「少なくとも……ここにいる悪人なんかとは違う。素敵な……いい人たちなんだよ」
言う。
「私みたいな……私みたいな
言う――
「みんなみんな、仲間だって、友達だって言ってくれる、優しい世界なんだよ!!」
私は。
そう思う――
「……」
「……」
カペラちゃんは、何も言わない。
怒りと、戸惑いと、悲しみと、嬉しさと……色々な感情が綯交ぜになった、複雑な表情で。
そこに、佇み続けている。
……少なくとも。
揺らいで、くれている――……!!
「……だから、行こうよ」
だから。
畳みかけるように、手を、差し伸べる。
「行こう。私と一緒に」
最後の一押しと、声を掛ける!
「大丈夫。きっとみんな……受け入れてくれる」
届け。
「許してくれる。優しくしてくれる」
届け、届けと。
願いながら、呼びかける!!
「ううん。受け入れてくれなくても、許してくれなくても。優しくして、くれなくても――」
語り掛ける!!
「――私だけは、絶対に裏切らない!」
――だから。
だから――!!
「お願い!! 一緒に行こう!!」
だから、お願い。
届いて――
「一緒に帰ろう!! カペラちゃん!!」
届いて――……!!
「……」
……カペラちゃんは、何も言わない。
その目が、大きく見開かれ。
心なしか、潤んでいるようにも見える。
そのまま、その脚が動いて。
私に、一歩を踏み出した――
「――?」
――その時だった。
「……」
背後から。
明るく眩しい、ライトが照りつけたのは。
それと同時に。
耳に飛び込んでくる。
荒々しい。
車輪の音――
「――!!」
私が振り返ったと同時。
カペラちゃんが、何事かを叫ぶ。
刹那。こちらに駆け付けた彼女によって、私は横に押し倒され。
すんでのところで、『それ』を回避していた。
「――……」
呆然と座り込み、それを見る。
「――ここにいろ!!」
壁際に寄って、カペラちゃんは私から離れる。
道路の中央に立って、それから、それと対峙した。
「――え」
一台の。
見るからに改造された――スポーツカーと思しき車と。
――どういうことだ。
なんでだ。
そんな疑問が、頭の中でぐるぐる回る。
現れた改造車。
その車体に見覚えはあった。
というか、ないはずがないのだ――だってそれは。
あたしが、これまで幾度となく、あの薄暗く、気色の悪い掃き溜めで見てきたものなのだから。
見間違えるはずもない。
――『あの男』の、車だった。
「な――」
こちらが何か言う間も与えず。
そいつは再び発進する。
他でもない、あたし目がけて。
その駆動音を、響かせて、迫ってくる――!!
「っ――!!」
あたしは再び、それを回避する。すると再三、停止した車から、それが聞こえだす。
「――おいおい、あんまうろちょろされても困るんだがフードちゃん!?」
「……」
紛れもなくそれは。
あの男の、声だった。
「こちとら明日早いんだ。さっさと終わりにさせてくれや――!!」
「――待てよ」
なんだそれ。
なんだそれ、と、疑問を解消する余地を与えてくれない。
「――っ!!」
奴は、再びこちらに迫ってくる。あたしは再び、それを紙一重で回避する。
「――は、」
続けざま。
あたしは、力の限り呼びかけた。
「話が違う!!」
そう。
話が違う、と。
「――あ?」
「あんた言ったじゃねーか!! これで終わりだって!! あたしが一着取ったら降ろしてくれるって!!」
そうだ。言ったはずだ。
契約したはずだ。そういう風に。
あたしを、ここから解放してくれるって。
そう、言ったはずなのに……!!
「なのになんだこれ、なんなんだよこれ!! 話と、話と違うじゃねーか!! こんな――」
「……あー、そういやそんなことも言ったな」
すると。奴は。
あっけらかんと、言うのだ――……
「――悪り、
あれ、嘘だわ」
「――……」
「お前みたいな優秀なウマ娘が他に渡ったら、こちとら商売あがったりなんだよなぁ」
……なんだそれ。
「かといって表舞台で活躍されても、なんかそれもちげーし」
なんだそれ……
「だから、そうなるくらいなら――いっそこの俺が、直々に送り出してやればいいんじゃね、って思ったわけよ」
なんだ、
それ……
「優しいよなぁ。もっと使い潰して捨てても良かったんだけどよ、俺もこう見えて義理堅い方でよぉ」
……
「俺の最初で最後の親心? っつうかな? ははは」
……そして。
あたしは、悟った。……
「まぁ、そういうわけだから、」
そのさなかで。
車が、再び、音を上げる――
「――ここでくたばってくれや。『フード』」
……あぁ。
なんだこれ。
なんだったんだ、これ。
なんだったんだ、今まで。
あたしの人生は。あたしの命は――
「――!」
「――……」
一体、
なんだったんだ?